平和をもたらすもの

杉山龍丸

 

 

第二次大戦直後、我々の眼の前に現われたものは、思想による、米ソの冷戦てあった。

それは独逸の二分と朝鮮の南北分裂、中国の国共の争いを伴い、又人類に、核戦争の恐怖

をもたらした。

今日、ベトナム戦は、仏教僧の焼身自殺に端を発して、竹槍と、近代兵器の戦いから、

無理矢理に、共産圏と自由主義陣営の戦争にエスカレートして行っているかに見える。

その一刻、一刻の戦況、情勢の変化に対して、世界の人類は、皆、動いていると言って

過言でないでしょう。

然し、私達にどうしても判らぬことが一つ出来てしまった。

米ソの冷戦以来であるが、第二次大戦によって、戦争は罪悪であるということと、戦争

は嫌だ、ということは、世界の人が皆認めているに拘らず、思想の違いによる戦いは、幾

ら人を殺しても、その思想が罪であるとは、誰もいわぬことである。

共産圏、自由圏いずれの国々にしても、自分は正義であるという。

正義であるから、戦いによる殺傷は、万止むを得ざる犠牲であるというので判らなく

なる。

独逸のナチスによるアウヅユグィッツのユダヤ人虐殺は、いずれの人といえども、正

しいというものはあるまい。

よくよく考えると、殺人というものは、よし自ら自殺する場合においても、いかなる理

由があっても、罪悪とされるものである。

然し、殺人の場合、殊に戦争というものは、人智の限りをつくして、理屈をつけ、最大

限の人力をつくして行なう暴行であり、言論においても色々のことをいいたてて、正義と

いうことを主張するものである。

ナチスの虐殺が、人間の最も極端な罪悪であるということは、戦争を惹起したそのも

のが、人間のもつ罪悪から来たものであることを考えるならば、ベトナム問題に限らず、

人類全部が、ナチスのアウシュヴィッツと同じ要因をもっていることを、反省し、また、

思想そのものの中に、共産思想であれ、自由思想であれ、全てに、同じ罪悪を犯す要素

をもっていることを反省すべきでなかろうか。

それはまた、人類が、生み出した思想のみならず、宗教にも、あったということを、

過去の歴史に鑑みて、考えねばなるまいと思う。

私達は思想にしろ、宗教にしろ、また世の中の文明というものは、全て、我々人類が

人間として、生きて行く上に、より豊かに、より幸福に、より平和に生活出来るために、

生み出したものでなかったかと思うのである。

そのために、生まれたのが、存在するのが、思想であり、宗教であるとするならば、

本来一人の殺傷をすることも、許されぬものでなければならぬはずである。

今日の世界を見ると、思想、宗教が、過去の人類において、大きな貢献をしたことを

認めるとともに、現在から考えると、全てのものが、人類の生活から、本来の目的を奪

うものになってしまっているのではなかろうかと思われる。

それは、思想、宗教のみではないのである。

私達は、今日まで多くの平和主義者、平和運動の人々を知っているし、またその人達

の行動も見てきている。

今日ほど人類の平和が、世界共通の場で叫ばれていることはないと思う。

平和は求めねば来ぬものであろう。然し、ただ求めたら来るものでもあるまい。

平和とは何か、それは、戦いのない状況をいうのか、それならば、戦いのないためには、

何を為すべきか、戦いの起きる原因をなくさねばならぬということになると、理論的には、

思想も宗教もないほうがよいという妙なものが、正しい理論ということになりかねない。

それを否定するならば、思想をもって立つ人も、宗教をもって立つ人も、自らのものを、

否、宗教や思想関係の人ばかりでなく、人類全てのものが、自らのものを、反省して、

本来存在する真の意義を自覚せねば、その勇気をもって、それを裏打ちすることがあって

はじめて平和は招来するのでなかろうか。

今日、我々人類は、人間として、平和に存在するためには、もう一度考えてみる必要が

あるのではなかろうかと思う。

私の周囲には、正義や理論が、人智の限りをつくして論ぜられている。

その中で、私のこの考えは、全く無知なものかもしれない。

ひとりぼっちで、どうしても判らぬこと、それは小学生の長男が「どうして、人を殺す

ことが平和になるの」という質問から考えさせられて、私も判らなくなったのである。

 

 

声なき声のたより 39号(196685日発行)

 

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