徳川 義親(とくがわ よしちか)

1886(明治19).10.5〜1976(昭和51).9.5

 

明治19年、元越前藩主松平春嶽の五男として生まれた。幼名は錦之丞。明治41年、尾張徳川家の

養子となって義親と改名。養父の後を受けて同家19代となり侯爵を襲名。学習院を卒業し東京帝国

大学文科大学史学科に入学。翌年、尾張家の長女米子と結婚。明治44年史学科を卒業後、同大学理

学大学植物科に学士入学。貴族院議員就任。大正2年植物科を卒業し自宅内に生物学研究所を設置。

大正7年には「徳川生物学研究所」を竣工。この研究所で多くの植物学者が活躍することとなる。

同じ頃、維新後尾張藩士が移住して開拓した北海道山越郡八雲村の発展とその中心である『徳川農

場』の経営に尽力。羆の害を減らす為に熊狩りを毎年行い、冬季の現金収入確保のため「木彫りの

熊」を作ることを奨め、後に北海道の名産となる。

大正10、蕁麻疹治療のため温暖地への転地療養を奨められ、マレー・ジャワへ旅行。ジョホール国王

の厚遇をうけ、虎狩り、象狩りを行う。また10月から翌年11月までは妻と共にヨーロッパを旅行。

貴族院を発展的に解消し、1/3の華族代表と2/3の労働組織の代表からなる職業別議会制の導入を訴え

るが、全く黙殺され、昭和2年に貴族院議員を辞任。

 

昭和6年、橋本欣五郎、大川周明らによる昭和期最初の革命事件である「3月事件」に、主義の違い

を越えて資金を出資。直前に軍の上層部が離脱したことで、革命は不発に終わるが、この時の関係者

とは生涯にわたる親交を結ぶことととなる。また同年、名古屋市別邸(14000坪)の大半を名古屋市に

寄付し、残り3200坪を「徳川美術館」建設用地として、この年に設立した財団法人尾張徳川黎明会に

寄付。以後資産の大半を財団法人に移し美術品等の散逸を防いだ。

 

昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発。同日マレー方面派遣を願い出る。翌年1月、陸軍省より陸軍

事務嘱託(マレー軍制顧問)発令。2月にシンガポール入りし、ジョホール国王等の安全確保に奔走。

その後、田中舘秀三氏が個人の資格で戦時の混乱による略奪から守り抜いていた昭南博物館・植物園の

館長に就任し、昭和19年8月まで務めた。帰国後は終戦工作に参加。天皇へ直接終戦を働きかけるよう

に依頼していた高松宮から8/10に天皇が終戦を決意されたことを知らされた。終戦時に軍の機密費から

3月事件の時に出した資金が返却されたため、その資金の一部は「日本社会党」の創設費用に充てられた。

 

戦後、華族制度の解体により資産が激減したこともあり、「徳川生物学研究所」はその役目を終えた

として1970年に閉鎖され、義親自身も戦後植物学の研究をすることは無く、多くの協会や団体の役員、

会長などを務めて、昭和51年9月5日自宅にて死去。満89歳11ヶ月であった。

 

注目理由

みなさん、木彫りの熊は昔から北海道の名産だったと思ってませんか?あれは義親氏がスイス土産

だった物を元尾張藩の開拓村だった八雲村で作らせ始めた物なのです。他にも日本社会党の創設者

だったり、昭和初期の革命事件のスポンサーになったり、東南アジアで虎狩りや象狩りを行ったり

と、頻繁に大事件や珍しいエピソードに遭遇する、起伏と虹彩に富んだ人生を送っています。

 

本人は深く真剣に考えているにも関わらず、根回しをしないのと、熟考の末の発言があまりにも

先に進みすぎていて突拍子もなく聞こえるため、若い頃は常にその真意を誤解され続けています。

反面、基本的に実際に会って話をして人物を見極めた後でその人を評価するため、右や左に関係

なく広い交友関係を持った不思議な人物でもあります。『殿様』という括弧でくくられるだけでも、

その人そのものを見てもらえない可能性が大だと思いますが、世間から『バカ殿』扱いされ、意見

がことごとく『無視される』といった扱いを常に受けてきた、義親氏の鬱屈と諦念を思うと、こん

なにも朗らかなキャラクターで居られるのは、ほんとに凄いと思います。まぁ礼節というバリア―

で自己を守っていることもあるのでしょう逆説的に考えると、彼が三月事件を通じて『盟友』と

なった人々を本当に大事にしているのも良く分かりますね。

 

三月事件時においても、大川周明や橋本欣五郎ら首謀者達とは、理想としている国家の将来像は

異なる(義親は華族なのにもっと社会主義者的)のですが、「腐敗した政党政治の打破」という

共通項から今のお金で十億近いお金を提供しています。これは国のために必要だと思ったので、

s尾張徳川家の財産管理者と協議の上、提出したのであって、ふだんの生活はちょっと引いちゃう

くらい質素なのだそうです。「その行動は一見型破りで、時には突拍子もない様に映ったが祖父

にとっては自分なりに筋の通った行動だったのだろう。」と孫の徳川義宣氏が『ジャガタラ紀行』

の後書きで書いています。

 

参考文献

(1)最後の殿様 徳川義親 白泉社

晩年の義親氏による自伝。当時内容を理解されず、多くの非難にあった内容が、

歴史の波に洗われ、それなりの評価を受けることが出来たあとの作品である為、

波乱の人生を語る中に落ち着いた『賢者の趣』のある良書。

源氏物語絵巻が尾張徳川家に三巻伝わっていたのですが、巻物のため『見れば

痛むし見れないのなら存在意義が無い』とのジレンマに悩んだ末に「切ろう!」

思い至るエピソードがあります。最後は絶対駄目と言い張る表装師に「じゃぁ、俺が切る。」

とまで言いきり、他の絵巻物を試しに切ってもらい、その有効性をお互いに確認した後で切り

離し表装してます。おかげで秘物扱いになることなく研究や保管閲覧が可能になった訳ですが、

これは考えてないと誤解され続けてきたこともわかるわという気にさせてくれます。だって

普通切ることなど思いつきもしないし、しかも実際に切っちゃう様な実行力無いもんねぇ。

 

(2)昭和史の原点 中野雅夫 講談社

信頼するジャーナリストである中野氏に義親氏が持つ3月事件の資料を提示し、

これまで秘密にしていた事件について語った内容が基になっている革命の記録。

事件の主役は大川周明博士と橋本欣五郎陸軍中佐。橋本は親分肌で行動力はあ

るのだが、視野が狭く単純に過ぎる人物。後に満州事変を影から指揮し、満州

事変擁護のためのクーデター未遂事件(十月事件)をも引き起こしている日本

を泥沼の戦争に引きずり込んだ影の発起人。事件の資料がGHQに渡っていれば絞首刑は免

れなかったであろう。

中国で日本人女性達(娘子軍と呼ばれた)が物の様に売り買いされ、屈辱を耐え忍んででも国

にお金を送らなければ、家族が生きて行けないのは社会システムが間違っているからで、トル

コの初代大統領『ケマル・パシャ』のように、自分が日本社会を作り変えてみせると決意し、

革命運動を押し進めます。橋本欣五郎達のそれ自体は尊敬に値するほどの「大いなる善意」と

「無私の念」がきっかけとなって、これまで日本民族が経験したことも無い悲劇(日中戦争、

太平洋戦争)が引き起こされたと取ることも出来、歴史の奔流の持つ壮絶な無慈悲について深く

考えさせられます。まぁ、橋本欣五郎らは頭悪過ぎって気はしますが・・。

 

(3)じゃがたら紀行 徳川義親 中公文庫

蕁麻疹の転地療養を兼ねたマレーハンティング紀行等、義親氏の東南アジア紀行文

を集めた本。当時の王様の好意もあり『野生の虎』撃ちーの『象の群』撃ちーの

『ワニ』撃ちーのと、どれもが絶滅の危機にある現在では考えられない豪気な旅行記。

しかし、虎と対峙した際に薬莢が銃に噛み込んでしまった際にも比較的冷静だったり、

獣を追ってジャングルを走破したりと、文人のイメージの強かった義親氏の体力は

なかなかのものですねぇ。また義親氏等に対する国王の好意も大変なもので、この時受けた恩義に

報いるために、義親氏は戦争が始まると東条英機を説いて、軍属の身分を得て東南アジアへ乗り込み、

日本軍の暴虐の被害が少しでも少なくなるように尽力してます。ちなみに義親氏は日本理容協会の

会長もしていましたが、これは『虎刈りの殿様』にぜひやってもらいたいと頼まれたからだそうです。

ばかですねぇ。(^^;

 

(4)大東亜科学綺譚 荒俣宏著 ちくま文庫

日本軍のシンガポール侵攻時に、「昭南(シンガポールの意)博物館」を日本軍の

略奪から守り、英国人研究者たちを保護した義親氏の業績が書かれている。

もっとも、義親氏がかばうことが出来たのは、ごく狭い範囲でシンガポール全体は

日本軍にかなり略奪されてますけど、やらないよりはずっとマシか・・。

荒俣氏は殿様の業績よりも、誰にも何にも頼まれてないのに、勝手に昭南博物館を

接収し、館長代理(?)として居座った奇人「田中館秀三」氏により多くの紙面を割いている。

田中館氏に関しては「世の人には山師扱いされ、その様な面も否定しきれないが、彼の行動力

すごい。」と義親氏本人は(1)の本で高く評価している。でも、義親氏しか評価してないみたい

なんですけど。(^^;

 

(5) 殿様は空のお城に住んでいる 川原泉 白泉社

おいらはひそかに川原泉の漫画をかな〜り持っているが、この本に収録されている

殿様は空のお城に住んでいる」は「銀色のロマンティック わはは」と並ぶ

おいらの2大フェイバリット作品。凧上げとアヒルを飼うのが自慢で、皆からバカ殿

扱いされている、ぼ〜っとした殿様が、やるときにはやるって所が楽しい。おいらの

持つ『徳川義親』のイメージはこの殿様に近い感じ。いや、ほめてるんだってば。

 

(6)日常礼法の心得 徳川義親 実業之日本社

身分の低い側室の出であったため、表立っては母と呼ぶことの出来なかった実母に

幼いころから叩き込まれた礼法をまとめた本。戦時中(昭和14)の本なので、かなり

紙質は悪いうえ、旧仮名遣いの本だが内容はあっさりしていて読みやすい。

この礼法が今でも通用するかと言えば「うーん、ここまではやらないなぁ。」って

感じ?

 

(7)殿様生物学の系譜 科学朝日 朝日新聞社 

島津重豪や細川重賢といった江戸時代の殿様から始まり、現天皇や、秋篠宮殿下に

到る、博物(生物)学者として活躍した貴人達の記録。義親氏と昭和天皇が植物学

兄弟弟子(師が同じ服部広太郎博士)であり、昭和天皇の持つ『生物学御研究所』

も義親氏の『徳川生物学研究所』をモデルにしており、学者としての交流もあった

ようだ。この関係があれば2.26事件の時に、義親氏が天皇陛下に直訴しようとした

事も不可能ではなかったと思える。結局、出来なかったんだけどね。

 

(8)橋本大佐の手記 橋本欣五郎著 中野雅夫 みすず書房(→甘粕正彦

三月事件の失敗のあと、満州事変を日本から指揮し、事変の早期収拾を図る政府を

妨害するため、クーデター(十月事件)を決行しようとするまでの経緯を橋本本人が

記した「昭和歴史の源泉」に中野氏が注釈を入れた物。橋本が手記を書いたのは、満

州国が成立し日本が戦争による好景気に沸く中、広島に左遷されたままの身を嘆き、

自己の業績と無念を書き残そうとしたためらしい。もとより出版できるののではなく、

橋本の同志に秘蔵されていた物を中野氏が発見した。昭和史の暗部が赤裸々に語られている歴史的資

料としても重要な本であり、POD(注文に基づく印刷)という形式の本なので注文すれば手に入ります。

なお、義親氏は3月事件にしか関与していないが、橋本欣五郎、大川周明、藤田勇(満州事変のスポ

ンサー)らの葬儀を主催したり、墓碑の筆を執るなどして最後まで友人としての務めを果たしている

ようです。

 

(9)思い出の昭南博物館 E.J.H.コーナー 石井美樹子編訳 中公新書  

ラッフルズ博物館を義親氏等と協力して略奪と破壊から守った本人による追想記。日本

軍への憤りと、若い正義感、暖かい手を差し伸べてくれた人達への感謝が伝わってくる良い

本です。特にシンガポールへの日本軍進駐時の混乱を何の実権も無いのに、果断な行動力

でしのぎきった田中館氏が良い。予想よりずっとイカス〜!経歴詐称を知っても、なお彼

のことを「教授(ほんとは講師)」と呼ぶ所にも著者の失われることのない尊敬と信頼の

が伺えます。義親氏はいかにも氏らしい超然とした感じですね。しかし、日本軍によるシンガポール

統治の様子のひどいこと・・。辻政信の立案による「華僑大虐殺」の有った事は知ってましたが実に

ひどい!こらー、フィリピンを含む東南アジアの日本軍統治について勉強せんといかんですかねぇ。

泥沼にはまりそうで、ちょっと避けてたんだけどなぁ。

 

(10)革命は芸術なり−徳川義親の生涯 中野雅夫 学芸書林  

義親氏の死後に書かれた、(1)の本の姉妹編。著者は(1)のゴーストライターでもあった為、

内容はかなり重複しているが、貴族院でただ一人治安維持法に反対した、義親氏の先見性

と反骨(=孤立)を特に高く評価している。日本社会党設立の経緯も詳しく載っているが、

設立経費として差し出した義親氏の資金は日本社会党にはまわらず、新党結成時に除外さ

れた、藤田勇が持って行ったとのことである。

 

(11)田中舘秀三−業績と追憶 山口弥一郎 世界文庫  

田中舘教授(昭和2010月に正式に就任)の在野の弟子による、研究書を含む著作全集。

ちょっと考えてもわかるように、かなりマニアックな本ですな。唯一の一般著作である

『南方文化施設の接収』も興味深いが、何より実の娘さんによる「父について家庭的に

恵まれなかったなどと云われる方もありますが、恵まれなかったのは母と私であり、

父のように奔放に生きたら、他に何を云うことがありましょうか。」と言う小文は、

好きなことだけやって生きている男を家族に持った実感が非常〜に強くこもってます。(^^;

とはいえ、ラッフルズ博物館と植物園を守った事に関しては、田中舘教授の功績が誰よりも大きい

ことは確かであり、忘れてはならないことと思う。

 

(12)徳川義親の十五年戦争 小田部雄次 青木書店  

東京裁判の資料としてアメリカ国立公文書館に保管されていた「徳川義親日記」をもとに、

これまで伝えられていなかった義親像を示した本。呑気な殿様ではなく、優秀な華族財政

再建家、経営コンサルタント、強気な事業家の義親氏に触れることが出来るが、より重要

なこととして、日記からは日中戦争や南方進出に「積極的に」参加、推進している義親氏が

伺える。陥落直後のシンガポール行きもこれまで喧伝されていたような、「サルタンへの友

情」からではなく、日本軍の南方進出の推進者としてかなり高圧的な姿勢で参加していることがわかる。

資料を集めていくとこういった個人のダークサイドが見えてきたりするが、これもまた調査の醍醐味であり

個人的にはとても楽しい。

 

(13)昭南島物語 戸川幸夫 読売新聞社  

コナー氏の「思い出の昭南博物館」に感激した著者が「思い出〜」をベースに、昭南島時代

のシンガポールで、軍の暴虐がはびこる中、文化と民衆を保護しようと努力した人々を描く。

博物館組(田中館教授、コナー氏、義親氏)と市当局(大館市長、篠崎氏)の5人がメイン

キャラ。日本軍によるシンガポール侵攻作戦、華僑大虐殺、戦後の漢奸狩りまで押さえており、

シンガポール戦中史としてはわかりやすい。義親氏のことに限らず、ちと綺麗事が多すぎな

感は有るが、漢奸裁判で友人を処罰する為の証人に立たされた時「指示したのは私だから、私を死刑にして

ください。」と思わず叫んでしまう篠崎氏の姿はさすがに感動的だ。

 

(14)きのふの夢 徳川義親 那珂書店  

戦前から戦時中に書かれただけあって、かなり好戦的文章が多いエッセイ集。題名

の由来からしてかなりやばい(シンガポール占領で「きのうまでの夢」が現実と

なった云々)が、当時の氏の思想と社会風潮を知るには都合が良い本。この本と戦

後の発言を比較することで、義親氏が戦後、自己イメージの修正をそれとなく行っ

てきたことが実感できる。まぁ、吉田茂も上海事変時には戦争支持派だったようだし、

時代の流れに抗するのは難しいですね。当時の軍の伝統とはいえ、徴発に名を借りた現地での略奪

行為が行動計画の核に組込まれており、それに対し、トップクラスの知識人である義親氏すら

まったく罪の意識を感じていないことに驚く。そう考えると「八路軍(中国共産党軍)」の規律

と目的意識の高さって凄いよなぁ。

 

(15)馬來語四週間 徳川義親、朝倉純孝 大学書林  

義親氏が東京外語大の教授と共に作ったマレー語の参考書。「きのうの夢」に取り

上げたマレーの民話も記載されており、氏が作成に参加したことはたしかな模様

この本でマレー語ができるようになるかといえば、ちと疑問も感じるがおいらは語学

がだめな人なので、何も言うまい。5年間で第7刷、合計14600冊も発行されており、

マレー語が当時それなりに需要があったことが伺える。

 

(16)馬來の野に狩りして 徳川義親 坂本書店出版部  

転地療養もかねた狩猟行として友人の狩猟家吉井氏と共にジョホール王国を訪れた

義親侯爵はジョホール王国サルタンの歓迎を受け、今の世となっては考えられない

ビッグゲーム(稀少大型獣の狩猟)に励む。何百人もの勢子を使った虎狩り、農園

保護の名目での象狩り(6頭も殺っちゃう)など、その費用の壮大さも含め、当時

のハンティングは、なるほど王侯貴族のみの楽しみだったんだろうなぁと思わせる

内容。武器も持たずに虎の追い込みをさせられる地元民がちょっと可哀想・・。文章は中々センチ

メントで読ませます。抜粋は「じゃがたら紀行」でも読めます。

 

(17)南の探検 蜂須賀正氏 平凡社ライブラリー  

留学先のケンブリッジで父の希望した政治学の勉強をそっちのけで、動物、鳥類学

の研究にいそしみ、その道の巨人達の知遇を得た蜂須賀正氏氏は、ロスチャイルド

男爵との会話を契機に、フィリピンの最高峰アポ山に住む幻の鳥を求める探検に旅

立つ。戦前の一時期にしか存在し得なかった貴族にして本物のコスモポリタン

ある破天荒な華族研究者による幻の名著60年ぶりに復刊。戦時中に書かれてる

為、好戦的というか、ちょっとどうだろうという記載もありますが、本質的には狭量ではない人

なのであまり違和感無く読めます。徳川義親氏もマレー軍制顧問としてちらりとだけですが登場。

大東亜科学奇譚“にて、その面白さが喧伝されていたが、なるほどこりゃものすごく面白い

日本人の学術探検記としては、特筆ものの出来ではないでしょうか。文豪谷崎潤一郎をして「マサ、

あんた最高だよ!」と言うしめた、蜂須賀侯爵の魅力が一杯に詰まった本です。

 

(18)道楽科学者列伝 小山慶太 中公新書 

蜂須賀正氏侯爵の年長の友人であり、彼にアポ山探検行を薦めたウォルター・ロス

チャイルド男爵英国ロスチャイルド家の第三代当主でありながら、自らは動物

学の研究にのみ没頭し、巨額の資金を背景に各地に調査隊を派遣し、何百という新種

の発見を行った動物学会の伝説の巨人。本著第6章にて紹介されてますが、もちろん、

実業である銀行金融業なんかやる気はさらさら無いので、そのハードな業務は弟さ

んが切り回してます。普通なら切れるところですが、弟さんは、学術的な意味だけでなく世界中

の動物を分け隔て無く愛し、多額の費用を調査に費やしながらも自らは老いた母と共に質素な生活

を送る子供がそのまま大きくなった様な兄を、尊敬且つ誇りに思っており、自らも忙しい実務の

合間を縫って自宅でもできる“蚤の研究”に勤しんでいたというエピソードが微笑ましい。動物

学は大変お金がかかるので、そらー、家族の理解がないと出来ないですよね。

 

(19)友情は戦火をこえて−博物館を戦争から守った科学者達 石井美樹子作、山中冬児 PHP研究所 

昭和58年10月、コナー博士は妻を連れて、念願であった日本を訪れた。共に

博物館を守った今は亡き恩人、田中舘教授、徳川侯爵、郡場教授らのゆかりの

地を訪ねて、墓に詣で、後継者達との交流を果たす為に。本著は思い出の昭

南博物館」を子供向けにリライトしたものであり、その続編でもある。改め

て読むと田中舘教授の無茶っぷりと、郡場教授の学者らしい実直さがすがすが

しい。お薦めの本だが、入手はかなり困難。本エピソードでは、蛮勇とも言える行動力で活

躍するものの、正直山師チックな感が否めない田中舘教授だが、その火山学や湖沼学(今風

に言えば地球物理学)の系統は甥の石川俊夫北大名誉教授らに引き継がれ、2000年の有珠山

噴火時に見られたように行政と連携し、住民の生命や財産を守る事を可能とした高いレベル

を誇る日本火山学の礎となってる。今だったらこのページは絶対田中舘教授で書いてるな。

(笑)

 

(20)南方文化施設の接収 田中舘秀三 時代社 

田中館博士による唯一の一般向け非専門書籍。日本軍のシンガポール占領を受け、

南方の資源調査を目的として送り込まれた無給の軍属科学者が、現地司令官の

頭の内示だけを背景に、科学者としての信念からラッフルズ植物園及び博物館を

接収し、 貴重な文物の破壊と散逸を防いだ経緯が教授本人の視点で語られる。

中盤以降は、教授によるイギリス、オランダの残した 南方文化研究施設の調査、

視察報告であり、昭南博物館の管理だけが教授の仕事ではなく、インドネシア、マレー半島全域

を飛行機等を駆使して 相当精力的に調査、接収作業を行っているのがわかる。 移動になれた現

代人からみても、あきれるくらいのエネルギーとフットワークだ。しかも、戦場で命を投げ出し

ている兵隊たちのことを思えば、科学者とて無私無欲にて調査協力に当たるべきで、占領後、政

情が安定したからと言って地位や利益を求めるべきではないとの信念から、必要なときに担当者

と交渉して経費を割り当ててもらっているだけで、原則無給という無茶っぷりだ。なので、運営

費用については思い出の昭南博物館に書かれている通り、かなり苦労していた様子も伺え、

徳川公への館長職の移譲は、ある種の必然として、思っていたより冷静に記してあった。

巻末の随感には、日本軍による東南アジア諸国の占領を当時の人として素直に賛美していたりも

するが、所々にコスモポリタン的視点で、粗暴無礼な日本人への苦言が語られている。占領後の

政治、文化行政をスムーズに行う為に、日本語のローマ字表記を推奨しているのは、田中館愛橘

氏の娘婿だった影響も有るのかなと思った。ちなみに、著者名には北大助教授、昭南島博物館長

とある。どうやら北大と東北大に席があり、北大では助教授だった模様です。

 

(21)昭和新山物語−火山と私の一生 三松正夫 三松正夫記念館 

有珠山の麓で育ち、学問と芸術家の夢を断念して父の運営する郵便局を継いだ三松

正夫氏は、明治43年に経験した有珠山の噴火と新山の誕生の際、日本火山学の父で

ある東大の大森教授や北大の田中館教授の現地案内人を勤めることで、科学者とし

ての視点と火山学の面白さに目覚める。 月日が過ぎ、戦争の苦闘が最も激しくなっ

た昭和18年12月28日、火山学に関する田中館教授の民間人弟子となっていた初老

の三松郵便局長は、30数年ぶりに大規模な有珠山の火山活動が始まったことを知る。田中館教授他

科学者たちのほとんどが南方への資源調査に派遣されており、また戦争遂行を最優先事項とする

為、辺境での変事に人手や予算を割く気が無い当局の対応を知る身として、地震計等の観測機器を

持たない素人の身ながら、地震と火山活動の変遷を克明に調査、記録し続ける

地震、噴火を繰り返していた有珠山の外輪山は最終的に地下のマグマから溶岩塊が押し上げられ

ることにより、それまで畑であった土地が隆起し、最終的には 高さ400mを超える世界的にも稀な

ベロニーデ(溶岩塔)型火山となった。 三松氏によって記録、整理された、ゼロから新しい山が

生まれた際の貴重な隆起変遷図らは、その意義を高く評価する田中館教授の尽力によって、戦後

間も無い昭和23年オスロで開かれた万国火山会議にて報告された際に、”MIMATSU DIAGRAM”と

命名され、民間人でありながら各国の専門家たちの賞賛を受けることになる。後に保護のために、

三松氏が私財をなげうって購入し、国の特別天然記念物にも指定された新山は、三松氏の要請を

受けた田中館教授らによって”昭和新山” と名づけられた。現在、三松氏は銅像となって

今も自らが愛した山容を見つめ続けている。

 

関連人物

大川周明 ・橋本欣五郎 ・田中館秀三 E.H.J.コーナー ・藤田勇 ・清水行之助

 

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