Topに戻る

杉山龍丸に戻る

 

神の国から

 

私はトレインが好き

何もしないで 次の目的地へと運んでくれる

じーっと窓の外を眺めながら

広大なインドの大地が次々とスクリーンにはいってくる

ぷーん と 臭ってくる消毒液のにおいと猛暑の温風が

「こうするしかない」今の私を作りあげていく

向かってくる 温風、その中に

時折、冷たい風が私の心を ホッとさせる

「あー、 これがインドだ!」

 

デイリー駅のホームで

蝿にたかられホコリ塗れになっている幼児

「フー 」と息をしているのか・・・と思うほどに 

この暑さの中

通路に横たわっている

隣で母親らしき女姓がバクシーシー(物乞い)してる

「いったい何のために 生まれてきたの?」

そう 思わせるような 幼児の姿

そんな どうすることも 出来ない気持ちを残したまま駅を後にする

 

 

 

 

 

 

モーターバイクにまたがり 50度の猛暑の中

北へ北へと移動する

山々をいくつもいくつも超えて

さすがに 6月のインドは暑い

時折、出くわすレストランの井戸の水ホースを借りて

頭上から服をきたまま「ジヤー」と行水する

そして、又 モーターバイクにまたがり

熱暑病の予防をしながら

目的地の「マクロード ガンジ」ヘ向かう

 

 

ダライラマ14世の秘境地「ダラムサラ」

 

ヒマラヤから流れてくるスプリング・ウオーター

ダライラマの居城のすぐ側に

とても、瞳の奇麗な3才位の男の子が中年男と道端に座っていた

私は通り過ぎたモータバイクをUターンさせて

男の子の前へいき「ハイ!」と小さな手に持った水カツプの中へ

10Rsを入れる

男の子はそれを私に差し出す

横に座っていた中年男が「よく、やった」と

男の子の頭を撫で水カツプに入れた10Rsを

自分のポケットに入れた

こうして 金で売られた子供たちは数えきれない程存在する

あまりにも幼いがために何の抵抗も出来ない

何千年も続いたカースト制度の中で生きている

インド人には何の抵抗もない

あたりまえの光景なのだ

そして、この現実は目のあたりにした 私たち外国人の

責任のような 気がした

 

 

 

その 男の子の瞳を見て

じーと 自分の胸に 手をあてた

「ごめんね」・・・と

大粒の涙が 止まらない

ふーっ と  その時

ひとつの思いが よぎってく

私は いったい何のために 生まれてきたのだろう・・・と

 

 

1. 生かされて

 

ただ。生かされている・・・と いうこと

「衣、食、住」がととのっていて

着るもの、食べるもの、住むところ と、回りを見渡してみれば

手の届くところに全てがととのっている

何か食べときゃ死にやーせん

屋根のあるところで寝れば雨にも打たれない

この世のこの生の「源」の他に 色々と色をつけたばかりに

もっともっと生きてくことが大きく大変になってしまった今の世の中

そして、この地球の生態系までもが破壊する

最後には 人間同士さえもが傷つけ合い

ゆくすえは相手の心までも裁こうとする

私たちは 物質的には進化したのだけれども

生かされているということはこんなことだつたのだろうか・・・

今まで、蓄積してきた心の歪みや感情のブロックなのか・・・

愛をもって優しく包んであげることで

傷つけた相手も傷つけられた自分も

全ての命あるものから、この地球の生態系までもが

この大宇宙から強い愛と光がふりそそぎ、

とても奇麗なオーラーが輝くというのに

 

 

 

 

この大宇宙、

 

大自然と一体になり

 

生かされているという

 

 

2. 真実の生

 

私たちはひとつの生を終え、死んでいくとき一瞬にして

自分が送った人生のストーリーを目のあたりにするといわれている

その時、

多くの人が自分の歩んできた人生のストーリーを見て後悔するらしい。

自分の生き様、

欲望や執着だけにとらわれ幕を閉じた自分の一生。

私たちが生きている間、せつな刹那せつな刹那に思った思考、想念、意識は

一瞬にして宇宙に飛び、永遠に消えることなく保存されているといわれている

 

聖書にも記されている

「わたしはまた、死者たちが大きな者も小さな者も、王座の前に立つているのを見た。

幾つかの書物が開かれたがもう一つの書物も開かれた。

それは命の書である。

死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき彼らの行いに応じて裁かれた」と。

 

 

こうして、この中にも記されている

「命の書」とは、まさしくこのことではないだろうか

まさしく私たちの心に秘めた長い歴史が

許し、与え、慈悲の愛に目覚め

心の内の重荷をいかに軽く、

愛で浄化して生きるか、

愛に触れながら

自分の愛を目覚めさせる行いということではないだろうか

いかに愛に目覚めるかで

自分の魂のレベルを「上にも」「下にも」できるということ、

自分の魂の部分、愛の部分、愛のレベルでの自分はどうであったか

愛の成長の部分ではどうであったか・・・。ということ。

 

物質的にはとても裕福で満ち足りた人であっても

もしかしたら人を陥れたり欲望にからまれ

心なき人であったかも知れない。

愛の成長の部分ではどうだったかということ。

こうした情報が全て保存されているということ、

大宇宙、大自然の中で

私たちの思考、想念、意識は生きている

そして、この大宇宙、神は、私たちが大金持ちや支配者になることを望ん

でいるのではなく、私たちの潜在意識の内にある愛を目覚めさせることこそ、

私たちの最大の生きている意味ということを教えている。

こうした、霊的本質の存在こそが

生かされている私たちの生、真実の愛だと確信する。

 

 

3 悟りの方程式

 

あなたの生に於いて

必要なことは

ちゃーんと

自然に

起きてくる

 

 

旅の途中で出会った日本人の元お坊様。

彼は「悟りの学校」を設立するためと世界中を忙しく動き回っていた。

「僕は一人でも多くの方にお伝えしたい」とお話ししていた

私はこの書をもつて彼のお言葉をお伝えさせて頂きます

 

 

私たちの存在

大宇宙(神)はもともとただ一つ、

それは、「ビツクバーン」がはじけて多数の光を放った。

その多数の光こそが私たち、

すなわち私たちの存在が始まるのです。

したがって多数の光を放った訳ですから

もともとは全てが伝がっているということです

ということは、全ての人類、全ての生態、全ての者が

平和で幸せというのが理想な訳です。

光として放たれた私たち。

そして、そのはじけた光は

「ひとつ」「ひとり」「孤独」な訳ですから

それを感じはじめるのだそうです「ひとり」「孤独」・・・と。

そして、次に「ひとり」「孤独」を感じていた私たち光は

そこから「判断」することを知っていきます。

「判断」すること。

それは「良い」こと「悪い」ことと。

そして、当然「良い、悪い」と判断を覚えた私たち光は「良い」を選択する訳で、

その良いは、じきに「損、得」へと変容していくのです

私たちはもちろん損よりも得を選択しますが、それはしだいに

「良い」「得」「善」・・・と、そのことに「執着」するようになります。

もっともっと得を、もっともっと良いを・・・と。

それは、しだいに「欲望」へと姿を変えていき、

この辺りから私たちの魂は満たされようと、欲望に執着し

執着は新たなる欲望を喚起し、

終わる事なき貪りを続ける訳です。

 

ここまで進化した私たちの魂は満たされているうちは良いのですが、その欲望が

満たされなくなるとそのことに「怒り」を覚え、

満たされないことに「疑問」を抱くようになるのです。

こうなる前に生かされ、満たされていることに「感謝」し

「ありがとう」という気持ちを持ちたいものですが

愚かな私たちは悪循環へと進んでいきます。

そして、私たちの魂は不満を覚え、

そのうちに自分が嫌いになり、

何でもno・・!と、いう心。

すなわち「偏見」、歪んだ魂になっていくのです

そして、その「歪んだ魂」はその心のまま相手を批判し

そして自分をも批判しはじめるのです。

「愚痴」や「うそ」がそのとおりのこと。

何でも「ありがとう」と素直に受け入れない。

自分で自分を苦しめている。

そういう人は自分の廻りで起きている「ありがたい」ストーリーをも見逃して

自分は不幸だ!不幸だ!と「愚痴」っているのです。

そうしているうち、その思いは「潜在意識」に降りてきて怨念(悲しみ、痛み)へと

変容していくということなのだそうです。

 

以上、長時間にわたり ご指導くださいました 元お坊様に感謝いたします。

 

 

さて、

私たちは、いつもありがたい出来事、素晴らしい出会いに導かれているのですが、

歪んだ評価(非難、批判、偏見)のために、

たくさんの導きを見逃しているのではないでしようか

欲望を捨て去ると、そこには今までとは違った新たなものが見えてきます。

欲を捨てるということは、とても気持ちのいいこと

あなたの生に於いて

必要なことは

ちやーんと起きてくるものなのです。

 

 

4 導かれて

 

インドへの旅はよく「導かれる」という

6月の一番暑いころ 何度目かのインド旅行の際、

深夜デイリー空港についた私は駅までタクシーで移動して

一夜を到着した駅のホームですごした。

この日もとても暑い日でホコリと汗と疲労とで

私の着ていたTシヤツとズボンはもうーまっ黒。

疲労を回復するためホームの隅でバックを握り締め朝を迎えた。

朝になると深夜にいた人たちの何十倍の人がホームに訪れ、

私はトレインを待つ間、ホームに設しているシヤワー室へいき

インド人の女性群の後ろへ並んでいた

自分の番が来るのを暑さと疲労でくたくたになつた体を支えながら待つ。

5、6室あるシヤワー室の前は行列ができている。

しばらく待つた後、4番目、3番目、・・あと2人・・・と。

そんなにキレイではないシヤワー室でも

水浴できると思えばとてもありがたい。

そうしているうちに、やっと自分の番がやつてきた。

「あーやったー!シャワーだ!」と。

私は大喜びでシャワー室へかけていき、

とてもキレイではないシャワー室へ飛び込んだ。!

汚れ果てた服を脱ぎ捨て

「さあーシヤワーだ!」

「水だ!」と。

水道のコックをひねったとたん!

Oh My God!」

何回、コックをひねっても水が出てこない

Why 」

「なんでー」

私の番になって水がでない! 断水!

Oh My God!」

「神様!」

「私には恵みの水は恵んで来ないの」・・・と。

インドに来たら人生観が変わると誰かが言ってたけど、私はこんなことで

人生観変わりたくない!・・・と。

一生懸命、水道のコックに挑戦してみたが

水は一滴も出てこない。

「断水?」

私はしぶしぶと、さっき脱ぎ捨てたドロドロになつたTシヤツとズボンを見つめはじめていた。

「神様!」と、

しかし、恵みの水は1滴もでてこない

Oh My God!」

私は仕方なく

「ハイ!ハイ!神様!」・・・と。

さっき脱ぎ捨てたはずのTシヤツとズボンを着用してしまった。

そして、私はそのままトレインに乗り継ぎ、トレインのトイレの中で

使い終わったペットボトルを、持参していたナイフで半分に切り裂き

小さなバケツを作った。

そして、トイレの中の水道水でシャワーを済ませてしまったのだ。

その時の「爽快感」は変わりつつあった私の人生観を確実に変えてしまい

なりゆきにまかせることにした私の人生観。

在りのままであったトイレに感謝した。

 

 

5. 「0」

 

貴方が0に戻ることを

私は歓びます

貴方が本当の愛に目覚めることを

私は歓びます

あなたがクリアーになることを

私は歓びます

そうする事で

私も全てを明け渡すことができるでしょう

貴方が本当の幸せを感じる事を

私は歓びます

長い長い暗闇の中で

貴方が次に来る光を

スムーズに受け入れる事に

私も歓びを感じます

私は空にしてそれを見ていましよう

そして手を大にして歓びます

そうする貴方を私は見たい

真実を見ようとする

真実にノックしようとする貴方を見ましょう

真実へと勇気を持って

飛び込んで行く姿を

私は恐る恐るでもじつと見つめています

 

 

繕いながら問題を解決したって真実のところでは本当の問題解決にはならない。

繕いながら答えを出そうとしても 本当の答えは見つからない。

繕いながら愛する相手と接していても それは、相手を傷つけるだけ。

あなたに必要なことは自然に与えられる。

繕わずにいれば真実の解決、答え、人間関係は生まれる。

「0」になり 全てを明け渡すこと

それは、自然な私たちの本来の姿

 

 

 

 

 

繕わずにいること、繕わずに真実で立ち向かう。

それによって初めて障害なく立ち向かへる。

繕うからこそスムーズに流れるものもストップさせてしまい障害をつくってしまう

繕ったり、隠したり、うそで固めたりせず 何も繕わなかつたら

物事はスムーズに必要に応じて流れていく。

それがこの大宇宙、大自然の仕組みだから。

 

 

自分の対象物、又は相手となるものが自分の心のバロメーターとなる。

そして、自分の対象物、又は相手となる者の心のバロメーターが少しズレてきたら

そっと、「心のネジ」を愛の原点へと戻してあげる。

それが、愛ではないでしようか

私たちは自分の廻りにいる身近な人、全ての人々と、

大切な糸(光)で結ばれています。

相手を想う心は真実性に近い程、強く伝わっていく

神性、魂レベルが高い程、ストレートに伝わるものなのです。

繕ったり、欲望だったり、何らかの利益を得る目的のものが働いたとき、

相手への思いはストレートには伝わりにくいもの。

本当の自分の思いを心から伝えるとき、そこにはプライドも繕いもないはず。

なのに、いつの日か人類は自分に鎧をまとうことが、

あたりまえになってきたのです。

 

 

6 「新たな悟り」

 

私たちの欲望や支配により、世界中に燦燦された多数の未解決の現象。

そして、消滅していく生態系。

その中で生きていくことを虐げられ犠牲になっている子どもたち。

そんな子どもたちがどれほど存在するかということを考えたことはありますか。

私たち、人間が行くとこまでいった欲望、支配の結末です。

異常気象になり食料不足に巻き込まれている子供たち。

テロや戦争によって安心した暮らしを送ることができない子どもたち。

支配することによって作られた何千年も続くカースト制度のため

いまだ「衣」「食」「住」をあたりまえに味わったことのない子どもたち。

みんなこのような子どもたちは何の抵抗もできずその世界の中で生きています。

私たちの魂の愚かな部分で途方もない年月の間に作り上げられた結末。

どこかで、ストップをかけることができていたのなら、

こうした犠牲になっている子どもたちは存在しなかったのではないでしようか。

このまま世界の意識レベルが変わらずにいたら

こうした子供たちは永遠に増え続けていくということ。

次の世代も、また更に次の世代も

こうした子どもたちは確実に増え続けていくのです。

今、私たちがストップをかけ、欲望や支配の意識を愛に変えなければ、

私たちの魂が愛をもって神と繋がり、

真実の意味で生きることに目覚めなければ

こうした子どもたちを救うことはできないのです

そして、この生の存在に気づき、愛を持って生きていくことこそ

「新たな悟り」ではないでしようか

 

 

 

どうか、

ひとりひとりの魂が

愛に目覚め

生きていくことを

心から

祈ってやみません

 

 

7 今、ありのままで在ること

 

今、私たちが生かされていることに感謝し、許し、与えられ慈悲の愛を受け取ること。

そして、楽しくすこやかに日々を送ることができるということ。

すなわち、「ありがとう」と感謝することで生かされていく。

 

私の中で、今は「聖地」となったあの「グランド・ゼロ(ニューヨーク)」は

愚かな人間たち、人類の魂が愛の部分から引き離された末、

行くところまでいった結末のような気がします。

何億年も続いたこの地球の生命、生態系の中で人類、大人たちのしたことに

何の責任もない子どもたちが苦しんでいる事実。

狂ってしまった気象、生態系。

長い年月が作りあげた心と心のふれあいの愛はこのような形で結末を迎えたのです。

 

 

 

 

「無数の生に渡ってあなたは多くのかたちで、欲望してきた・・・

なぜなら欲望の本性そのものが満たされないままあるというものだから・・、

もし、あなたがこれを理解したら、

そのときには、あなたは「今ここ」にいられる                                                         

                                                          OSHO

 

 

 

すなわち、今、ここに在ること。

ここに存在していることに感謝しなさいということ。

今、ありのままで在るということに・・・・。

 

ある人がこんなことを言っていた、

貧困な国の人には豊かさの手本、知恵をみせてあげる。

それが目標になって

ひとつでも一人でも豊かになれるように・・・と。

 

 

又、いつか私に水カップを差し出した「男の子」に会いに行く日がきたら

その子がどうすることが幸せなのかと、私は考えるだろう

親元に返すことなのか

孤児院に収容されることが幸せなのか・・・と。 

その日がきたら 

きっと 神は

その「男の子」と私に

愛をもってメツセージを 与えてくれるだろう

きっと  その日がきたら

 

 

 

 

 

 

「神の国から」  -- ダラムサラにて ?

 

独りの魂    独りの神が

たどりつく  そこへと  たどりつく

大きな  大きな  川が流れる

その処へ

 

 

 

大きな  大きな  山がそびえる

その処へ

そこは  神の国

天の川の流れる

神の国から          

 

Topに戻る

杉山龍丸に戻る

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送