西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう)

1903(明治36).1.28〜1989(平成1).4.13

 

 1903年京都府に生まれ。1928年京都大学理学部卒業後、京大講師、助教授を経て民間企業に移る。

 統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込んだ人物として知られる。今西錦司、桑原武夫ら京都

グループ主要メンバーの一人。日本山岳協会会長も務め、日本初の8000m級登山である「マナ

スル登山」の際、ネパール政府との交渉役も務めた。「雪山賛歌(♪雪よ、岩よ、我らが宿り〜)」

の作詞者でもある。京大の教授となった翌年の1957年2月15日から翌年2月24日にかけて行われ

た、第一次南極越冬隊の隊長を務めた。その後、原研理事などを務めたが1989年に死去。

 

南極横断を生涯の夢とした植村に、極地での単独行に必須である六分儀等の天測装置とその使用法

を教えたことから、植村の有力な支持者の一人となった。

 

参考文献

(1)南極越冬記 西堀栄三郎 岩波新書

第一次南極越冬隊の1年間の記録。何しろ始めてのことであり、人選も1年の極地滞在

という過酷な窮乏生活に堪えられる人物を選定したため、平均年齢が高く(35歳を越え

ている)、科学者が非常に少ないという変わった構成になっている。資材も他の研究機関

が実際の予算を使ってしまい、越冬基地には楽器や靴墨はあるが、オーロラ観測用の光学

機器やピペットも無かったそうだ。何とか、冬を過ごしたものの観測機器は寒さで次々と

故障し、越冬メンバーの人間関係も悪化、精神の安定を欠く人物も出る中、迎えに来るはずの南極観測

船「宗谷」が氷に阻まれて迎えに来れないと言う事態に陥る。

 結局、第二次越冬隊は来ず、西堀他第一次越冬隊は飛行機で宗谷に収容された後、昭和基地は翌年まで

の1年間無人のままで放置された。この時、最後まで第二次越冬隊へ引き渡す準備をしていたため、

「タロー、ジロー」他の犬たちは鎖に縛られたまま、南極に残されることとなった。

 この本を読む限り、西堀は協調性のあるリーダーという感じではなく、かなり「我が道を行く」感じ

の人であり、西堀も大変だったと思うが若い隊員の人もきつかったろうなぁと思う。

 あと、ダッチワ○フのことを「南極○号」とか言うが、これは隊員の性欲処理用にそれ用の人形(?)

を用意し、わざわざそのための部屋(イグルーという氷の家)を作ったことに由来するらしい事が書

いてある。これを事前に国費(!)で用意するところに、西堀の念の入った準備の良さを感じる。(^^;

 

(2)弟・植村直己 植村修 編集工房ノア (→ 植村直己)

兄の修さんが実家に建てた「植村直己記念館」の開館式に、病身の身を押して出席した

西堀の姿に、薄れることのない植村への思いが伝わってくる。実際にこの直後に西堀は

亡くなっているしね。葬儀は1989.4.18 著者の修さんも参列。

 

 

 

(3)犬たちの南極 菊池徹 中公文庫 

西堀氏の本では単に「犬係」としか出てこないので、犬橇だけは専門家を連れてきたの

かと思っていたが、実は博士号も持つ地質学者。犬係として、共に苦労してきたカラフ

ト犬達を南極に置き去りにせざるを得ない苦しむと向き合うことになる。

越冬生活は越冬隊長である西堀氏の本によると、気苦労が絶えず非常にたいへんといっ

た印象があるが、この本では、日々忙しいのは確かだが、楽しい毎日であっという間に

過ぎてしまったと書かれている。ここが隊をまとめるべき立場にいる隊長と、一隊員との感じ方の差か。

もっとも、菊池氏は西堀に比べるとかなりアバウトなキャラなので、性格の違いによるものという気も

する。ちなみに菊池氏の西堀評は「少なからず欠点もクサ身もあるがやはり最高のエクスペディ

ションリーダーの一人である。」というもの。植村以前の日本人による犬橇の記録としても貴重。

 

関連史跡 → 西堀栄三郎の足跡(準備中)

 

関連人物

植村直己 ・今西錦司 ・桑原武夫 

 

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