第七章 レイテ総攻撃戦               <幻の戦斗機隊>

1、レイテ総攻撃参加

昭和十九年十一月二十二日、飛行第三十一戦隊に、飛行第二師団司令部より、ネグ

ロス島フアブリカ基地に前進して、レイテ総攻撃に参加する命令が下った。

昭和十九年八月以来、三度目の前進であり、アンヘレス北での全滅状況に遭ったこと

を加えると、四度目の再起である。

レイテ沖海戦は、失敗に終わったが、陸軍側は、この間、泉兵団(第二兵師団)玉兵団

(第一師団)の輸送に、成功して、愈々、決戦態勢に入ることになり、玉兵団は、オルモック

より北上して、タクロバンの米軍司令部の本隊の西側より、タクロバン地区え、泉兵団は、

オルモック市より東南の山岳地区を越えて、ブラウエン、タルラック市方向に進出し、南北

両方より、米軍を圧迫、包囲して、レイテ海岸に圧縮してゆく計画であった。

この総攻撃には、日本陸軍の最精鋭を尽くしての攻撃が行はれる事になっていた。

昭和十九年十一月二十三日の午後、飛行第三十一戦隊は、愈フアブリカ基地に向って、

クラ−ク、フィ−ルドのマバラカット東飛行場を出発する事になり、飛行第二師団司令部から

参謀が見送りに来た。

マバラカット基地の指揮所に、西戦隊長と、第十三飛行団団長の江山中佐が、この参

謀と来て、出発人員全員が、出発の命令と、航路、その他、米軍の攻撃に際しての注意を

受け、特別攻撃、一宇隊の栗原中尉以下は、飛行第三十一戦隊の編隊と、第十三飛行団

長の編隊群に追尾して出発する事になり、師団司令部の参謀から、師団長の激励の言葉

を受けて、出発準備にかかった。

マバラカット東飛行場の北側の全ての薮蔭から、私の廻せの号令と共に、轟然と、発

動機が始動し始め、一宇隊は、マバラカット基地の西南隅の薮影から、始動して、出発線

につく準備を始めた。

第十三飛行団長の江山中佐と、西戦隊長は、自動車で、夫々の愛機に向い、飛行機

の状況を自分で確かめて、夫々の薮影から、出発線に向って、移動を始めた。

全数、二十機、特別攻撃隊の十機を併せると、三十機、優に、完全な、戦斗機戦隊の

編隊数になり、それが整然と編隊を組んで離陸してゆき、空中でガッチリ、戦斗隊形をとっ

て、クラ−ク、フィ−ルドの上空を飛ぶ様は、私自身、歓喜にふるえた。

戦隊の編隊に次いで、一?隊が、追尾して、南方に向ったとき、師団司令部の参謀が、

私の傍に来て、

「おい杉山、貴様、良くやった。

 何処に、飛行機を匿していたのか?

 あんなに、飛行機がとは、思いもかけなかった。

 有難う、有難う。」

と、いって、眼に涙を浮かべながら、私の手を握って、打ち振った。

飛行第三十一戦隊のマバラカット基地からネグロス島フアブリカ基地えの前進隊形と

人員名は次の通りである。

 第二編隊

  一番機 飛行第三十一戦隊長西進少佐

  二番機 中村軍曹

  三番機 浜砂軍曹

  四番機 門田軍曹

  五番機 高橋軍曹

  六番機 宮本軍曹

 第二編隊

  一番機 寺田中尉

  二番機 竹中軍曹

  三番機 剣持曹長

  四番機 阿部軍曹

  五番機 福山軍曹

  六番機 長谷川軍曹

 第三編隊

  一番機 清水少尉

  二番機 福本軍曹

  三番機 門馬少尉の予定が柏木少尉?

  四番機 成沢軍曹

  五番機 花井軍曹

  六番機 中谷軍曹

 特別編隊

  長機 第十三飛行団長江山六夫中佐

  二番機 原軍曹

残置飛行隊員に、岩原軍曹、古川軍曹があり、門馬少尉は前進の予定であったが、

デング熱にかかり残置し、デング熱が治った柏木少尉が入っていった記録になっている。

特別操縦見習士官と、田中伍長は、飛行時間が少ないので残置に決定していた。

飛行機も、隼三型が二機予備機としてあり、整備中のものが三機あり、一機は、オイ

ルハムマ−を起こして、発動機の交換を必要としていた。

私の心の中には、喜びと共に、一つの悲しみがあった。

恐らく、この出発は、私の最後の仕事となるであらう。

この編隊の中で、何機、いや誰が、このレイテ総攻撃で、生き残ることが出来るであら

うか?

と、いう感慨があった。

恐らくレイテ島の戦局は、白熱状況になっていて、フアブリカ基地えの米軍の攻撃は、

激烈なものになるであらう。

この斗いの中に、私も最後の生命をかけてゆかねばならぬという決意に燃えた。

飛行第三十一戦隊は、マバラカットに、門馬少尉以下、特別操縦士官と、少年飛行兵

の新しく配属されて来た人々の飛行隊と、飛行機五機を残し、整備隊は、市川中尉以下

を残置する事になって、特に、メナドよりクラ−ク、フィ−ルドに転進して来た、ベテランの

整備下士官の人々が、フアブリカに前進する事になっていた。

私は、戦隊の編隊を送った足で、直ちに、飛行第二師団司令部に行った。

私がクラ−ク、フィ−ルドの西側にある、山合いの河原のある、ニッパハウスの作戦

司令部に着いたら、参謀長の大賀大佐、作戦主任の野々垣参謀以下が出て来て、口々に、

「久し振りに、戦斗機戦隊の編隊の雄姿を見た。」と、大変喜んで呉れて、私達が、直ち

に、フアブリカ基地え前進する飛行機を手配して呉れた。

私の記憶では、戦隊の編隊に次いで、私は直ちに、師団司令部からの飛行機で、フア

ブリカに前進したように考えるが、この出発状況に記憶が無い。

私達は、戦隊に追尾するように、フアブリカに前進したように考える。

フアブリカに着いて見ると、戦隊の編隊は、全機無事到着していたが、一宇隊は、呂

宋島を離れ、ミンドロ島の附近に、不連続線があり、雲の峰々が連って、五千米から、一

万米に近いものがあった。

飛行第三十一戦隊は、翼下に増加タンクを積んでいるので、燃料的に問題はないの

であるが、特別攻撃隊の一宇隊は、翼下に、百s爆弾二個を吊っていて、増加タンク無し

である。

このため、飛行燃料の制約を受けた。

飛行第三十一戦隊は、この雲の峰を暫く旋回して、峰々の間隙を見つけて、通過して

行ったが、一宇隊は、その余裕が無かったのか、または、そのような経験がなかったのか、

雲の峰の中に、突入んで行ってしまって、飛行第三十一戦隊と、一宇隊は離れ、栗原中尉

は、行方不明、その他は、バラバラに、マナプラや、タリサリ、その他の基地に着陸したとい

うことであった。

私も、久し振りに、フアブリカの飛行第三十一戦隊に帰って来て、その夜であったと思

うが、第十三飛行団の江山中佐団長から、私が着いたら、至急会いたいという伝言があっ

たので、私は飛行団司令部に赴いた。

飛行団司令部に着いて見ると、西進戦隊長も、先に来ていた。

私は、何事ならんと思って、江山中佐に向って、到着した報告をしたら、江山中佐は、

御苦労と云って、先ず呑めということになった。

第十三飛行団司令部に対する、飛行第二師団司令部からの激励の酒であった。

私は、茶碗になみなみと、一杯にお酒を頂き、一口呑んで、下に置いた。

その様子を、ニコニコしながら見ていた、江山中佐は、

「さてと、実はな−、杉山、!

 貴様に、相談というより、頼みがあるのだ。

 第十三飛行団は、これから、レイテ総攻撃に参加する。

 そこで、今、貴様に抜けられては、飛行第三十一戦隊のみならず、飛行第十三飛行

団の志気に関する問題である。

 それで、貴様に、このレイテ作戦、総攻撃の間は、飛行第十三飛行団に居て欲しいの

だが、どうであらうか?」

と、いうことであった。

私は即座に、

「飛行団長殿、

それは、私の方から、お願いしたいと思っていることです。

 私は、この比島戦、レイテ総攻撃作戦は、私の死に場所と考えていますし、軍人として、

何処までやれるか?最後の戦いと思っています。

 私の軍人としての生涯において、徹底的に戦いたいと念願しています。

 その意味で、私自身は、飛行第三十一戦隊で、少尉から、今日まで、約四年間、生死を

共にして来たものとして、最後まで、行動を共にしたいと念願しています。

 そのことにおいて、色々問題がありませうが、是非、ここで、戦はして頂きたい。

 私の方から、お願いします。」

と、答えたとき、江山中佐と西少佐は、二人で、うなづきあって、

「よし、判った。

 そのようにしてゆかう。

 貴様の気持と決意は判った。

 有難う。」

と、いって、私の手を握った。

飛行第三十一戦隊には、昭和十九年の八月末、陸士55期生の北村大尉が、既に着任

していて、十一月まで、約三ヶ月を経ていた。

兵士達や、下士官の中では、私が転任するであらうことを、秘かに噂さしていたし、度々、

下士官や、兵達から、

「隊長、隊長は、近く、何処かえ、転勤されるのでないですか?」

 と、問うて来ていた。

 しかし、私は、「飛行第三十一戦隊は、俺の死に場所と考えているので、絶対に、他え

行くことは無い。」と、否定していた。

私は、転勤そのものも、飛行第三十一戦隊から離れる気は、全く持っていなかった。

事実、私は満州を出るとき、既に日本からの連絡で予想した事であったが、私は昭和

十九年十二月二十四日付で、立川整備師団という、飛行機の整備する学校に、転勤する

発令が出ていたことで、戦場からの転勤には、約一ヶ月前に内令が下っていた事になる。

第十三飛行団長江山六夫中佐が、私に強く、残留して、継続勤務を求めた原因は、こ

のことからであった。

私は、この転勤によって、飛行第三十一戦隊を離れても、充分なことであったし、既に

後任に北村大尉が着任していたことで、或は、私は自ら進んで、後進に道を拓くべきであっ

たかも知れない。

北村大尉は、陸軍航空技術学校での最優秀の成績を納めた人であるということを、後

にしったので、或は、北村大尉に対しては、気の毒な事をした形になったかも知れぬ。

彼は、晴れて、飛行第三十一戦隊の整備隊長としての職務に着きたかったかも知れ

ぬが、私が残留を決めたことで、最後まで、飛行第三十一戦隊の整備隊付将校の地位に

止まった形になってしまった。

しかし、私には、彼の事を考える余地を持っていなかったのも、事実であったと思う。

その昭和十九年十一月二十四日のフアブリカ基地は、また、飛行第二師団は、レイ

テ島に上陸した、玉兵団、泉兵団が、夫々の総攻撃の地域え進出するのに、米軍え総攻

撃をかけているときであり、米軍側も、機動部隊からの海軍機は勿論のこと、陸軍機は、

遠く、ニュギニヤのホ−ランジャ、そして、ハルマヘラ島、そして、レイテ島え、補給されて

来た戦斗機等で、ネグロス島、セレベス島、呂宋島の各基地に必死の防戦、攻撃をかけ

ている最中であった。

レイテ島の天地は、海上は、日米の必死の攻防が連日行はれていた。

フアブリカ基地には、第十三飛行団として、飛行第三十一戦隊の根拠地であったが、

ネグロス島の最東端の場所柄として、隼戦斗機隊の基地としての価値を高め、多くの戦

隊が、ここに来ていた。

飛行第二師団司令部は、これらの各戦隊が、夫々戦力、飛行機の数が少なくなって

いるので、このフアブリカ基地にある各戦隊を統合して、隼隼成戦斗機隊をつくる事になり、

整備将校としては、第54戦隊の蔵前大尉が先任であったので、彼が、この隼隼成戦斗機

隊の整備隊長になり、私が副隊長を勤める事にした。

正式命称は、隼集成戦斗機隊整備隊である。

そして、第十三飛行団長、江山六夫中佐と一緒に戦うことになった。

飛行第三十一戦隊の方は、北村大尉が、整備隊長代理として、指揮をとることになっ

た。

私の心の底には、この比島、レイテの戦いは、日本の運命を決するであらうと、いや、

日本は、絶対に勝てないであらうことを予測していた。

日露戦争でも、日本軍は、極東でこそ、勝利の形になっていたが、露西亜本国との

眞面目の戦争にかったのではなく、戦斗のみの戦いでは、勝負がつかなかったが、政治

的に世界の態勢と、謀略によって、露西亜帝国に革命を起し、露西亜帝国が倒れてしまっ

たことで、勝利の形になっただけである。

世界の態勢、文明、人類の生き方、或は、これを思想というかも知れぬが、帝国主義

は、近代産業から生まれた鬼っ子であり、民主主義の動向、人道主義の人間の動きが大

勢をもっていたということであらう。

日本のこの戦争においては、世界戦略としては、準備も、その用意のしかたが、お粗

末で、充分でない。

一つの衝撃を与える効果はあるかも知れぬが、眞面目の戦争で、勝味は全く無かった。 

この意味で、日本が戦争を選んだことは、亡国えの道を選んだことになり、大日本帝国

は、この比島戦で亡ぶのだと、私は思い定めていた。

私は、日本人であり、大日本帝国の陸軍将校である。

その栄光と共に、生命を失うのも、やむを得ぬ。

私の生まれた杉山家には、多くの事があり、日本の帝国主義の国家、政府に、私は

忠誠を誓い、生命を捧げる気はなかった。

しかし、私自身、この第二次大戦は、日本側も、米国側にも、不合理、矛盾をもった戦

いであり、また、人類の文明というものを考えるとき、近代文明による帝国主義によって生

まれた植民地と奴隷制度が存在する世界の歪みから起こった世界情勢の中で、新しい近

代社会国家をつくる事においても無理がある。

それは、その無理において、日本は亡ぶであらう。

それは、玉砕するに等しい。

しかし、その玉砕から、何か新しいものが生まれるであらう。

それは、悲しい事であるかも知れない。

その中において、我々軍人は、その玉砕に、運命を共にする事になるであらう。

それが、新しいものを生むものになるであらうということを期待するより外はなかった。

その新しいものとは何か?

近代産業は、ルネサンス、そして、産業革命と、古代からの帝国主義国家の主権と

いうものに対して、庶民の中から、技術革命が起こり、主権の中に、民主主義の要素を

汲み入れて来た。

それが、自由資本主義と、共産主義、社会主義を生んで、社会と政権、主権をもって

来ている。

その主権そのものは、独占的要素を持ち、権力を権威づけている。

第一次大戦までは、その主権において、日清戦争、日露戦争においても、祖父茂丸

の反対にかかわらず、日本は、帝国主義において、賠償をとり、植民地を要求して来た。

この意味で、これらの戦争は、自衛的要素がありながら、侵略的なものを含んだとい

うより、主体を持って来た。

この事において、この戦争は、アジアの独立、植民地解放を、立て前としているけれ

ども、日本政府自体は、侵略戦争を行っている。

日本の敗戦は、単に、軍事力や、技術、能力の問題のみでなく、その実体において、

敗れるか、よし、勝利となっても、朝鮮や、中国の根強い反日感情において、失敗に帰す

であらう。

日本の政府においても、国民においても、この問題を洞察する力と、人材を持ってい

ない。

この戦争そのものは、日本自体が持つもので、自らわなにかかったようなものである。 

この様な中で、日本で何が出来るか?

私達は、いや私は詳細に経験して来ていたのであった。

この戦争は、或は、そのような人間の驕りに対する?火とも云うべきものであらう。

私自身は、日本人であり、大日本帝国の、軍人であることにおいて、この劫火の洗礼

をうけねばならぬし、生命を失うであらう。

しかし、人間として、何か出来るか?

一人間として、悔ひのない、充分な働きをして、死にたい。

そのためには、瞬時と雖も、自らの最善を尽くしていることで、生死は、運命に委ねる

ことにしていた。

このことが、江山六夫中佐との残留の問題における決意を述べた、背影があったわ

けであった。

レイテの戦線における日本軍の攻撃は、第六次の玉兵団の後続部隊の船団が、オ

ルモックに突入し、その後に、高千穂空挺隊が、ブラウエン、ドラグ基地に降下して、この

両基地を制圧して、全軍一斉に、従来の米軍の上陸によって、守勢になって頑張っていた。

レイテ島、守備の垣兵団を中心にして、北方、南方から攻撃に移ることになっていた。 

この玉兵団の第六次オルモックの突入上陸に際して、隼隼成戦斗隊は、各戦隊の総

力をあげて、船団の掩護に当ることになっていた。

このためには、タクロバン基地及び、ブラウエン、ドラグ基地における、米軍の航空機

に対する攻撃を続け、レイテ沖周辺における米海軍の機動部隊に対する、日本海軍機の

攻撃、特攻、そして、レイテ湾に来る米軍の輸送船団に対する特別攻撃が必死になって、

行はれる事になっていた。

この状況で、不思議なことには、ハルマヘラ島のおける、米軍の陸上基地からの、長

距離爆撃機のコンソリ、デ−デットB24のネグロス島基地群に対する攻撃が、如何なる理

由か? ばったりと、中止されてしまていた。

日本軍のキ84、大東亜決戦号と称する、四式戦斗機によって、昭和十九年十月末に、

ハルマヘラからの米軍のB24爆撃機の編隊は、出撃して来る度に、キ84の攻撃を受けて、

大損害を被ったことも事実である。

恐らく、米軍は、この超重爆というべき、四発動機の重爆撃機は、現地戦斗機の編隊

との連撃や、何か特別の攻撃方法を研究工夫していると思はれた。

師団司令部より、このことを指摘して、新しい企図を有するであらうから、警戒するよう

にという、指示が来ていた。

B24は、ネグロス島南のミンダナオ島上空を通って、我々の基地群に攻撃して来るの

であるから、当然、ミンダナオ島基地群において、特別の措置をとるべきである、激撃その

他が行はれるべきと思ったが、師団司令部、第四航空軍においても、何等の措置は構じて

なかったようである。

レイテ島と、ネグロス島における米軍と日本軍の航空戦の対決は、愈、大詰めの段階

に入るべく、最高潮に達しつつあった。

 

2、レイテ総攻撃計画

昭和十九年十一月二十四日以来、飛行第三十一戦隊は、第十三飛行団長江山六夫

中佐の式する隼集成戦斗隊に入り、レイテの総攻撃に参加する事になった。

この作戦で、私達、第一線のものにとって、一つの問題点があった。

それは、熱帯地域の気象天候のことである。

日本での台風季節は、六月〜十月である。

南太平洋に発生した低気圧は、西進し、台湾の東方または、フィリピン群島の東海面か

ら西北に方向を変えて来る。

十一月からの低気圧は、六月〜十月程大きなものでないが、多数発生して、やってくる。

この低気圧の中心からの不連続線のところに、高度三千米から、一万米に近い、雲層と、

積乱雲の峰々が山脈のようになって、押し寄せて来る。

レイテ島は、私達飛行第三十一戦隊の基地フアブリカの東の方にあるので、米軍は、こ

の不連線の雲の東側にかくれて、雲の峰が、東から西えと動いて来るものの蔭に入って、レ

イテ島え入って来た。

日本軍の飛行機は、残念ながら、この雲の峰々、山脈を突破しての攻撃が出来ない。

この不連線の雲の山脈は、積乱雲であるので、雲の中は、気流が渦を巻いていて、飛

行機は、大きく動揺し、操縦が困難なのである。

この雲の山脈を突破することは、よほど熟練した操縦者でも、困難なのである。

技術上の問題が、また、別にあった。

この雲は、レイテ島、フアブリカのあるネグロス島の山脈に当って、雨を降らす。

日本の飛行機の発動機は、当時、各シリンダ−に占火する点火栓えゆく高圧電線の被

覆に、ゴムが使ってあった。

米軍のは、合成樹脂(プラスチック)であって、電気の絶縁が完全であるのに、日本軍の

電線のゴム被覆は、温度と振動とで、早く老化して、亀裂を生じ、そこに雨水、水分が進入し

て、絶縁を悪くする。

発電機や、高圧電気を分配する装置も、完全な防水、絶縁ではない。

必然的に故障が多いのみでなく、降雨にあうと、飛行機が動かなくなる。

米軍の方は、悠々と、この低気圧の影にかくれて、レイテ湾に入るころは、ネグロス島

附近は、雨になっていて、出動が出来ぬという状況が多くあった。

米軍は、気象状況や、日本空軍の技術水準を良く知っていて、巧く利用したといえるで

あらう。

レイテ島えの米軍の補給は、この天候を利用して、幾次にも、大船団が送り込まれつつ

あり、日本側も、マニラ港より、第六次の輸送船団に、日本最精鋭の玉兵団、第一師団の砲

兵部隊、後続歩兵連隊が乗船して、出発していた。

この船団掩護が、第十三飛行団、飛行第三十一戦を主体とする、隼集成戦斗戦隊に命

令された。

フアブリカ基地における、隼隼成戦斗機隊は、私の記録には、次の様に記してある。

 飛行第三十一戦隊  20機

 飛行第五十四戦隊   8機

 飛行第二十四戦隊   5機

私がフアブリカに到着したのは、或は、十一月二十五日であったかも知れぬ。

私が飛行第三十一戦隊の主力に追いついたとき、花井甲子郎少尉、陸航士57期生、十

一月二十三日、パナイ島上空で散華していた。

清水光雄中尉、陸航士57期生は、十二月二十四日、レイテ島タクロバン上空で散華し、

その外、 長谷川敏夫伍長、橋本忠太郎伍長、竹中輝雄軍曹、高橋敏夫曹長の四名が、レ

イテ島、タクロバン上空で散華していた。

私がフアブリカに到着したとき、これから新鋭の将校、下士官の人々が、既に散華した

後であったのを記憶している。

西戦隊長に、もう少し、現地の戦況に慣らして、出すべきでなかったか?と、議論した

記憶があるが、これら新鋭の人々は、向う見ずといえば、いえるかも知れぬが、はやりに

はやって、出撃命令があると、我先きに出撃したがって、抑えることが出来ぬし、色々注意

して、一緒に敵地に攻撃に出るのであるが、どうしても、深く敵地に入って、無理な戦斗を

行って、戦死してしまうと、西戦隊長の苦悩があったのも、事実であった。

愈々レイテ総攻撃作戦は始まった。

第六次玉兵団の輸送船団の航路は、マニラ港から、南支那海を、呂宋島の東に沿うて

下り、ミンドロ島の北を通って、呂宋島の南海域に入り、巨大戦艦、武蔵の沈んだ海域を経

て、レイテ島の西から、オルモック湾内に突入する。

呂宋島の南海域の南の部分まで、呂宋島地区の陸軍部隊、海軍の零戦、ピリ、アパリ、

レガシピ−基地からの掩護を受け、それから先きは、隼集成戦斗隊及び、ネグロス島基地

の各部隊の掩護の下に進行する事になっている。

この作戦において、玉兵団の司令部の編成を見ると、私が陸軍士官学校予科を卒業

して、歩兵第十四連隊の士官候補生として隊付していたときの中隊長、丹羽五郎中佐が、

この船団の参謀として、乗船していることが判ったので、私は、一段と、この掩護作戦に、

熱心に努力した。

日本軍の特別攻撃隊の大部分は、陸士56期、57期生等が隊長で、一宇隊の栗原中

尉以下が、ミンドロ島附近にあった、積乱雲の中に突入して、行方不明になったように、こ

の低気圧の雲層、雲の山脈を越えて、米軍の基地、機動部隊、輸送船団を攻撃することは、

不可能に近い技倆であったのである。

飛行第三十一戦隊が、マバラカット基地に、特別操縦士官達や、多くの特別攻撃隊に

参加した、少年飛行兵の操縦の人々を残置して、技倆の向上を期した所以も、このことに

あった。

司令部では、また、日本の大本営の作戦参謀の人々には、このような、現実を知って

いるものは殆ど無い状況であった。

精神的な昂揚ということ、精神力でも、この不可能なことは、不可能として、認識する

教養に、素養に欠けていたという事実、それに伴う批判は、無茶苦茶ということは、正当な、

正しい事であったというより外はない。

 十一月二十六日、飛行第二師団、鷲作戦命令甲第315号(しらい)

 一、第六次輸送船団は十一時、オルモック湾に突入せり、

   敵は、艦船十三隻をもって、十六時三十分、アルブエラより砲撃中にて、我が船団

   の揚陸を防害するものと判断せらる

 二、複戦部隊は、本二十八日夜、一部をもって、前攻撃艦船を求めて攻撃すべし

 三、隼部隊は、明二十九日早朝、第一に、我が船団の状況を偵察すべし、

      師団長 寺田済一

 私の記録の十一月二十八日に次のように記してある。

 本朝より、三出動、計七出動す。

 レイテ最後の切札たる第六次輸送船団の上空掩護なり

第五次、二十四戦隊の廣司大尉、十七時三十分まで帰還せる際、敵P38約八機、ムス

タング若干等、我が船団を攻撃、三十一戦隊中尉、阿部にて、P38一機を撃墜、海軍0戦に

て、一機撃墜し、事なきを得たるもの、以後覚つかなきをもって、戦隊長に意見具申 三十

一戦隊四機、浜砂軍曹以下出動、十九時頃帰還、船団は、オルモックに入港せりの報に愁

眉を開けり。

本日出動可能機最低三機になるより、整備隊全員徹夜整備せしむ

現戦況を説明して、奮起せしむ、

兵達は、九月十二日の戦斗以来、不眼不休、給与の不良に伴い、夜盲症、脚気症、遂

次あり、肥満しあるも病的なり、誠に忍びざるものあり、余以下整備特攻隊として、此の地に、

一死奉公あるもののみ。と、ある。

   賞 詞

             隼 部隊

十一月二十八日船団掩護ヲ命セラルルヤ、折柄来ノ降雨ノタメ軟弱トナレル飛行場状況

ニモ拘ラス数次ニ亘リ特ニ所命時間ヲ過グルモ尚進ンデ夜間ニ至ル迄出動シ四戦部隊ト緊

密ニ協同シ翼部隊及海軍ト協力シ?次ノ敵襲ヲ適切ニ排除シ船団ヲシテ無事目的地ニ突入

シ得シメ任務ヲ完遂シ国軍決戦ノタメ寄与セル所極メテ大ナリ

本職深ク之ヲ賞ス

 昭和十九年十一月二十八日

     第二飛行師団長 寺田済一

 

十一月二十八日、午後五時三十分、第二十四戦隊の廣司大尉の編隊が、フアブリカに

帰還したとき、六時に日没であるが、暮明の状況が十五分から三十分続くとしても、タクロ

バン基地、または、機動部隊からのオルモックえの距離は、レイテ沖の機動部隊から僅か

二十分〜三十分、タクロバン基地からは、僅か十五分の近さである。

約一時間余の日本航空のオルモックえの船団掩護が空白になるとき、約三十一分間

でも、爆撃されることになれば、僅か数隻しかない船での上陸作戦では、日本軍の揚陸能

力が低い状況では、大損害を受ける事になる。

レイテ島えの上陸部隊は、火砲や弾薬の携行が少ないのに対して、米軍の圧倒的な

火力に対しての戦斗は無理になる。

この空白が或は、レイテの戦局を一変させるかも知れぬという恐れがあったのである。

師団司令部も、飛行団も、作戦関係者において、このような事は、問題にしていなかっ

た。

それで、敢えて、私は、隼隼成戦斗機隊の隊長江山六夫中佐及び西戦隊長に対して、

最後のもう一押しの掩護を要請したのであった。

浜砂軍曹以下、飛行第三十一戦隊から、帰路は夜間着陸になるので、夜間飛行に慣

れた人々を選び出撃させた。

私は、浜砂軍曹に、第一師団玉兵団の最後の上陸参謀である丹羽五郎中佐に対して、

手紙を書き、通信筒で、上陸地に投下して来ることを頼んだ。

浜砂軍曹の言では、オルモックの上陸地点には、米軍んの戦斗機が、数機来ていたが、

浜砂編隊がこれを追散らし、船団は無事であったということで、船団から上陸する部隊が、

地上で、大喜びして、手を振っていたので、この通信筒を投下したら、日の丸の旗を振って、

受けとった事を知らせていたという報告であった。

船団掩護という任務は、苛酷な飛行計画と、整備を要求する。

船団上には、一刻も、掩護の飛行機を外すことが出来ない。

常に、一編隊四機がいて、他は、敵の攻撃を排除しなければならぬ。

常に船団を守っていなければならぬという立場は、敵の攻撃を自由に激撃出来ない。

船団上空から他えゆくことが出来ない、制約があるからである。

整備の方からいうと、敵と交戦して、飛行機に敵弾を受けたり、損害、故障が起こっても、

船団を守る機数は、少なくする事は出来ない。

しかも、操縦者は交替で出撃するが、飛行機の方は、交替なしで、出動時間に間に合せ

て、出撃させねばならぬ。

この苛酷な出動計画で、二十八日の掩護が終了したとき、二十機からの第三十一戦隊

の飛行機は、僅か三機のみしか出動出来ぬ状況になってしまった。

玉兵団の上陸完了と共に、泉兵団は、オルモックから東南のレイテ山脈中に展開して、

愈々、レイテ島総攻撃の機が近づいて来た。

この作戦準備のため、努力しているとき、隼隼成戦斗機隊整備隊長である飛行第五十

四戦隊の蔵前大尉が転勤することになり、後任は、私が引受けることになった。

さて、各戦隊の飛行機の状況や、整備隊の状況、独立整備隊の状況を調査して、本格

的な整備計画を具体化する事になった。

飛行第三十一戦隊は、フアブリカ飛行場の西南地域、第五十四戦隊は、東北地区、第

二十四戦隊は、東南地区に展開しているので、フアブリカ基地全体を歩き廻らねばならぬ。

フアブリカ基地の西北地区には、20o機関砲陣地があったが、他の地区には、防御の

対空火器が、一つもない状況であった。

独立整備隊と相談し、折から前進して来た、花元曹長に指示して、破損した、隼戦斗機

の13o機関砲を、全部、改造して、地上の対空火器にする事にした。

今迄、米軍の飛行機の攻撃があると、整備員は、「退避」とか、「逃げろ」という言葉を

使っていたが、これを、「戦斗配置につけ」という言葉に変えた。

この様に、フアブリカ基地の対空火綱を構成しているときに、十一月三十日と思うが、突

然、輸送機(AT)二機が着陸して来た。

これは、愈々レイテ総攻撃のために、出撃する高千穂空挺隊の作戦打合せのため、隼

隼成戦斗機隊を訪問して来たのであった。

戦斗機用の基地に、輸送機二機が降りて来ると、飛行機の匿し場所が、全くない、草原

の台地である。

攻撃を受けたら、一たまりも無い。

ひやひやしながら着陸して来るのを、飛行場大隊の整備中隊の整備員が迎えて、指揮

所の前に停止せしめたとき、その操縦席から降りて来たのが、陸士で同じ中隊、区隊に居

た同期生の奥園大尉である。

思はず、や−や−と、手を握って、奇遇に喜びあったが、奥園君も、大変喜んで、

「あ−、杉山、

 貴様、ここに居たのか?

 それで、決った。

 ここに着陸することにした。」

と、いうのである。

高千穂空挺隊の輸送機全部が、このフアブリカ基地に着陸するというのである。

高千穂空空挺とは、落下傘部隊で、レイテ島のブラウエン、ドラッグ基地群に降下して、

奇襲し、泉兵団の攻勢を助けるという作戦であった。

それで、このフアブリカ基地に十数機の輸送機が着陸するというのである。

いやはや、戦斗機でも蔭匿するのがやっとであるので、まして、輸送機のような大型機

は匿しようもない。それで私は、奥園君に、

「おい、奥園、

 空挺隊の集合場所は、マナプラと、決定していたのではなかったか?

 ここは、戦斗機用の飛行場で、滑走路も九百米しかないし、輸送機の匿しようもない

 ではないか?」

と、申したら、奥園君が、

「いや、杉山、

 出撃は、払暁か夜半になる筈である。

 だから、夕方、ここに着いて、出撃するので、飛行機を匿す必要はない。

 それよりも、貴様がここで、整備して呉れるので、安心して、準備が出来るから、俺の

部隊は、此処に決めた。

 それが、俺達には、何よりなのだ。

 杉山、頼むよ、そうさせて呉れ。」

と、いうので、私は返す言葉も無かった。

「そうか?

 それなら、しかたがない。

 俺も最善を尽すから、貴様も遠慮なしに、云って呉れ!」

と、手を握った。

独立整備隊、飛行場大隊整備中隊の幹部を招いて、高千穂空挺隊との整備上の打

合せを行って、万全を期した。

十一月の末、珍しく米軍のB24の編隊が二十一機で、マナプラ基地えの攻撃があった。

 掩護戦斗機は、僅か五機のムスタング、P51のみであった。

マナプラ基地は、高千穂空挺隊の基地になる筈であったが、これを如何なる方法で察

知したのか?または、偶然にそうなったのか判らない。

しかし、二十一機という編隊は、相当のものであるし、タクロバン基地からの掩護戦斗機

は、僅か五機であることは、米軍も、P38その他が大変消耗して来ている状況と考えられた。

レイテの米軍の航空部隊は、第五戦斗飛行団隷下の第四十九戦斗戦隊が主力で、P38、

P40、P47、P51、第四十七師団の隷下といわれる。

第七艦隊がスリガオ海、カモテス海え進入する企図を有すると考えられていた。

レイテ島の米陸軍は、第24師団、第三十二師団、第七師団、第二十七師団、第一騎兵

師団、第十六師団の六師団である。

ここに、新しい米軍の戦斗機の情報があった。

P61戦斗機である。

この戦斗機は、夜間戦斗や、夜間襲撃に使用されて、B29の直接掩護用に使用される

という。

この戦斗機は、中国(支那)に現出して、在中国米軍戦斗機は全部用いられるという。

姿や形は、P38に酷次し、大型キャビンが後方え伸びている。空冷発動機をつけている。

電線を有して、乗員は三名であり、全長20、10Mで、全重量13屯、離陸許容は18屯

も、最大速度650q、巡航475q、航続距離1400q、増加タンク、2屯、上昇10120米、

武装、胴体下面45o×4門、200発、17o×4門、600発を搭載している。

名称をブラック、ウイド−という。

変な飛行機が出来て来て、愈々日本国土空襲が近づいたと思った。

レイテ総攻撃の準備として、次のように記している。

 期日、x日=四日〜五日 (十二月)

    x日前一日、夜間出動三日〜四日

 西戦隊長、寺田、剣持、浜砂、岩原、中村、七機〜八機

 

 玉、抜、泉、垣、第六十八旅団(ブラウエン)

 海上艦艇協力

 浜砂、中村二名は、マバラカット挺身隊長と、直掩打合

 協力部隊

  第十三戦隊、第二十戦隊、第三十三戦隊、第五十四戦隊、第三十一戦隊、第二十六

戦隊の六戦隊

 1.直掩制空(x日)航空撃滅戦

  イ.夜間出動のもの「マバラカット」に上空

   (又はリパ)

  ロ.戦場上空制空、マナプラ上空集合

 2.拘束攻撃

   複戦、襲撃、双軽の部隊

 x(十)一日−制空

   05、500−夜間出動全力

   11、500−半数

   17、500−夜間出動全力

      増援部隊遮断、マナプラまで掩護

 x(十)二日

   制空、マナプラまで掩護

   06、00

   12、00

   18、00

  第十飛行団、第二十一飛行団「ト号」部隊

 x(十)三日 戦場制空

   15、45−16、40−17、55

 一次、アンヘレス−スクグ−マナプラ−

    ズルハンガ岬−目標(1830)

 二次、03、40出発の折、05、50より、制空、マナプラまで送る。

 三次が出来ぬときは、一次の要領

 MC十一機、九機、十機、十一機

 (500米〜1000米距離をとる)

 一隊−二隊−三機−四機

 上昇−280q/T −二米上昇−巡航260q−280q降下

 超下比高−250M

 シライは予備飛行場

 41×12=492−約一ヶ大隊×3

 41×20=820−約二ヶ大隊×3

この様な計画で、高千穂空挺隊は、レイテ島のブラウエン、ドラッグ、米軍基地に攻撃

することになっていた。

この攻撃と共に、レイテ島え上陸していった、日本軍は、北方から玉兵団、抜兵団、

垣兵団、泉兵団、第五十六旅団が、一斉に攻撃前進することになっていた。

この高千穂空挺団は、台湾の高砂族の人々を訓練した人々で編成した部隊である

という。

この計画で見ると、降下高度は、300米以下の低さである。

落下傘の開く、ギリギリのように思はれて、空挺隊の人々の分散と、米軍側に対応の

余地を与えないという、正に奇襲作戦である。

しかも、損害を避けて、夕刻の白薄の時機から、夜間にかけての降下時間となっている。

レイテ島における日米の決戦、日本軍の総攻撃の時機は、あと、二、三日に迫り、私は、

隼集成戦斗機隊整備隊長として、寝食を忘れていた。

 

3、レイテ総攻撃戦

昭和十九年十二月六日、午後五時三十分、高千穂空挺隊の一部隊、奥園大尉の率いる

部隊、空輸機が、フアブリカに到着した。

飛行第三十一戦隊は、この空挺隊を掩護して、呂宋島の基地から、フアブリカえの空路

を掩護し、また着陸における、フアブリカ上空の掩護を行った。

空輸機は、滑走路の東側に、ズラリと並んで、出発準備にかかり、空挺隊員は、その空

輸機から降りて、地上で休憩していた。

飛行場大隊からの夜間離陸の誘導燈と、離陸目標燈、緊急着陸設備が準備され、ブラ

ウエン、ドラッグには、夜半に降下することになっていた。

私は奥園大尉と共に、空輸機の整備を指導して、地上に休憩している空挺隊員の状況

を見た。

空挺隊員は、鉄兜の代りに、空挺隊員の、特殊な、航空帽を被り、顔を、黒く塗っていて、

体には、携行する弾薬、手留弾、機関銃といったものを、びっしりつけていて、大変な重武装

なのに驚いた。

落下傘は、前後に、二つつけている筈であったが、背中の一つのみであったように思う。

重量と、人体の幅で、空輸機には、最大限の人員を搭載するための配慮であらうか?

暗くなった、フアブリカ基地に、愈々緊張が張りつめて行った。

全員、武装は解かないまま、草原に、横になって、夫々機関銃を抱えて、仮眠している。

私が近づいてゆくと、一人の軍曹が眼をあけて、起きようとするので、私は止めて、彼

の傍にしゃがみ込み、

「大丈夫か?」

と、問うと、にっこり笑って、

「大丈夫です。

 今、何時ですか?」

と、問うので、

「午後六時三十分だ」

と、答えると、ニッコリ笑って、

「有難う御座いました。」

と、云って、又眼を閉ぢた。

私は、全機を一巡して、指揮所に帰って見ると、奥園大尉達も、夕食を摂っていた。

「やあ、奥園、大変な装備なんだなあ−」

と、云ふと、

「お−、杉山、

 空挺隊員はな−、一人、一人、孤立しても、戦えねばならぬので、大変な、重武装に

なるんだ。

 今日は、運がよければ、米軍基地に、強行着陸することも、考えているのだが、巧く

ゆくと、良いがな−」

と、笑っていた。

飛行第三十一戦隊は、空挺隊の輸送機の出発する前に、戦場のブラウエン、ドラッ

グ基地の制空のために出発し、空挺隊は、午後十一時頃、全機、次々に出発して行って、

米軍側の攻撃も、何もなく、全て、無事であった。

空挺隊の輸送機は、降下部隊を降下させた後、夫々、呂宋島の基地に帰ってゆくこ

とになっているので、一応、私の方は、戦場の制空編隊の出発の後、これと交替して、

輸送機を掩護してゆく編隊だけが、輸送機に次いで出発して行った。

幸い、この日の天候は非常に良くて、空の星が、すぐ手に届くように、澄み切って居た。

その星の光の中に、一機、一機、輸送機は消え、私の戦隊の編隊も、消えて行った。

レイテの日本軍の前線は、この空挺隊の降下と共に、行動を起こして、ブラウエン、

ドラッグ飛行場に進出して、飛行第三十一戦隊のブラウエン基地に派遣していた、舟本准

尉以下が、ブラウエンに、オルモックより行くことになっている。

フアブリカの基地に、戦場制圧の編隊が帰って来て、異常のない事が判明し、深い沈

黙が基地全体を掩った。

成功か?これが、日本の運命が決まるときである。

午後二時近く、輸送機を掩護する編隊が帰って来た。

その報告によると、次の通りである。

輸送機の編隊は、セブ上空を経て、オルモック湾に入り、進路を南にとって、レイテ島

の南部を廻って、ブラウエン基地地域に、海岸の方から進入始め、降下して行った。

上空から状況を見ると、中には、強行着陸した輸送機もあったようである。

ブラウエン基地の中に、銃火を交える火線が、火花のように、パチ、パチと一斉に見え

始めていたが、やがて、十五分もすると、静かになり、暗黒になってしまったので、多分、

高千穂空挺隊の奇襲は成功したのであるまいかと思はれる。」

と、いう報告であった。

その報告が終るころ、一機の輸送機が、夜間であったが、緊急着陸して来た。

着陸後、機体を点検すると、余程低空で飛んだのか?

主翼に、樹の枝をひっかけて、外板に喰い込ませていた。

これは、ブラウエン基地上空で、海岸側より、進入して、空挺隊を降下せしめ、レイテ島

の背梁山脈を越えようとするとき、高度を誤って、森林の梢をかすめて、飛んだときのもの

であるという。

空挺隊の降下は、完全に成功したという。

問題は、それからである。

計画にある、第二次、第三次が如何になるかと思っていたが、これは、とりやめになっ

てしまった。

高千穂空挺隊の奇襲は、確かに成功した。

タクロバン基地からの高速艇隊は、カリガラ湾を西方に進み、ビリカン島南方の半島の

方え進出して行って、アナガスナス町南の山地を地守する日本軍に猛攻を加えていた。

玉兵団の北方よりの、タクロバン地区えの攻撃は、圧倒的な米軍の攻撃のため膠着

状況で、大変な激戦となり、苦しい戦況になっている。

オルモック附近の日本軍に対して、タクロバン地区に進出した、米軍の長距離砲の砲

撃が行はれていた。

日本軍は、泉兵団(第26師団)の、オルモックに輸送を行はれることになり、この船団

掩護が行はれていた。

フアブリカ基地の隼集成戦斗機隊は、この船団掩護のため、次のように出動している。

 午前07:00〜10:00

 午後13:00〜16:00

 待機中の残りの機は、独断激撃を実施す。

 進攻するものは、離陸しない。

○燃料補給時間

 04:45〜07:35、8機

 10:35〜14:05、15機

 16:25〜19:15、8機

○特攻機

 八紘隊二機一宇隊二機、靖国隊一機

 石腸隊五機十三機(八機)丹心隊十二機

 一誠隊十二機殉義隊十二機

 進襲隊十二機    合計六十七機

○フアブリカ基地隼隼成戦斗機隊の所在機

 飛行第三十一戦隊二〇機、遠藤少尉

 飛行第五十四戦隊一三機 鈴木中尉

 飛行第十三戦隊 二五機 中野中尉

 (整備員は、二十一戦隊十二〇四戦隊一三十一戦隊二〇名参加)

 飛行第二十戦隊 一〇機 鈴木少尉

 飛行第三十三戦隊一五機 野村中尉

  北村大尉誘導撃留統制

  三十一戦隊の余力は、北村大尉指揮

狭いフアブリカ基地には、八十三機の隼戦斗機が集合して、レイテ島の前線に全力を挙

げて、攻撃を続行していた。

十二月七日、飛行第三十一戦隊及び他の隼隼成戦斗隊のブラウエン地区を偵察した状

況の報告では、ブラウエン飛行場及びドラッグ飛行場に、敵機の所在は全く無く、各飛行場は、

全く沈黙状況で、対空射撃も何も無い状況であった。

高千穂空挺隊の兵員達が如何になったのかも、全く状況が判らない沈黙の状況であった。

レイテ総攻撃計画では、オルモックに上陸した玉兵団が、カブラン町から、東方のピナ山

の高地を越えて、カリガラ平原え出て、米軍と決戦して、米軍を北方より圧迫して、オルモック

南より上陸した、第二十六師団泉兵団と、第十六師団とて、ブラウエン地区より米軍を包囲し

て、撃滅する予定であったが、玉兵団は、ピナ山の線に膠着状況に入ってしまって、圧倒的

な米軍は、カリガラ湾を越えレイテ島西北の半島部に上陸し、玉兵団を包囲する作戦に出た

ため、玉兵団の前進は、中止のやむなきに到ると共に、防戦の守勢に立たたざるを得ぬ状況

になった。

ブラウエンの西方山地にあった、第十六師団は、高千穂空挺隊の降下攻撃に合はせて、

一斉に攻撃前進に出ようとしたとき、山地の東方に上陸した米軍陣地の砲兵隊は、一斉に

第十六師団の山地陣地に砲撃を開始して、一歩も前進出来ない状況にしてしまった。

このために、高千穂空挺隊は、第十六師団が前進して来ないので、ブラウエン基地を、

七日、八日と守備していたが、米軍が、大量の戦車群を先頭にして、攻撃して来たので、持

ち耐えることが出来ず、西方の第十六師団の山地陣地え後退してゆかざるを得なかった。

レイテ島での日米軍の死斗を行っているとき、ネグロス島のバゴロド基地から、レイテに

向って、泉兵団、第二十六師団が出発して、オルモックの南方に上陸し、ブラウエン地区え

進出してゆくことになった。

しかし、米軍の輸送船団も、約120隻にのぼる船団が、タクロバンより、200浬、更に

300浬、そして、その背後500浬と後続して、レイテ島に向けて、太平洋上を進行して来

ている状況であった。

レイテ島の北部の玉兵団正面、また、ブラウエン地区、また、タクロバン地区米軍航空

基地軍、そして、特攻隊は、レイテ湾に集結して来る輸送船団、米機動部隊に対して、必

死の攻撃を続行していた。

日本軍の米軍攻撃、撃滅作戦の進行は、図上戦術的には、確かに、日本軍が勝つべ

き、態勢を持っていた。

この事は、遠く四百年の昔、関ケ原の戦いで、徳川軍に対しての石田軍の態勢は、確

かに勝つべき態勢がありながら敗れた。

それは、確かに小西軍その他の裏切り行為があったであらうが、レイテ島での戦いに

おける、日米の戦いは、この関ケ原を思はせるものがあった。

レイテ沖海戦における、日本海軍と、米機動部隊の決戦は、今日、小栗艦隊の早期

反転によって、北方よりの四作戦によって、米軍を引きつけ、南から、武蔵その他を突入

させるということでの包囲作戦は、完全に失敗して、武蔵は、敢えなく、中部比島の海に、

撃沈されてしまった。

ここに、近代戦における、装備、武器、兵戦の性能、それの操作能力、輸送能力、そ

して、銃後の生産能力、技術能力が、基礎としてあり、特に近代戦における作戦の力、と

判断の差が、生まれたということが出来るであらう。

判りやすく云えば、明治時代と、近代の差ということが出来るであらう。

日本軍も確かに近代の軍であった。

しかし、その内容において、明治時代的な考え方が、思想、全てにおいて、存在し、

特に、軍の中枢、統帥部において、その色彩が大であった事も、事実である。

日本軍の兵士等は、正に勇敢であった。

兵器の性能、数量、運用、統帥能力、作戦運用、通信、補給、運搬等、全ての差が、

第一線では、歴然として、兵士達の戦線に現はれて来るが、その中で、日本軍兵士、第

一線は、敢然として、戦ったのであった。

しかし、この差、作戦の基本の誤りは、歴然として、比島戦線に具体的攻防の場に

現はれて行った。

オルモックより、北方よりカリガラ平原での決戦を企図した、玉兵団は、日本陸軍第

一師団の最も近代化された装備を持ち、最も訓練された部隊であったが、戦線は、ピナ

山、カブラン町の戦線に膠着してゆく状況になって行った。

泉兵団(第26師団)のオルモック港えの上陸は、タクロバン地区の長距離砲の射程

に入り、その南の方に、変更せざるを得ぬ事になって行った。

隼集成戦斗機隊のフアブリカ基地は、幸いにも、飛行第三十一戦隊を中心として、

他より集合して来た、各戦隊は、呂宋地区を通過して来たので、幸いであったが、比島

の決戦のために、日本のみか、満州、中国、南方軍からの各精鋭部隊は、呂宋地区に

おいて、米機動部隊の攻撃を受けて、大半は潰滅してしまった。

これらの部隊には、気の毒であるが、比島の航空機は、米軍の機動部隊に対して、

余りにも無経験であり、中国、南方におけるもの、或は満州におけるものとの、戦争、戦

斗の様相に、格段の差異があったのである。

それは、航空機の飛行機の性能のみでなく、空中戦と対地攻撃、作戦の遂行にお

いて、全く異なるものであった。

日本の統帥部は、飛行部隊があれば、戦勝の道が拓けるという考えの様であった

が、前に、昭和十九年九月以来の我々飛行第三十一戦隊の米58機動部隊との戦斗

以来に述べた実情の如く、日本軍の統帥部において、近代戦えの素養、訓練、態勢が

無く、徳川、戦国時代の考え方、兵器装備、補給、戦術のものと、近代戦のものとの差

異があった。

図上、また作戦上、飛行機だけを、図上、或は、紙の上での数、配置によって、実

際戦斗、戦争は、勝てるものでは無かったのである。

通信情報もさる事ながら、判断の根本が、全く誤り、本質を失ってしまっていた。

この斗は、今日においても、云えることであらう。

この事は、このレイテ決戦の時、航空部隊の呂宋島えの集結は、絵に書いた、紙

の飛行機を並べた如く、米軍の攻撃に、一たまりもなく、紙片に火をつけた如く燃えて、

潰滅したのであった。

大本営においても、この事実は、認めざるを得ず、狂的な特攻に、望みを託する事

になったのである。

この時機より、明確に、日本の大本営のみならず、現地の各軍司令部、師団司令

部においても、比島レイテ正面での作戦について、明確に、総攻撃の成果を、疑念を

持つようになって来ていた。

飛行第三十一戦隊として、痛恨なのは、バゴロドより、レイテに出発する、第二十

六師団の輸送船の出発もあり、米軍の機動部隊、タクロバン基地陸軍機による、バゴ

ロドえの空襲があったのに、十二月六日、フアブリカ基地の隼隼成戦斗隊より、激撃に

出た、柏木少尉が、未帰還となってしまった。

午前九時十分、シライ町上空に邀撃に出撃して行った。

編隊の編成は左記の通りである。

      T逸見         T古川

 54FR T水野     31FR T柏木

      T入江         T福山

        T大浦         T阿部

 

柏木機の僚機、古川軍曹は、中途より引返し、左編隊の長、福山軍曹は、酸素不

足で引返し、阿部軍曹が、長機に追随して、行ったが、シライ町上空の積乱雲に柏木

少尉が突入して行ったとき、柏木機を見失ったということである。

柏木機は、マナプラ上空の積乱雲の中から降下して来て、高度五百米にて、反転

して、自爆したということである。

発動機のプロペラは、廻転していなかったということである。

阿部機が見失った後に、如何なる事態が起こったのか?

全く不明である。

積乱雲の中に突入してゆくこと自体が非常識であるが、如何なる空中戦斗状況が

あったのか、全く不明である。

柏木少尉の戦死で、遂に飛行第三十一戦隊え配属されて来た、新鋭の陸士57期

の将校は全員戦死して、戦隊の飛行隊の将校はまた寺田中尉一人の状況になってし

まった。

柏木少尉の遺体は、飛行第三十一戦隊の副官の小出中尉が、シライに行って、処

置する如く、?、飛行第二師団司令部に連絡したと私の記録にある。

レイテ島における、日本軍の状況は次のように記している。

これは、飛行第二師団司令部からの情報を私が書き記していたのであったが、空

襲があったので、私についていた当番兵に、残りを記述させたものである。

 

 地上戦斗状況

一、垣兵団方面

  司令部は「ロビ」山、1150高地東南1K、陣地に変化なし、水源は依然確保しあり、

  兵団戦力は、光兵三ヶ連隊、計1400(小銃750)連隊砲一、大隊砲二、弾薬殆ど

なし、軽機40、擲弾筒30、戦車砲0、砲兵約300、(小銃200)工兵約200、航空

関係約200

二、兵団当面に対し、敵の第一線歩兵約二ヶ大隊、(迫撃砲10、野砲10、???約

  三中隊)連日攻撃しあるも、依然として、其の陣地を死守し、テ号作戦の準備しあり、

地上連絡、及び、補給遂次つきつつあり。

三、今堀部隊方面

 一日、我が陣地の右翼方面に対する敵の砲撃、稍熾烈となり、敵は小部隊を以て、

潜入し来るも、我はこれを撃退せり、

四、玉兵団方面

 一日、552高地方面より進入せる敵は、「ソル」方向に潜入せるもの如く

 552高地及び西北方高地を保持

五、泉兵団方面

 我は、二日午後大型輸送船六をもって、「バイバイ」に、人員及び資材を揚陸せり。

 敵は、兵力を増強し、攻撃を準備しある如く、又小型艦艇をもって、海上より我が第

一線及び「アルフエラ」附近を射撃中なり。

六、軍司令部は、第一線「ルビ」「アルフエラ」「マタフラ」に進入せり。

 重杉大尉(三日十二時)

 1、敵は「ブラウエン」北飛行場を使用しあらず、南飛行場は飛行機多数あるも、観測

   機の外、離陸するもの無し

 2、205高地及び同高地西方二KM高地一部占守しあり

 3、ブラウエン西側には、戦車30及び多数の自動貨車を集積しあり

 4、重杉大隊主力は、一日、300「ユタクバ」北方2K、標高205高地に向い前進中

 5、右翼大隊

   「ペラツス」河北側107高地西方稜線より右翼大隊、205高地確保

   敵は、目下、積極的攻撃をなさざるも、砲兵陣地に本道附近より山脚に攻撃準備し

あり。

六、二日二十二時

  552高地に進入せる敵(歩兵約100迫撃砲を有す)を夜襲し、その大部分を駆逐せ

るも、山頂を確実に占領するに到らず。

 一部「ソル」南方の我が砲兵陣地に到る近くに達しあるものの如く

 第一歩兵連隊は、「リル」西方に於て昨日来、新なる敵の攻撃を受けつつあり。

 当方面の敵の暗号に依れば、敵は24D、33Dの主力を概ね「カポ−カニ」以西地区より

主として、玉兵団に対して、浸透戦法による攻撃により、攻撃を企図しあるものの如し、

玉兵団は、要点を確保しあり。

 なし得る限り、主力を以て、後方進入の敵殲滅掃蕩を企図しあり。

○抜兵団正面(二日十九時)

 一昨日来「ピナ山」西北方3KM、716高地(大隊長の指揮する一中隊あり)は、約一大

隊の敵攻撃を受け、大隊長戦死、目下、我が第一線は、同高地東南方の鞍部附近にあ

るもの如し、

「バイバイ」

 本日午後大型輸送船六をもって、「バイバイ」に人員及び資材の揚陸せり。

「ダムスアン」には、10Hが現はれ、本日の敵歩兵の移動活発ならず。

 泉兵団

 282高地前面の敵は、砲二〜三を有する100名内外にして、三日輸送機二機を以て、

物糧投下せり。指揮する一小隊は、同高地を確保しある。

 渡大隊主力は、三日、205高地附近に、進出予定にして、六日、2200、四組の新入隊

を「ブラウエン」南、及、「サンパブロ」飛行場に攻撃予定。

 此の一部は、「ブラウエン」南方五q327高地に前進中なるも、状況不明

 歩兵一中隊は、三日、04:30「ルピ」?、15:00287高地に前進

 井上大隊三日夕出発

 本戦斗司令部四日、287高地に前進す。

                  以上

 

この様な、レイテ島における各戦線の状況は、正に、玉師団も、タクロバンの西、カリガ

ラ平原に向う戦線で、本格的攻撃に入りつつあり。

また、北方より、玉兵団、垣兵団、抜兵団、そして、新しく上陸した、泉兵団と、南方のブ

ラウエン平原えの進出態勢が整って、一斉に攻撃前進する姿勢が出来た訳である。

このため、隼戦斗機隊にも、この地上軍の前進に伴う、戦場での攻撃、また後続船団え

の掩護の任務が命令されて、いた。

 進攻

  一回 戦場上空制空

   0550〜0620

  各戦隊全力(夜間進攻)

   04:45、フアブリカ上空発進

   07:35 帰還

    高千穂第三次を収容掩護

    やらぬ場合、自然消滅、マナプラまで、

  二回

   出動可能の半数をもって進攻

   10:35〜フアブリカ4000米

   14:05帰還

    各戦隊全力、シライの分も

  三回

   17:50〜18:20

   戦場上空

   夜間出動の全力

   16:25−フアブリカ高度1000

   19:15−帰還著陸各飛行場

以上の情況は、次の様に考えられる。

レイテ島の守備軍は、垣兵団といわれるものであったが、米軍のタクロバン地区えの上

陸によって、計画通り、タクロバン地区の西の背梁山脈の地域の山岳に、陣地をつくり、タク

ロバン地区からの米軍上陸部隊の攻撃に対して、持久戦を行い、また、タクロバンの南の、

ドラッグ、ブラウエン地区の守備隊は抜兵団となって、背梁山脈に陣地を作り、垣兵団と連

撃して、米軍のオルモック地区及びレイテ島西海岸えの進出を阻止する。

それによって、日本軍は、玉兵団を、オルモック地区に上陸せしめ、北上して、垣兵団の

山嶽陣地の左側より、カリガラ平原えの進出を行うべきであったが、米軍は、垣兵団の山嶽

地区陣地が堅固であるので、タクロバン地区より、レイテ島の北の海を通って、レイテ島西

部の山地方面に上陸せしめて、玉兵団のカリガラ平原えの進出の背後より攻撃する態勢に

なったため、玉兵団の戦線は、このために、前進出来ず、膠着状況になっていた。

泉兵団は、オルモック港に対しての米軍のタクロバン地区からの長距離砲射撃によって、

オルモック港を避けて、バイバイ地区に上陸し、背梁山脈に頑張っている抜兵団の南から、

ブラウエン、ドラッグ平原えの進出を行う態勢に入ったのである。

この情況の日本軍地上部隊の海上輸送、上陸掩護と、レイテ島の西からの進撃、背梁

山脈を越えての攻撃、タクロバン、その南の米軍航空基地、海上輸送に対する攻撃を続行し

ていた。

隼集成戦斗隊は、正に八面六臂の奮斗を行っていたのであった。

 

4、レイテ作戦の瓦解

ネグロス島、フアブリカ基地の隼隼成戦斗機隊は、連日の出動によって、レイテ島、日本

軍陸上部隊の志気を鼓舞し、その進出、集中を助けていた。

十二月八日、隼隼成戦斗機隊の集成整備隊長であった、第五十四戦隊の藏前大尉が、

日本内地の勤務に変ることになって、その指揮を、飛行第三十一戦隊の杉山大尉が行うこと

になった。

当然、杉山大尉にも、転勤命令が、既に陸軍省より出ていたのであったが、第十三飛行

団長江山六夫中佐、飛行第三十一戦隊西進少佐との申合せで、杉山大尉は、転勤いないで、

この指揮をとることになった。

比島、レイテの作戦は、日米の地上における両軍の間に、愈々白熱化してゆく段階に進

みつつあった。

このため、隼隼成戦斗機隊の出撃は、苛烈を極めていた。

十二月六日夜の各戦隊の出動可能性機は次のような状況になっていた。

飛行第二十四戦隊、一機 坂本大尉 55

飛行第三十三戦隊 六機 山浦少佐 52

飛行第二十戦隊  九機 大里大尉 55

飛行第十三戦隊  七機 中野少佐 52

飛行第五十四戦隊十一機 武田少佐 52

飛行第三十一戦隊十六機 西進少佐 51

        合計五十機

 十二月七日以下出動は次のようになっている。

○第一回出動 戦場上空制圧

  05:50〜06:00

 一、各戦隊の夜間出動可能の全力進攻

  04:40 フアブリカ上空発進

  07:35 帰還着陸

 二、高千穂空挺隊、第三次の輸送機掩護

   マナプラまで直掩

○第二回 戦場上空制圧

  11:50〜12:20 坂本大尉指揮

  各戦隊の出動可能性機数の半数をもって進行す。

  10:35、フアブリカ高度1000米発進

  14:03 帰還着陸

 2、各戦隊は、全力マナプラ上空掩護

  11:00−フアブリカ着陸

 3、第三回戦場上空制圧

  17:50〜18:20

  各戦隊の夜間出動可能の全力

  16:25、フアブリカ高度1000

  19:15、帰還著陸

     飛行十三戦隊 五機

     飛行第三十一戦隊十機

     飛行第五十四戦隊三機

  哨戒 一機

   剣持、浜砂、原 三名 ブラウエン上空制圧より帰る。

  夜間 下方大尉指揮

  十七時 フアブリカ上空1000米

  十九時十五分、著陸

十二月六日夜、作戦命令

 テ号作戦、第十三飛行団長指示

 「部隊の単位は多いが、飛行機数が少ない。

 努めて、指揮系統、臨時の編組を行はねばならぬ。」

 「空中部隊の団結、固有部隊外についてない場合、部隊戦法が出来ていない。」

 「出発前の試射

  出発線に出てやるもの、通信隊の方に行うもの、静止の場合に行うもの、まちまちに

  なっている。」

 船団掩護命令

 一、第八次船団は、本日七日、十二時頃レイテ南西海岸「ビハラ」附近を南下したる後

   夕刻、突入す。

   海軍より0戦出動す。

 二、隼部隊は、主力を以て、第一項の戦隊にて掩護す。

 三、各戦隊は、

    十一時〜十三時

   第一次戦隊の掩護に任ずべし。

 四、大里大尉は、前項部隊を統一指揮すべし、

  飛行第十三戦隊 五機

  飛行第二〇戦隊 五機

  飛行第二十四戦隊一機

  飛行第三十一戦隊七機

  飛行第三十三戦隊一機?

  飛行第五十四戦隊六機

        合計二十四機

  哨戒 四機

  船団 十機

  進攻 六機

     予備 四機

  昼間の進攻六機は、水野中尉指揮

  船団掩護は、坂本大尉、指揮

 船団掩護

  離陸 10:20

  上空制圧10:45

 飛行第三十戦隊掩護隊編成

    T古川     T門田

  T寺田     T福山

    T成沢

      T安部

  阿部、中谷、     }交替要員

  剣持、中村、原、浜砂 } 交替要員

 バイバイ沖上空にて、P38の数機と交戦す。

 成沢機、遅れて帰還した。

 この出撃において、飛行第三十一戦隊は、レイテ島の作戦に重大な転機を斎らした状況

を報告した。

 ○アルブエラ附近に、米軍の輸送船団が進行中である。

 ○オルモック港は、米海軍の軍艦、攻撃中

この報告は、我々、隼隼成戦斗隊を、驚愕させるべきものであった。

米第七軽艦隊が、カニガオ海峡を突破して、オルモック湾内に入ったということは、今や、

ブラウエン地区え進出しようという、レイテの泉兵団の背後のみか、北方の玉兵団、いや、

日本軍の全部隊の背後が全く米軍の攻撃、占領によって、日本軍の全面的、戦線の瓦解

につながる問題であった。

編隊の指揮官であった、寺田中尉は、生来言葉の少ない、寡黙な戦士であったが、この

報告のとき、眼をむいて、全く昂奮して、顔を眞赤にして、報告していたが、副指揮の編隊

長であった、福山軍曹も、必死になって、直ちに、全戦隊、全隼戦斗機隊をもって、このアル

ブエラ附近の米船団に対して、特別攻撃隊を出発させるべきであることを進言した。

この報告を受けた、隼戦斗機隊の隊長である、江山六夫中佐は、西進少佐と共に、全部

隊、特攻となって、攻撃すべきことを、第二飛行師団司令部に、電話連絡によって、進言した。

 その電話進言に対する、飛行第二師団司令部の返事は次のようなものであった。

 一、情況判断

  米軍の船団の状況は、まだ海上を進行中である。

  この状況によって、米軍の上陸は、二時間から、六時間かかると考えられる。

  故に米軍の半途の上陸時機に攻撃するのが、最も適切と判断す。

 二、各部隊は、第二飛行師団の全力をもってする、この攻撃に参加すべし、

  戦、爆、連合部隊で行うことに決した。

と、いう命令であった。

この命令を聞いたとき、さすが、寡黙な、寺田中尉は、飛行帽を右手で鷲づかみにして、

大地に叩きつけて、くやしがった。

飛行第二師団は、其の日、午後三時、シライ山上空に、全出動機が集合して、このアル

ブエラの米上陸軍を攻撃に出発した。

しかし、米軍は、アルブエラより更にオルモック湾に近い地点に上陸していた。

その上陸兵力の実質は、約一ケ大隊ではあったが、米軍のアリゲ−タ−という水陸両用

戦車が主体であったので、全部の上陸は、僅か一時間もかからず、上陸を完了するのみな

らず、この水陸両用戦車は、一種のト−チカ陣地を形成する形で、完全に上陸橋頭堡を形

成しまっていて、日本の第二飛行師団の全力の戦爆連合編隊が、この米軍上陸地の上空に

達したときには、米上陸軍船団は、既にアルブエラより、遥か南方海上を、タクロバン基地に

帰還する状況で、第二飛行師団司令部の判断は、全く誤算であった。

米軍の上陸船団は、上陸用船で、舳先きを開いて、アリゲ−タ−水陸両用戦車は、直ちに、

船から、上陸して行ったのであったので、この上陸そのものは、三十分も要しなかったであらう。

この米上陸部隊に、直接脅威を受ける、泉兵団は、直ちに参謀を派遣して、米軍の上陸地

点を確認したところ、アルブエラ市の南方の地域であるとの報告であったので、アルブエラ市

には、守備隊が置いてあることで、安心していた。

しかし、暫くして、アルブエラ市より北方の地点で、オルモック港に近い地点であることが判

明したので、直ちに、予備の連隊、全部を持って、この一大隊の米軍を撃滅すべきことを命令

した。

オルモック市にある、日本軍のレイテ方面軍も、慌てて、オルモック港に守備していた工兵、

一ケ連隊を、この泉兵団の予備連隊に応援せしめた。

 しかし、この米軍の上陸部隊のアリゲ−タ−水陸両用戦車は、全く針鼠のような、強力な

火力を持つ部隊で、この泉兵団の攻撃連隊は、近づくことも出来ない猛烈な砲銃撃を受けて、

砲兵も、何の火力も持たない、歩兵連隊の日本軍は、大損害を受けて、立往生の形になって

しまった。

オルモック市よりの工兵連隊の増援部隊も同様であった。

米軍は、このアルブエラ市北方の橋頭堡から、一ケ連隊に増加して、泉兵団は、ブラウエ

ン地区えの進出を中止せざるを得ぬ状況になり、この上陸部隊え、全力攻撃をする態勢に

移ったが、米軍は、次々に輸送船団を送り、一ケ師団に近い兵力になって、遂に泉兵団は、

全戦線を、オルモックの方に後退せざるを得ぬ状況になってしまった。

しかし、この後退は、むしろ、全日本軍の敗走の形に発展したことになってしまった。 

このアルブエラ市の海域の入口、カニガオ海峡には、日本軍海軍によって、機雷原が

つくられているということで、米海軍の進入は不可能ということであったが、実際は、もう

日本海軍に、このカニガオ海峡を完全に封鎖するだけの機雷がなかったので、単に形ば

かりの機雷が布設されている状況であった。

玉兵団の上陸の時にも、米軍の高速艇が、進入して来ている情報があったのであるが、

その時、米軍は、既に、この機雷の処理を終了していたのであったと考える。

第一に、この機雷原の問題

第二に、米軍のこの上陸地点の判断を誤った、泉兵団、レイテ方面軍の参謀の問題

第三に、第二飛行師団司令部、第四航空軍の、米軍上陸能力と、判断の誤りの問題

これらのものが、重なって、遂に、この米軍の上陸部隊によって、レイテの日本軍全体

が瓦解する契起をもたらした事になった。

勿論、この問題は、果して、これら司令部の責任だけであるかどうか?

各第一線部隊、全日本軍の問題として、永久に残るであらう。

この大きな事件の様相は、日本軍と米国軍との比較問題として、重要な問題を投じて

いると考える。

米軍が、レイテ島、オルモック湾のアルブエラ市の北方に、上陸せしめたのは、米軍の

水陸両用戦車に搭乗した、僅か、一ケ大隊であるということである。

恐らく、この一ケ大隊は、米海軍の海兵隊部隊でないかと考える。

私達の陸軍の作戦的考えでは、これは、一つの大きな賭であると考える。

この水陸両用戦車のアリゲ−タ−戦車は、陸上戦車程、装甲も、火砲も、充分でない。

しかし、陸上の走行速力その他も、一般戦車に劣るが、しかし、陸上も、海上も、自由に行

動が出来る。

日本軍の戦車に関する思想は、水陸両用戦車というものは、水上志行をすることで、浮力

を必要とするから、出来るだけ軽くということを先づ考える。

これは、戦斗機でも、同様である。

空中戦をするには、出来るだけ軽い、つまり、防弾タンクも、操縦席の防護板も、出来るだけ

薄くして、重量を軽減する。

機関砲その他の武器も、日本軍は、最少限度の必要装備になって、重量を軽減している。

米軍は、必要なものは、充分に、そして、性能も充分にという思想である。

グラマン、F6Fがその代表であり、日本海軍の零戦を超える飛行機になっていた。

この件、この米軍の水陸両用車の、アリゲ−タ−戦車でも云うことが出来ると考える。

この第二次大戦の初戦において、我々は、ビルマ戦線で英印軍と、対決した。

この場合は、日本軍の戦勢と、植民地英印軍との間に、兵力、作戦の主導性等が異なって

いたので、日本軍は破竹の勢で進んだように見えた。

しかし、敗走して行った、英印軍の戦車、装甲車等の残置したもので、我々技術関係者は、

日本の火砲の威力の実際を知るために、ラング−ン郊外で、実射によって、試験をした。

日本軍の持つ、戦車砲といわれるものは、37oの速射砲、砲身は、自緊砲という、日本軍

自慢のものであったが、戦車のみか、軽装甲車においても、全く貫通しないのみか、完全に

撥ね反してしまって、全く効果が無かった。

連隊砲でも駄目、九〇野砲でも、僅かに凹むくらいのものであって、ようやく、十糧加農砲を

持って来て、戦車、装甲車の外板を、射ち貫くことが出来た。

この事実において、如何に勇敢な日本軍でも、眞面目な、会戦を行う場合、この武器の点、

思想の面でも、作戦能力でも勝目はないと判断された。

けれども、日本の陸軍のみでなく、政界財界、その他に、正当に、判断し、現実を理解する

素養に欠けていた。

第二次大戦後、日本の敗戦によって、得たり賢く、日本の敗戦を予測したのと、或は、日本

を批判するものが多くでた。

しかし、これらの人々が戦時中何をやったか?また、戦前に如何にしていたか?

日本の内部において、これらの問題を、眞剣に考え、具体化することにおいて、大いに欠け

ているのであるまいか?

日本人は、大変気分屋であり、眞実に対して、理性的に対処する本質に欠けているので

ないかと、私は考える。

この事は、レイテ島における、日米軍の決戦において、如実に立証されたものと考える。

アリゲ−タ−、水陸両用戦斗の橋頭堡陣に対して、日本軍は、砲兵なしで、対抗した。

この事は、米軍としては、日本軍のレイテ島における、兵力の試金石として、この上陸部隊

を送ったと考えることが出来る。

日本軍に、このアリゲ−タ水陸両用戦車を打破するだけの火力の装備があれば、撤退すれ

ば良い。

進退自由な形で、日本軍の背後に忽然として、上陸して来た日本軍は、二ケ連隊で、一ケ

大隊のものを潰せなかった。

この事は、米軍に、レイテ戦線のおける自信を持たせたと考える。

正にやんぬるかなである。

戦争遂行そのもの、作戦そのもの根本の判断、理性を失ったものに、勝利の道は、無い

のも当然であらう。

駄目なものは、駄目、力が無ければ無いなりの、自らの対処の方法、戦争遂行の方法、

作戦の行い方があるが、それのないものは、ズルズルと、敗戦になってゆくだけである。 

大本営が、米機動部隊によって、呂宋の各飛行基地の殆どの航空機が潰滅させられた

とき、レイテ作戦遂行の意欲を失ったということであるが、我々の戦隊で、特攻機、特攻隊を

出さざるを得ぬときに、既に明白なものである。

なるべくして、かくなったというより外は無い。

第一線の部隊のものとして、とうに、敗戦は覚悟している。

生死の問題でなく、何処まで戦い得るか?と、いうことにおいて、敗戦によって、軍人として

の生涯は終ることは、明白である。

それは、生死にかかわりは無い。

軍人としての生涯において、何処まで、戦い得るかの極限の立場に立った訳である。

レイテは、レイテ、我々は、我々である。

ここに、目前に、レイテ戦線の瓦解すべきものを見ながら、我々そして最後の戦線の問題

に立っていた。

昭和十九年十二月八日、この日のフアブリカ基地の隼隼成戦斗隊の状況は、次の通りで

ある。

          出動可能・修理・大修理・合計

 飛行第五十四戦隊  五  ・三 ・ 四 ・十二

 飛行第三十一戦隊  六  ・一 ・ 三 ・ 九

 飛行第十三 戦隊  三  ・0 ・ 二 ・ 五

 飛行第二十 戦隊  四  ・三 ・ 一 ・ 八

              ・  ・   ・

    出動可能十八機        合計三十四機

 

隼隼成戦斗機隊は、アルブエラに上陸している、米軍の後続を断つ目的で、カモテス海の

米軍輸送船、及び、米上陸部隊を攻撃続行することになった。

地上軍に、戦車を攻撃する、火砲もなく、能力もないので、戦斗機による爆撃攻撃である。

 午前八時三十分離陸

 31戦隊    54戦隊

   T門田     T逸見

 T寺田     T榎田

   T福山     T坂口

     T阿部     T大津

 八日夜における命令は次の通りである。

 時刻午後十時三十分

 

 

 一、九日 船艇を求めて攻撃

      サマ−ル海、ミンダナオ海

      出発十時と予定するも別命

    シライ上空五000雲のある場合は雲下

     特攻隊 五000

     龍撃隊 一000〜二00

     隼戦斗機一000〜五00

    隼、三式戦は、二000以上直掩隊

    帰路は別命す。

    高度は、特攻隊基準

    直掩 八機

   制空 六〜七機

   残置選抜

 二、隼及び選抜

    オルモック海−カモテス海−スリガオ海の状況捜索

 日本軍は、アルブエラの米上陸部隊の増強の間、レイテ島えの補給増援隊を、オル

モックより、パロンボン港に変更して、また、パロンボン北方3Kのバウヤに変更して、突

入せしめていた。

 この海上輸送と、突入後の上陸掩護が命令された。

 05:30・06:00〜08:00

      ・飛行第五十四戦隊 四機夜間離陸

 08:30・09:00〜12:30

      ・飛行第三十一戦隊10機

 12:30・13:00〜16:00

      ・飛行第三十一戦隊飛行第五十四戦隊10機

      ・16:16〜18:30

      ・飛行第十三戦隊飛行第二0戦隊六機(夜間)

      ・

 三、式戦は次の如し

   午後十二時〜十四時、15:30〜17:30

 四、式戦

   八時〜十時、十一時〜十三時、十四時〜十六時、十七時〜十八時三十分

 海軍0戦 八〜十機

 隼高度三000三式戦高度三五00

 四式戦高度六000

二、船団編組

 九日十四時 マニラにて行う。

 戦車、四、歩兵第五連隊(星兵団)

 軽巡三、(軍需品、陸戦隊)

 輸送艇三、(上陸用舟艇)

 駆逐艦 二逐艦

 右の命令に関して、実際は次の如く処した

 飛行第五十四戦隊五時−四機

         十二時−四機

   飛行第三十一戦隊三次 六機

           二次 二機

   飛行第十三戦隊 二次 四機

   飛行第二十戦隊 二次 四機

   飛行第三十一戦隊二次 二機

   飛行第十三戦隊 四次 三機

   飛行第二0戦隊 四次 三機

 

 実際の出動

 第一次五時三0分

  飛行第五十四戦隊 四機

 第二次

  飛行第十三戦隊  四機

  飛行第二0戦隊  四機

  飛行第三十一戦隊 二機

 第三次

  飛行第三十一戦隊 六機

  飛行第五十四戦隊 四機

 第四次

  飛行第十三戦隊  三機

  飛行第二十戦隊  三機

 出動編成            午前五時出動準備

第一次   T榎田    T予備31FR   午前五時三十分離陸

     T竹田                 午前六時   出発

        T杉本              午前八時   帰還

          T菊地            午前八時三十分着陸

 

第二次

  T本家      T大塚

 T下方      T作見     T岩原

        T杉田      T木村     T成沢

          T貞金      T玉井

 準備 八時    帰還 十二時

 離陸 八時三十分 着陸 十二時三十分

 出発 九時

第三次

       T坂口      T門田     T剣持又は福山

     T水野      T西       T阿部

       T入江      T原

          T大浦     T中谷      予備 二機

 準備十二時  帰還十六時

 離陸十二時三十分着陸十六時三十分

 出発十三時

第四次

        T原       T山口

     T中野      T大里

        T山岡      T川島   予備2キ

                          31FR

 準備 十五時    帰還 十八時三十分

 離陸 十五時三十分 着陸 十九時

 出発 十六時

各戦隊飛行機保有状況

 飛行第五十四戦隊 七機内甲 四機甲下一機

 飛行第三十一戦隊 八機内甲 六機甲下一機

          合計予備二機

 飛行第二0戦隊 二機

 飛行第十三戦隊 三機  午前中に一機完了

 整備中のもの

 飛行第五十四戦隊 三機

 飛行第三十一戦隊 二機

 私は、十二月八日、飛行第五十四戦隊整備隊長、隼隼成整備隊々長であった、藏前

大尉の転勤によって、隼隼成戦斗機隊、整備隊長を引受けて、十二月七日より、藏前大

尉と交替準備に入り、このため整備事務引継にしていたためであらうか?

私の記録には、浜砂昌久軍曹中村稔軍曹の戦死の状況は、記載してなかった。

十二月七日、午前中、寺田中尉以下の編隊がブラウエン地区の高千穂空挺隊の掩護、

制空からの帰途、オルモック湾アルブエラ附近に上陸する米軍を求め、午後、飛行第二

師団命令で、戦斗機、爆撃機の編隊で、この上陸米軍を攻撃に行ったとき、剣持曹長等

の編隊で、参加して行ったものと考える。

米軍側も必死で、上陸部隊の支援のために出動して来た、米航空機と、壮絶な空中戦

斗を行って、戦犯したものと考える。

 

   T中村

  T剣持     T浜砂

   T阿部     T原

       T中谷

という編隊編成であったことと考える。

しかし、この記録は、私のノ−トにはない。

多分、米軍の上陸による、陸上軍の変化を追っていて、この出動を記録しなかったと

思う。

 

5、ネグロス島の戦慄

レイテ島戦線は、米軍のアルブエラ上陸によって、俄かに、緊張し、泉兵団の予備連隊、

方面軍の工兵連隊その他による攻撃で、この上陸部隊の潰滅出来るかどうかが、戦局を

左右する事になっていた。

九日、日本軍は、オルモックえの補給路を変えて、北方のパロンポン港の附近に、泉

兵団の後続部隊を上陸せしめ、玉兵団、泉兵団えの補強を行うことに成功した。

我々、ネグロス島に居た、飛行第二師団傘下も、この後続部隊の上陸によって、一息

ついた形になっていた。

あとは、日本海軍が、巡洋艦、駆逐艦等でオルモック海域における、米軍の攻撃や、

地上軍の、米上陸部隊えの攻撃経過の動きを見るだけである。

レイテ島は、タクロバン海岸線に上陸した米軍えの対抗線のレイテ背梁山脈の陣地は、

まだ固守して、泉兵団は、ブラウエン地区えの前進態勢を残したまま、アルブエラに上陸

した、米軍を、必死に、叩き潰しにかかっている状況である。

パロンボンに上陸した、泉兵団の後続部隊、補給物資、火砲、戦車等が、泉兵団の戦

線に到着するには、まだ数日を要するであらう。

タクロバン方面より北方の海域を越えての、カリガラ湾を横ぎって来た、玉兵団左翼の

米軍に、玉兵団は、カリガラ地区その進出を止めて、必死の抵抗を試みている。

日本軍は、逆に、米軍に包囲された形になって行った。

丁度、その補給路が、パロンポン港という形になっている。

これを持ちこたえるか?

米軍の攻撃の息が、補給が何処まで続くか?

それによって、レイテ島作戦の運命は、決する事にならう。

しかし、日本軍の補給は、微々たるものであり、米軍は、大輸送船団を、一つのグル−

プで、二百隻に及ぶもので、やって来る。

それが、二次、三次と、正に津波の如くやって来た。

日本軍の航空部隊は、海軍は、殆ど0に等しく、陸軍の中心航空隊は、第二飛行師

団であった。

飛行第二師団には、日本より、多くの特攻隊や、また現地の部隊での特攻隊が編成

されて、オルモック湾に上陸した米軍、また、タクロバン湾に来る補給船団に対する苛烈

な攻撃を続行していた。

しかし、オルモック湾に上陸した米軍は、遂次増強されて行って、一箇師団に近い兵

員になり、オルモック市を攻撃して来る段階になって行った。

オルモック市の陥落は、日本軍のレイテにおける米軍を攻撃する基本構想が、根底

より消滅するのみならず、攻勢のために準備して来た日本軍の戦線が、内部より崩壊

することになり、ブラウエン地区え進出を準備していた、泉兵団は、オルモック市の東

部山地を斜めに撤退して、オルモック市の北部に、新しい抵抗線をつくらぬと、泉兵団

のみならず、レイテ島の日本軍の主力といわれる玉兵団の背後が、全く危険な状況と

なる。

オルモック市の攻防が、レイテ島の日米軍の戦斗の山になって来た。

オルモック市の攻防戦のため、地上軍は勿論であるが、我々飛行第二師団傘下は、

全力を投じて、必死の攻撃を行っていた。

十二月十日、午前十時頃である。

レイテ島の南、スリガオ海峡を、米軍の大輸送船団、約八十隻が、通過して行って、

しかも、この輸送船団は、進路を西にとって、ボホ−ル島の南を通って、ネグロス島の

方向に向っていることが判明した。

この船団は、次の如き大船団であることが判った。

 輸送船115隻、上陸用舟艇150隻

 空母6〜7隻 その他69隻

というものであった。合計335隻外空母6〜7隻というものである。

この情報を、飛行第二師団から、隼隼成戦斗機隊に受けたとき、さすが豪腹な江山

六夫中佐も、何も云はずに、その情報を受けた文書を私に渡し、傍に居た、西進飛行

第三十一戦隊長は、眞青な顔をしていた。

私は、その情報の全文を読んで、正に唖然、呆然として、全身に戦慄が起こった。

レイテ作戦以来、日本軍の攻撃によると米軍の艦船の喪失は、日本軍の情報という

ものは、多分に希望的な観測のものが多いとは申しても、米軍からのニュ−スで、太平

洋戦争開始以来の全米軍の損害の六倍もの喪失をレイテ作戦で、蒙ったと、米軍自身

が発表していたので、損害を受けた艦艇は百隻に近く、攻撃によって、沈没百五十隻

以上、損害は三百隻にも及ぶであらう。

それは、日本海軍、日本の船舶の全てに匹敵する数である。

お互いに消耗し尽して、最後の努力によってレイテ島の最終的な作戦を遂行している

という、私の考えであったが、この四年間において米国の多量生産による、航空機、船

舶の生産能力は、さすがの私の予想は、完全に覆がえってしまった。

このとき、ネグロス島の飛行第二師団の出動可能機は、私の計算では、僅かに五十

機くらいのものである。

全機特攻を行っても、この大船団を潰すことは出来ない。

この船団は、特別の装備である事が判明した。

全船艇は、全て、対空火器を装備したものである。

全船艇が、対空火器によって、針鼠の状況になっていて、少くも、高度、五千米以下

には、進入出来ない。一斉に発射するときは、全船艇の上空には、火栓と硝煙の雲が

出来る状況であった。

この船団が、五−六隻で、隊列を組んで、進行する周辺には、護衛の空母が、日本

軍の特攻や、船団を攻撃して来るのを待ち構えている形になっている。

その第船団がゆっくり六ノットくらいの速度で、ボホ−ル島の南の海域をすすのでゆく。

その姿は、ネグロス島に近づいて来るように見えた。

比島捷号陸軍航空作戦には、この船団の事を記してあるのは、十二月十三日となっ

ているが、これは、私の記録と異なっている。

飛行第二師団司令部の公式報告には、十三日となっているが、私の記録では、十二

日に飛行第十三戦隊の中野和彦少佐の編隊が、この船団を、パナイ島の攻撃に行って、

戦死している記録が、私のメモに記してある。

この状況から考えると、米軍船団のスリガオ海峡から、ボホ−ル島の南海域に入って

来たのは、十二月十一日のことである。

さて、このボホ−ル島の南の海域に入って来た、米軍の大輸送船団は、上陸用舟艇

150隻のスピ−ド、約六ノットくらいのものに合わせて、進行しているので、誠にゆるや

かな動きになっている。

しかし、我々には、手も足も出せない。

攻撃をかけると、レ−ダ−で捕捉され、待ちかまえている、グラマン、F.6.Fにつか

まるか、又は、巧みに、船団に進入しても、猛烈な集中砲火の飼食になってしまう。

愈々、ネグロス島に近づいて来るので、飛行第二師団は、この輸送船団から、ネグロ

ス島に上陸して来るのを予測して、全部隊、地上戦斗に入る、準備命令が伝達された。

 飛行第二師団司令部の指示

 一、各基地は、飛行団長の統一指揮を行う

 二、各飛行場を死守せよ。

  1敵匪の蠢動を許すな。詢問を行え

  2上陸地域を偵知せよ。

  3警備隊は、各河口に観測班を出せ

  4空挺部隊その他敵の動作に注意せよ

  5黎明白薄の対空監視を厳にせよ

 三、飛行可能の時の任務行動

  1事前の捜索

   イ泊地における攻撃

   ロ敵機械化部隊に対する攻撃

   ハ空挺機に対する攻撃

   ニ対匪攻撃

  2飛行可能時の飛行機の行動

   イ飛行各部隊の地上勤務者及臨時駐屯の整備隊は、隼成整備隊長の指揮下に入る

   ロ在地飛行機の処理並び防御正面の一部担任

 四、飛行場大隊えの指示

  1防衛戦斗の骨幹

  2自動空車をもってする緊急輸送

  3小数敵空挺隊には独力攻撃

  4滑走路附属設備の破壊

  5燃料の処分

  6橋梁の破壊、渡?場の構築

 五、通信中隊

   本属部隊との連絡を確保

   通信網の確保と処理

 六、警備隊

   フアブリカ内の治安維持

   ヒモガン河の橋梁確保

   木材会社、造船、酒精工場の破壊

   匪情の調査

   在留邦人の収容

   状況により機動防御

 七、憲兵

   戦況の推移に伴い処置すべき事次の如し

  1通信網

   場内、後方−鷲部隊

  2飛行場の破壊(工兵隊)飛行場大隊

  3飛行不能時の飛行機の破壊

 八、交通線の確保について

  ヒモガン橋梁の確保

  小舟木材、渡河材料の集積

  交通線の破壊準備

  サガイ橋の破壊

 九、兵匪及原住民

   対匪、蠢動に対して、飛行機の状況許す限り協力

   原住民に対しては、断呼として処分す。

   動作不穏なものには、厳重に、

 十、兵器

  飛行場における資材及燃弾の処置

  資材は飛行場西側に集積、集積後の余材料は焼却す。

十一、燃料、自動車用、燈火用確保

十二、糧秣

  現在までの状況において、各部隊で行うこと

  敵進入の徴あるや、各部隊担任正面迄集積各部隊収容区分す。

  食糧配分を厳正、携帯口糧を持つ

十三、衛生

  薬物、デング、マラリヤ用薬品、消毒材料の集積

十四、抵抗線

  抵抗線の腹案をつくって、掘るべき濠は、掘って置

  各部隊の資材、糧秣、被服等、各部隊毎に集積

十五、車軸の整備、使用

  状況によって、統一使用

十六、書類関係事項

  機密書関係は、極度に整理す。

  焼却、場所、立会

十七、戦斗指導の腹案

   部下を握る。事故を無くす。

  戦場パニックに注意

   戦斗方針

    飛行場外に撃滅、敵戦力の消耗に努む

    柔軟なる戦法(神出鬼没)

    1地隙の利用、兵力の移動迅速警備員

    2遡行部隊に対して、碇泊場の警備員を置く

    3一局面の戦斗に眩惑されるな

    4お互いの軽挙妄動を厳に戒む

    5協力作戦、お互いの協同戦斗をする。

    6救援部隊は、直轄使用

十八、特殊警報

 1ノロシをあげる。各分隊

 2機関砲各門二発

 3警戒警報

以上の如き、詳細な指示が出された。

 このとき、フアブリカ地区の隼隼成戦斗隊の整備隊の装備は、次のようなものであった。

 飛行第三十一戦隊

 小銃二六挺  弾六五0発

 八九式小銃 二挺 弾 四0八発

 十二、七機関砲 四門 弾無数

 拳銃 二三挺、弾四五0発

 竹槍 九0本

第一独整備隊

 小銃 五挺 弾一五0発

 機関砲 一 弾一一九発

 ?弾筒 一 弾五00発

飛行第二0四戦隊

 小銃 三挺 弾 九0発

 拳銃 一挺 弾 二一発

飛行第二六戦隊

 拳銃 三挺 弾 二八発

第十独立整備隊

 小銃 四挺 弾一二0発

以上の状況で、第十三飛行団は現地における、米軍の上陸して来る部隊と、対決しな

ければならぬ。

飛行第三十一戦隊では、竹槍の先きに、銃剣をつけられるように、金具をつけて、装着

出来るようにしたが、独立整備隊の軍属で来た、少年見習工の人々は、拳銃も、銃剣も、

何も、武器は一切持っていなかった。

それで、竹槍をつくらせたら、釣竿の先きを、尖らせたような、竹槍をつくって、威張って

いたので、大笑いしたことがあった。

飛行第十三飛行団の現地部隊の武装状況は前に述べたような状況で、眞面目の戦斗

を行う状況のものでは無いことは、明瞭である。

この様な、第一線えの指示は、正に空文に等しく、この様な命令を出すことで、司令部

関係は、さも、米軍えの臨戦態勢が出来ていると考えていたのである。

その実は、ボホ−ル島の南から、ネグロス島に近接して来る、米軍の輸送船団の動き

に、正にみじろぎもせず、見守っていたというのが実情であった。

米軍の輸送船団は、ネグロス島の東南岬に近づいて来て、ネグロス島に、上陸するの

かと思っていると、やがて、西南の岬を過ぎ、そこで、ネグロス島にある、日本軍の第二

飛行師団の動きを見定めるように、停泊するかのようであったが、しかし、やがて、パナ

イ島の東南岬の海域えと進んで行った。

パナイ島は、ネグロス島と指呼の間にある島である。

パナイのイワイロ湾に上陸するかも知れぬと思はれたが、パナイ島の東南岬の海域

を西に向っている。

十日、この米軍の大船団を発見してより、ネグロス島の全日本軍は、声をひそめた

ようにして、その行方を見守っていたが、このパナイ島の南海域を西に向うのを知って、

全軍、一気に安堵すると共に、この大船団に一矢をむくゆることになった。

飛行第二師団の全出動可能機は、僅かに、二十七機であった。

十二月十二日、午前九時、ネグロス島にある、全特攻機をもって、この米軍の船団

を攻撃し、出動可能の二十七機は、それを掩護し、また攻撃を行うことになった。

この第一次特攻掩護のため、第十三飛行戦隊長、中野和彦少佐を長とする八機が、

隼隼成戦斗機隊より、出撃して行った。

残念ながら、中野少佐以下三機が、未帰還となってしまった。

その折出撃して行った生還者からの話は次のようであった。

パナイ島の西南岬の沖を、この米軍の大船団は、航行中であって、先頭は、西北北

方に向いつつあった。

 パナイ島の上空に、雲が三層あって、最上空の層は、層雲になって、一万米前後、

その下に、五千米、三千米、千米と、積乱雲の如き、雲の峰があった。

米空母よりの戦斗機は、この雲の間の切れ目の海上に、日本軍が、雲の間を通って、

進行して来るのを、待ちかまえていた。

この様な状況で、やっと、雲の層の間隙を通って来た、日本軍の飛行機は、完全に上

から攻撃を受けることになる。

絶対的機数においても、火力においても、性能においても、差のある、米軍に対して、

正面から、戦爆連合とか?集団攻撃の成功率は無い。

まして、空母の電波探知機のみならず、比島全域における米匪軍の監視と、短波に

よる無線連絡に全て探知され、通報されている状況であることにおいて、日本軍、特に

航空機の行動は、遂一、米軍に知らされていると考えねばならなかった。

日本軍の軍司令部、各飛行師団司令部等は、そのような状況が判っても、戦法、戦

術を改めなかった。

中野編隊は、次のようなものであった。

   T都築     T林

 T中野     T榎田

   T原       T菊池

     T大津     T入江

任務  第一撃特攻掩護

中野少佐以下は、絶対的不利な状況で、積乱雲の中から、特攻機を誘導して、出た

ところで、米軍機と空中戦に入り、特攻機隊を掩護して、自ら犠牲になり、パナイ島の

南の海面に自爆して行った。

私の日記には、明確に十二月十二日、と記してある。

レイテ島の日本軍戦線は、如何になったか?

オルモック南の米軍の上陸部隊は、完全に一箇師団以上に増大し、オルモック市に

攻撃をかけて来たことで、遂に、ブラウエンえの進撃をやめて、泉兵団は、潰滅的に、

前進戦線を撤退し、背梁山脈の中を、北方え、オルモックの北に、戦線を変更しなけれ

ばならなかった。

日本軍の補給路は、日本、満州、中国の主要は、台湾を経て、呂宋島え、そして、ネ

グロス島え来ていたが、日本海軍が、全く弱勢になって、米機動部隊に対抗するどころ

か、全く抵抗力を失ってしまっていたので、この台湾、呂宋島えの攻撃によって、補給は

殆ど潰滅的な打撃を受けていた。

日本内地は、日本軍の決戦のため、国民は全員動員されて、生産に努力していたが、

それも、この大量的な消耗に耐えるものでは無かった。

必然的に、ネグロス島えの補給は途絶えて来た。

これに、反比例して、米軍のタクロバン基地は、P38の長距離戦斗機の外に、P47ムス

タング、(水冷戦斗機)ノ−スアメリカン、B27等の中距離戦斗機、爆撃機が進出して来た。

これらは、海上輸送機のよる補給か、または、ブ−ゲンビル諸島、ビアク、オ−ランジヤ

等のニ−ギニヤ島を経て、ハルマヘラ、モロタイ島を経て、レイテに輸送されて来たもの

と考える。

我々、日本陸軍の航空部隊が、パナイ島の南海域から、西海域を通ってゆく、米軍の

大輸船団に気をとられている間に、レイテ島の米軍基地群には、これら、米陸軍の航空

機が充実されていた。

レイテ島における日本軍は、オルモック市を米軍に奪取されて、玉兵団と、泉兵団は、

既に消耗し尽くしていることにおいて、米軍と決戦する力も無く、レイテ島の西部にある、

山岳地域えと、圧縮されて行ったいた。

パナイ島の西海域を通る、米輸送船団は、悠々と、航行して、呂宋島南にある、ミン

ドロ島に上陸して行った。

このミンドロ島には、守備隊、僅かに一ケ中隊のみであったので、この米軍の大船団

による上陸によって、抵抗も何も出来なくて、山岳地域に逃げ込むのがようやくであった。

このことにおいて、米軍の上陸部隊は、直ちに、急設の飛行場を建設し、ネグロス島

における、飛行第二師団、レイテ島の日本軍は完全に、呂宋島の第四航空軍のになら

ず、比島方面軍との実質的補給線、交通線を遮断されたことになった。

そのような状況の或日、私は、第十三飛行団長、飛行第二師団参謀との、宿舎の方

に呼び出された。

さて、何事ならんと思っていると、江山六夫中佐が、沈痛な顔をしていたが、私の顔を

見るなり口を開いて、

「杉山!

 貴様も、今度の第二飛行師団司令部の情報で知っていると思うが、

 米国では、ネバダの砂漠で、新型爆弾の実験に成功したということである。

 杉山!

 新型爆弾とは、どんな爆弾か?

 貴様知っているなら、教えて呉れ」

と、いうことであった。

私達陸軍の航空技術のものは、日本でも仁科博士の居る理研にて、核爆弾の研究

が進められていることを知っていた。

日本の場合、仁科博士の弟子の児玉という博士が主任で、日夜を問はず研究に熱

中していたが、実験のミスで、試験が児玉博士と共に、爆発して、この研究が頓挫して

いることを知っていた。

恐らく、この第二次世界大戦は、原子核爆弾の開発が、運命を決することになるで

あらうと、我々は覚悟していた。

勿論、日本に原子爆弾が開発出来たとしても、日本の敗戦の本質は、変りのないも

のである事は、判っていたが?

しかし、万一という期待を、僅かであるが持っていた事も事実であった。

この江山中佐の質問に対して、私は即座に、

「ああ−、それは、原子爆弾のことでせう。私も、米国が実験に成功した事を知って

います。

 それで、私は覚悟を決めています。」

「おい、杉山、

 その原子爆弾というものは、一体、どんな爆弾なのか?」

「はい。

 我々が、今使っている爆弾は、物の中の分子の化学変化による爆発を利用してい

 るものですが、原子爆弾は、原子を変化させて、起るエネルギ−の爆発によって、

破壊するものです。」

「おい杉山!

 その分子とか、原子とは一体何だ。」

「はい、

  分子の最も小さいものが、原子です。

  原子はこのような形をしていまして、その中心に原子核があります。

  その原子核に中性子というものを衝突させると、原子核が分裂して、エネルギ−

が出ます。

  このエネルギ−の爆発力を利用するのが原子爆弾です。

  多分それの製造に成功して、実験を行ったのでせう。」

「ふ−む。

 俺達には、分子とか?原子とかは、さっぱり判らぬ。

  それで、貴様に尋ねるが?

  その爆弾が、このフアブリカ飛行場に落とされたら、どんなになるのか?」

「いや−、

  若し、このフアブリカ飛行場に、原子爆弾を落とすことは無いでせいが、若し、

おとしたら、このフアブリカ飛行場どころでなくて、このネグロス島の半分は、

吹き飛んでしまうでせうね。」

「なに?

  このネグロス島の半分が吹き飛んでしまうというのか?」

「そうです。

 そのくらいの威力はあります。」

「ふ−む。

 よく判った。

 ふ−む。

 杉山っ!

 もう、戦争はやめだねー、我々は、玉砕だっ!」

と、云いだした。

「杉山!

 玉砕だ−っ」

という、叫びが、今も私の耳にある。

しかし、玉砕するのは、玉砕するまで、生き伸びて、戦力、体力、気力があってのこと

である。

ミンドロ島を米軍に占領されて、呂宋、日本本土と、他の戦線とも遮断させた形で、

比島群島の眞中のネグロス島に、孤立した形になっている。

恐らくは、米軍は、眞面目の攻撃をせず、先づ消耗戦を強いて来るであらう。

どうやって、生き抜くかが問題であると、私の心の中に、その考えが渦まいていた。

「杉山! 玉砕だっ。」

と、叫び、酒を呑む顔を見ながら。

 

                               <幻の戦斗機隊>

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