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桑原廉敬氏宅 ご訪問

 

桑原廉敬氏

桑原氏と

 

ご自宅訪問

2003年9月、龍丸さんの中学時代からの友人である、桑原廉敬氏に龍丸さんの思い出についてお聞きできないかとの手紙を出したところ、非常に懇切丁寧なお返事を頂ました。いただいたお手紙に大変感激し、ずうずうしくも「直接お話を伺えませんでしょうか。」とお願いしたところ、快く引き受けてくださり、2003年10月5日、桑原廉敬氏をご自宅に訪ね、直接お話を伺いました。

当日は、龍丸さんの本(砂漠緑化に挑む、わが父夢野久作他)、夢野一族、など杉山家関連の本と最後の玄洋社社長進藤一馬先生の本を準備してくださっていました。午後1時から4時過ぎまで、貴重なお話を伺わせていただきました。その一部を以下に記します。

 

桑原廉敬氏のお手紙

以下に桑原さんからの手紙の全文を記します。(当方の勉強不足が原因で一部読解困難な箇所は○になっております。)

 

お手紙拝見致しました。杉山龍丸君は全く快男児でした。 生まれながらにして大きな運命を背負っていたように思います。今更のように懐慕の情を禁じ得ません。福岡中学時代は隣席でありましたからお互いの顔をスケッチしあったものでありました。夢野久作とかそんな名士の家とは知りませんでした。龍丸など丸薬のような名前だと思っておりました。戦後私は東京新宿に済んで居りましたがその陋屋にも再々訪ねて参りました。軍隊時代をよく語りました。彼は陸軍士官学校出身でしたが、私は陸軍甲種幹部候補生出身の偵察機操縦将校の体験を持って居りましたから話の合うところがありました。彼は陸軍の比島作戦では○空から特攻機の戦果確認の任務を持った体験を語りました。

 体を壊して復員し余り余命もないと自ら決めて香椎は唐ノ原に父より継承していた土地の三万坪を福岡市のためにお役に立ててもらいたいと当時の福岡市長に会って寄付したのでありますが福岡市がその土地を西鉄にゴルフ場として貸し付けたものですから約束が違うと談じて全部返してもらったなどと上京して来ては義憤をあらわにして語っていたものであります。

 この時代後に福岡市長になられた進藤一馬先生とは玄洋社関係の交際がありまして進藤先生が福岡中学第一回卒業の先輩でありましたから、在京福中同窓会も先生と杉山君が話し合ってはじめたものでありました。

 当時現職の国鉄総裁十河信二氏は茂丸翁の秘書をつとめた方でありましたからその縁で十河さんの後輩の佐藤栄作総理のとこにも出入りしていたようでありました。その引で国連の世界緑化委員にもなった筈です。

 茂丸翁の秘書に星薬科大学の創業者がおりその子孫の作家の星新一さんは龍丸君のことを慈父の様と書いて居りますが恐らく杉山君が五十才位のときではなかったでしょうか。祖父の茂丸翁は日韓合邦に○○○た方でありましたから金玉均から届いた磁器なども持っていて私の友人の○田君等は三○なる韓国磁器の名器について杉山君と語ったりして居りました。杉山君は酒をのまないものですから固い話が多かったように思います。

 印度カトマンズから見たヒアラヤの山嶺をいつも語っていました。印度では小学生が裸足で歩いていることが多くそれに履物をはかせたいと小学校に行っては(わらじ)の作り方を教えて行脚し子供達からは、わらじ上人と尊敬されていたようでした。身に僧服をまとってあの灼熱の大地を踏み歩いていたのではないでしょうか。印度で米の不作の年 飢饉のとき当時台湾に政府を作っていた蒋介石政府に申しこんで三万トンの米を印度に送ってもらったと話しておりました。底の知れない志を胸に抱懐していたのでありましょう。

 晩年その最後を朝倉街道沿いの病院に見舞いましたが筆談さえも出来ませんでした。暑い夏の午後と記憶しております。今はもう往時莫々として思い出すことも多くはありませんが唯彼の清風を懐かしんでおります。

九月二十八日 桑原廉敬 久保康憲様

 

桑原様からお伺いした略歴

桑原廉敬氏は、大宰府の神官の家の出身。(お兄さんは神官)

龍丸さんと同期で福岡中学卒業後、明治大学政経部に入り、清水芳太郎氏の研究室で学び、清水先生に傾倒していた石原莞爾とも面識があったとの事。

繰り上げ卒業で、機関銃部隊に配属され、昭和18年甲種幹部学生(中卒以上の学歴者を選抜して将校とする制度)を対象とした、特攻機の操縦者に隊長の指名により選抜され、航空士官としての訓練を熊谷陸軍飛行学校に幹甲操縦将校第一期生として入校。同期1000人のうち400人が特攻隊の隊長格として戦死しています。

桑原さんは何らかの背景があって、志願したものの特攻はさせてもらえず、偵察、地上支援機の操縦士として中国を転戦。墜落して敵中を横断、僻地の守備隊を率いていた(日本百名山で有名な)深田久弥中尉に救助されたり、8月15日に単機で偵察に出、張家口を目指して進軍してくるソ連の機甲部隊を発見。これにより張家口の邦人4万名はソ連軍の捕虜になることなく撤収に成功の一助となったとのこと。(→昭和20年8月20日−内蒙古四万奇跡の脱出 稲垣武著 PHP出版 参照

当のご本人は、満蒙奥地の部隊が戦闘をやめた9月中ごろまで食料や武器や薬品など支援物資を地上部隊に運び続ける仕事に従事。中国軍の捕虜となり、21年4月に復員され、翌年から奥さんの実家のある東京に在住。

縁あって合同通信社(旧海軍から始まり、運輸省、国土交通省系の通信会社)を経営。現在は、国会記者クラブの理事もされているとのことです。福岡市長だった桑原敬一さんは年少の従兄弟とのこと。

 

<龍丸さんのこと>

戦後の再会

龍丸さんとは戦後23年ごろに進藤一馬先生を核とする玄洋社のネットワークで再開。戦犯として逮捕され、公職追放も受けた進藤先生が衆議院に当選した際に、秘書になることを進められたが、駆け出しの政治家秘書では家族を養えないと苦慮していたところ、「俺が行って断ってきたから。」龍丸さんがやってきて告げたことがあったとのこと。その後、新聞記者を経て、友人の紹介で通信社の仕事を始めて現在に至っています。 龍丸さんと一緒に東京福中同窓会を始めたり、龍丸さんが杉山家の戸籍整理のため頻繁に上京して来た際に、愚痴や苦労話を聞く間柄だったとの事です。

 

戸籍整理

戸籍整理についてはあまりに頻繁に上京してくるのを不審に思い、「おまえこっちで忙しそうにしてるが、なにやっとるんか?」との問いに対し、

「茂丸が桂太郎をはじめ、政府高官や財界人の隠し子を、どんどん杉山の姓に入れている。心無い人からは「お前もどこの誰の子かわからん。杉山の姓くらいあてにならんものは無い。」といわれ、本当に悔しい思いをした。だから当事者を一人一人当たって、整理しているのだ。」と男泣きに泣きながら話したこともあったとのこと。

その後、帰郷した龍丸さんが上京するたびに、桑原さんを訪れ、心象を吐露し、時には激情をたしなめられていたようです。

 

仏舎利塔

インドの大飢饉の現状を見て、帰国した龍丸さんは、台湾政府に働きかけ、3万トンの米をインドに援助してもらった。その功績でインド政府から「仏舎利」をもらい、薦める人もあり、糸島の岬に仏塔を建てた。結構お参りに来る人も多かったのだが、仏塔の建立を薦めた人が、色々と当初の約束を守らないので、怒って、夜に行って仏舎利を取り返してきたことと語られた事があったそうです。桑原さんは、まじめに拝んでいる人もいるのだからそれは良くないぞ。 返してきたほうがいい。」といったが、どうなったかは知らないとのことでした。

満丸さんにお伺いしたところ、小学生の頃、仏塔の除幕式に行ったことがあるとの事。いつか、その糸島の仏舎利塔を訪れてみたいものです。

 

印度緑化

インドの緑化に関しては、あまりにも途方もない話で「お前、そんなこと千年かかるぞ。千年もかかることに入れ込んでどうするんだ。」というと、「いや、今はプラスチック(ビニール)のパイプがあって、これならトラックに200Km分位つめる。一日に何キロもの灌漑施設が作れる。だから千年なんかかからないんだ。」と語っていたとの事。

これはニッポパイプ法と龍丸さんが名づけている手法ですね。技術的内容は、「杉山龍丸関連文書アーカイブ」を参照してください。

 

<玄洋社のこと>

進藤一馬先生

桑原さんのお話の中で一番印象深かったのは、最後の玄洋社社長で福岡市長を務められた進藤一馬氏のことでした。(桑原さんは常に「先生」と呼ばれておられました。)

戦後、「玄洋社社長」としてGHQに拘束されたのち、進藤先生は一時、衆議院議員を務められましたが、国政への関与は長谷川峻らに任せ、ご自身は福岡市長を長く(4期途中まで)務められました。桑原さんご自身は、長谷川氏や進藤先生らが東京で活動されるとき近くに在り、私的秘書の役割をされていたとの事です。

桑原さんのお話によると「玄洋社はGHQに解体されたわけではない。解散を命じられたのは内田良平の「黒龍会」であり、玄洋社は戦後の社のあり方を熟考された進藤先生が全てを自らの内に引き受け、自分の死と共に終わらせるべく封印されたのだ。」とのことでした。(『封印』の語句は進藤先生が実際に使われていたとのこと。)

これは史実とは異なりますが(昭和21年1月、占領軍の指令によって解散、資産は全て没収)、もはや戦後といわれる時期を過ぎ、玄洋社を復興することが可能な時代になってからも、過去の経緯を鑑み、玄洋社を復活させること無く、自らの代で納めようとした、進藤先生の意思を良く伝えているものと思います。

 

進藤先生の書

福岡市長引退後、進藤先生から桑原さんに「これまで色々お世話になったので、君に書を送ることを約束していたが、なかなか思ったように筆が進まなくて。」とのお話があった。「ゆっくり待ちますので。」と、その時はさほど気にもせずに返答したが、後日、東京の桑原さんの下に進藤先生から荷物が届いた。開けてみると、80歳過ぎとは思えない力と気概のこもった漢詩がしたためられていた。

富貴不

淫貧賎

楽男児

到此是

豪雄

戦中、戦後を共に生き抜いてきた信頼すべき同志に長年の尽力を謝し、来島恒喜、頭山満、そして進藤先生の実父の進藤喜平太翁ら玄洋社源流の人々たちから受け継いだ志を互いに固持して来たことを誇りに思う心情が伝わる書です。

自らを福岡の出ではあるが傍流とみなし、個人的にお手伝いをしているに過ぎないと思っていた桑原さんはこの書を見て、

「進藤先生は私のことを玄洋社の志を持った“同士”と思ってくれていたのか・・。」

と知り、書を前に思わず涙を流したとのことでした。

 

頭山満の書

頭山満の書について面白い話がありました。桑原さんが新聞記者をやっていた戦後すぐの頃です。当時新宿マーケットを開き、戦後の闇市を支配していた関東尾津組の尾津喜之助という日本一の大親分がいました。この親分が「金の鍋ですき焼きを食わせるらしい」と聞いた桑原さんは、「記事にするから、すき焼きを食わせてほしい」とノコノコ出かけて行ったそうです。

 

そしたら、直接喜之助親分が直接出てきて、大き目のどんぶり位の金の鍋を袱紗から取り出し、自分ですき焼きを作り始めたのですが、どう見ても親分は怒ってる。

「おれは日本一と自他共に認める大親分なのに、この若い新聞記者はどういう了見だ。ただじゃおかねぇ。」ってのが、ひしひしと伝わってくる。

すき焼きを作ってる最中に親分が「桑原さん、あんたどこの生まれだい。」と聞いてきたので「福岡です。」と答えたら「じゃぁ、玄洋社はしってるかい。」との事。「えぇ、まぁ。進藤先生とは懇意にしてもらってます。」という感じで答えたそうです。

そしたら、尾津親分の雰囲気が突然変わって、切々と身の上話を始められました。

 

「自分は若い頃、故あって人を殺めて刑務所に入った。5年7ヶ月の刑期で一生懸命真面目に勤めたが一日もまけてもらえなかった。出所のときは風呂敷包みひとつで、行くあてもない。刑務所の看守が「お前行くあてはあるのか。」と聞くので「ない」と答えると、東京の頭山満邸の住所を教えてくれ、「ここなら面倒を見てくれるから。」との事。

頭山邸にいくと、座敷に案内され頭山翁から「大変だったな。何もないが飯だけは好きなだけ食え。」といわれて、他の食客と一緒に大部屋で暮らした。昼は仕事に行き、夜は頭山邸に帰ってきて飯を食って寝ることが出来る。中央に銀シャリのいっぱいに炊いてある釜があり、ご飯はそこから好きなだけとって食べることができた。

しかし、飯を食う大部屋の床は3種に区切られていて、殺人強盗は土間、軽犯罪者は板の間、政治犯は畳の間であり、尾津親分はせめて板の間で飯が食える身分になりたいものだと、いつも思っていたとの事。

 そのうち、頭山邸を離れることになったが、餞別として頭山翁から書をもらった。この書は手形(金券)代わりであって、都内に何箇所か書を五円で買い取ってくれる場所があった。(今もある「玄海」という水炊き屋などがそうで、この店の広間は頭山翁の掛け軸で一杯だった。)五円といえば当時なら女郎一人を泊まりで確保して2円なので、結構使いでがあった。自分は今いったように玄洋社と頭山先生には本当に世話になった。足を向けては寝られないといつも思っている。そうか、あなたは玄洋社の人か。なるほどたいした度胸だ。」と切々と真情を込めて語られたとのこと。

 

 桑原さんにしてみれば、世間知らずの若気の至りだったので、非常に恐縮したとの事ですが、玄洋社の力の源泉が、このような恩義によるネットワークであり、国が暗黙で認定している更生事業を行っていたというのは興味深い話でした。久作の著「近世快人伝」で奈良原が笑う「頭山の書」にも、実は意味があったわけで、個人的にも興味深かったです。

また、このような恩を受けた人たちが日本中にいて、いっぱしの親分になっていたため、戦後、進藤先生が玄洋社を胸に収めると知ってからは、各地でかってに玄洋社を名乗るのがいたら、ものすごい圧力がかけられて潰されていたようで「関西玄洋社」とかいった分派が発生する余地が無かったとの事でした。

 

 冷静に調べると尾津喜之助親分は「光は新宿から」のキャッチコピーで日本最大の闇市「新宿マーケット」を立ち上げ、仕切っていた正真正銘、戦後すぐの日本では最大の親分でした。桑原さんもかなり無茶しーです。(^^;

 

その他

他にも、国鉄民営化を貫徹する為、各自が常に辞表を抱いて、旧態化した体質、政府や財界、国労を相手に命がけで奮闘した人達(現在のJR社長ら)のお話や、国鉄資産をめぐる財閥の暗闘、福岡市長選の話など、大変興味深いお話を聞かせていただきました。

 

感想

桑原さんは、芯の強さを感じさせるものの、人当たりの穏やかな方でした。親戚の葦津珍彦さん曰く「非常に怒りっぽい人」である、龍丸さんとも余り衝突したことがないとのことですが、さもありなんといった感を受けました。成功者臭や軍人臭を感じませんでしたし、なかなかこうは年を取れないだろうなぁと感じさせてくれる方でした。

戦争で死んで行った友人達のことを思うと、恥ずかしい生き方はできない。せめてもの矜持として志を持って、戦後の世を「志士」として生きてきたつもりだ。」と淡々ではあるが真情を込めて語ってくださいました。

 やはり、戦争を経験している人というものは、同じ年頃の話でも、国が滅びるかどうかとか、友人たちが次々と死に、自分自身も死と正面と向かい合ってきたからでもありましょうか、戦後生まれの我々とは経験も覚悟も超絶な差があるなぁと感じました。何といいますか、器の大きさとでもいうものでしょうか。それでいて、その差が心地よく感じられるのですから、実に良い経験をさせていただいたと思います。

 あと、「愛国心」や「郷土愛」というものは、教養のある人間が軽々しく口にすべきではないものと思っておりましたが、山河や花々を愛するのと同じように、自然な感情の発露としての愛国心や郷土愛というものが存在しえるのだなぁと気づかせていただきました。これはかなりのカルチャーショックでしたが、おかげで若干視野が広がった気がしております。    

教えていただいた事は、今後の調査や人生の中で役立たせていただきたいと思っております。本当ありがとうございました。

 

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