杉山龍丸足跡

 

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玄洋社記念館 訪問

玄洋社ビル

入口前にて

早速記念撮影()

 

頭山満翁の額の前にて

浅野館長様

 

玄洋社記念館訪問

2005年3月25日、福岡に行った際には是非訪問した居場所として挙げていた「玄洋社記念館」を「夢野久作をめぐる人々」を主催されている坂上さんと共に、訪問させていただきました。現館長の浅野様が東京にいた頃の龍丸さんを知っておられるとのことで、思ってもみなかった東京時代の龍丸さんの他、玄洋社の気骨が伝わるエピソードを色々と聞かせいただく事が出来ました。

 

<龍丸さんのこと>

プラスチック品の設計、制作

気象台で観測に従事していた時に龍丸さんにお会いしました。龍丸さんは当時いろんな事業をしようと努力していた頃でした。

観測業務のうち、当時、放射能の雨が降るとのことで雨に含まれる放射能の観測が重要な仕事になってきました。(ビキニ水爆実験による第五福竜丸の被害は昭和29年3月)。雨を集める為に漏斗を用いるのだが、その漏斗が金属製だと測定に具合が悪い。私は漏斗がプラスチックで作れないかと思い、自分で作ってみようと実験を始めていました。

 

ちょうどその頃に龍丸さんもプラスチックで造形、物を作ることを考えておられた。福岡の博多人形が輸出をしようにも、焼き物の為、輸送中に壊れてしまう。だったら、これをプラスチックで作ればいいだろうと考えておられたようでした。手始めに能面の夜叉を作り、福岡の市議会議長をしていた妹尾憲介さんに説明に行っていた。その面は妹尾先生の応接間に飾ってありました。なかなかりっぱな品でしたよ。

しかし、博多人形をプラスチックで作るという事は、博多人形を手で作る人達にしてみれば、そぐわなかったんじゃ無いかなと。型に入れて、それに目鼻を書く気は無かったんじゃ無いかなと思いますね、作る人達は。だから、それはどうも成功しなかったみたいですね。

 

というような下地があったところへ、どういう関係か知らないが、私に会いたいと言う事があったんでしょうね。それで話を聞いてみたらプラスチックで何か出来ないかという話。いや、ちょうど私は放射能の測定をやろうと思ってやってるんだ。けど、なかなか上手くいかんから、貴方がそれをね、やってみたらどうか。それで今気象台の関係者にご紹介する事くらいは私で出来ますよ。というわけで、私の上司に紹介して、彼はその話をしに行ったはずなんですよ。それでもまぁ、それが成功して製品になったという話は聞きませんが。

 

門柱上のケーキ箱

紹介した上司に、「杉山龍丸君に会って下さったそうで、ありがとうございます。彼はそのお礼に伺ったでしょうか。」と心配して尋ねた所、「いやぁ、来たらしいよ。」との答え。「らしいって、なんですか?」と聞いたら、「自宅の門柱の上にケーキの大きな箱が置いてあったよ。あれ、杉山って書いてあったから彼が持ってきたんだろうけど。お礼を言うのが恥ずかしくて、門柱の上において帰ったんだろうなぁ。」と。「じゃぁ、そのケーキどうしたんですか?」と聞くと、「もちろん、食べたさぁ。(笑)」とのこと。

 

変わった男だなぁとは思ったけど、あの人のお祖父さんなんて、いわゆる商売人じゃないですよね。国士ですからね。モルガンに会ってさ、借款の話を成功させて、それでほど彼(茂丸)は頑張ってやったんだけど。龍丸君はそこまでのあれが無くて、モノにはならんかったけども、話を聞いてもらって、ありがとうって言う気持ちを表しに行ったんでしょう。物を持って行って、会わないのは、なんか気後れがしたんでしょうけども。その話を聞いてから思わず噴出したことがありました。

 

そういう人だったんじゃないかな。あの人はね何と言うか、有名人の周りにわっと集まる、そういった人って沢山いるじゃない。また、その人を利用してやろうと思って行く人もいるけど、彼は割とそういう関係の人に近づくという事はあまりしなかったんじゃないかな。私はそこまで深く付き合って無いのでわかりませんが。

 

初期のペシャワール会

石風社という出版社が福岡にあって、そこの社長の福元さんがペシャワール会の中村哲さんを応援しています。中村哲さんは仕事も凄いけど筆も立つ。あの忙しいのによくあれだけのものが書けると思う。いや、りっぱな人でしょう。福岡には今、余り立派な人はいないけど、先ず自慢出来るのは中村哲さん。

福元さんが非常に中村さんをかっていて、あの人の書物を全部自分で出すという決意でやっている。ペシャワール会の会報もあそこで作ってもらっている。福元さん自身も何度かパキスタン、アフガニスタンに行っております。私もペシャワール会員の端くれですよ。

 

日本から行く若い青年が向うに行って3ヶ月も居ると、それは見違えるようになって帰ってくる。頼りなかった二十歳くらいの若者が、向うの男社会の中で、中村先生や同年代の若者がそれは一生懸命にやっているのを見て、変わるんだろうね。ペシャワール会は官からお金をもらってるわけじゃない。皆が年会費3000円を払って支えているわけですから。中村哲さんは、金を無駄に使ってはいけないよということを、日本人だけじゃなくて現地の人達も良くわからせ、それについてこれる人達を率いて、非常厳しい姿勢で臨んでいるしね。福元さんはそういった若い人達が帰ってくると、安い中国料理屋で慰労会を開いている。その慰労会には必ず出席される方です。このごろは人も多くなってね、月に2、3回もあるから大変ですよ。

 

そういった慰労会で福元さんと隣り合わせに座って色々話していたら、ペシャワール会の初めの頃の人達は、杉山龍丸さんがとても好きだった、って話しをするんですよ。その人達はね、そういう集まりが好きで、龍丸さんにも良く会いましたって話をするわけですよ。私はね、龍丸さんのそういう雰囲気は知らないんですよ。わりと彼は私の感じとしては、孤高といいますかね、そんな感じの人でね。人見知りをするんじゃないかなって気がしとったんだけど。福元さんは龍丸さんをかっていますし、福元さんに会われたほうが、その頃の龍丸さんのお話が聞けると思いますよ。

 

浅野館長と玄洋社の関係

私は気象関係の軍属として、サイパン、トラックに居たんですよ。終戦の年の、2月27、8日かな、ものすごい爆撃をトラック島で食うんですよ。軍属だから鉄砲一つ持ってるわけじゃない。で、下っ端ですからね、まだ若かった。21歳かな。当時は20歳になったら、徴兵検査があるわけでしょ。そうすると一人前の男として認められるわけ。だから早く20歳になりたいなぁと思っていた。でも、20歳から先の人生なんて全然見えてないわけでしょ。戦争で死ぬだけの話ですから。だけど、早く一人前になりたい。皇国少年ですからね。(笑)

そんな爆撃をうけて、現地での入学試験が受けられたので、(日本に)帰ってくるんですよ。そして気象技術官養成所(現在の気象大学校)に入るんです。だけど、どう考えてもこんなことでは戦争に負けるなと。軍人ってのは要領がいいんですよ、要領ばっかり。そしてねぇ、「お前たち軍属というものは、いいか一番偉いのは兵隊さん、その次は軍馬だって。そして犬、鳩、その次がお前たちだぞ。」と、こう言う訳、むちゃくちゃだ。そんなことをやっていて戦争に勝つのか?と思って、帰ってきて頭山満さんに会いたいと思った。

 

何故思ったかというと、あそこに私の爺さんの写真があります。

(記念館の写真資料の前に移動)

このね、真ん中の列の右から2番目というのが頭山満、隣のヒゲをはやした人が進藤喜平太翁なんですよ。頭山満さんの前に若いのがいるでしょ。これが私の祖父さん、安永乙吉っていいます。母方の祖父で、昔から(頭山満らの)話は聞いていたわけ。だから話を持っていくには、頭山満さんしか無いなと。(戦争の現状の)話をして、どういうもんなんだろうと聞いてみたいと思ったわけですよ。

 

で、何処に行ったかというと常盤松の頭山邸に行ったんですよ。そしたらそこの執事のような人が出てきて、「いまねぇ、頭山先生は御殿場に居るよ。なんか、風邪引いたみたいだけど。まぁ、2,3日もしたら元気になって帰ってくると思うから、御殿場に行くよりも待ってたらいいだろう。」と。言って下さったのは鈴木一郎さんといって、この人をまた、凄く私は尊敬している訳だけども。それで待ってたら新聞でさぁ、頭山満が亡くなったって。

それで、がっかりしてねぇ。そこで常盤松に行って鈴木さんに文句言うわけですよ。「あなたがあんなこと言うから、私、(頭山翁に)会えなかった。」って。

「そうだな。」と、鈴木さんはとても懐の広い人でね、「まぁいい。ここに居なさい。」と言ってくれたんでしょうね、私はそこにそのまま転がり込んで、まさに転がり込んでね(笑)。そしてそこで飯食ってさ、寝るとこも無いから、階段のところで横になってたら、家族の人がこられて、まぁ、ちゃんとあそこで寝なさいと、受け入れられたわけですよ。

 

 そこで、次男のね、頭山泉さんに会って、実はこれこれこういうわけでと、私の祖母、安永乙吉の連れ合いですよね、の添書をもって来たんだけど、頭山先生に会う事ができませんでしたと、その添書を泉さんにあげるか何かしたんですよ。

 そしたらね、泉さんという人は穏やかな人でね、「お前、何しようと思ってるんだ。」と聞くわけ。何しようと思ってるといわれてもねぇ、何も無いから先生のとこに来た訳だけど、何か上手いことを言わないといかんなぁと思って。私は大連という所で生れたの。で、満州は生れたところだし、南方はもう駄目だから、大陸で何か働けるところはありませんかと、わかりもしないのに言った訳ですよ。

 

泉さんという方は非常に慎重な人だから、「中国関係なら秀三だけど・・、うん、秀三に話しておくよ。」と言うだけで、あの人は何もしないんですよ。「こんな奴が行ったって、どうせ碌な事は無い。」と思っておられるわけですよ。あの人はそういう過激なことの嫌いな人だから、そう言っておけば、大体、若いものだから気持ちが落ち着くだろうと、考えたんでしょうね。ありがたいことだと思いますよ。あの時に秀三さんにくっ付いて大陸にでも行ったら、そりゃ殺されてるに決まってる。あたしは意気地が無いからねぇ。沢山人を見てるから泉先生はそういう事がわかってたんですね。

 

 すぐ終戦ですけど、その前に頭山翁の葬式があるわけじゃないですか。ずーっと私は頭山邸に入り浸ってて、そしてそこに来る人達の話を聞いて、様子を見たりしてるわけですよね。そこの頭山邸といいますとね、広い広間があって丸いテーブルがあって、そこに錚々たる連中が座ってね。葬式に来たからといって何もする事は無いから、皆、ただ喋ってる訳。

自分たちはこっちの隅の方で座っているわけだけど、その中で面白い話をする人が居るんですよ。それがねぇ、末永節(みさお)さん。この人がねぇ、私はやっぱり、この人物は死ぬまで立派だったなぁと思ってます。その人がね、談論風発、この人の話を皆聞いているわけですよ。私も正座して聞いていたら、私を指差してね。「君は何処から来た、どういう人かい。」と、声をかけてくれたんですよ。本当に22歳かそこらの青書生ですよね。でも、そこに居る錚々たる人達はやっぱり見ていたんでしょうねぇ。

「実は安永乙吉の孫です。」といったら、「いやぁ、安永はよう知っとる。あの頃玄洋社員、ヤスナガは二人おったもんな。一人は安永東之助(満州義軍に参加。戦後も大陸に残り、清国兵に狙撃されて命を落とした。) 、一人は安永乙吉だ。」と。

 

 それから末永さんの話を聞いたり、末永さんの所に出入りするようになって、そして泉さんが私を頭山秀三さんには紹介せんで、進藤一馬さんに紹介するわけ。

「これは玄洋社関係の青年だから、何分よろしく頼む。」というわけで。頭山泉さんと進藤一馬さんは非常に仲が良かった。両方とも非常に穏やかな人だからよかったんでしょうね。そういうことで、進藤一馬さんの事務所にも出入りするようになりました。

 

秘書になった経緯

進藤一馬さんは中野正剛先生の死後、公職に付く気も無く、細々と暮らしておられたようです。事務所は神田の錦町にありました。

私は中央気象台に勤務していて、台風の通り道に船を常駐させ定常的に観測を行う定点観測業務に従事していました。一月足らずの航海を繰り返すわけだが、帰って来ている間は休養する時間の為、暇がある。そこで昼間から進藤先生の事務所を訪れてた訳です。

 

だけど、進藤一馬さんは当時、政界に出ようなんてこれっぽっちも考えていなかった。

ですから、暇で暇でしょうがないの。私も入港中は暇だし、向うは毎日暇だし。で、頭山泉さんもこれも毎日暇。(笑)

それで、まぁ他にも友達が居るんだけど、何か美味いもんでも食おうやって言うんですけど、上手いものなんか有りはしないし、浅草行ってレバーかなんか食ってるわけですよ。泉さんって方はガブガブ酒飲む人じゃないし、進藤一馬って人は、酒は強い人だったけどね、泉さんと一緒に酒飲んでクダ巻くなんて事は全く無かった。

 

そんなことをしているうちに、進藤一馬という人が緒方竹虎の死を受けて、福岡から選挙にでることになった。「誰か福岡から出ないかんばい。」と皆そういう風に思い始めたんじゃないですかねぇ。その時に進藤一馬が良かろうという話があって、進藤さんが固辞するんだけど、結局説得されていく事になる。

行くというのは東京から福岡に帰って選挙活動をすることですよ。その時にそうなったとしても、誰も本気で行ける(勝てる)とは思ってないわけですよ。中野さん、緒方さんが居ないから誰か出ないといけないけれど、人材がいなくなったから、進藤一馬が良かろうと、こう言う訳ですよ。

だけどほんとに、選挙屋ってそうじゃないですか、やっぱり人の懐を見ちゃってさ、こいつにくっついたら金になるわと思うと、一生懸命行く訳じゃないですか。

 

当時はまだ、進藤一馬さんは、海のものとも山のものとも知れないわけです。当選すればね、自薦他薦、秘書になりたい人が山のように居るわけですよ。だけど、まだその前だから、誰もそういう人が居ないわけ。

ところが私は毎日暇そうにしてるものだから、「お前、秘書になれや。」って。「先生、駄目だ。私は横着いからね。とても秘書何かやれません。」と言うと、「まぁ、いいから。」と。だから、その辺がいい加減だよね。人間はやっぱ、見とかないといかんよね。

私も選挙するからには公務員で居るわけにはいかん。だから、退職したんですよ。まぁ、そういうわけで、進藤先生とのご縁が出来た。

 

進藤喜平太翁追悼録のこと

それで、今度は、先生が出られる頃に、進藤喜平太翁のことを謄写版で作ったと。

坂上さん>昭和30年ですね。

あぁ、そうですかね。

(坂上さん、HPを印刷した資料を取り出して確認。)

坂上さん>喜平太翁の所の、参考文献の筆頭に挙げさせてもらってますけれども。

あぁ、本当に。いやぁ、石瀧さんが会う度に、笑うんですよ。(笑)もう一人笑う人が居てね、横地さんっていうて、私が中国語を教わった人なんです。「浅野さん、まだあるよ。」という訳でね。「先生、もう、そんな有る訳無いじゃ無いですか。(笑)」

 

坂上さん>あれ、あの扉開きますと、進藤喜平太翁の写真あれ、写真そのものを一枚ずつ貼ってらっしゃるんですね。

あぁ、そうだったですねぇ。あれを作るのにねぇ、何か紐で閉じてあるでしょ。あの紐はさ、昔は駄菓子屋にね、麻の紐がおいてあったんですよ。何か改まって品を縛る時に、麻を使ってた。今で言う、水引みたいなものじゃないかと思うんだよねぇ。それなら、失礼にも当たらんしね。だから、その紐を買ってきてね、始めの内はやったと思いますよ。表紙はなんかラシャ紙か何かを買ってきて、それで作ったんですね。

もう、大変なんですよ、あれ。それで、カミさんを相手にしてさ、「しっかりやれよ」とか何とか言いながら、「ほら、次の紙取ってくれ。」ってやってた(印刷してた)んですよ。そんなにするんですかね、あれ?

坂上さん>まぁ、需要と供給の関係でございますから。

でねぇ、あの中で、おそらく、資料的価値のあるのはね、進藤喜平太翁については、前に書いてあるのがいくらでもあるわけでしょ。だから、それを載せて、一つ二つ、例えば柴田麟次郎さんの話を聞いたり、末永先生の話を聞いたりした物が入ってるって言うだけの事ですよ。それが、そんなにするなんて。言うといてくださいよ、古本屋に。いや、いくらかって事はみんな言わんから。

坂上さん>めったに、書店にも出回りませんから。

はじめ、百部くらいしか作ってません。手で作ってるんですから、そんなに出来るわけ無い。その内に、もう一回作らんか、という話が進藤先生からあった。渡した人が喜んでは見てくれたんでしょうね。中には、「何かぁ。」って紙くずに出したのが、古本屋に行ったんでしょうね。それで、もういっぺん作ったかも知らんけれども。大体、限度ですよね、人間のね。

 

秘書時代

坂上さん>では、浅野先生は進藤一馬先生の秘書をずっとやられてたんですか。

ずっとは、やらないんですよ、私は。衆議院に出られて、一期目は出て、それで次の選挙には落っこちる。落っこって、次の選挙に出ようという時に、私は「辞めさして下さい。」と。その時には、(進藤先生の)周りには、沢山人達が集まってたんですよ。福岡、生え抜きの人が沢山。選挙のためにはそういう人のほうが良いんですよ。大体、私は横着いから。

選挙区から人が上京してくる、そうすると代議士が迎えにいかないかん訳ですよ。行けない時は、「浅野君、お前、行ってくれ。」って言われる。ところが、私は土地の人の顔なんか覚えないわけですよ。迎えに行っても、迎えにならんわけ。何処に居るかわからんから「行ったけど、何処に居るかわかりませんでした。」とか言うて帰ってきて。そしたら土地の人は腹かく(怒る)訳じゃないですか。「なんだ、せっかく行ったのに、迎えにもこんで!」と。

「うーん、こりゃいかんな。こりゃ、やっぱり秘書は土地の人が良いばい。」ということに成るでしょ。こりゃ、当然のことでね。まぁ、そういう事があるから、二度目出る時には「先生、もう、大概勘弁してください。」と、いう事ですね。

だけど、私は玄洋社が好きだし、末永先生も好きだし、鈴木一郎さんも好きだしね。

 

真藤慎太郎と吉田庾(こくら)さん

坂上さん>私、一つお教えを請いたい事があるんですけれども。先ほどそこにも写真がありました、真藤慎太郎さん、日魯漁業の。夕刊フクニチが昔出しました、「ふるさと人物記」という本を読んでおりますと、戦後、緒方竹虎さんの政界進出に関して、真藤慎太郎さんが、色々お手伝いなさったということを書いて有ったんですけど。

 

真藤さんとは、年代もずっと違いますし、私はそういう重要な話に立ち入る立場にあった事は、一度もありませんですから、緒方竹虎にお金を出したという話は、私は聞いていませんし、あの人の一般的な評判はね、「ケチなおじさんだよ。」でした。だけどね、私はそうは決して思ってません。

なぜかと言うと、私には特に親しい石橋太郎さんという友人があって、この人は大工さんですよ。一人大工、一人親方っていうのですね。この人はね、私は今、玄洋社関係という人の中で、一番立派だと思ってる。私はねぇ、言わんでも良い事だけど、やっぱり腹の中で人を評価している所、有るじゃないですか。今でもねぇ、決して裕福な暮らしをしているわけじゃないですけれども。

 

進藤一馬さんの前に玄洋社の社長をしておった、吉田庾さんて人が、その人はね「大吉田」っていって、福岡でもかなり家格の上の方の人で、そして吉田さんは、満州義軍に行く訳ですよね。そして、玄洋社の社長になったり、明道館(玄洋社が管理している柔道場。)の館長をなさったりしてた方です。もう、立派な方です。

で、奥さんがお茶とお花の先生をして、吉田庾さん達の生活を支えている。だから、家産は全て使ってしまったんですね。商売は一切しなかった人ですよ。だから、金が溜まりようが無いからですねぇ。その生活は奥さんがお花とお茶の先生をしてたてておられた。暮らしておられたのは、前あった明道館の一室におられた。

そこで、私はお目にかかって、お話を聞いて、進藤喜平太翁追悼録かなんかに載せるかしているんでしょうね。「お話を聞かせてください、原稿をいただけませんでしょうか。」って言ったら、「はい、書きましょう。」って言ってくれて、書いて下すった原稿が、広告の裏紙ですよ。それだけ慎ましい生活をしておられた。

 

そして、いよいよ明道館が新しい建物に移りますよね。その時に、吉田さんは居る所が無くなったわけ。色々あって、世話するような人達が、「金はこれくらいしか無いけど、石橋君やってくれよ。」と、言うわけですね。

で、石橋さんが自分も子供を6人も育てるのに忙しい大工さんでやってるのにですね、それほど吉田庾さんを知ってるわけじゃないけれども、彼は小学校の時の頃から、明道館で育った人なんですよ。

だから、玄洋社の人、吉田庾さんって人は立派な人だ、と思って尊敬しているんですね。だから、銭金じゃなくて自分でやろうという気になって、決心して、自転車にあちこちから余った瓦をもらってきたり、瓦の下には粘土を敷かないと駄目ですから、その赤土を自分で、自転車で運んだりしてですね、そうしていくらか人が住むらしいようなものを作ってくれたんですよ。今ねぇ、玄洋社でいい思いをした人だとか、いい思いをしないまでもそれを誇りに思っている人もいるかも知らんけど、そこまでやった人はいないと思うんですよ。

 

その時に真藤慎太郎さんというのは、みんなからケチな人だと、こう言われていた訳ですね。ところがね、その石橋太郎さんが、ある日、吉田庾さんに言われて、箪笥の引き出しが開かなくなったから、見てくださいって言われてね。そして大工さんのことだから、こう、引き出して抜き差しが出来るようにしたんだけど、その引き出しの中にですね、現金封筒が一杯入っていたというんですよ。

それを出した人間が真藤慎太郎さんだからね。うん。だから、ある程度、それは最低限だったかも知らんけど、ある程度のお金は真藤慎太郎がずーっと、吉田さんに送っていたわけですよ。吉田庾さんはそれを徳として、その封筒を全部取ってあった。それを石橋太郎が見てるから、「真藤慎太郎をケチだなんていうなって。俺はちゃんと見とるぞ。」と言うわけですよ。

なぜケチかと言うとね、よってたかって飲み食いしようと思って真藤慎太郎さんの所に行くと、真藤慎太郎は「金なんか出さないよ。」というから、ケチだといわれると、私は思うんですよね。それ位のことをしている人は、外に聞いたこと無いもん。

(注:真藤慎太郎さんは吉田さんと一緒に満州義軍に参加した同志。)

 

また、真藤慎太郎さんには、首相官邸から自宅に通じる抜け穴を廣田(弘毅)さんの為に掘った(掘らせた)という話があります。総理府(?)の役人をしている人に聞きましたが、「確かに有ります。それを管理する係もあります。」由でした。先ほどの話のように、玄洋社系の人にはずいぶん力をかした人のようです。

 

で、私はその前に真藤慎太郎さんに丸ビルであった事があります。私の爺さん達の友達だからね。そりゃ、立派な、態度は立派だよね、あの人。もう、偉くなってるからね。「おぉ、そうか、安永乙吉の孫か。何でも、言うてきなさい。」みたいなことを。

私はね、気象台で飯食ってるからね、何か商売しようとも思って無いし、この人を捕まえて、何もお願いするつもりは無いからね。「あぁ、そうですか。」と言っただけでね。「いやぁ、(乙吉のことは)よく知っているよ。何でも言ってきなさい。」と、それは親切に言って下さった。その後、私は寄り付いて無いから、良く知りませんけど。

 

祖父 安永乙吉のこと

私の祖父さんという人が結局政治に関わらなくって、日露戦争の後に、大連のもう少し北のほうに、金州って所があって、そこで農園をやってたんですよ。

その農園を一つの中心にして、大陸に来た青年たちが大陸の生活に慣れるようにその農園に収容して、中国人と同じ食事も食べるし、中国人とも付き合うようなことをして、生活に適応する様になってから、奥地にいって夫々自分の働きをしたらいいじゃないかということで。そうですね、私の祖父さんも玄洋社だから、玄洋社関係の人が満州に来て一旗あげたいとなると、紹介されてくるわけじゃないですか。

でも、あんまり来る人が多いんで、実は泉さんに農園に(監督に)来てくださいという話を前にしあったわけですよ。戦後、泉さんが私に言うのには、「あの時行かなくて良かったな。行けばえらい目に会っていたよ。(苦笑)」と。そんなこともあって私としては玄洋社というものは比較的近いものに感じていた訳です。

 

そうですね。言ってしまえば、私が子供の頃から祖父さん、祖母さんから玄洋社という話を聞いていたし、その玄洋社が私にとって違和感がなかったわけですよ。要するに、(祖父は)真面目な農業者ですよね。で、満州に来る人達というのは、やっぱり日本食が懐かしいじゃないですか。で、米の飯食わなけりゃ元気が出ないとか、沢庵食わなければ飯食ったような気がしないとかいう人達ばっかりでしょ。だから、沢庵作ってたんですよ。沢庵屋でした。あの、玄洋(玄洋社の会報)85号の中にも書いてあります。安永乙吉が頭山翁に碑を書いてもらってね、死んでから。

 

そういうわけで沢庵屋です。農業者ですよね。だからね、それなりに立派だと思ってる訳ですよ。日本から大根の種を仕入れて、土地の中国人にそれを栽培させて、それを皆買い上げてあげるわけですよ。そしてこれがね、沢庵なんか作ったことも無い人が、作り方を研究してね。ちゃんと日に干すわけですよ、それは沢山ね。そしてそれを正式に漬けてね、もう一回漬け変えるか何かして、やってるわけです。

たまたま、内田良平が来て、見て言うんですよ。「安永、おまえ、こんなことやったらとても、手間ばっかりかかって大量に作る事は出来ないだろ。だから、それが早い事できるようにね、一辺、大根を熱湯につけて、それから日に干せばすぐシナシナになるから。」と言ってね、内田良平が教えるわけですよ。

ところが祖父さんは「やだやだ。俺はそんな、いい加減な事はしたく無い。」と。(笑)で、手間隙のかかる作り方をそのまま続けておったというような祖父さんでした。その金州で死にました。

 

館長就任のこと

坂上さん>あの、立ち入ったお話でございますけど、この記念館の館長にお成りになったのはどういった経緯からで。

いやいや、私はもう82ですからね。だからねぇ、とてもねぇ。今までは好き勝手なことしてるから、自分の人生は良い人生だったなぁと。好きな時にパソコンでインターネットをやってみるとね、いろんな事がわかるし、これで終わるなぁと思って。

で、ここ(玄洋社記念館)で監事をしていたから、年に1回はここに来るんですよ。進藤龍生さんという方がいて、この人はとても温厚な人ですからね。ちゃんとやっていて、「はぁ、こんなに資料沢山集まりすぎだけど、まぁ、よくやってるなぁ。」と思って。「この人達がおれば、もう安心やな。」と思って、私はこれで、もうこんな幸せな人生は無かったと思っていたわけですよ。

そしたらこの前、(進藤龍生さんが亡くなられた為)理事会やってね。誰もここをやろうって人が居ない訳ですよ。で、話が始まるわけですよ。「誰か、年金でももらって、暇のある人にやってもらいたいなぁ。」と言う訳ですよ。年金もらって暇があるといえば、私より外に無い。そういうつもりで話し合ってて、「そうだそうだ。」って話があって。「そうか、誰もやる気が無いなら、俺がやるしか無いな。」と思っただけの事でね。だから、私が手を上げて、さしてもらった訳じゃないの。しっかり書いておいてくださいね。(笑)

 

本来は、あれですよ、若いイキイキした人が、ここを将来どうしなきゃいかんかというつもりで、やらにゃいかんのですがね。立派な資料があってね。また、若い人達はどんどん来るんですよ。本を読んできましたとか、卒論をかくのに遠くから来ましたと。若い人達は興味を持ってくるし、だからそういう人達にまた何度も来たいなと思われるような話をしてね、それぞれがそれぞれなりの研究をしてもらいたいと思っている訳です。

 

感想

孫文の秘書兼通訳として来た戴天仇と、夢野久作が近世快人伝で描いた奈良原到が好きなんですよ。戴天仇は犬養毅の書生をやって、日本人の生活や政界の表も裏も知り尽くした上で、あえて日本を弾劾した“本物の愛国者”ですし、奈良原は死に臨んだ先輩の最後の咆哮を生涯“はらわたの腐れ止め”として抱いて生きた訳ですからね。

進藤一馬という人は、晩年の(奈良原の)ことを知ってるわけですよ。食事の時に人前で入れ歯を外して茶碗で洗うこともあったと、あまりよく言わなかったですが、人間ってずっと立派なままって事は無いじゃないですか。昔どんなことをしてくれたか、そして我々の心の中にどんな事を残してくれたかが、大切な事だと思います。と、最後に語ってくださいました。

 

古い友人の孫に対する、玄洋社創成期のメンバーが見せる素直な心遣いや、お祖父さんの安永乙吉さんや吉田庾さんのエピソードに伺える、社会的成功や金儲けを求めるのではなく、自らを辱める事の無い人生を実直に生きた姿が、大変勉強になりました。ありがとうございました。

 

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