第八章 飛行第三十一戦隊終焉えの戦い               <幻の戦斗「機隊>

1、消耗戦えの戦い

昭和十九年十二月十五日以来、ミンドロ島に上陸した米軍は、日本軍の抵抗を殆ど

受けず、着々、飛行基地を完成して行った。

上陸した部隊は、一ケ大隊くらいのものであった。

恐らく、海兵隊であらう。

大体三日で、基地の拡張建設を終了している。

呂宋島の第四航空軍、第四飛行師団等が、全力で、この基地を潰しにかかったが

駄目であった。

レイテ島は、オルモック市を完全に米軍に奪はれて、泉兵団、玉兵団、抜、垣兵団

等の部隊は、追撃する米軍に抵抗しつつ、レイテ島、西地域の山嶽地区に移りつつ

あった。

飛行第二師団司令部は、呂宋島からの補給路を、ミンドロ島にて、完全に遮断され

ることになるので、ミンダナオ島、ボルネオ島えの補給に変更しつつあった。

しかし、これらの措置も、本質的に云って、日本本土の大本営が、レイテ島の決戦

に失敗したことで、全く戦意を失ったような形になり、それは、直ちに、我々にも、感じ

られた。

この事は、第四航空軍に対しての、比島方面軍の間における問題として、航空部

隊に対する信頼度が、全く無い状況になってしまった。

勿論我々第一線の航空部隊においても、第四航空軍司令部に対して、絶対的信

頼は無かった。

下士官の操縦者、整備員にしても、毎日、毎夜悪戦苦斗していて、最善をつくして

いるけれども、司令部の命令は、我々中間に居るものが、如何に努力しても、完全な

作戦の失敗、判断の誤りは、覆う術も無かった。

決死の特攻隊の運用、これらの人々の処遇、処置について、司令部に居る下士官

の人々から自然に、各部隊の下士官兵に伝って来る。

第四航空軍司令官富永恭次中将が、特攻隊が出撃する度びに、憲兵と参謀を連

れて、日本酒の一升瓶をもって、ひょこひょことやって来ては、決別出発の杯をあげ

て送る。

全く、それしか能のない軍司令官となってしまっていた。

このミンドロ島えの米軍の上陸は、我々の度肝を抜かれた思いで、あったのと同

時に、又、日本の兵力、装備その他の差を目前にした形になって、司令部のみか、

全軍の志気を、全く表はせた形になって来た。

この頃から、下士官、兵達に、秘かに、コックリさんや、妙な占いが、風評が流れ

始めた。

精神的な迷いは、身心の消耗を増加させる。

これを、如何にして、志気を維持し、体力気力を維持するのか問題がある。

航空戦力の低下は、補給が無くなることで、急速になるであらう。

何時かは、米軍との地上戦になってゆくであらう。

そうなると、航空部隊は、自分での給与、食事、地上戦斗の準備は、何も持って

いない。

私は、毎日の出動機数の激減に対処すると共に、昼夜を分かたぬ、米軍の航空

機に対する戦斗、第一線部隊に対する食糧の給与の悪化は、覆うべくもなかった。

我々は、第一線部隊として、米軍の攻撃に、機敏に対処し、行動することに慣れ

ているので、自身の意識としては、恐怖は、自覚的に持っていない。

しかし、私自身の肉体と内部の神経は、徹底的に痛めつけられていて、それが、

自然の生理や、健康維持状況に次第に影響して来ていた。

私自身が50sの爆弾を担ぐことが、不可能になって来ていた。

兵達が、この50s爆弾の処理に、二人三人がかりでやっているので、私が怒って、

自分で担いで見たが、肩まであげることは出来たが、一歩も歩けなくなっているし、

肩にあげたままの持続力が無くなって、膝がふるえて、維持することが出来なくなっ

ているので、兵達に、二人、三人で処理するようにした。

この状況を自覚して、私の戦隊の全員を、医務室にて、体重測定を行ったら、殆ど

が、四十sの平均体重になっていた。

満州での測量は、大体、六十二、三sであって、私自身が、六十五−六十八s

あったものが、四十sになってしまっていたのである。

私のような指揮官が、そのようであったので、兵達は、如何に苛烈な戦斗状況で

あったかが、判る。

指揮官には、情況判断が出来るので、戦局の見透しが出来て、心に余裕があるが、

第一線の兵士は、毎日毎夜、否瞬時も情況判断もなくて、只命令を実行している間

における米軍の攻撃の危険の中に、瞬間的判断で、危機を回避して行動しなければ

ならぬ。

空中勤務者は、飛行中は瞬時の油断は出来ぬであらうが、地上では、飛行場か

ら退避して休養している。

整備員は、飛行機が飛行場にある間は、敵の攻撃に曝らされて、愛機を守り抜き、

整備を行い、逃げることを許さぬ。

この耐久力と、瞬間々々の危険の判断は、極めて、体力を消耗すると共に、体力

を維持している、神経の中枢に、大変なストレスを蓄積して行っている。

特に恐怖中枢において、大であることを、私は、終戦後、日本の自宅に帰って、

朝鮮戦争に出撃する米軍の飛行機爆音に、自然に反応する自分の体を発見して、

戦慄し、自分が気狂いになっているのではないが、恐怖中枢神経における異常状

況を自覚した。

 米軍のミンドロ島上陸により、ネグロス島は、米軍の上陸を免れた事になって、一

斉に米軍に対する攻撃を強化して行った。

この記録を記述して居て、飛行第三十一戦隊戦死者名簿を点検し、私の比島戦

の記録帳を調べて、我ながら、不思議な事に気がついた。

それは、昭和十九年九月十二日の米58機動部隊との惨烈な戦斗以来、幾多の

出動に生き残って来た、飛行第三十一戦隊の戦隊長を除く、只一の生き残りであり、

また、青年将校の群の中に、唯一の生存者であった、寺田慶一中尉の戦死について、

全く記録が無いことである。

飛行第三十一戦隊の戦死者名簿には、昭和十九年九月十二日、スリガオ海峡で

戦死したことになっている。

この日、私の記録は、第十三戦隊の中野和彦少佐の出動記録は、明確に記録も

ある。

スリガオ海峡には、オルモック湾に上陸する米軍の補給戦が、続々と進入しつつ

あったし、この海峡は、ミンドロ島えの補給海域で多くの船団が往来し、米海軍の機

動部隊が、この海峡を確保することで、游動していた。

この機動部隊、船団を求めて攻撃であったであらう。

寺田中尉の戦死は、飛行隊の大黒柱を失ったことになった。

このとき、私は、隼隼成戦斗機隊整備隊長として、その日の午後かに、飛行第二

師団司令部に出張していたのかも知れない。

或は、飛行第二師団司令部の地上作戦準備命令と指示があったので、第十三飛

行団長と打合せに行って居たのかも知れない。

前項の地上作戦指示の記録は、長々とあるが、寺田中尉のみならず、岩原?光

軍曹、中谷晃軍曹、原晴海軍曹、安部威伍長の四名が、十二月十三日、カガヤン沖

にて、戦死している記録も、何も無い。

 飛行第三十一戦隊の飛行隊の中心の寺田中尉以下、中堅の操縦者、岩原軍曹以

下を失ったことで、将校は0員となり、下士官は、剣持曹長以下数名になってしまって、

既に、 飛行第三十一戦隊、即ち戦隊としての戦力のみか、中隊としての体制もなく

なってしまって、戦隊長、西進少佐が、ポツンと居るだけの姿になってしまっていた。

隼隼成戦斗機隊として、飛行第三十一戦隊、飛行第五十四戦隊が主力してあるだ

けで、飛行第十三戦隊は、中野和彦少佐の戦死で、既に解体したに等しい状況になり、

他の戦隊も同様である。

これらの戦隊は、解散または、移動によって、フアブリカ基地から移って行ってしまっ

た。

これらの戦隊の残置した飛行機を、飛行第三十一戦隊、飛行第五十四戦隊に、夫々

分配することになって、辛うじて、補給が無くなった、隼隼成戦斗機隊の姿を維持してい

るにすぎない状況であった。

眞面目の航空作戦を行える状況ではなく、又米軍の飛行場、対地攻撃に対して、正

面からの邀撃戦斗が出来る状況では無い。

各飛行機を、徹底的に分散、遮蔽して、損害を少なくし、白昼の進攻は出来ぬので、

早朝または、白薄において、米軍基地の奇襲により、米機の地上機に、損害を与える

より方法は無い。

この様な作戦準備のため、飛行機の分散、遮蔽を行っているところに、特攻隊が、

フアブリカ基地に、十機やって来た。

どういうことなのか、現地の私達には、良く判らなかった。

その到着時機が、正午近くにやって来たことを考えると、昨夜、呂宋島の基地に到

着して、フアブリカより出撃することを命ぜられ、朝出発して来たものと思はれる。

十二月十八日の出来事で、バゴロドより、第四航空軍司令官が、憲兵と、参謀を連

れてやって来た。

そして、特攻隊の人々と、昼食を摂り、作戦命令を受ける事になっているらしかった。

私は、特攻隊の隊長に、飛行機を分散することを、指示したが、彼等は、直ぐ出撃

するので、必要は無いという。

そのため、僅かに誘導して、十機の内、夫々、二つに分けて、飛行機を、飛行場大

隊の整備隊で、誘導したが、搭乗者が、夫々五機づつ、一列に並べて、停止してしま

った。

各機には、百s爆弾を、夫々、両翼に一発づつ懸吊していて、尖端の安全栓は、

全くつけてなく、風車安全栓もつけてなかった。

飛行場大隊の整備将校に、安全栓を持って来させ、出撃には脱するように指示し

て、危険防止の処置をさせた。

フアブリカ基地の指揮所の近くの広場の両方に、これらの飛行機は、全く暴露した

ままである。

しかし、これらの機は、特攻隊々長の指揮下にあるので、我々整備隊のものでは、

何とも、手の下しようが無い。

困った事だと思いつつ、指揮所に、引返した。

「日本内地から、何等、実戦の訓練を受けず、比島の呂宋島に飛び、フアブリカえやっ

て来たのであらう。

そのため、現地の訓練や、実感が全くないのも、致し方が無い。」

と、思いつつ、指揮所の近くまで来たら、突然、シライ山の方から、P38が七機急降下

しつつ、フアブリカ基地に近づいて来る。

 発動機の音を気付かれないように、停止して、やって来る。

しまったっ!

と、私は瞬間、思った。

彼等の狙いは、この特攻機である。

ヒモガン河の向う岸の上空から、一斉に、発動機を始動すると共に、銃撃を始めた。

P38戦斗機より射ち注ぐ銃弾は、フアブリカ基地台地に、土煙をあげて、特攻機群

を完全に捕捉して、並んだ各機の機体に突き通してゆくのが見えた。

特攻隊の一番機と思はれる一番右側の飛行機は、翼及び胴体の燃料タンクを射

ち抜かれたようで、翼と胴体の下面から、小さなホ−スで水を注ぐように、燃料が地

面に噴き出している。

防弾タンクであるので、燃料は、小さな条のような噴水になって、地面に降り注い

でいるが、残念なことに、その注ぐ燃料の先に火がついて、燃えている。

椰子の葉で、叩いても、この火は消えぬ。タンクに、空があいているので、燃料コッ

クを切換えても、この燃料の噴出は、止めることは、出来ぬ。

残念ながら、日本の航空隊には、消火器を部隊の備品として、準備してないので

ある。 

P38七機は、フアブリカ飛行場を、一斉に銃撃して、長居は、無用と考えたのか、

そのまま、東北方の空え飛び去った。

フアブリカ基地の滑走路の北西隅にあった、海軍の20o機関砲陣地が、一斉に、

P38戦斗機に射撃したので、P38の力も、一機、煙を噴きながら、東北の空え消えて

行った。

P38戦斗機が去ったので、指揮所には、第四航空軍司令官富永恭治中尉、参謀

や、隼隼成戦斗機隊の幹部が、退避濠から、やれやれといった形で集まって来た。

私は、指揮所の近くの地面に伏して、P38の対地攻撃の状況、そして、東北の空に

さったのを見て、火を噴く特攻機に馳せよって見ると、爆弾は異常はないが、このまま

で、置いて置くと、爆弾に火がついて、全機駄目になってしまう。

信管を外して、爆弾を下し、飛行機の機体外に出さねばならぬ。

私が、飛行機の傍らに馳せつけて、指揮所の方を見ると、軍司令官以下が、指揮

所の上に立って、呆然と、私の方を見ている。

その様子見て、私は大声で、

「全員退避しろ!

 この飛行機は、もう火が廻って助からぬ。

 爆弾処理するから、全員退避しろ−っ!」

と、大声で叫びながら、両手を挙げて、退避のしぐさをしたので、軍司令官以下が、

また退避濠の方に、かくれた。

私は、急いで、飛行機の信管を外した。

五機の爆弾は、信管の基部を、信管の頭に手を触れないようにして、廻すと、全機、

幸いにとれた。

その信管を、夫々十米程離れた大地に置いて、私は、ドライバ−「螺廻し」を持って、

爆弾十個を落下させ、また、一番機の火の噴いているのに戻って、爆弾を引きずり出

し始めた。

そのとき、一人の兵が走り寄って来て、他の飛行機の爆弾を、ひきずり出した。

五機十個の爆弾をようやく引曵り出したとき、一番機の燃料タンクに火が入ったよ

うで、突然、爆発した。

私は、兵を連れて、近く凹地の薮蔭に、伏して、様子を見ると、焔は座席に入り、発

動機の方え火が廻ったらしく、機関砲の砲弾が、火焔の中から、はじけ始めた。

約十分か十五分、機関砲弾が、花火のように、四方に飛びあがり、はじけたと思う

と、隼戦斗機は、右翼と、右脚の連結部が、タンクからの火焔で、焼け落ちて、ガックリ、

右側に傾き、黒煙をあげて燃え始めたが、やがて、左側の脚部、翼部も、翼内タンクか

ら燃え落ちてそまった。

燃え尽きた、飛行機の残骸は、ジュラルミンが、テルミットのように、物凄い白熱の

光と、焔を白色の灰が残るだけである。

発動機も、プロペラも、見る影も無く、空しく、曲がってしまう。

その様子を見て、他の機に被害が移っていないかどうかを確めて、安全なのを確

認して、指揮所の方に、

「もう、大丈夫です! 」

と、伝えると、皆はやれやれといふ顔をして出て来た。

特攻隊機は、各機に、若干の被弾はあったが、それは、独立整備隊で修理可能で

あった。

私には、その後、その特攻隊が、どうしたか?明確な記憶は無い。

飛行第三十一戦隊か、第五十四戦隊の隼機を補充して、その日、特攻として出撃

して行ったか、どうかも記憶にないし、私の記録も無い。

変なもので、第四航空軍司令官の前で、このような行動をしたことで、私は、第二

航空師団長から、賞詞を貰うことになった。

これは、私一人えの賞詞であったということを、西進戦隊長から聞いたが、それは

間違いで、飛行第三十一戦隊の整備隊員、全部のものであると、私は考えている。

昭和十六年一月、私は北満の嫩江基地の飛行第三十一戦隊に着任し、初めて

整備将校としての第一歩を踏み出した。

立川陸軍航空技術学校を、僅か十ケ月、歩兵科見習士官で学び、この飛行第三

十一戦隊に配属された。

それ以来、丸四年間、飛行第三十一戦隊の整備将校として、少尉、中尉、大尉ま

で、他え動かず、勤務して来た。

その成果が、この賞詞であると思っている。

零下、五十六度の厳寒から、四十度に近い熱帯、ベトナム、カンボジヤ、タイ、ビ

ルマ、満州ピィリッピンと、戦いつづけて来た、飛行第三十一戦隊である。

全てを、整備隊員と、生死を共にし、苦楽の中に生きて来たものとして、愈々、戦

局は、日本の敗戦と決まったことに、私自身は、本来職業軍人として、志願して来た

のであるから、自分の生死は、最初より問題外である。

私自身の問題は、既に転勤が決定している筈であるので、何等かのことが起るで

あらうが?

しかし、飛行三十一戦隊に残ることを決定している以上、何処までも、飛行第三十

一戦隊と、生死を共にしたいと念願していた。

既に、飛行第三十一戦隊のみならず、日本、日本軍の命運は尽きている。

しかし、日本政府、日本軍統帥部、大本営の人々には、これらの命運を見る眼、

感覚も、世界観も無い。

それが、何処まで、持ちこたえられるか?

原子爆弾が既に米軍に出来ていることにおいて、日本政府として、決断すべき

であるが、人間の欲望の綱を切断することは、難しいであらう。

それまでは、この消耗戦に戦い抜かねばならぬ。

米軍は、一機でも飛行機が飛び、自らが、損害を受ける場合上陸はして来ない。

それまでは、時間があるであらうと思っていた。

その間に、航空部隊は、地上戦斗、生活の用具も、訓練も行はねばならぬ。

自ら生活する能力を身につけさせねばならぬ。

このため、先づ、兵士達の体力、体質の改造を行はねばならぬ。

体重の測定と共に、体質についての検査を行った。

飛行機の機数が減ったので、整備員全員で整備することは、無い。

残っている飛行機の機長と必要整備員のみ勤務につかせ、他は、現地自活の

訓練を行うことになった。

既に、夜盲症、脚気、栄養失調症、熱帯潰瘍その他のものにかかっているもの

は、休養 室を設置して、特別治療に当たらせることにした。

@薬草、食用草の区別、食べられるものと、食べられぬものの区別

A薬剤の生産、施療班

特に現地住民に、マラリヤやその他の流行病が起って居た。

戦争によって、特に米軍の上陸が近づいて、地上戦斗が行はれる可能性が

増大して、医者が何処かに引揚げたからである。

このために、飛行第三十一戦隊付き軍医の瀧沢少尉と、衛生兵を中心として、

現地住民えの施療班を編成して、周辺の現地住民の医療に当たることにした。

B整備タイの隊員は、銃も、拳銃も持たぬもの、また、潜水艦にやられたので、

背嚢も持たぬ兵も居た。

これらの兵士達に、背負子を木材でつくらせた。

それは、重量物を地上で運搬する場合、地上の橇にも利用出来るようにした。

C武器については、次のものを作るようにした。

(1)山刀、バラングと称するものである。

ジャングル地域を踏破するには、各人で帯びている銃剣は、勿論利用出来

るが、これ は本来刺殺するものであって、斬る切断用には、力のバランスが

工合いが悪い。

鍛冶の経験のあるもので、山刀をつくらせた。

(2)爆弾の中の火薬を抜いて、小形の手榴弾をつくらせた。

これは、火縄で著火するものである。

D生活用具

山地に入り、ジャングル地域に入ると、雨と、降り注ぐ露滴によって、マッチや

その他は、全部駄目になる。

椰子の実の殻を砕いて、その繊維によって火縄をつくらせ、機関砲の薬莢を利

用して、 火が保存出来るようにした。

E非常用食糧品

(1)携帯食塩、これは、塩を焼き固めて、固形にして、それを舐めるようにして、

ポケットや、腰袋に入れられるようにした。

(2)乾燥野菜、焼き米、乾パン、非常用のものを出来るだけ作らせた。

F携帯綱、連絡ロ−プ等、交通用具、山岳、ジャングル内の行動で、崖や、斜

面、樹木を利用する事が多いので、各人細縄のロ−プを持たせて、必要に応じ

使用させるよう、腰に、巻くし、また、帯の代りにもなるようにした。

これらを組み合わせると、網にもなる。

このような準備をする事で、地上戦斗えの覚悟と、生存えの能力をつけさせる

事にした。

しかし、これは、悲しい努力であった。

 

2、コンソリデッドB24の攻撃

昭和十九年十二月十五日、ミンドロ島に、米軍が上陸し、十八日、フアブリカ

基地の、隼隼成戦斗機隊として、最後の特攻機の出撃を掩護した後、徹底して、

分散する事になり、十九日は、全日程を使用して、各機の分散位置を定め、偽

装と、暗夜になっても、滑走路に出ることの出来るように、誘導路の整備と、偽

装を行うことに、終止した。

この作業は、自動車も勿論使用したが、殆ど人力で、飛行機の運搬、偽装を

おこなったので二十日は、久し振りに、休養日として、全ての作業を休ませた。

しかし、私は、兵士達の休養状況、体調等を確かめる仕事を軍医と共に行い、

兵達の希望や、各種の問題、意見を聞いてやるため午前中十時まで、兵士の

宿泊で過ごした後、私一人、飛行機の分散状況と、偽装の状況を確かめるため、

飛行場の周辺の飛行機撃留地を巡って歩いた。

フアブリカ飛行場の北部から東北部を通って、旧飛行第三十一戦隊と、飛行

場大隊の指揮所を通って、分散した、飛行第五十四戦隊の各機の附近を、見て

歩いて、滑走路を横切って、飛行第三十一戦隊の指揮所のある、南西部の方を

見廻るために、滑走路の方え足を向けたとき、突然、シライ山頂の方向より、重

々しい爆音が聞こえて来て、コンソリデ−デッドB24 の編隊が六機づつ、綺麗に

編隊を組んで、四編隊がやって来るのが見えた。

高度、約五千米の高さで、眞青な大空に、見事な編隊であるが、私のとって、

初めての恐怖の編隊である。

時間は、午前十一時、正午に近い、太陽の光が燦々として、赤い滑走路に振

り注ぎ、飛行場には、人一人居ぬ静けさであった。

滑走路を、一気に走り抜け、飛行第三十一戦隊で作った、防空濠の方に走った。

どうゆう気であったのか?

飛行場の東から西側え滑走路を通って走ると、約三百米もあるであらう。

滑走路の眞中で、爆撃を喰ったら、一たまりもなく、私の五体は粉々になって

吹き飛んで、何処に行ったか判らぬようになってしまう。

考えようによれば、それも良いかもしれぬ。

しかし、私は、一気に、飛行第三十一戦隊の防空壕えと走った。

壕の傍に立って、息をはずませて、大空を仰いだら、B24の編隊は、高度五千

米で、飛行場の上空に入って来たが、私の見あげる四十五度になっても、爆弾

投下の様子は見えず、そのまま上空を通過して、北方えゆく。

変だなと思っていると、西側のフアブリカ町の上空を過ぎて、左えとゆっくり旋

回して行った。

高度を下げている。

地上からの対空砲火も無いし、また戦斗機の邀撃もないのを確かめて、高度

を下げている。

シライ山の東の空の方からゆっくりとフアブリカ飛行場に向って進んで来る。

高度約三千米である。

私の視角から45度の角度に来たとき、先頭の一番機から、爆弾投下が始まっ

た。

六機編隊が少し伸びたように間隔が長くなって、二十四機が次々に爆弾投下

を始め、その爆弾の落下が、丁度、金魚の糞のように連なって、空中から舞いが

下って来る。

私は、掩廠壕の中の入って、両手で両眼を押えて、親指で両耳の穴を塞いで、

口を開いて、爆弾の落下を待った。

走路の南の方から、爆弾が次々に爆発して、近づいて来る。

大地に伏せた体が、約十センチメ−トルも地面から震動ではねあげられている

ような気がする。

愈々近づいたとき、私は、大声をあげて、わざと、「わ−っ!」と叫んだ。

何秒間であったと思うのであるが、私の感じでは、一時間も、叫びつづけたよう

な気がした。

猛烈な震動で、体中の体液が、血液が、体から振り出されるような気がした。

轟然とも、何とも申しようのない、大地全体の震動が、あっとゆう間に過ぎたの

であったが、私自身、壕の中で、叫び声が切れると共に、失神したように、伏した

ままになっていた。

爆弾の破裂する音が過ぎて、ようやく、顔から手を離して、首をあげて見ると、

壕に入り込む太陽の光が見えた。

そして、手を見ると、確かに、手があった。

体を動かそうと思うが、まだ、震動による恐怖なのか、良く動かない。

何分たったのか判らぬが、ようやく、意識も気分も戻って来たので、起きあがり、

壕の外に出て見ると、B24の編隊は、北方の方え眞直ぐに飛びつつある。

壕から僅か五米離れたところまで、、爆弾の弾痕が続いている。

二百五十s爆弾と、百s爆弾を混用したようであるが、直径十五米程の弾痕と、

五米程の弾痕が、美事に、滑走を捕捉し、各爆弾は、夫々、弾痕が半分か1/3の

直径で重なるように爆撃して、滑走路は完全に破壊されて居た。

B24の編隊は、北方の海上の上空から西に方向転換して、帰途に着くのかと

思っていると、編隊の六機づつになり、各編隊の間隔をあけて、飛行第三十一戦

隊の兵舎と、飛行場大隊の宿舎地区に対して、爆弾投下を始めた。

フアブリカ飛行場から西北方にあった、宿舎地域、また、その西北方のヒモガン

河の東岸地区、また、砂糖工場のあった地域えと、各編隊毎に波状に、反復爆撃

を始めるのが見えた。

私は、しまったと思った。

大部分の兵士は昼食時期に近いので、殆ど宿舎に居る筈である。

それが、もろに、この爆撃綱、ジュウタン爆撃を被ってしまったのである。

この様子を見ながら、私は滑走の西側を、兵舎の方に向って走って行った。

飛行場大隊本部のコンクリ−トの建物は、半分吹き飛んで、煉瓦の破片と、コン

クリ−トの建物の残骸があり、書類が散乱している中に、飛行場大隊長と、副官、

大隊本部の下士官等が、眞青な顔をして、呆然として立っているのに、挨拶して、

飛行第三十一戦隊の兵舎の方に走って行った。

兵舎は、椰子の葉ニッパハウスに、竹の柱であるので、大した被害はなかった

が、あちこち柱が折れて傾き、屋根が爆風で吹き飛ばされて、大穴があいていた。

人事掛の高橋准尉が居たので、兵員に異常はないかと問うと、殆どのものは、

防空壕に入って、大丈夫の筈であるが、彼の傍に居た川口軍曹の姿が見えない

という。

どうしたのかと、問うと、

「はい、第五編隊までの爆撃は、そこで過ごしたけれども、第六編隊が、大変遅れ

て、爆撃の間隔が開いたのに気付かず、川口軍曹が、突然、飛行機が心配だか

ら、見て来ると、壕から飛び出して、帰りません。」

と、いう。

私は直ちに、

「よし、川口軍曹が整備していた飛行機のところえ行って見よう」

と、高橋准尉や、その他二三の下士官、兵と共に、フアブリカ飛行場の北方の台地

にある掩体の中の彼の飛行機のところえ、急いで行って見た。

川口軍曹の整備する第七三一四号飛行機は、無惨にも、直撃を受けて、大破し、

その傍に、川口軍曹の遺骸が倒れていた。

飛行機を直撃した、爆弾の破片を全身に浴びたのか、体中に、多数の破片が貫

通したように、穴があり、体中の骨が、打ち砕かれてしまっていて、まともなのは、顔

だけであった。

直撃弾が飛行機に当たったとき、あっと瞬間的に顔を蔽い、仰むけに倒れたので

あらうか。

すでに、血脈も、呼吸もなく、軍医も馳せつけて来たが、手の施しようもなかった。

飛行機は、川口軍曹機のみ大破して、他の機には、異常は無かった。

直ちに、川口軍曹の遺体収容と、大破した飛行機の部品回収処分を命じ、私は、

飛行第三十一戦隊の兵士宿舎の移転準備にかかった。

場所は、ヒモガン河の西岸にある民間の宿舎である。

飛行場の滑走路は、コンソリ−デ−デットB24の爆撃で、完全に破壊されているが、

ここには、米国が作った、東洋一のラワン木材工場があり、ブルト−ザ−一台、牽引

車一台その他があったので、他の飛行場のように、肩に担いで、土を運ぶ必要もなく、

B24の爆弾の弾痕は、片端からブルト−ザで埋め、一方から、牽引車によって、ロ−

ラを引き廻せば、滑走路の修復は、一夜で出来あがった。

 飛行第三十一戦隊と、飛行第五十四戦隊から飛行場大隊に、協力の人員を出して、

滑走路の修理を行うと共に、私達は、整備隊として、川口軍曹の火葬を実施した。

高く積んだ材木の上に、彼の棺を置き、ガソリンで、火をつけると、瞬間に燃えあが

って、川口軍曹の遺体は、焔に包まれた。

夕方であったので、彼の火葬の火は、落日に映え、煙は、砂糖きびの葉の上を、遠

くえ、淡くたなびいて行った。

私と高橋准尉が中心になって、燃え尽きた火の中から、川口軍曹の遺骨を拾って、

用意の骨箱に入れた。

川口軍曹は、無口な、責任感が強く、整備隊の中心的な人物であった。

さて、戦隊兵舎の移転、飛行場の整備等、私は仕事に追はれて、夜半に、戦隊本

部に帰って来て、冷えた夕食を喰べているとき、第十三飛行団から命令があって、

飛行第二師団は、明朝、タクロバン地区の各飛行場に、攻撃命令が下った。

私は、直ちに、飛行第三十一戦隊の整備隊に、連絡すると共に、飛行第五十四

戦隊の整備隊にも、連絡すべく伝令を送ったが、約二時間たつと、飛行第五十四戦

隊整備隊は、旧宿舎の地域には、一人も居ないということで、整備の指示のだしよう

がなかった。

飛行第五十四戦隊本部、飛行隊の方も、連絡したが、誰も、その行方は知らぬと

いうことである。

飛行第五十四戦隊の整備隊の方も、B24の爆撃を受けて、何処かに移転したの

である。 午前四時になっても、フアブリカ町内を走り廻って捜しても発見出来なかっ

た。

午前五時、飛行第三十一戦隊は、整備運転の試運転を始めた。

他の戦隊の飛行機を、他の戦隊の整備員が行うのは禁止事項であるが、飛行

第三十一戦隊の人員を派遣して、試運転を行はせて、出発準備を行はせた。

しかし、午前六時になっても、午前七時になっても、飛行第五十四戦隊の整備員

は、でて来なかった。

このため、遂に、この出動は、不可能となってしまった。

この事で、隼隼成戦斗隊としては、出動出来ぬ原因を確認する会議が行はれた。

原因は、明確である。

飛行第五十四戦隊の整備隊の行方不明が原因である。

飛行第五十四戦隊長は、整備の指揮は、整備隊長である私の責任であるという。

出動命令は、隼隼成戦斗機隊々長である、飛行第十三飛行団々長から、飛行第

五十四戦隊長に直接命令が出ている。

飛行第五十四戦隊の整備隊は、飛行第五十四戦隊々方の直接の指揮下にあっ

て、私の指揮下ではない。

私は、整備の指導をするだけである。

飛行部隊の指揮官は空中勤務者であり、整備隊の方は、技術将校として、実際

の指揮権はない。

空中勤務者は、単に飛行中の作戦指揮をするだけと考えて、整備の方の責任を

持つ考えはない。

航空隊では、整備の指揮の良否が、出動機の数や性能を左右して、作戦を可能

にされるかどうかになる。

しかし、空中勤務者は、その責任を考えない。

ここに、日本陸軍空軍の作戦における欠陥がある。

飛行第五十四戦隊長は、自分の部下である整備隊が、B24コンソリデ−デットの

編隊爆撃を受けても、その安否すら知らないし、宿舎が破壊されて、何処かに移動

したことも知らなかったし、また、その移動先きを、通報する義務すら感じていなかっ

たのである。

さすがの江山六夫中佐飛行第十三飛行団長も、第五十四戦隊長の無責任な発

言に呆気にとられ、私が怒るのをなだめ、この審議を打ち切ってしまった。

大変悲しい事であるが、責任感の強い戦隊長の居る部隊、統率の良い尊敬され

る隊長は、率先して、困難に当たってゆくので、そのような部隊は、早く戦隊長が戦

死してゆく。 しかし、私の戦隊の西進少佐は、そのような戦隊で、卑怯未練な事が

無く、良くも、生き残ったと思う。

第一線出撃進出は、第四回も、なっていて、生き残ったのは、悪運が強いとしか

云いようが無い。

しかし、私の長いと云えば長い、僅か昭和十六年以来の軍隊生活であったが、

出撃命令が出ていて、出撃させる事が出来なかったのは、この一回だけであった。

私の軍人生活で、命令を実行出来なかった唯一の事件であった。

勿論これは、私だけの責任というのではないが、私の心の底に深い傷を残した。

この事件があってか、精神的に参ったのが原因か、長い間の悪戦苦斗による疲

労の累積か判らぬが、私の体に変調を来して来た。

大した熱ではないようであるが、微熱が出て、全身がだるく、うごけなくなってしま

った。

作戦行動は、暫く休止の状況で、西戦隊長が、心配して、休養しろというので、

戦隊本部で、休むことにした。

十二月二十三日のことである。

飛行隊の出動がないので、戦隊長は、気晴らしに、フアブリカ町西方の椰子林に

行って昼食を摂らうと云って、私も一緒にゆこうということであったので、私も、自分

の体の調子を験すため同行した。

フアブリカの町を西え、椰子林に入ったとき、コンソリデ−デットB24の十二機編

隊が、シライ山の上から、フアブリカ町の方に近づいて来るのに気がついた。

椰子林の中から見るので、正確な方向が判らぬ。

西戦隊長以下飛行隊は、椰子林の中では、蔭れる場所が無いので、西側の地

隙の谷え、一目散、走って行った。

私は、ついて走ろうとしたが、息が切れて追随することが出来ぬ。

椰子林の幹にすがって、B24の編隊を見ていると、

三機の四編隊になって、高度を六千から、悠々旋廻しながら、高度を下げ、二千

五百米〜三千で、飛行場の方に、爆弾を落し始めた。

私は、飛行場に被害がありはせぬかと、気がかりで、直ちに戦隊本部の方え、体

が悪いので走ることが出来ぬが、全身生汗まみれになって、引返した。

戦隊本部は無事であって、今日の爆撃は、飛行場だけということで、一応安心し、

一杯の茶を頼み呑んでいたとき、一人の伝令兵が息せき切って走って来て、飛行

場で、飛行機の整備と、飛行場の整理に派遣していた、遠藤少尉以下が、B24の

爆撃で、地下壕に入っていて、埋まってしまったので、急いで救出作業に入るという

知らせであった。

飛行場大隊からの始動車が来たので、それに飛び乗りながら、整備隊より、一

個少隊の救援人員及び、スコップ、その他の道具を持って来るように指示した。

遠藤少尉等は、飛行第三十一戦隊の飛行機整備のため、飛行場に来ていたが、

B24の進入するのを見て、ヒモガン河の東岸の飛行場の台地の西斜面の断崖に

作った、地表から、約十米の深さのある、横穴に逃げ込んだ。

しかし、この日のB24コンソリデ−デット爆撃は、二十日における爆撃で、一応、

飛行場を破壊したが、我々が直ぐ修復したのを知って、本日は、滑走路、施設を

徹底的に破壊するのを目的として攻撃したようである。

爆弾も、二百五十sのものを使用している。

不幸にも、南から進入して、爆弾投下するとき、三機編隊の左側の一機の爆

弾は、滑走路より、少し、はみ出して、この断崖地区にかかった。

この中の一発は、先づ、この横穴式の壕の入口に落ちた。

このため、壕の入口の土が落ちて、塞がってしまった。

第二編隊、第三編隊よりの爆弾が、夫々、この入口の塞がった、横穴の直上に、

夫々で二発、直撃してしまった。

このため、その中の少なくも、一発は、横穴式の壕の十米の厚さの土壁を貫通

して、中で爆発した。

救援の整備隊、一箇少隊では、まだ足らぬと考えたので、私は整備隊員で手

の空いているものを全員集めて、交替で、掘開作業を行はせた。

その日の夕方から雨が降り始めたので、夜も、電燈を点じて、掘開したが、見

つからぬ。

その夜は、休ませて、翌朝再開して、横穴のあった地層まで達したが、約十名

の人々が二百五十sの爆弾で、完全に粉砕されてしまっているのか?

やや、入口に近いところで、胸毛のついた皮膚の肉片の一塊を発見した以外

には、何も見つからぬ。

熱帯地域であるために、腐敗は早い。

掘り返す土に、肉の腐敗臭はあるが、肉体も、骨片も、全く見つからなかった。

戦死者は次の人々であった。

遠藤盛長少尉、松尾克也見習士官

佐藤俊彦曹長 岩田定造見習士官

小玉文吉一等兵 小丸寿喜一等兵

以上の六名である。

発見した肉片は、佐藤俊彦曹長が毛濃い性格で、胸毛を生やしていたので、

彼であらうということになった。

遠藤少尉以下、整備隊として、私が元整備長をしていた、第一中隊から育て

あげた人々であるだけに、私えのショックは大きかった。

埋めようにも、治めようのない心と、精神の傷は、どうしようも無いものであった。

しかも、私が一日も、飛行場から離れたことがないのに、偶々、一日だけ休養

して、隊務から離れたときの、此の状況は、私は悔いても、何としようもないもの

であり、この遠藤少尉以下の遺体を掘るとき、私は、雨に濡れながら、ガタ、ガタ、

何としても、震えが、手、足、胴体から止まらなかった。

去る十二月二十日のコンソリデ−デットB24の二十四機の編隊での爆撃で、

滑走路は完全に破壊されたのを修理して、此の二十三日の再爆撃で、地盤は、

全く軟弱になっていたが、フアブリカ基地は、火山性の酸化砂状土質の台地で

あるので、水の排水が良く、弾痕に、水が溜まることも無く、乾いて行った。

バドロド、サラビヤ、タリサイ等の飛行場は、B24爆撃機のジュウタン爆撃で、

飛行場は、全部大きな弾痕のアバタ状になって、その底に水溜まりが出来、蛙

が無数に棲みついて、ガ−、ガ−と鳴いていた。

コンソリデ−デットB24爆撃機は、一機に四屯〜十屯の爆弾を吊積してやって

来る。 

モロタイ、ハルマヘラから来る場合は、飛行距離が長いので、四屯くらいの

爆弾を積んで来ると考えられたが、その編隊が二十機以上になると、大変な

威力を発揮して、全飛行機場基地が完全に破壊される。

我々の日本軍の戦斗意志と志気を破砕するのに充分であらう。

邀撃する戦斗機も無く、一方的に爆撃されるものにとって、対空火砲もなく、

悠々と大空一杯の編隊で攻撃されるのは、誠に残念で歯噛みをするが、対抗

措置が、正面からの手段が無い。

我々の戦斗意志、志気が、何処までつづくかの問題となって来た。

飛行団長以上の指揮官、司令部は、米国に原子爆弾が出来たことを知って

以来、私の顔を見ると、

「杉山−、玉砕だっ! 」

と、云いつつ、酒を呑んでいる。

私には、愈々米軍が上陸して来て、地上戦になるまで、戦うだけの体力と、

志気を、持っているのか?どうか?が問題である。

出来得るなれば、既に敗戦ということは、この戦争を、シンガポ−ル陥落で、

英国の講話の申出によって、終止符を打つことができなかったことと、我々の

戦争中止の運動が失敗に終わったことで、優秀な、飛行第三十一戦隊の飛行

機えの整備力と、戦斗力を、例え敗戦となって、航空力は保持出来ないかも知

れぬという予想はあったが、何等かの形で、この戦争の経験した、戦って生き残

った人々を、生かして、日本に帰還せしめる事が私の仕事であると考えていた。

このために、師団司令部やその他を走り廻って、その生き残りの戦いをつづ

ける事に、努力をして行った。

 

3、リンガエン湾米軍上陸作戦前

フアブリカ基地は、昭和十九年十二月二十日、二十三日のコンソリデ−デット

B24の延三十六機の反復攻撃により、完全に破壊されたが、ブルト−ザ−と牽

引車による復旧工事によって、復活し、飛行機は、飛行場より、遠く隔離してい

たので、川口軍曹機以外に損傷は少なかったが、連日の出動によって、二十七

日には、次のようになっている。

出動可能機 五機、軽故障機一機

損傷機(大修理必要) 四機

以上の如き状況であった。

米軍は、飛行第二師団のネグロス島各基地の活動が、急速に衰えて行った

ので、新しい企図を持つものと考えられた。

特に、レイテ島、タクロバン基地における米軍の航空機の集中が活発になっ

ている様子である。

特に、目新しい出来事は、従来になかった、米陸軍の飛行機が進出して来て、

ネグロス各基地えの攻撃が始まった。

戦斗機は、従来のP38ロッキード機から、コルセアF4U機に代り、爆撃機では

中型のA−20や、B−25が主体になって来た。

十二月二十八日、私達は、完全に修復の終了した、フアブリカ基地で、午後、

出撃えの準備をして、丁度、昼食を終了し、私は、飛行団の指揮所に一人残っ

て、煙草に火をつけたところであった。

ひょいと、シライ山の麓の方を見ると、A−20爆撃機が、約十五機、西の方か

ら麓の裾野のところを、フアブリカに向っているのに気がついた。

私は、整備日記を直ちに、鞍の中に入れ、軒に吊してある軍刀を取る暇もなく、

飛行第三十一戦隊の方に向って、指揮所の台の上から、大声をあげ、両手で、

「空襲

 戦斗配置につけっ!

 直ちに、戦斗配置につけっ! 」

と、叫んでいた。

飛行第三十一戦隊の人々は、私の大声に気がついて、全員、準備してある

戦斗機搭載から改造した、機関砲陣地に入り、残りは、防空壕に入り始めた。

B25の編隊は、ヒモガン河の西方台上の上空、僅か50米の高さを飛行し、一

斉に爆弾倉を開き始め、各機の尖端の機関砲は、火を噴き始めたが、機手が

あまりの低空なのと、地上からの機関砲弾が集中し始めたので、慌てたのか?

恐怖のためか、弾丸の弾道は、丁度螺旋状に飛んでいて、空中を走っていたの

で、それを見ながら、私は、飛行第三十一戦隊の方に向って、

「全員、落ち着いて射てっ!」

と、指揮していた。

B25の編隊は、ヒモガン河の上を通り、一斉に、フアブリカ基地えと殺到して

来た。

その一番機は、目標を、私の居る戦斗指揮所を目指しているらしい。

その大きな機影が、私に向って迫って来た。

そして、河の上空を渡ったところで、一斉に爆弾を投下した。

その爆弾の一発が、眞直ぐに、指揮所え落下して来る。

私は、指揮所の西側の端から、一気に、ヒモガン河の断崖の上えと、飛んだ。

その瞬間、グワ−ンと、大音響があがり、大きな土煙りがあがったらしい。

私は、断崖の斜面を、お尻で滑って、底まで、一気に落ちて行ったらしい。

B25の米軍爆撃機は、第一編隊、第二編隊、第三編隊と、連続して爆撃して

行ったらしいが、私は、断崖の底のバナナの樹立の中に、横になっていて、上

から、猛烈な土を被ったらしい。

気がついたとき、体は、半ば土に埋まったようになっていた。

先づ上半身を起し、自分の手足が、何ともなっていないのを確かめて、ようやく

起きて、体についている土を払った。

私自身、何処も傷を負っている様子が無くて、崖をお尻で滑り落ちたためか?

お尻が猛烈痛くて、巧く歩けない。

断崖の斜面をバナナの幹や、雑木の根につかまりながら上っていると、上の方

で、兵士等の悲痛な声がする。

「隊長が居ないっ!

 隊長殿が、何処にも居られないっ!」

「馬鹿云えっ!

 隊長は、爆撃のとき、指揮所の台の上で、戦斗配置につけっ−、と、大声で

叫んで居られたではないか?

何処かに居られるであらうっ!

探せっ−」

「いや、見ろ、指揮所は、全部吹っ飛んでいるではないか?

 隊長は、爆弾によって、指揮所と共に、粉々になって、吹き飛んでしまわれた

に違いない。」

「馬鹿云えっ−、

 隊長は、不死身だっ−

 何処かに居られるであらうっ−、

 皆で、呼んで見ろっ−、」

「隊長殿っ、

 杉山隊長殿っ−、」

と、二三人で、大声で叫んでいた。

私は、その時、これらの声を聞きながら、崖の八分くらいまで、登っていたので、

「オ−イ、ここだ、ここだっ−、

 尻が痛くて、巧くあるけないから、誰か手を出して呉れっ−」

と、叫ぶと、

「わっ−、

 隊長が、生きていたっ−」

と云って、私の登る崖の縁から、二三人の兵が顔を見せたので、最後の崖の縁

を、手を握って、上にあがった。

指揮所は、見事に粉砕されていた。

正に、木葉微塵と云える。

指揮所のところには、大きな弾痕になっていて、指揮所の木片は、四方に散っ

ていた。 飛行第三十一戦隊の方を見ると、全員が、口々に、隊長がやられたっ!

と云いつつ、こちらに走って来るところである。

そこえ、私が崖から出て来たので、皆が私の周りにやって来て、私の体を撫で

まわし、

「隊長!

 貴方は、本当に隊長ですかっ?

 足もあるのですか?

 あ−、足はあるらしい。

 ようまた、御無事で。」

と、私の顔を見ながら、口を開いて、塞がらない様子である。

「いや、大変心配かけた。

 この断崖に飛び込んで、

 どうにか助かったようであるが?

 尻で滑り落ちたためか、尻が痛くてたまらぬ。

 何処かに、俺の軍刀と、鞍が無いか?

 探して呉れぬか?」

「いや−、

 隊長は、運が強い、

 不死身ですね−、

 尻が痛いくらいで、よかった、よかった。」

と、大笑いであった。

 私の軍刀は、鞘が半分飛んで、中身が出ていて、鞍は、爆弾の破片で破れて

いたが、無事であった。

「さて、俺は良いが、戦隊の方の人員に、損害は無かったか?」

と、問うと、一人も、負傷者も、何も無いという状況であった。

飛行場の東北の地隙のある地域に、猛烈な煙があがっている。

飛行第三十一戦隊の機関砲によるのか?

または、20oの機関砲陣地からの射撃で、B25が、一機、撃墜されたもので

あった。

飛行場大隊から、撃墜の確認に来て呉れという要請があったので、私は、現

場に行って見た。

正に超低空で、全速で飛んでいた、B25爆撃機は、猛烈な力で、地隙の東え

下る斜面に、激突したらしく、全く、クシャクシャになって、飛び散っていて、操縦

者なのか、機関砲手なのか判らぬ死体が、仰むけになって、斜面に倒れていた。

服装を見ると、飛行服も、飛行帽も何もつけていない、平服のような状況で、

何かピクニックでも行くような姿である。

全く気軽な服装なので、驚いた。

発動機は、遥か、向こうの地隙の台地の方に転がっていて、技術的に調査し

ようも無くなっていた。

機体は、一気に火を噴いたためか?

大体、操縦者、副操縦者、無線士、機関士、機関砲手と、大体五人〜六人

乗っている筈であるが、クシャクシャになって、炎上しているので、手のつけよう

が無い。

20o機関砲隊々長が来て、機関砲陣地の一斉射撃で、燃料タンクが、一気

に爆発して、墜落したというので、そうであろうということにした。

 飛行第三十一戦隊の保有機の状況は次の通りであった。

 出動可能機   七機

 軽修理必要機  一機

 大修理中機   六機

        合計十四機

であった。

隼隼成戦斗機部隊命令で、次のような命令が下った。

一、左記の部隊のルソン島残置部隊を夫々左記の如く指揮下に入らしめる。

  飛行第三十一戦隊マバラカット残置隊は第四飛行師団長の指揮下に入る。 

二、飛行第三十一戦隊以下の戦隊長は、ルソン島残置隊を夫々の指揮下に

入らしむべし

以上

遂に、マバラカット飛行場に在る飛行第三十一戦隊の市川中尉、門馬少尉の

人々は、第四航空師団の指揮下に入って、私の指揮から離れることになった。

愈々、米軍のルソン島えの上陸が近づいたことを示す、司令部の判断である。

しかし、私が心配したのは、比島防衛司令官である、山下奉文大将と、第四

航空軍司令官、冨永恭次中将の間の意見の分裂があった。

山下奉文大将は、冨永恭次中将の第四航空軍の比島、呂宋島に上陸して来

る米軍を迎え撃った方法において、全く異なっていた。

山下奉文大将は、ルソン島のマニラ市を放棄して、眞正面から上陸して来る

米軍、予想上陸点のリンガエンに対して、東側の山地に拠って、長期の抵抗戦

を行う態勢をつくる事を主張したのに対して、冨永恭次中将は、マニラを死守す

べきことを主張し、東方の山地に拠る抵抗では、日本航空軍の活躍する基地、

戦斗の場が無いという考えである。

山下奉文大尉は、日本空軍の力に対して、全く信頼感を失っていた。

我々、航空部隊であるものとしては、比島方面軍司令官のこのような考え方

には、賛成したくないのであるが、しかし、現実問題をして、既に、日本の航空

部隊は、眞面目に、米軍航空部隊に対抗し得る能力も、実力もなかったのは、

事実である。

我々航空部隊の第一線の者から云はして貰うと、我々は、冨永恭次軍司令

官以下に、全く信頼感が無かった。

作戦能力のある、統帥能力のある人とは、思えなかった。

私は、本来陸軍の歩兵科出身であったことにおいて、山下奉文大尉の方に

賛成であった。

しかし、私自身の希望としては、速やかに、飛行第三十一戦隊の残置隊は、

アパリ峡谷地区に、移動して欲しかった。

しかし、第四航空軍司令官が、これに対して、感情的に、マニラ死守を主張

したことで、米軍の上陸に際して、恐らく、航空部隊は、放り出された形になる

ことが心配された。 フアブリカ基地は、私が計画した如く、現地自活と、地上

戦斗の方法について指導をしているが、マバラカット基地の市川中尉は、航空

技術科出身で、地上戦斗の訓練が充分でないので、心配であった。

また、残置隊の兵員の中の下士官には地上部隊出身者もあったが、兵士の

人々は、新兵の人々が多かったので、この人々の事も心配であった。

十二月三十日、飛行第二師団司令部との連絡にて次の事が判明した。

第十三飛行団のクラ−ク地区の人員で飛行第三十一戦隊の人員の主力15

0名は、エチアゲ移動し、その内50名は、パギオにおいて、比島軍司令部の航

空基地要員となることになっていた。

飛行三十戦隊の原大尉以下十機は、屏東に在り、軍直轄となっていた。

フアブリカ基地の独立対空機関砲隊に対して、表彰されることになっていて、

飛行第三十一戦隊の撃墜破機数が175機程であるのに、この機関砲隊だけで、

180機に近いものがあった。

 作命甲407

 一、軍は北部「ルソン」航空作戦準備の迅速なる強化促進を企図す。

 二、師団は、在クラ−ク地区部隊の一部を第四航空師団の指揮下に入らし

めんとす。

 三、隼隼成部隊長は、左記の如く在クラ−ク地区人員を各現在地において、

第四飛行師団の指揮下に入らしむべし

この命令によって、前述の如く隼隼成戦斗飛行隊の命令が出された事が判り、

飛行第三十一戦隊のルソン島、マバラカット基地にある、残置隊の人員は、飛行

第四師団の直轄部隊となるが、しかし、比島軍司令部のバキオにおいて、司令部

の航空関係の整備隊となり、残りは、アパリ峡谷地区のエチアゲ飛行基地要員と

なって、働くことになり、地上部隊に守られる形になり、米上陸軍との地上戦斗作

戦に巻き込まれる事は、無くなった。

この事において、この呂宋島えの米上陸軍との対抗において、米軍は、先づ、

マニラ攻略を目指して進撃し、次いで、バキオ地区の日本軍陣地えの攻撃に進

むであらう。

このことにおいて、地上軍に守られて、地上戦争に入ることはあるまい。

それにしても、この地上の移動は困難であらうが、しかし、このような措置によっ

て、無駄な戦斗によって死亡する率は少なくなったであらう。

このように考えられて、私の心配は、半分無くなった気がした。

このように、特別の処置をとられる事は、望んでも、出来ることでないので、私は、

心から喜んでいた。

十二月三十一日〜一月一日、遂に、昭和二十年の正月を、フアブリカ基地で迎

えた。

第十三飛行団長、江山六夫中佐以下、フアブリカの全部隊の将校が集って、

正月の宴を飛行団司令部の宿舎で行った。

集まった将校は、既に敗戦を覚悟しているのか?誰一人として戦況について語

るものは無かった。

皆、愉快に酒杯をあげて、正月を祝った。

私も、飛行第三十一戦隊の整備隊の全員(在フアブリカ基地)との正月の酒杯

を挙げて、飛行団長の招宴に出た。

皆で夫々得意の歌を唱ったり、声色や、物真似を多愛なくやっていた。

特に、飛行団長の江山中佐は、歌舞伎の、鈴が森における、幡随院長兵衛と、

白井権八の声色が得意で、独立整備隊長が、これに唱和して、二人で、何度も

何度も、同じ場面を繰り返していた。

「待てと、お止めなされしは、拙者がことでござんすか?」

と、二人で、眞赤になって、熱演していたのが、皆の笑いをさそった。

翌二日、早朝、剣持曹長以下の人々が、タクロバン基地に、出動可能機で、

早朝、全機タ弾を両翼に吊って、出動して行った。

私の記憶では、確か、福山軍曹等と共に四機、一ケ小隊の編隊であったと思う。

この出撃は、無事成功して、全機、無事、帰還して、大成功であったという。

その折、飛行場大隊の対空無線によって、タクロバン放送を傍受していたら、

この飛行第三十一戦隊の早朝の急襲に、タクロバン基地は、大混乱となったよう

で、米軍のタクロバン基地は、次のように全軍に放送していたという。

「本日、突然、幻のように、隼戦斗機、(米軍の愛機、フライング、リリ−、空飛ぶ

百合の花、一式戦斗機の下からの全体の形が、似ているので、米軍はこのよう

に呼んでいた。)が四機やって来て、攻撃して、大損害を受けた。

この戦斗機編隊は、多分、台湾から長距離やって来たか?

または、ボルネオよりやって来たと思はれる。

全軍は、早朝、また、タ夜において、特別警戒しろ」

という、警戒の報を出していた。

私達は、この飛行場大隊の傍受する、幻の日本軍戦斗機隊という言葉、「ファン

トム、ジャパニ−ズ、ファイタ−ズ、チ−ム」に、大笑いした。

台湾や、ボルネオどころか、レイテ島の西のネグロス島からの攻撃であった。

この事件というか?出撃のためか?米軍の昼夜をわかたぬ、戦斗機、F4U等

の哨戒飛行が、執拗になって来た。

レイテ島には、米軍の大艦隊、大船団が、集結を始めていて、愈々、呂宋島え

の上陸作戦の出発が近づいていた。

 飛行第二師団司令部からは、特別に、司令部偵察機が出撃して、このレイテ

島、周辺の、米軍の集結状況を偵察していた。

この司令部偵察機の報告によると、愈々、一月二日から三日にかけて、米軍

上陸部隊の船団が動き始めた。

 第一群       ○速力、約十六ノット

 航空母艦 十二隻   レイテ正面に常時二

 戦艦    七隻   十隻以上の艦が居る

 巡洋艦大 十三隻

 巡洋艦小  三隻

 駆逐艦大  四隻

 駆逐艦その他三十九隻

 輸送船  三十六隻

  合計 一〇四隻

この船団というか、機動部隊には、直掩の哨戒戦斗機編隊が、極めて少ない

のを特色としていた。

速度は、第一群は、十六ノットであったが、最後の方は、六ノットくらいになっ

ていた。

第六次になると、次のような船団になっている。

 戦艦 二隻

 巡洋艦六隻

 駆逐艦五隻

 輸送船一五八隻

 上陸舟艇六十隻

 合計二八一隻

これらの船団、艦隊群が、延々と、レイテ島−ネグロス島南海域−パナイ島

海域−南支那海から北上して、ミンドロ島西−呂宋島えと、動いて行く。

全体の艦が、約一三0隻、船艇、四二八隻である。

全体の区分を述べると次のようになる。

 航空母艦 15隻

 補助空母艦 4隻

 戦艦大   2隻

 戦艦   23隻

 巡洋艦大  10隻

    小   8隻

 駆逐艦   40隻

 輸送船   328隻

 上陸用舟艇 100隻

という、膨大な数量となっていた。

我々は、ネグロス島の北部にある、フアブリカ基地に居るので、この大艦船の

動きを、自分の眼で見ることは出来なかったが、正に壮絶とも、壮観ともいえる

ものであったことであらう。

しかし、我々には、これを攻撃する兵力そのものが、全く無くて、只、これらの

情報を知るだけであった。

 

4、戦隊最後の特攻隊

レイテ島の集結地域から出発した、米軍の呂宋島上陸船団と、機動部隊は、

我々飛行第三十一戦隊の居るネグロス島と、南のミンダナオ島の間の海域を

通って、延々と、西え、そして、パナイ島の海域から北上してゆく。

 既に、呂宋島との間は、ミンドロ島に上陸した米軍が航空基地を建設して、比

島軍司令部、第四航空軍司令部とは、完全に遮断されていて、補給も、連絡も、

不可能になっている。

我々の手許にある飛行機は、全て、レイテ作戦に使用して、ガタガタになった

ものを修理しているものが、僅かに残っているだけで、眞面目な作戦遂行の出来

るものもないし、辛うじて、一個小隊の編隊を組むのが出来るだけである。

膨大な量の船団、圧倒的と云っても、あまりに隔差というより、数学的にも、0

と無限大に近い状況では、手の下しようも無い。

如何なる作戦、戦斗が、呂宋地区で行はれるのか?

恐らく、米国は、欧州戦線で勝利を収めていることで、全ての力を結集して来

たものと考えられる。

さて、この上陸大船団が、何処に上陸するか?

マニラの南のサンフェルナンドという予想も行はれたが、これは、一種の陽動

なのであらうか?

マニラ地区にあった、海軍の特攻水上部隊等が、マニラの西を通る、機動部

隊、上陸船艇に、攻撃をかけたという情報もあった。

呂宋島の東北から、マニラの西にかけた、太平洋海域には、

空母6〜7 補助空母8〜9

戦艦6〜7 巡洋艦 12

駆逐艦 50 タンカ−10

が游洩していて、毎日、空襲をし、台湾からのものを遮断している。

呂宋島の西北部海域には、

空母 約15

戦艦巡洋艦23

小型巡洋艦、駆逐艦35

が游洩していて、上陸用船艇の集結を、掩護していた。

リンガエン湾地区に、集結しつつある上陸用船艇は、大62隻、小16隻、戦

艦2隻、巡洋艦6隻、駆逐艦14隻である。

これが、第一次の部隊船団であり、第二次は、マニラ沖、第三次は、ミンドロ

島沖、第四次は、ネグロス島、南、五次、六次はレイテ島といった状況で、海上

を延々と続いてゆく。

第一次のリンガエン湾えの到着は、一月七日であったが、彼等は、直ちに上

陸を開始せず、リンガエン湾の沖に停泊して、八日、九日と過ごしていた。

これは、上陸に先だって、リンガエン湾各地域に対して、猛烈な、艦砲射撃と、

また、海上機動部隊からの航空機による爆撃が、二日〜四日、八日〜九日と

反復されていた。

この攻撃によって、マバラカット基地での、飛行第三十一戦隊の残置隊に、犠

牲者が出た。

 中川文化 上等兵

 五十嵐義雄上等兵

 井坂義雄 上等兵

  三名が戦死

 楠田吾郎兵長 重傷

 梶村一司兵長

 石塚喜一郎  軽傷

と、いう連絡があったが、如何なることで、このような犠牲がでたのか?全く状況

は判らなかった。

米軍の主力は、猛烈な艦砲射撃の支援を受けて、リンガエンからダモルテス

の海岸線に昭和二十年一月九日、十九時二十分に、上陸を開始して来た。

愈々、比島、最後の決戦の幕が切って降された訳である。

米軍は、呂宋島東西に在る、機動部隊の航空母艦群の艦載機による空襲を

行うだけでなく、また、モロタイ、ハルマヘラから前進して来た、レイテ島タクロバ

ン基地群の米陸軍の重爆撃隊(四発)や、軽爆撃隊(二発)や、また、ミンドロ島

の基地を中心とするP38戦斗機その他のものを集中して、攻撃して来たもので

あらう。

マバラカット基地にある、飛行第三十一戦隊の残置隊の人員で、中川文化上

等兵以下の戦死、重軽傷の人々も、この集中攻撃によって、やられたものと考え

る。

全く戦力を失っていた、第四航空軍の各基地に対して、駄目押しと思はれる、

執拗な攻撃が行はれた。

米海軍は、戦艦、巡洋艦の隊列を、リンガエン湾沖に、そして、駆逐艦を、沿

岸近くに進めて、海岸近くの日本軍陣地に対して、猛烈な艦砲射撃を集中して

来た。

日本軍は、米軍の上陸に際しての攻撃方法を知っているので、主陣地は、上

陸地域の両側の山岳地域の峡谷地域に設備し、正面は、仮設的な陣地を置い

ていたので、大した損害は無かったと考える。

殆ど、完膚なき、艦砲射撃の後、米軍は、一斉に上陸して来た。

リンガエン市から東、ダモルテス町の沿岸である。

主力は、リンガエン市と思はれた。

恐らくマバラカット基地に居た、飛行第三十一戦隊の残置部隊の人々は、

この韻々たる、遠雷の如き、艦砲射撃の音を、遠くに聞いたことと考える。

リンガエン湾に上陸した米軍は、リンガエン市及び、その東方のサンアラビ

タン町に、主力が上陸橋頭堡をつくり、リンガエン市の主力の一部は、マング

タレンに進出して来た。

飛行第三十一戦隊の残置隊に対して、飛行第二師団から参謀が来て、特別

攻撃の志願者を募り、攻撃を命じたのは、一月十一日の朝であったと考える。

飛行第三十一戦隊の中で、十一月に、台湾沖より、後退して来た、米機動部

隊に攻撃するため、マバラカットより、原正生大尉と共に攻撃に出撃して、発動

機の故障により、リパ海軍飛行場に不時着していた、伊藤鉄司准尉(当時曹長)

は、発動機の給油管の折損のため、部品が入手出来ず、修理が遅れて、ようや

く、一ケ月半振りに、一月十一日早朝、マバラカット基地に復帰して来て、不思

議なことで、生き残ったことからの話を総合すると、次の状況であったという。

残置隊の隊長、門馬中尉は、連日の空襲の中で、特別操縦の将校の人々の

猛訓練を行い、心身共に疲労すると共に、デング熱にかかっていたのか、歩行

困難の状況になっていた。

伊藤准尉は、リパ海軍飛行基地より早暁の敵機の空襲のない時を狙って、

マバラカット飛行場に帰還し、着陸して、愛機を機付長に渡して、門馬中尉の

ところに、帰還したことの報告に行った。

そのとき、門馬中尉は、椅子に寝たままの状況であったが、第二飛行師団の

参謀が来て、特攻隊員を募集していたという。

米艦船の位置を偵察機による報告の状況を説明して、誰か特攻隊を志願

するものは無いかとの話に、飛行隊に居た、杉田繁少尉以下六名のものが、

直ちに、志願をした。

飛行第三十一戦隊の飛行隊残置隊員の殆ど全員というべき人々である。

伊藤准尉の話では、これら六名のものは、門馬中尉に、志願する旨を告げ、

第二飛行師団参謀の激励を受けて、夫々出発準備にかかった。

伊藤准尉は、門馬少尉に、帰還の申告をして、次いで、共に、特攻志願の

申告をして、認可を得て、愛機に戻って見ると、彼が、リパ海軍基地で、苦心

して修理して来た愛機は、田中了一伍長が乗って、特攻編隊について、出発

線に居る。

伊藤准尉は、慌てて、出発線えと走りながら、両手をあげて、田中伍長に、

 「こらっ−、

  田中−っ、

  それは、俺の飛行機だぞ−っ!

  俺に返せっ−、

  俺が、特攻に出るからっ−、

  返せっ!」

と、大声えでわめいて走ってゆくのに、杉田繁少尉以下、六機の特攻機は、

轟然と、大地を滑走して出発して行った。

最後の田中伍長は、風房を開いて、片手で伊藤曹長に、手を振りながら

上昇して行ったという。

私には、如何なる経路で、航路を飛んで、米機動部隊に対して、特攻を

行ったかは、明確な記録は無い。

私の整備日録には、次のように記してある。

十一日夕、乃村以下の特攻の報を聞く

眞に頭が下がりたり

教えたものが教えられたり。

航空母艦 2隻 大爆発

       1隻 撃沈

       1隻 炎上

  輸送船  3隻 炎上

と、記録している。

私は、偕行の記事に、十一日朝と記録を書いた。

これは、私の記憶に、朝か夕かの明確なものは、覚えていなかった。

私の脳裏に残っているのは、朝か夕かの、また、陽の光の少ないときで

あった事は、明確に記憶している。

私は、戦隊本部での用事を済ませて、整備隊の宿舎の方に行かうとして

戦隊本部の宿舎の階段を下りて、少し雑談をして、道路に出て帰ろうとして

いるとき、小出中尉戦隊副官が、私を呼びとめたので、引返したら、西進戦

隊長が、私に見せろということだと、一片の紙片を差出した。

私が受けとって見ると、

「飛行第三十一戦隊、マバラカット残置隊の乃村少尉以下六名、本朝、リ

ンガエン湾の米上陸軍に、特別攻撃を行う。

 空母 大爆発 二、 輸送船炎上 三、 空母撃沈一、炎上一、」

と、なっていたように思う。

私は、これを、整備日記に書きながら、戦隊本部の宿舎の階段を馳け上り、

戦隊の戦死者の慰霊室に入って、祭壇の前に座り、何分、何時間か判らぬ、

長い長い時間、鉄木の床板の上に座りつづけ、この特攻隊員の冥福を、何か

に祈っていたという記憶は残っている。

何ということであらうか?

鉄木の床板の上に正座したままの私は、体全体が氷のように冷たくなって、

体全体が、震るえに震えて止まらなかった。

涙も、何も、泣き声も立てられないような、非常に切ない気持ちに迫まられて、

身動きが出来なかった。

マバラカット基地の残置隊は、この特攻機の出撃によって、殆ど残留機も無

くなり、市川中尉以下は、比島軍司令部の航空基地バギオに、部下50名と転進

してゆき、他のものは、エチアゲ基地えの転進して行ったと考える。

フアブリカ基地の出動機は、次の如きものであった。

 出動可能機 五機

 軽修理機  二機

 大修理機  五機

      合計十二機である。

一月十三日になって、マバラカット基地の残置隊からの特攻出撃者の氏名が

通告された。

 特別操縦将校

  杉田繁 少尉

  橋本精 少尉

  乃村敏一少尉

  高橋金吾少尉

  中森孝敏少尉

の五名の外

  田中了一伍長

  大室喜美雄伍長

の二名が追加されていた。

飛行第十三飛行団の隣の戦隊である飛行第三十戦隊に関しては、全然不明で、

台湾に居るということであった。

第四航空軍は、残存機の大部分は、殆ど特別攻撃隊となって、うちあげという、

つまり、航空部隊としての姿が無くなってしまった。

レイテ島の日本軍は、レイテ島西側の山脈のカンキ、ボット山を、歓喜峰と称して、

北方山麓を星兵団、東南山麓を抜兵団、西南麓を玉兵団という布陣で、最終的に

坑戦する事になった。

夫々、兵団の称呼はしているが、敗残の兵士が集まったに過ぎない状況になって

いるであらう。

ルソン島の戦線は、米軍がマニラ市に迫り、最終的な段階に入りつつある。

中部比島群島の中のネグロス島に在る飛行第二師団は、全く孤立した形であっ

たが、しかし、辛うじて、航空部隊としての機能を維持していた。

しかし、正面切っての白昼の攻撃をして、正々堂々の航空戦を行うだけの兵力も、

機数も残っていないし、殆どの飛行機が、レイテ作戦以来使用して来た、ガタガタの

飛行機を現地の我々の整備隊によって、修理し、またオ−バホ−ルしての飛行機で

ある。

これらの飛行機を、フアブリカ飛行場から人力で、道路沿いに運搬して、椰子林や、

樹木の茂っている地域の蔭に匿して、夜間に、飛行場え運搬して、早朝、夕弾を両

翼に吊って、タクロバン基地を攻撃することになった。

十二月末、正月三日に攻撃したときより、攻撃方法は、米軍の電探を警戒して、

毎日進入経路を変えて、攻撃しなければならぬ。

呂宋島における米軍のマニラ攻撃の時機が迫るにつれて、ネグロス島に居た、米

比軍の残党と思はれる人々が、活動を活発にして、フアブリカ基地の東部、又シライ

山中に出没し始めて来た。

 私達は、これら米比軍の人々をESAPEと称して、匪族扱いをしていたが、その中

心の人物で、米陸軍の中佐の階級の人が居て、このネグロス島の南東山岳地域に

潜んでいるといわれていた。

レイテ島え米軍の上陸以来、この人々の組織が、全フィリッピン群島に活発化して

いて、米軍は、これらの人々え、武器や、短波無線機を投下し、組織化を計っていた。

私達、飛行第三十一戦隊の居るフアブリカ地域は、この米比軍の人々の組織の監

視下で活動し、生きつづけねばならぬのであった。

フィリッピン群島は、約八千の島々から出来ている。

現地の人々のカヌ−舟に、三角帆をつけたものは、朝夕の風で、時速40ノット、約

八十qの速度で、滑るように、海上を走り、日本軍の高速艇が約20ノット三十六q時

の速度であるので、到底、このカヌ−の連絡には追いつけない。

島から島え、短波無線による、日本軍えの抵抗と、ゲリラ攻撃は、活発化して行っ

た。

我々を悩ましたのは、日本軍の軍票が、全く価値を失ってしまった。

煙草一個が、約二千円になってしまった。

敗戦ということは、精神的支柱を失った状況になるだけでなく、生きるための物資

を得社会経済、特に通貨の面で、大変なインフレとなってしまって、物資を得ることが

出来ぬ。

日本軍の日本本土からの補給は、到底望めぬ。

このことは、我々航空部隊は、全ての生活、戦斗に必要なものは、飛行場大隊に

依存していて、飯ごう一つも持っていない。

この状況では、最終的に、飛行場大隊から離れて、現地自活態勢に入らねばな

らぬ。

ここに、日本軍の中で、明確に対比島住民に対する姿勢が、決って来た感じがし

た。

最後のどん底においては、比島民と協力態勢をつくっていないと、必要物資の入

手が出来ない。

勿論、この点に目をつけて、米比軍からの謀略が、ゲリラが行はれるであらう。

それを極端に拒否して、警戒して、比島の人々の接触を断ってゆくか?

または、積極的に、比島の人々と、の協同生存態勢をつくってゆくかである。

この意味で、私は後者の比島国民との協力共存態勢をつくる事にした。

ルソン島のマニラが陥落すれば、完全に、日本軍の補給は絶望となり、我々は、

ネグロス島に孤立する事になる。

日本の敗戦は、必致である。

第十三飛行団長、江山六夫中佐は、私の顔を見ると、

「杉山−、

 玉砕だ−」

と、叫ぶ。

玉砕するまで、生き、軍人としての体力、気力を維持出来るかが問題である。

如何に飢え、如何に困難があっても、生きて、生き抜いて、兵士達を日本に返す

義務が我々将校にはある。

天皇からの戦えという命令で、我々は、兵士達を預かっている。

しかし、その命令も、届かぬ孤島に孤立し、我々に残された問題は、最後まで、

日本の軍人として、立派に生きることと、生き残った兵士達を、彼等の家族の下に

帰すことだけになった。

師団司令部からの指示においても、生きるために必要な、栄養食糧を確保する

事が、指令されているが、栄養というと、ビイタミンと考えられているけれども、本質

的にいってビイタミンは、体力の基礎のものではない。

我々は、澱粉(炭水化物)、脂肪、蛋白質の三要素が、不足して来ていた。

毎日毎日、昼夜を分かたぬ銃爆撃で、野菜そのものに欠けるようになっていた

ので、既に、私の整備隊では、現地自活の一つとして菜園をつくって、兵士達の食

糧に供していた。

しかし、愈々、米軍が上陸して来れば、そのような野菜園をつくる事が出来ない。

必然的に野草で補はねばならぬ。

このため、現地住民との協力と、現地の人々の食生活、その他を学ばねばなら

ぬので、私は、現地日本人と、その家族の比島の人々と、交って、これらの研究を

進めて行った。 

戦史、特に第二次大戦における、日米の交戦の資料を調査すると、米軍は、日

本軍の飛行機が飛んでいるところには、仲々上陸して来ないという事実があった。

我々は、地上戦斗の装備も、給与、生活用具も何も、持たない部隊なので、地

上戦になれば、逃げるより外はない。

飛行機のある間は、タクロバン攻撃と、現地の匪族(ESPE)軍に対する攻撃を、

空中から行うことにして、フアブリカを守ることにした。

タクロバン攻撃は、二三日置きか、数日置きに実施して、多大の戦果を挙げ、

米軍は、必死になって、この幻の戦斗機隊の所在を確かめようと、努力している

様子であった。

毎日、昼夜を分かたず、フアブリカ基地の上空に、コルセアP47戦斗機、P38

ロッキ−ド戦斗機、コンソリデ−デットB24の偵察機が、飛んでいた。

この間隙の午前六時前後を狙って、レイテ島の各米軍基地を攻撃し続けた。

 

5、現地自活訓練の悲喜

昭和二十年一月二十三日、呂宋島のリンガエン米上陸部隊は、マニラ近郊に

達し、マニラ防衛日本軍との最後の決戦の日が近づいたが、しかし、日本軍主力

の第十四方面軍は、山下奉文中将以下は、バギオの防衛陣地に移っていて、海

軍の陸戦隊部隊や、マニラ防衛の陸軍防衛部隊が残っているだけであることに

おいて、マニラ死守を呼号していても、時間の問題であると考えられた。

マニラが陥落すると、米軍の比島解放という、大目的を達成し、我々日本軍は、

バキオを中心とする第十四方面軍の日本軍、ネグロス島の第二飛行師団、レイテ

島のカンキボット山の陣地のレイテ防衛日本軍の残存部隊等は、残敵という地位

に下落してしまい、しかも、圧倒的な米軍に対して、日本軍は、如何に善戦しても、

この態勢を回復する事が出来ない情勢となる。

特に不可解なのは、第四航空軍司令部の動向であった。

それは、第十四方面軍が、マニラ防衛をあきらめて、バキオ地区に防衛陣地を

設けるのに対して、第四航空軍司令官冨永恭次中将は、マニラ死守を主張して

いた。それなのに、米軍がマニラに迫る前、アッサリと、エチアゲ基地に、司令部

を移してしまっていることで、第二師団司令部関係者は、呆気にとられてしまった。

このような状況で、第二師団司令部は、第四航空司令部の下での作戦や、統

帥を行うことは出来ぬので、独自の判断に基づいて、行動をするものになったと

考えられる。

このため、第二師団指揮下の各部隊長の合同会議がシライの司令部で行は

れることになった。

私は、第十三飛行団司令官江山六夫中佐、飛行第三十一戦隊、西進少佐と

同行して、多分一月二十二日に、シライに到着していたと思はれる。

私が第二飛行師団司令部に、到着の連絡に行ったとき、明日の各部隊長合

同会議の前に、師団司令部作戦参謀室にて、次の事を相談受けている。

この各部隊長合同会議の目的は、第二飛行師団が、ネグロス島より撤退して、

佛印地区に転進することについての処理についての問題であった。

この件に関して、作戦室では、次のように私に伝えている。

飛行第二師団は、ネグロス島から撤収して、佛印における、南方軍司令部

(サイゴン)の傘下に入る方針である。

このために、輸送の要領は、判らぬ。

この方法は、別に示す。

飛行機を持ってゆけるものは、持って行って良い。

一、是非、第十三飛行団長の希望を聞かして貰いたい。

   指揮系統の転換、指揮の転位について、各部隊は、夫々、基地を出るとき

をもって、師団司令部の指揮から外れる。

   隼成戦斗機隊及び、隼成整備隊は、第十三飛行団に帰り、隼成戦斗機隊

及び隼成整備隊は解散

   各部隊の残置部隊のものは、第十三飛行団に入れる。

二、マナプラの人員の始末について、

   1.そのままにするか?

   2.フアブリカに集めるか?

   3.状況により御希望通りに整理する。

   4.操縦者は帰す事

三、飛行第三十一戦隊の問題

   1.フアブリカは、撤収する。

   2.サンカルロス附近に、地上部隊の拠点が出来得る案

   3.部隊を整理して、地上部隊になり、残るが良いか?

     また、マナプラに行くかどうか?

 飛行第二十六戦隊、飛行第二0四戦隊、飛行第五十四戦隊の人員について

 第十三飛行団にて必要なければ、第二飛行師団で使う。

 以上の問題において、第十三飛行団長の意図されるところを教えて貰いたい。

以上の様な事であった。

その夜、第十三飛行団長と、飛行第三十一戦隊長と、私で協議した。

その結果、飛行第三十一戦隊、第一独立整備隊、飛行第三十戦隊の人員は、

一緒に、サンカルロスに集結する事に決した。

サンカルロスとは、シライから東方のシライ山の西方の斜面の麓にある町で、

この西方斜面に、ネグロス島の残留する人員と、地上部隊が、米軍の上陸に際

しては、抵抗陣地をつくって、戦うことになっていた。

その陣地のシライ山の斜面にある町は、ギンパラオという名であったので、日

本軍では、銀波楼という名称にしていた。

部隊長合同会議の会議事項は次の通りである。

一、根本方針、永久抗戦

   1.空挺部隊は努めて撃滅する。

    (飛行場死守を消す)

   2.自動車は、緊急輸送のための統一使用

   3.飛行場大隊は、戦死場所としての所は、飛行場ではない。

   4.敵の圧迫を受ければ、通信隊のみ残して、置く

   5.敵の爆撃を透過する事、一部を残して

二、後方関係

   1.従来の命令にある、優勢なる敵に対してのものは、取消す。

   2.戦車に当りては、取消す。

   3.衛生(飛行場、デング等の記事を消す)

   4.車輌 状況により?消す

   5.敵上陸と同時、飛行団長、統一す。

   6.別紙方針を消す。

 全ての要図を廃棄する。

三、 抵抗陣地

   1.ギンバラオ案

   2.ボガン案

   3.シライ山麓をめぐる陣地

   4.シライ基地タン?基地は、最後まで維持に努力す。

   5.マナプラ、フアブリカは出来るだけ長く維持する。

四、食糧

   約一週間分個人携行出来るようにする。

五、フアブリカ残置隊

   飛行場大隊、警備隊と協力する。

   長く維持して居たい。

   最後には、一部の兵力を残して、敵の爆撃を誘致する。

六、各戦隊、将校以下八名、先発隊として陣地に出して置く

七、病者(部隊と行動出来ぬものは入る。)は療養所え

八、衛生材料

   部隊装備用衛生材料 医療器機、濾水機の整備

   マラリヤ、ビタミン剤、鎮静剤 包帯、強心剤等を準備 

九、野菜の種子を準備する。

十、ラマッチの保有、火縄の用意(椰子)

十一、各書類の処理を完全にする。

十二、地上戦斗えの切換え

 1.戦技を向上する。

 2.戦う意志、志気の昂揚

以上のようなものであった。

この各部隊長、合同会議における決議事項を見ても判るように、目標 根本

方針は、永久抗戦となっているが、従来の勇ましい、積極的攻撃や、体当り、

その他の必勝と信ずる、日本陸軍の考え方や、戦い方は、全く影を失ってし

まっていた。

問題は、永久抗戦としているけれども、永久に生きることが出来るかである。

この部隊長、合同会議において、私は、師団司令部、作戦関係と、大きな議

論をした。

「師団の方針として、フアブリカ基地を出来るだけ長く維持したいという考え方は、

私も諒解した。

このためには、飛行第三十一戦隊、第一独立整備中隊の人員は、フアブリカ

に残って居なければならぬ。

この様な状況において、フアブリカ基地から、師団司令部の抵抗陣地、ギン

バラオえ、シライ山の麓を、迂廻しながら、撤収行動をして行進する事は、約七

十qに及ぶ、距離である。

この間に匪族の攻撃もあるであらう。

また、航空部隊は、地上戦斗の武器も何も持っていない。

また、飯ごうその他の炊事、給与の道具も持っていない。

しかも、長期の航空作戦で、体力が衰えていることで、この七十qの距離、

しかも、空襲下での撤収は、困難である。

この意味で、陣地の抵抗線と、シライ山の状況を考えるとき、フアブリカ基地

から、インシュラ木材会社の軽使鉄道線路沿いに、シライ山の東側から直線的

に、後退して、抵抗戦の裏側から、師団司令部に加はる行動の方が容易である。

米軍の上陸が、如何なる地点か判らぬが、多分、バゴロド市附近を中心にして、

行はれると判断するなれば、米軍上陸の前線を斜めに行軍して、撤収するとい

う行動は、不可能に近いと考える。

この点、フアブリカ基地の部隊は、シライ山東側に集結するように処置される

ことを強く希望する。」

と、いう私の主張に対して、作戦参謀は、それは、フアブリカ基地の隊員は、

師団の抵抗作戦から、分裂する結果になるので、これを認めることは、出来な

いという決定であった。

ネグロス島における、抵抗作戦は、後に、三月末、バゴロド市南地区に、米軍

が上陸して、この上陸米軍の圧迫で、日本軍は、ギンバラオ陣地を放棄して、シ

ライ山中を、逃げ、遂に、ネグロス島東海岸地区え出て行ったということであるの

で、全く、私は、お話にならぬという印象を持った。

正に、やんぬるかなである。

戦いを知らぬ参謀との議論進言は、憎まれるだけであった。

この部隊長合同会議について、明確なのは、米軍の攻撃に対して、眞正面

からの攻撃は、全く勝利を得る公算が無いことを、司令部その他においても、

認め全く戦意を失っていることを意味していた。

日本軍の戦車砲、爆弾等で米軍の戦車を破壊出来ない事を明確に認識した

結果である。 リンガエンに上陸した米軍の戦車部隊に対して、バキオに陣地を

つくって抵抗している第十四方面軍にあった、戦車部隊は、クラ−クフィ−ルドの

平野の東側から、米軍の戦車群と決戦する態勢にあったが、日本軍の戦車は、

まるでブリキ鉄板のように撃ち抜かれて破壊されたので、鉄戦車部隊は、戦車

を捨てて、地上戦斗部隊として、戦はねばならぬ状況であった。

これらの情報と、戦況によって、第二飛行師団の部隊長合同会議においては、

米軍の戦車に対する爆弾を抱えての体当たり戦車戦斗は取消しになったもの

であった。

日本軍の戦斗方法は、残されたものは、夜間の斬込み戦斗方法によるか、ゲ

リラ戦のみとなっていた。

しかし、我々航空部隊、飛行第三十一戦隊の兵士等には、その地上戦斗を

行う能力も持っていない事を、私は知っていた。

飛行機の整備について云えば、私は日本一の技倆を持った部隊であると、自

認しているが、地上戦斗に関しては、地上戦斗を行う武器も装備も、また訓練も

無い部隊であった。 そのような部隊の兵士達に、夫々において自ら自活して生

きる能力を持たせねばならぬ。

若し、地上戦斗に入った場合、自ら自衛出来るものを持たせねばならぬ。

この点、部隊長合同会議の決定事項に関しては、私は、既に準備を進めて

いることばかりであったので、特別に問題は無かった。

さて、野草で喰べられるものを、集めて、野菜の代りにすることに、兵士達に

訓練をせねばならぬ。

在フアブリカのインシュラ−木材向上の日本技師によって、フィリッピン島に

ある草その他のよる、薬草や、食べられるものを、リストアップして、私も兵達と

共に、集めることにした。

この野草の中にスベリヒユという、松葉ボタンと、露草に似た、または、ヒョユ

草に似たものがあった。

この野草を、食べられるというので、フアブリカ町の近所で採集していたら、

通りかかったフアブリカ町在住の比島人の女性達が、皆、私達の姿を見て、ク

ス、クス笑いながら帰ってゆく。

私は、その様子を不思議に思って、現地在住の日本人を通じて、その原因

を聞いて見ると、このスベリヒユという野草は、比島では淋病のための薬草に

なるというので、日本の兵隊は、淋病になったらしいというので、皆、笑ったの

だということで、大笑いになった。

さて、この様に、現地の野草や、色々のもので、食糧の不足を補はねばな

らぬ状況になったことで、困った事が起った。

それは、兵士達に下痢が増加したことであった。

フアブリカ町には、インシュラ−木材工場に共に、ヒモガン河に沿って、フ

アブリカ町の北側に、砂糖工場があった。

その砂糖工場が、米軍の爆撃で、積んであった、何万俵かの砂糖の山に

火がついた。

その砂糖の山は、煙もあげず、約一週間以上も燃えつづけた。

火は、砂糖の山の表面全体に拡がり、熱で熔けた砂糖が流れると、それ

が燃える。

その砂糖の山が燃え終わったとき、砂糖が熔けて表面を覆って燃えたこ

とによって、内部は当然、蒸し焼きになって、活性炭になっている。

私は、その活性炭に眼をつけて、砕いて下痢剤とした。

兵士達が、この下痢剤を使用したので、私の部隊の便所が、眞黒黒に

なってしまった。 さて、十二月以来、兵士達の体重を計って、体力の状況

を検査し、弱ったものを医務室にて、休養させた。

一月末になって、瀧井軍医少尉が私のところに来て、

「杉山隊長!

体の弱ったものを医務室に休養させて来ましたが、どうしても、体力の 

回復しないものが居って、弱っています。

これらの兵士達をどうしますか?」

と、いう相談である。

それは、私にも判らぬ。

しかし、何とか、体力を回復させねばならぬ。

それでないと、あと、一ヶ月か?二ヶ月で、地上戦斗に移る、米軍の上陸

が近づいて来ている。

米軍が上陸すれば、必然的に休養させている訳にゆかず、夫々、自ら生

きて、或は戦うはねばならぬ。

体力が弱っているということは、理由にならぬ。

しかし、軍医は、方法が無いという。

私は、仕方が無いので、その兵士達に会うことにした。

その兵士達と、医務室の休養室に集めて、人事係の高橋准尉と共に会った。

兵士達は、私の周囲に並んで座り、夫々、口々に、私に云った。

「隊長!

 私達は、何んで、体が弱るのか?

 自分達でも判らんのです。

 軍医もあらゆる方法で、充分な処置をして呉れているのですが?

 私達も、一日も早く元気になって、部隊に帰って、皆と一緒に働きたいです。」

と、云う。

私は、笑いながら、

「是非、そうなって欲しいね!」

と、云いながら、彼等を見廻した。

彼等は、満州から、この比島まで、共に、寝食を共にし、共に戦って来た人々

である。 彼等は、何処が悪いとか、痛むとかいう自覚症状は無い。

私は、彼等と、雑談をしながら、一人、一人を良く見ていた。

しかし、原因が判らない。

十分、二十分、三十分、否一時間、一時間半と、時間が過ぎて行った。

何度も、何度も、彼等をみている内に、ふと、彼等が緊張を解いて、雑談を

始めたとき、私に、一つの感じが受けとめられた。

私は、彼等を解散させて、人事係の高橋准尉に、彼等の身上調査書を持っ

て来させて、一人、一人の経歴を調べて見た。

その結果を?に記すと次のようになる。

一、末っ子

二、都会の子

三、祖父母に育たれた子

四、大変富裕な家庭で育った子

五、子供の時から偏食していた子

六、小さいときから我侭一杯に育った子

七、両親が、二、三、四、五歳または児童の時に、野菜とか、果物とか、新鮮

なものを食べさせなかった子

等々であった。

私が、二時間近く、彼等に会って居て、私に感じられたものは、何処か?一

種の幼さといったものであった。

さて、この幼さというもの、胃腸に、食糧の粗末なことを、消化する力、或は、

消化液が何か欠けているのかも知れぬ。

それを治す薬は、医薬品では、何もない。

かと申して、良い食糧を得ることは出来ぬ。

方法は、全く無かった。

私は、ふと、思いつきであったが、フアブリカの住民は、毎朝、椰子の樹に出る、

花柄が、苞から出るとき、その先端を切って出る汁からタンニンを除いて、椰子

酒をつくる。 朝の時間、採集したものは、甘い汁である。

花、そして、果実になるものであるので、成長ホルモンや、その他が含んでい

るのであらう。

これを、朝、夕、飲まして見たらと思った。

試みに、休養室の兵士達に呑ませて見ると、約一週間で、彼等は回復して、

消化が良くなり、体重も増加して行った。

この試みは、成功したので、飛行第三十一戦隊の整備隊々員に、朝夕、この

椰子酒を呑ませることにした。

 

6、幻の戦斗機隊の終焉

昭和二十年一月二十三日のネグロス島、第二飛行師団傘下の各部隊長合

同会議において、各部隊は、米軍の上陸に備えて、地上戦斗に入る態勢をつく

る事になった。

此の会議において、隼戦斗機隊及び隼成整備隊も解散し、元の飛行第十三

飛行団と、飛行第三十一戦隊に戻ることになった。

しかし、第十三飛行団の傘下である。マナプラの飛行第三十戦隊は、レイテ

総攻撃に参加せず、遠く呂宋島の更に北の台湾に居るらしいということであるが、

消息不明である。 残っているのは、飛行第三十一戦隊のみである。

飛行第三十一戦隊として、現在保有している一式戦斗機は、既に九月からの

連続した戦斗、作戦に参加して、弾痕だらけのみならず、オ−バ−ホ−ルも充

分にやっていないので、ガタガタになっていた。

飛行第二師団の各基地に在った、隼部隊を調査すると、バゴロド飛行場に、

幾多解散して行った。一式戦斗機が、数機あることが判った。

この飛行機を、飛行第三十一戦隊で貰うことになった。

各部隊長、合同会議で、一度、フアブリカ基地に帰還した後、杉田准尉(現多

田)以下、北村大尉に指揮させて、これらの飛行機を調査して、フアブリカ基地

に運ぶことになった。

確か私の記憶では、二機、剣持曹長と、福山軍曹で、フアブリカに移動させ、

他は、飛行出来ない状況なので、分解して、貨物自動車で運び、フアブリカ基

地にある、修理している飛行機に使うことにした。

私は、シライに在る、飛行第二師団司令部に行って、これらの飛行機の問題

や、地上戦斗の作戦、特に、フアブリカから、ギンバラオ陣地えの移動問題、そ

の他の事で、作戦参謀と打合せをしていた。

しかし、私の体は、完全に変調していた。

各部隊長合同会議に出席して、いうなれば、元気で顔を合はす、最後の会合

であるので、師団司令部において、酒宴が開かれた。

この席上で、無理に酒杯をあげさせられたのがたたったらしい。

師団司令部の便所に行って、放尿すると、私の尿は眞赤になっていた。

疲労による、血尿が出ているのである。

体、全体が微熱が出ているのか、だるくてたまらぬ。

首、肩、腰が、こちこちに張ってしまっていて、息をするのも苦しい。

私は血尿を見て、さて困ったことになったと思った。

歩くのも苦しい状況で、便所から司令部に戻ったら、バゴロドの陸軍病院から

の電話であるという。

電話に出ると、飛行第三十一戦隊の軍医である、瀧井少尉からであった。

何事かと聞くと、バゴロド飛行場に派遣していた、隼戦斗機を移転する整備隊

員が、米軍の銃爆撃を喰って、その中で藤久栄軍曹が重傷を受けて、バゴロド

の陸軍病院に入院しているということである。

負傷の状況は、肩を斜めに射ち抜かれて、腋に淋巴球が飛び出していて、

重態であるという。

そして、藤久軍曹が、私に会いたがっているから、至急来て呉れということで

あった。

私は、電話ですぐそちらにゆくと、返事をして、司令部を出て、自動車班に行

ったが、あいにくと、師団司令部の自動車は、全部出払っていて、一台もないと

いうことである。 何処かに、自動車は無いかと、司令部関係の各部隊を訪れる

が、何処にも無い。

司令部え帰りかかっているところに、伝令が来て、又、私に電話だという。

電話に出ると、瀧井少尉の声で、藤久軍曹が、愈々危篤状況になって、しき

りに、私に会いたがっていつから、すぐ来て呉れという。

「判った、すぐ行く」と、返事をして、司令部を出て、シライから、バゴロドえゆく

街道に出て、道路を走る自動車を捉まえるつもりで、やっと、街道の傍に立って

いるが、どの自動車も、私が手を挙げても、止らぬ。

私の手をあげるタイミングが悪いのか?

自動車を捉まえることが出来ないで、路傍に立ったままであった。

私は、バゴロドの方に行く自動車を捉まえるため、バゴロドと反対の方のみに、

気をとられていたら、バゴロドの方から、一台の自動貨車が、走り去り、その運

転台に、瀧井少尉らしい人が乗っていた。

私の方をチラッと見たように感じたが、その侭走り去ってしまった。

私が、夕暮になって、やっと、自動車を捉まえて、バゴロドの陸軍病院に着い

て見ると藤久軍曹の遺骸は、瀧井軍医少尉が、自動貨車に乗せて、帰ってし

まったということであった。

私が司令部に居るので、自動車の便があると思って、私を迎えに来ることは、

考えつかなかったのであらう。

私も、迎えに来いということを忘れていたように思う。

今の私には、バゴロドの陸軍病院を訪れて、空しい白いベットが残っている

だけで、多くの負傷者、病人を抱えて、忙しい病院関係者は、単に、瀧井少尉が

引取って帰ったということだけの返事であった事が、空しく、記憶に残っている。

私は、長い長い、悪戦苦斗によって、心身共に、疲れ果ててしまっていた。

しかし、隊長という立場、しかも、敗戦という状況での情況判断は、誰も予測

はしていない。

日本陸軍は、戦勝のみの、必勝という固定勧を持ち、敗戦というものを予測

したり、また、敗戦によって、到来して来る事態に、処する方法を知っていない。

隊長というものは、独逸の戦艦、シュペ−号の艦長が、自沈の決断をしたとき、

隊長、指揮官というものは、孤独であって、決断は、誰にも相談することの出来

ないものであるということを云っているが?

軍艦の場合、自沈という決断をすれば良い、その一瞬の決定によって、決る

が、比島の敗戦で、しかも、多くの部下、兵士を救うという手段、方法を選ぶも

のは、瞬間的な決定のみでなく、誰も、自覚のないものえの予測に向って、自

分で判断して、決定をしてゆかねばならぬ。

部下の人々は、事態が、そのように迫って来ていることの自覚は、全くない。

飛行第三十一戦隊の立場は、飛行第二師団司令部の決定によって動かさ

れる。

しかし、第二師団司令部作戦参謀室においても、情況判断が出来ない状況

になっていた。

日本陸軍のバゴロドのみでなく、ネグロス島における、各部隊の中に、占い

が、大変流行していた。

わけても、コックリさんという狐つきの占いが、流行し、師団司令部の命令よ

り、このコックリサンの占いによってと、いう動きがあって、既に、師団司令部の

命令によって、動かぬ部隊も生まれて来ていた。

このような状況で、如何に、飛行第三十一戦隊の行動、志気を維持して、

最後まで、日本軍部隊としての面目を保って、しかも、生きながらえさせるか

の方策を、見出し、決断してゆかねばならぬ。

私自身、自分の体内に、一種の自壊、崩壊作用が、心身共に起こって来て

いるのを痛感していた。

それが、血尿という形で出て来て、全身に微熱が出て、動けないような状況

になっていた。

藤久軍曹は、非常に素直な、眞面目な性格の人であり、彼は、初年兵より、

私の少尉の時代から、同じ部隊に寝食を共にして来た人である。

彼が、最後に、私に会いたいと、せがんで、願った気持ちは、私の心に、矢を

打ち込まれたような、痛みとして、今も残っているが、運命というのか? 

彼の最後には、遂に立会することが出来なかった。

しかし、私としては、このような悲運と体になっても、隊長としての姿を崩す

ことは出来ない。

隊長という職務は、如何に悲惨な状況になっても、隊長という姿勢は崩すこ

とは出来ない。

隊長は、隊長であって、何物でもない。

そこに、人間的な悲衰があっても、それを外に示すことは出来ない。

藤久軍曹の死は、私に、そのことを心から味はせるものがあった。

しかし、敗戦と米軍の上陸が迫って来ている状況で、航空部隊として、最後

まで生き残らせる訓練と態勢づくりは、兵士達には、苛酷であらうが、精神的に

も、肉体的にも、米軍の攻撃によって、もっと悲惨な状況に陥り、兵士一人一人

で生きてゆかねばならぬ状況が近づいていた。

飛行第三十一戦隊は、次の機種改変は、四式戦、大東亜決戦号という戦斗

機である。

この戦斗機の発動機の廃品になったものを貰いうけて、私の整備隊で、研究

会を行ったのも、一方には、万一の希望を持たせ、志気を維持して、心に張りを

持たせると共に、一方では、背嚢の代に、背負い子をつくったり、火縄の保持器

をつくたっり、携行食塩をつくったりした。

特に、フアブリカ町は、シライ山の山岳地域と、ヒモガン河の河口の海岸地

区からの、いわゆる海産物と、山地産物との、物々交換場所であったので、日

本陸軍が占領するまで、市場が開かれていた。

飛行場大隊長は、極端に、現地住民との接触を嫌い、現地住民のスパイ活

動を心配したが、私は、市場を開いて、山手、海手から来る現地の住民に、通

行証を発行して、通過させて、整備隊の兵士で、通行をチェックさせた。

妙なもので、現地の住民は、大変喜んで、その通行チェックの場所に、持っ

て来た市場で売るものの、一割に近いものを、黙っていても、置いてゆく。

また、これらの住民からの情報で、何処に病人が出ているというと、瀧井軍

医を中心として、医療班をつくって、治療に当たらせた。

現地の住民は、大変喜んで、色々食糧その他を、お礼に持って来たので、

食糧も大変助かったし、兵士達も、現地の住民との接触で、いわゆる現地慣

れや、生活の方法を知るようになって行った。

これらの現地自活と、来るべき、米軍の上陸による地上戦斗の訓練、陣地

のつくり方などの訓練をやりながら、飛行第三十一戦隊は、間隔的であったが、

タクロバン攻撃を敢行していた。

米軍の方も、この奇襲について、幻の戦斗機隊という名称は与えているもの

の、台湾、ボルネオ等から長駆攻撃して来るものではないと、判断したのであら

うか?

昼夜を分かたぬ警戒編隊を、フアブリカ上空に飛ばして、コンソリデ−デット

B24の編隊での、滑走路破壊や、大量のモロトフ、パン篭という、上空で分散し

て、夫々落下傘で降下し、地表に着く衝撃で、爆発する人員殺傷の爆弾を投下

して行った。

これらの爆撃は、米比軍の通報があるのか、フアブリカ町の比島の人々住ん

でいるところを避けて、日本陸軍の住居地区、本部、その他のところに集中して

いた。

飛行第三十一戦隊が本部にしていた、インシュラ木材工場の米人宿舎の近

くに、小学校の建物があったが、米軍側は、この小学校の校舎を、我々の本部

があると、誤認したのか、この小学校と、その周辺を爆撃した。

この校舎が、破損し、また、教会も、粉砕されてしまったので、校舎にある、ブ

ラスバンドの楽器や、地理、理科用の掛図、その他の教材を、整理して、現地

の住民、小学校の校長に、引渡すことにした。

整備隊より、その作業の人員を出してやることになり、午前中から、作業隊

が行っていた。

私は、午前中、破壊された、滑走路の修理状況を点検し、戦隊本部に帰って

昼食を摂って、愈々次の作業に行こうとして、戦隊本部を出て、道路に出たとこ

ろを、シライ山の方から、ノ−スアメリカン、B25が編隊で降下して来るのが見え

た。

モロトフのパン篭爆弾による攻撃である。

先頭の一番機から、爆弾が下されると、百米くらいの高度で、数個に分れ、

その数個のものが、又、数十個の小型爆弾になり、小さな落下傘をつけて、降

下して来る。

爆弾が吊り下っていて、その最下部に、弁のような信管がついているが、そ

れに触れる瞬間、爆弾は、爆発して、無数の小片の鉄が飛び散るようになって

いる。

普通の爆弾は、地中に潜って爆発するために、地中の爆発点から地上に、

爆発の及ぶ角度が出来るので、地上に伏していれば、直撃以外は助かる。

しかし、このモロトフのパン篭の爆弾は、地表で触れた瞬間爆発するので、

地表水平に爆発が及び、かくれることが出来ない。

轟然と、我々の上空低く、ノ−ス、アメリカンB25の爆撃編隊が、次々に通

りすぎて行く。

モロトフのパン篭からの爆弾は、空中を落下傘で降りて来るので、その時

間頭をあげることが出来ない。

私は、道路の横にある溝の中に、ひれ伏して、爆弾の落下を待った。

二、三分、何秒かの間であるが、爆弾に慣れていて、瞬間的に動いていた、

私の神経には、大変長い時間に思え、溝の中にひれ伏していることを自覚す

ると、全身に恐怖感が走る。

ようやく、落下傘が地上に着いて、破裂する音が去って、頭をあげて見ると、

次の編隊が近づいて来ている。

戦隊本部のある丘陵地区だけでなく、兵士達の宿舎の附近の上空にも、

編隊が通って、落下傘爆弾を投下して行った。

米軍の全編隊が、東北の空に去った後、戦隊本部の方の異常のないの

を確かめて、私は、飛行第三十一戦隊の兵士達の宿舎の方に馳せつけて

行った。

北村大尉以下、将校は全く武装をつけないで、慌てて、退避していた状況

で、宿舎の前で、雑談をしていた。

私は、先づ異常が無いかを調べたら、日直将校が、両手をポケットにつっ

こんだまま、多分異常は無いでせうという。

私は、多分とは何事か?

全員を集めて見ろと、叱って、全員の点呼をとらしたら、異常は無いという。

私は、北村大尉以下、将校、下士官、兵達を集めて、

「本日は、異常が無いが、皆も、戦況は判っているであらう。

地上戦斗に、遂次移ってゆかねばならぬが、米軍航空部隊の攻撃が

あったとき、米比軍は、フアブリカの周辺に迫って来ている状況において、

このような空襲があったときは、米比軍が、攻撃をかけて来るか判らぬ。

これからは、何時でも、対応する処置をとれる考えで、やってゆかねば

ならぬ。

特に、日直将校は、ポケッとして、ポケットに両手を入れて、報告するよう

な事では、駄目である。

万一の場合を考えて、警戒兵を出したり、連絡を出したり、また、日直の

ものは、直ちに武装をして、対応するくらいの心懸けでないと、手遅れで、

全員、戦死するということになる。

今は、爆撃を避けるため分散しているので、各個に襲撃されたら、一と

たまりも無い。 この事を考えて置かねばならぬ。」

と、注意して、フアブリカ町の中にある、飛行第十三飛行団司令部を訪問して、

戦隊本部に帰った。

恐らく、午後四時を超えた頃であったか?

日直将校の見習士官が、日直下士官と共にやって来て、小学校の作業に

出していた、分隊の中に、先き程の爆撃で、戦死者を出したという。

死体は、何処にあるかと、問うと、医務室の方にあるという。

私は、しまったと思った。

小山高志一等兵は、小学校の教材を整理のため、小学校の校舎の中で

働いているときに、ノ−スアメリカン、B25の攻撃を受けた。

作業班は、小学校の校庭にある防空壕に逃げ込んだが、壕が狭くて、充

分かくれることが出来ない。

第一編隊の攻撃は、この壕で避け、第二編隊の攻撃の間に、若干、爆撃

の間隔があったとき、突然、恐怖に襲はれたのか?

分隊長が、「出るなっ−」と、叫んだとき、壕から飛び出して行ったというこ

とである。

彼の死骸は、壕より、約二百米離れたところで、全身に、爆弾の破片を受

けて、倒れていて、手のつけようも無く、急いで、医務室に担ぎ込んだが、出

血多量で、死亡したということであった。

彼の体を調べると、全身に、爆弾の破片を受けて、無数の破片が入った

傷口があり、処置の仕様が無かった。

恐らく、爆弾が爆発したとき、走って、逃げているときであったのであらうか?

その夕、この遺骸を、小学校の校舎の破壊された木片を集め、地上から

二米程の高さに積みあげ、その上に遺骸を載せ、ガソリンをかけて、私が火

をつけて、荼毘に付した。

私が、木片をつないで、薪木の山より離したところに、火口をガソリンでつくり、

火をつけると、夕闇に、青白い焔があがって、薪木の山に燃え移り、瞬間、薪の

山が、青白い焔の塊りとなって、天空に昇り、ボッと大きな音をたてて、紅蓮の

焔に代り、火の粉を吹きあげて、燃えあがって行った。

私は、立会した、整備員の全員に向って、

「皆、良くこの火を見ろ−、

 これが、最後の火である。

 人間は、生きている魂の中に、この火はある。

 小山一等兵は、彼自身、この比島で、好んで死んだのではない。

 我々も、好んで、ここに来たのでは無い。

 しかも、日本人と生れ、日本の陸軍に参加したことでの運命において、ここ

に、死んだ。

 彼は死んだが、我々は生きている。

 今、彼を焼いている火の色、光を忘れるな。

 運命は、我々の生命、魂に、何を与えるか判らぬ。

 しかし、生命ある限り、この火の光を忘れるな!」

と、云った。

飛行第三十一戦隊は、バゴロド飛行場から持って来た飛行機、隼戦斗機を

加えて、約十機によって、間隙を縫って、タクロバン基地群、米軍陣地えの攻

撃を続けた。

遂に、二月下旬、マニラの第一線を突破されたが、我々は、タクロバン攻撃

を続けて行ったので、、レイテ島の米軍司令部は、幻の戦斗機隊狩りを始めた。

昼夜を分たず、フアブリカ飛行場上空には、米軍の戦斗機哨戒機が飛び廻り、

夜間は、夜間戦斗機や、マンソリ、デ−デットB24が、飛び、灯火のあるところは、

銃撃して行った。

遂に、コルセアP47戦斗機の編隊機が、二十機の編隊で、フアブリカ基地の

銃爆撃を始めた。

そして、三月八日、フアブリカ飛行場のみならず、周辺のジャングルや、樹蔭、

その他、飛行機を匿していると思はれるところを、全部銃撃して行った。

我々は、出動しない飛行機は、全部燃料を抜いて、燃えないようにしていて、

飛行場には、囮りの破損した飛行機を置いていたが、それらもかまわず、無差

別に銃撃していった事で、殆どの飛行機に被弾し、特に致命傷なのは、夫々の

飛行機の発動機のシリンダ−部に鉄弾を受けたことで、処置のしようが無かった。

遂に、出動出来る飛行機は、一機も無い状況になり、僅かに、破損した飛行

機の発動機、胴体、尾部を寄せ集めた、幽霊飛行機が残ったが、その二機も、

一機は、全く振動が激しくて、飛行は無理であり、残りの一機も、長時間の飛行

は出来ても、出撃する能力は無い飛行機であった。

ここに、飛行第三十一戦隊は、出動可能機が完全に0となってしまった。

幻の戦斗機隊は、遂に終わってしまった。

 

7、飛行第三十一戦隊の最後

昭和二十年一月二十三日に行われた、飛行第二師団司令部を中心とする、

ネグロス島に在る各部隊長の合同会議にて、比島作戦における終局が近づい

ていることにおいて、米軍のネグロス島えの上陸作戦が近接して来たことが覚

悟され、これに如何に処置するかの大綱が示された。

しかし、飛行第二師団司令部としては、飛行第二師団の飛行各戦隊、飛行

団を如何に再生するかの問題も考えられて、師団司令部の作戦参謀、野々垣

中佐主任参謀をシンガポ−ルの第三航空軍司令部、及び南方総軍司令部と打

合せに派遣されていて、折衝が行はれていた。

二月中旬であったと記憶しているが、飛行第三十一戦隊と、第十三飛行団は、

ボルネオのクチンに、第一次集結して、昭南(シンガポ−ル)を経て、佛印のマ

ンコンク−ナンにおいて、再建する事に決定していた。

このための、飛行第三十一戦隊の転進準備が進められていた。

その内容は次のようなものであった。

転進準備の内容

 (デルモンテ、ミンダナオ島の人員については、師団司令部によっての指示

による)

一、空中転進、(飛行第三十一戦隊残存隼機)

   西進戦隊長、剣持曹長、成沢軍曹

二、第一次輸送人員 十名

  長北村大尉

   小出中尉

   高橋准尉、多田准尉

   花元軍曹、番田軍曹、小山軍曹

   古川軍曹、福山軍曹、都築軍曹

三、第二次輸送人員 十一名

  長 篠原少尉

    松村准尉、宮沢曹長、山崎、高岸、熊谷、青山、都田、春名、掘井、戸井

四、残置隊

  長、西山中尉、副、久保木少尉 二十五名

   第一分隊

    長、川野曹長

    隊員、田中曹長、松沢軍曹

       館山、寺沢、佐藤、小暮

    随行、塚原曹長

   第二分隊

    長、鈴木曹長

    隊員、飯野軍曹、早川伍長

      青山候補生、塚木、芳賀、野瀬、志野、永瀬、小川、熊谷、坂田、

大橋、野口

第十三飛行団長、江山六夫中佐命令

 1.自今、隼成戦斗部隊の軍隊区分を解く

 2.第十三飛行団司令部、飛行第三十一戦隊の左記人員は、シライに集結

待機すべし

司令部 五名

   飛行第三十一戦隊、戦隊長以下十名

 3.成谷少佐は、飛行団残置隊長となり、現任務続行すべし

飛行第五十四戦隊、第五十五戦隊、 第七十一戦隊は、飛行第二師団直轄

部隊となる。 

飛行場大隊の大隊長が、病院より帰還したので、飛行団司令部の残置隊は、

飛行場大隊の指揮下に入り、成屋少佐は、前進人員となった。

それと同時に、飛行第十三飛行団司令部付となっていた、西山中尉は、飛行

第三十一戦隊に帰って来た。

問題は、飛行第三十一戦隊の残置隊員は、飛行第二師団司令部の下に入

るため、ギンバラオのシライ山中の陣地まで、フアブリカ町から、山麓を行軍して

ゆかねばならず、その体力があるかどうかを、選別して、行軍に耐えないものは、

別行動で、先きに、輸送しなければならぬ事であった。

この選別をすると、次の様になった。

石本、安井、大山、吉井、桑(又は兼)村、小堀、青木、加納、宮永、稲垣、園田、

永瀬、川勝、青木、間々田   十五名

第一次空輸、第二次空輸隊員は前記の通りであったが、是非、飛行第三十一

戦隊の再建のために、コンポンク−ナンえ前進させたいと願ったのは次の人員で

あった。

 将校、篠原、瀧井、吉野

 電気、赤松、重村

 武装、山崎、青

 機関、青木、大橋、菊地、平井、堀井、大島

 無線、高藤

 下士官、相馬、渡辺、岩井、松村、谷中、宮沢、戸井、都田、春名、山本、丸田

飛行第二師団司令部は、ボルネオのクチンにある、飛行第十飛行団(飛行第三

十一戦隊が、満州の嫩江基地で属していた、飛行団)から、その傘下の戦隊が、

サンダカンにあって、飛行第二師団傘下の第十五戦隊司令部偵察機隊の輸送

隊が居て、第十飛行団の輸送隊と協力して、我々の脱出に協力する事になって

いた。

この輸送が、米軍の厳重な警戒と哨戒をくぐって、何処まで、我々の転進が可

能であるか、予想がつかなかった。

このように、予想のつかない状況で、残置隊と、輸送人員を決定する事は、困難

であったが、一応、大体の予定をつくった次第であった。

この様な予定をつくったとき、西進戦隊長から、私に対して、この計画には、私が

入っていないことを指摘して、私は、第一次隊より、先きに、転進すべき命令を受け

た。

日本陸軍の航空部隊の規則では、整備隊長は、戦隊の移動の場合、戦隊長より

先きに、転進して、戦隊の移転についての準備をするようになっている。

私は、満州から、比島に移動して来るときにおいても、敢えて、この原則、規定を

無視して、地上移動部隊と同行して来た。

私は、飛行第三十一戦隊の整備隊々長として、既に敗戦を覚悟して、比島えの

移動において、潜水艦の攻撃を予測していたことで、敢えて、このような行動をした。

私は、既に、十二月に、第五十四戦隊の蔵前大尉が転勤したとき、当然、私にも、

命令が出ていることを予測し、陸士五十五期生の北村大尉が着任していたので、

当然、彼と交替すべきであったのに、幸か不幸か、飛行第十三飛行団々長、江山

六夫中佐の懇望を容れて残ることにした。

軍人として、敗戦を覚悟しているものとして、少尉時代から、寝食、戦場の苦難を

共にして来た、飛行第三十一戦隊の残置隊、移動に、米軍が上陸して来て、悲惨な、

苛酷の状況になるであらう事態において、私自身が如何になろうとも、出来るだけの

事を生命が尽きるまで努力したいというのが、私の願いであった。

私は、西進戦隊長の命令は、命令として、素直に受けることを承諾した。

しかし、その通りに実行するかどうかについては、具体的に状況が決ったときで、

決心すれば良いと考えていた。

三月八日、飛行第三十一戦隊の飛行機は、全く無くなって、一機の幽霊飛行機

一台になってしまった。

三月十日、遂に、飛行第二師団司令部から、飛行第十三飛行団及び、飛行第

三十一戦隊に転進命令が出た。

私は、二月末につくった、残置隊と前進する人員を発表し、そして、自動貨車で

輸送する、身の弱い兵士達の処置について、発表しなければならなかった。

この発表をしたとき、飛行第三十一戦隊の整備隊の隊員から、一斉にうめき声

と、嗚咽があがった。

満州から、いや飛行第三十一戦隊創設以来、生死を共にして来たものが、共に

最後まで、死まで、戦友としてゆくことを誓い合ったものが、ここで、別れねばならぬ。

残るものは、米軍との死斗と、飢えとの戦いで、生存出来るかどうかも判らぬ。

転進するものも、一歩先きは、全く闇である。

親兄弟よりも、死すべきときは、共にと誓いあったものが分れねばならぬ。

私が、発表して、隊長室に引きあげた後、隊員から、何人もの、意見具申を申

出るものが来た。

その中で、体が弱く、自動貨車で、先発輸送される兵士の班の下士官のもの

が、私のところえ、次のような申出をして来た。

「隊長、彼は、初年兵のときから、私の班に来て、私と生死を誓った間柄です。

どうか、最後まで、一緒に居てやりたい。

 それが、戦友というものでないでせうか?

 是非お願いします。」

と、いうものがあった。

整備隊は、誰からともなく、隊員室に集り、決別の宴をする準備に入っていた。

私は、その下士官を連れて、隊員室に行き、全員を座らせて、次のように話した。

「今、体が弱くて、先発するもの兵士と、最後まで、居て、生死を共にしたい

という申出があった。

 この申出と、皆の戦友愛に、私は、心から嬉しいと思う。

 しかし、このフアブリカ基地から、師団の防衛抵抗陣地まで、約70q行軍を

しなければならぬ。

 多分、街道は、米空軍の攻撃、また米比軍の襲撃もあるであらう。

 食糧、その他を背負っての行軍は、体力の弱いものには、無理と判断した。

 米軍の攻撃、米比軍の襲撃の場合、部隊は、急いで、陣地の方に退避行動を

とるとき、体の弱いものは、落伍することになる。

 皆も、飛行隊員が、空中戦斗で戦死した遺骸を収容して、知っているであらう。

 米比軍から、なぶり殺しにされる危険性がある。

 それにかまっていると、部隊全部の危機となって、全滅えの道となりかねない。

 皆が戦友としての気持ちは判るが、このような最悪の場合に、自ら自決するか、

または、死にきれないものは、射殺してゆかねばならぬことになる。

 若し、そのような最悪の場合、戦友の自決を助け、射殺出来る勇気があると

いうものがあれば、私は許可する。

 私自身、そのような勇気は、持ち合わせていないと、思う。

 そのため、このような、最悪の事態に、如何に処するかと、考えての処置である。

 どうか、皆判って欲しい。」

と、話したとき、全員がお互いに抱きあって泣いた。

私は、泣く訳にゆかぬ。

しかし、この話によって、全員の覚悟が決まったようであった。

第十三飛行団長、江山六夫中佐、飛行第三十一戦隊の西進戦隊長は、確か

三月十三日頃、フアブリカを出発した。

飛行隊の成沢軍曹は、只一機残った、ガタガタの幽霊飛行機によって、一気に、

ボルネオ島のタワオ、または、サンダカンの、日本軍基地に飛ぶことになった。

午前六時、成沢機は、まだ、ヒモガン河の河面から、薄いモヤのあがるとき、飛

行第三十一戦隊の戦隊マ−クの、雷光のしるしをつけた機で、飛び立ち、フアブリ

カ基地の上を二周して、シライ山の北斜面の雲の下の深い緑の背景の中に、朝の

旭光を浴びつつ、西の空え飛び去って行った。

さて、飛行隊と、飛行第三十一戦隊の本部人員と、先発人員は、出発して行き、

シライ町に待機する事になった。

私は、これら、飛行隊、戦隊本部、先発人員の出発の後の不安情況になった、

残置隊のため、残留した。

第一次輸送人員、及び、体の弱いものの輸送と共に、シライに前進することと

した。

西進戦隊長は、私が残留するのであるまいかと、目を三角にして、私に必ず、

シライ町の第二師団司令部に来ることを命じた。

飛行第三十一戦隊は、戦隊本部、飛行隊員、先発人員が居なくなると、何と

なく、ガランとした気になって行った。

遂に、私は体の弱いものを引率しての、瀧井軍医少尉と、同行して、シライの

飛行第二師団に、出発することになった。

見送る、残置隊の人々には、何と云って良いか?皆無言で、私を見送ったのを、

私は、彼等の顔を今も忘れない。

シライ町に着き、瀧井少尉等と別れることになり、私は、飛行第二師団司令部

に行き、戦隊長、飛行団長に会った。

私の持っているものは、整備日記と、戦隊の戦死者の遺品の入った、鞍一つ

である。

軍刀と、一本の杖だけを持って来た。

ここで、一つの事件が起きた。

飛行第三十一戦隊の西山邦夫中尉が、突然、航空補給廠付に、転任になり、

また、塚本兵長の戦死事件である。

私がフアブリカ基地を出発するとき、飛行場大隊の、サガイ町警備中隊より、

飛行第三十一戦隊が、戦斗機より下した、機関砲を、譲って欲しいとの希望が

あり、この操作の訓練のために、一人の兵をつけて欲しいとの希望があった。

私は、確かに、それを許可した。

そして、その訓練のため、三日か四日の時間を限っていたように思う。

私が、フアブリカ基地を出発して、基地周辺の米比軍は、俄然活発化したよう

である。 三月十九日、早朝、サガイ町の郊外にあったダサロン警備陣地に対し

て、米比軍が、一斉に攻撃を始め、烈しい射撃戦になったという。

塚本兵長は、改造機関砲により、奮戦中、米比軍の弾丸が頭部を貫通し、壮

烈な戦死を遂げたということであった。

三月十九日の出来ごとであった。

私は、急遽、フアブリカに引返すことにした。

残置隊長である、西山中尉の転属の事件と、塚本兵長の戦死は、残置隊に

動揺があってはならぬと考えたからである。

第二飛行団司令部の参謀、鈴木少佐に会って、私がフアブリカに引返すことを

申告したら、必ず、師団司令部に戻って来るようにとの厳命を受けた。

西山中尉は、三月二十二日付で、航空修理廠に転勤になり、私は、二十三日

夜、フアブリカに帰り、西山中尉と、久保木少尉との交替を命下して、残置隊の

人々に、安心させ、動揺のない事を見定めて、西山中尉と同行して、シライに引

返した。

その出発のとき、フアブリカの残置隊にて、井出衛生准尉が、私に一片の紙片

を示し

 「暮れるビサヤの一孤島

    眞白き中に、紅に、染まりて倒れし、

    戦友の、残す言葉や、忠節の、

    君が為、何か命は惜しからん

    只思はるる、国の行く末。」

と、あった。

私は、井出准尉の手を握って、別れた。

さて、飛行第三十一戦隊の人員の転進は、飛行第十五戦隊の輸送機二機で

行はれる予定であった。

輸送期間は、三月二十六日〜四月五日まで、輸送人員は、九十六名、内、飛

行第三十一戦隊は、四十八名であった。

一回の輸送人員は、六名である。

荷物は、五s以内と制限した。

セレベス島に、昭和十九年八月の末、飛行第三十一戦隊は、メナド基地に展

開していたが、飛行第二師団命令で、この人員は、全員、陸路マカッサルに移動

し、その港から、巡洋艦足柄で、シンガポ−ルに送ることになっていて、既にメナド

を出発して、マカッサルに向いつつあった。

飛行第二師団司令部、第十三飛行団の命令で、私は、速やかに、ボルネオの

サンダカンに行って、師団司令部の野々垣参謀と共に、空輸機の準備に当ること

を命令されていたが、残念ながら、ボルネオ地区の輸送機が事故を起し、ネグロ

ス島に来ないので、その処置が出来ないのみならず、飛行団長、江山六夫中佐、

飛行第三十一戦隊、西進少佐も前進出来ない状況であった。

私の最も気がかりな事は、フアブリカ基地から、シライ山の陣地に、地上を行

進して来る残置隊が、無事到着するか否かであった。

先発の体の弱いものは、無事陸軍病院に収容されて、病院の手助けをし、瀧

井少尉も、陸軍病院の手助けをしていることが判って、安心した。

飛行第三十一戦隊の整備隊のもので、最後の基地となる、サラビヤ、タリサイ

の飛行場に、協力人員を出していたが、第二飛行師団司令に申込んで、司令部

の近くの部落、タリサイの町の空屋を借りて、師団司令部の給与を受けるように

した。

飛行第十五戦隊の輸送は、私の同期生の影山大尉が隊長であったが、次々

に輸送機が故障したのみならず、サラビヤ基地に到着する時間が夕暮より、少し

早かったため、米軍のP38ロッキ−ド戦斗機の哨戒にひっかかり、一機、目の前

で撃墜されてしまった。 私は、第二飛行師団司令部、第十五飛行戦隊、そして、

ギンバラオ陣地に入る地上残置隊員えの処置、その他の事があって、毎日忙し

い日を送っていた。

ボルネオの第十飛行団、元飛行第三十一戦隊の所属していた飛行団である

ので、飛行第三十一戦隊の人員を救出転進を助けるため、九七式重爆撃機で

迎えに来て呉れた。

しかし、この飛行機は、飛行第二師団司令部の人員に振りかえられてしまっ

たので、僅かに、飛行団長と戦隊長のみが、搭乗を許された。

江山六夫中佐と、西進少佐は、大変憤慨して、どうしても搭乗せぬという。

私と、成屋少佐で、二人に懇願して、二人が、ボルネオに前進して、各司令

部を巡って、輸送機を送って貰うようにしなければ、この輸送は成功しないので、

是非お願いするということで、ようやく、納得して貰って、重爆撃機によって、ボ

ルネオに脱出して貰った。

成屋少佐と、私は、やれやれと、胸をなで下ろした。

さて、後続の輸送機の到着は、殆ど見込みが無いと考えねばならぬ。

既に、ネグロス島の隣、東側のセブ島には、米軍が上陸作戦を行って、守備

部隊と交戦中であり、米海軍の高速魚雷艇が、ネグロス島の西側のパナイ島

との間の海域に入って来て、ロケット砲攻撃を行い始めた。

夕暮時期、この高速魚雷艇から発射する、ロケット砲弾が、シライ町、タリサイ

町に、夕闇の中に、火の孤を画いて、落下し、炸裂、爆発する。

私達の宿舎にも、ロケット砲が落下して、一発は不発であったため、宿舎の

建物を撃ち貫き、庭の中に潜っていた。

大体、十センチ??砲弾ぐらいのものであるが、ロケット砲弾であるので、底

部の推進部分が、長くつながっていて、庭の土の上に、ニョキッと突出て居る。

シライの町は、現地の住民その他が騒然として、避難を始めた。

飛行第二師団司令部の大部分の隊員は、通信隊を残して、鈴木参謀と伝令

を残し、殆ど、ギンバラオ陣地、シライ山の方に引揚げることになったので、我々

も、全員出発準備をしていた。

昭和二十年二月二十九日夕、遂に、バゴロド市の南の地区に、米軍が上陸し

て来て、守備隊との交戦が始まり、砲撃の音が、シライ町の窓をふるわし始めた。

米軍の高速魚雷艇が、シライ町の沖に来て一斉にロケット砲の砲撃を始める。

私は、退避すべき道路を確かめるため、シライ町に出て見ると、現地日本人の

奥さんであらうか?

子供を両手に抱いて、シライ町の角を、ロケット砲弾の火を噴いて飛んでゆく

光に映えて、夜叉のようになって闇の中に消えてゆく姿が、私の眼に残った。

ギンバラオ陣地の方を見ると、抵抗陣地の方に、引揚げてゆく、各部隊の自

動車の光が、眞黒い山の影の中に、宝石をちりばめたように見えるのが印象的

であった。

二十九日の夜、バゴロド市の守備隊は、上陸した米軍に夜襲をかけて、海上

に撤退せしめたという情報が入った。

愈々三十日は、我々も、シライ町から撤退しなければならぬと覚悟を決めて、

全員に準備を命じ、何時でも撤退出来るようになっているのを確認しているとこ

ろに、飛行第二師団司令部鈴木参謀からの伝令で、私に速やかに、司令部に来

るようにという命令である。 司令部の鈴木参謀を訪れると、

「杉山!

 第二飛行師団長の命令で、貴様の脱出のため、影山大尉から、輸送機が

来ることになり、今夕到着する。

 私に、貴様を、万難排して、この輸送機によって、脱出させろという命令である。

 人員は杉山、小出、福山、剣持そして、成屋少佐の五名である。

 その準備をして置け。

 これは、師団命令である。」

「鈴木参謀、

 私は、既に、そのような命令は、手紙三通、電話二通も、受けとっています。

 私の覚悟は決まっています。

 是非、飛行第三十一戦隊の残留人員と一緒に、死なせて下さい。

 お願いします。」

「待てっ−、

 貴様の心がかりなのは、残留人員のことであらう。

 それは、この俺が、飛行第二師団司令部残置隊長として、今から、飛行第三

十一戦隊の人員は、全員、この飛行第二師団の直属の部隊として、貴様を、

このネグロス島の飛行第三十一戦隊の隊長としての任務を解く。

 貴様の脱出のため、師団司令部は、貴様と同期の影山大尉の隊機を、特別

に派遣したのである。貴様は既に、日本に任地が命令で決まっている。

 貴様が脱出しなければ、この俺も、その命令を実行出来なかったものとしての、

責任上、貴様が脱出しないというのであれば、この俺が、抗命罪として貴様

を射殺する。

 そう思えっ!」

私としては、命令と、米軍の上陸して来つつある悪条件の中で、迎えに来る

ことに対して、脱出せぬということは、云い出し得なかった。

私は、泣いた。

鈴木参謀も、また泣いた。

私は涙を拭いて、鈴木参謀に、

「杉山は、命令に従って、脱出します。

 しかし、飛行第三十一戦隊の残置人員については、どうか、どうか、お願い

します。

 是非お願いします。」

と、いうより外は無かった。

 涙を浮かべていた鈴木参謀も、

「杉山、貴様、良く働いて呉れたな−、

 飛行第三十一戦隊の残置隊のことは、俺の生命にかけて、引受けた。

 安心して、脱出しろ。

 セレベスの人員は、もう昭南シンガポ−ルに着いて、貴様の来るのを待って

いる。

 そこで、戦隊を再建して、是非、俺達も、頑張っているから、日本のために

尽くして呉れ。

 それを、この俺が、貴様に頼んだぞ!

 是非そうして呉れ。」

私は黙ってうなずいて、鈴木参謀の許を去った。

司令部の通信隊々長、上里大尉は、また、私の同期生であった。

そこを通ると、上里大尉が飛び出して来て、

 「杉山!

  貴様は、脱出命令が出て、影山が迎えに来るそうだな。そして日本に帰る

そうだな?  

貴様に頼みがある。

  俺の拳銃は、撃針が折れていて、撃てなくなっているので、貴様のものと、

交換して  呉れ!」

と、いうので、私は、拳銃を、彼のものと交換して、宿舎に帰った。

私は、北村大尉を呼んで、鈴木参謀の命令、飛行第三十一戦隊は、第二飛行

師団司令部の直属となったことを伝え、私は、飛行第三十一戦隊の隊長の任を

解かれた事を伝達し、あとは、彼が指揮するようにと、鈴木参謀の指示に従はせ

るようにした。

私は、鈴木参謀の、飛行第二師団司令部の命令は命令として、飛行第十五戦

隊の影山大尉の機が、来たときは、来たとき、こなければ、幸いと考えて、戦隊

副官、小出中尉、剣持曹長、福山軍曹、成屋少佐等と共に、宿舎を出た。

私は、残った隊員全部と、宿舎で別れた。

全隊員は、廊下に並んで、私を見送ったが、私の胸の中、咽喉に、一杯に詰まっ

ているものがあって、一言も、言葉を出すことが出来なかった。

私は、右手で敬礼の形をしたまま、彼等の前を通り、一人一人の眼を、永久に

忘れないように、見つめながら通り過ぎて行った。

彼等も、私と今生の別れと思い、彼等を捨てて、脱出すると思った事であらう。

私には、既に云うべきことは言い尽し、すべきことは、為し尽くしたという気が

していたので、そのまま、鈴木参謀の迎えの自動車で、サラビヤ飛行場に向った。

夕闇を衝いて、遂に、影山隊の飛行機は、来た。

上陸して来る米軍、まだ、西の水平線に、赤黒い光のある海面の上を通って、

輸送機はボルネオに向い、サンダカン基地は、空襲があっているので、タワオ基地

に、着陸して、その機は、補給の後、また、ネグロス島の残置人員救出に向った。

そのタワオ基地で、P38ロッキ−ド戦斗機の地上掃射を受けて、私は、右胸貫通

機関砲弾を受けて、瀕死の重傷となり、負傷者収容所に、収容されて、連絡を断っ

てしまった。 昭和二十年六月中旬、二ヶ月近くの療養で、ポンチャナク市、クチン

市基地を経て昭南、シンガポ−ルの第三航空軍に着いて見ると、私が負傷して、

再起不能ということで、飛行第三十一戦隊、飛行第十三飛行団は、このシンガポ−

ルで解散してしまって、セレベス島のマカッサルより、軍艦足柄巡洋艦で運ばれて

来た、飛行第三十一戦隊の整備員は、第三航空軍の所属として、当番兵をしてい

るものがいて、負傷した私を、何かと世話をして貰った。

私は、そこで、遂に、飛行第三十一戦隊が、幻の戦斗機隊として、消えて行った

のを知った。

シンガポ−ル地区の各基地には、私を迎えるべき、隼戦斗機が、空しく故障して、

沢山残っていることを知って、一人歯噛みしたが、解散した、戦隊の再建は、出来る

べくもなかった。

 

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