第六章 戦隊全滅と再建               <幻の戦斗機隊>

1、戦隊全滅

昭和十九年九月十五日、フアブリカ基地にて、米軍が、ハルマヘラ、メナド地区を攻撃

し、遂にモロタイ島え、上陸したことを知った。

航空部隊は、米海軍58機動部隊の比島地区の攻撃で、急遽、飛行第二師団司令部、比島

派遣、第四航空軍司令部、南方総軍司令部等が撤収して、比島に帰ったあとであったので、

米軍は、大きな抵抗も受けず、モロタイ島に上陸したということである。

モロタイ島は、日本の島々から見れば、わりに大きい島であるが、南太平洋上の孤島で

あるので、守備隊が如何に抵抗しても、限度があるであらう。

飛行三十一戦隊の整備隊、メナド派遣の人.は、全く、戦うこともなく、無駄な地に

残された事になった。

レイテ島、ミンダナオ島のデルモンテ地区等の整備員と共に、近代航空戦において、飛

行部隊と、整備隊というもののあり方に、間題があるように考える。

第一線部隊の戦隊の整備員を随行するには、多く機動輸送力を持たねばならぬ。

分散しては、戦力は無力となってしまう。

八月末−九月初めの作戦準備会議において、私が、戦隊長、飛行団長、師団司令部に出

した意見は、全く無駄になり、最少限というより、最低の兵員で、整備を行ばねばならぬ。

飛行隊の操縦者の人々が、戦隊の指揮権を握っているが、この人々も、早くいえば、自

動車の運転手と変りはない。

部隊の運営、指揮、補給のことは、また、歩兵のように、統帥は、全ての給与を考える

というのではなく、只空中戦斗のみを考えている状況である。

勿論、この人々は、空中に上昇して行ったら、その生死は、判らぬ。

部隊の責任は、その死の瞬間に、無になってしまうのであって、何等作戦そのものとは

関係が無くなる。

飛行第三十一戦隊も、九月十二日、十三日の戦斗の後、ルソン島のクラークフィール

ドに飛んで行ってしまって、あと、何等の連絡が来ぬ。

戦隊長以下、飛行隊の人々のみが、飛んで行って、クラーク、フィールドには、飛行第

三十一戦隊の整備員も誰も居ないので、どうなっているのか?

全く見当もつかないし、作戦命令を出すのは、戦隊長であることで、手の打ちようが無

い。

私が戦場撮除の捜索から帰ったとき、一人の兵が、私に質問した。

「隊長、比島に来て、約二ヶ月になります。給料を貰っていますが、このフアブリカでは、

それを使うところがありません。

給料は、家に送りたいと恩いますが、どう手続をしたらよいのでせうか?」

と、いうのである。

私は、頭をガーンと叩かれた気がした。

フアブリカ基地の街には、娯楽場や、店舗といったものは、一切無い。

兵士達の持っているお金は、軍票であって、日本円でもないし、フィリッピン政府の金

でも無いのである。

兵士達は、給料を貰っても、一切使用する場所が無い。

兵士達は、自己の生命に対する保険も何もない。

彼等は、一銭五厘の赤紙という、徴兵令によって、戦地に来ているのであるが、給料と

云っても、僅かのものである。

今の私すら、兵士達の給料の数量を、記憶していない。

その兵士達は、この戦地に来て、思うことは、明日も知れぬ身で、只々、白分の家の事

のみ思っていたに違いない。

私は、輸送船での遭難、飛行第三十一戦隊の飛行隊との合体と、このフアブリカ基地に

来てからの毎日は、作戦準備と、戦斗に、明け暮れで、夢中に過ごしていた。

瞬時も休む余暇は無かつた。

兵士達の心の中に思っていることを、少しも省み、顧みる気持が無かった事を、思い知

らされたのであった。

兵士達は、使う方途の無い軍票を貰っても、使い途が無いことによって、彼等は、その

金を、如何にして、故郷の我が家に送るかを、思いつめていた事であったらう。

実際に申して、軍票は、単なる紙片にすぎないものになっていた。

戦争と、インフレは、つきものである。

軍隊が来ただけで、街々、戦場の村や町は、物資を失ってゆく。

町村の人々は、戦争を避けて、山林や、僻地に逃げて、戦火から遠くえ行ってしまう。

勝ち戦争の場合は、民家が群がって来るが、その場合は、何かを売りつけて、金もうけ

しようと思うて、物資が出て来るので、お金の価値がある。

しかし、眼の前での、日本軍の敗戦を見たときに、町、村の人々は、遠くえ危険を避け

て逃げてしまう。

例え村民、町民が居ても、物価は、二千倍近くになってしまって、兵士達の給料一ヶ月

分で、お米、一握りも手に入らなくなってしまうのである。

まして、日本軍の敗戦で、補給船も入らず、物資の補給も無くなったときに、どうするか?

敗戦での生きのびる方法は如何にするか?

そのような事は、陵軍士官学校でも、陸軍大学でも、何処でも、教えてはいない。

敗戦によるインフレを如何に処置し、生きるかの問題は、考えもしなかった事であった。

補給を行う飛行場大隊そのものが、全く、能力を失っているのか、元々、無いという事

実を、九月十二、十三日の戦斗の後に、思い知らされた。

辛うじて、飛行団の高級部員と二人で、飛行場大隊長を説得して、食事補給をさせた

ものの、兵士達の給料や、これから敗戦によって生き延びる事までには、考えつかなかった

事を、この兵士達の、給料を何とか故郷、家に送りたいという希望を聞いて、愕然とならざ

るを得なかつた。

現地自活の方法をとらざるを得ぬ。

つまり、現地の住民相手に、自ら物資の生産、生活必要品をつくり出して、或は、我々

のみで、挑地の住氏の生活のためのものをつくり出して、食糧やその他の必需品を確保し

なければならぬ。

幸い、私の部隊は、皆技術を持った兵士達である。

何とか、これを考えねばならぬと思った。

とりあえず、給料を、兵士達の望むように、故郷や、家に送るように、手配をする事に

した。

これは、私の心の中に、果して、手続きをしても、故郷や、兵士達の家に送りつくもの

であるかどうかは、保証出来ない。

兎も角も、それだけの手続きを具体的に行って、万一出来ない場合には、その理由を明

確にして、兵士達に納得させねばならないと、決心して、戦隊の副官と、整備隊の総与係

の下士官で、飛行第二師団司令部と交渉させる事にした。

その結果が、どうであったかは、私は、今記憶していない。

誠に無責任であるが、手続きだけは、させた事を記憶している、が、結果はどうであった

かまでは、全く覚えが無い。

クラークフィールドに前進して行った、飛行第三十一戦隊からの、私えの前進命令が

来たので、私は単独でクラークフィールドに行ったことで、このことを確認することが出来

なかったのではあるまいかと考える。

九月十七日頃のことである。兵器係の下士官が、私の処.にやって来て、次のような事を

云った。

「隊長、

九月十二、十三日の戦斗で損耗した飛行機の兵器報告を出さねばなりませんが、その

報告書を書く紙がありません。」

と、いうのである。

それも、その筈である。

潜水艦に攻撃されて、遭難したとき、用意して来た、文書の紙は、横荷と共に、扶桑丸

と共に沈没してしまっている。

そのままファブリカに来たので、紙類やその他のものを整える余暇が無かった。

ファブリカは、比島の田舎であって、文房具その他のものを売っている店は無い。

ネクロス島の首都、パコロドといえども、紙の店は無いのである。

兵器の報告書は、次のように膨大な、多数の紙を必要とする。

飛行機には、次の兵器区分がある。

@飛行機の機体

A発動機

Bプロペラ

C無線機

D機関砲

と、いったものである。

その夫々に、兵器番号がつけてある。 

この損失した状況を、一つ一つ一枚の紙に、書いて報告書を出し、それが飛行団司令

部、帥団司令部、補給廠と云ったものに、複写して出さねばならぬ。

それも、正副写と三枚になる。

飛行機が、一挙に、十数機、また二十機も損害を受けて、使用不能となったら大変である。

五種類×三司令部×3×機数

と、いう数字の紙が必要なのである。

第一線部隊には、そんな紙は無い。

まして、第一線部隊は、銃爆撃を受けているので、紙なんかがある訳は無い筈である。

しかし、平常の司令部は、各部隊から、これらの報告書を出させて、只認印を押すだけ

の仕事しかしていない。

全ての機構が、最前線の方に責任を持たせるようになっているのである。

私は、整備隊長として、兵器係下士官に、「紙がなければ、報告書を出して、損害を確

認する事が出来ないであらう。

故に、一枚の紙に、損害の出た飛行機番号と、発動機、プロペラ、無線器、機関砲、その

他の搭載兵器の項目をつくり、一覧表にすれば、乏しい紙で、報告書がつくれるであら

うか?」と問うと、「それなら、何とか、出せます。」ということで、そのようにした。

ところが、この報告書を出した二日後、師団司令部から電話があって、「この報告書は、

正式の報告書にならない。師団としては、各部隊からの報告書を集めて、報告書になる

ので、正式の規定の通りの報告書が出ないと、師団司令部としての文書がつくれない。」

と、いうことである。

それで私は、

「第一線部隊は、毎日、毎日、銑爆撃を受けて、全ての荷物も、生命も、飛行機も、危険

な状況であり、紙一枚も無くなって行っている状況で、非常事態である。

正式の規定は、平時における、日本のもの、それに準ずる満州におけるものであって

戦斗下のものでない。

第一線部隊には、もう、紙も無くなっているし、時間的にも、そのような報告書を書く

余裕も無い。

それを、まとめて、補給、第一線部隊を助けるのが、司令部の役目でないか?

策一線部隊は、作戦の第一線で、生命すら危険な、非常事態である。

それに、負担をかけるようなものは、司令部とはいえない。

司令部は、第一線から報告があれば、まだ生きていると考えなさい。

紙もなく、生命も無ければ、報告書は、ゆかぬことになり、司令部から調査に来なけれ

ばならぬ事になる。

曲がりなりにも、明確な報告書が行って、第一線の事情が把握出来るのは、幸いと

思いなさい。

飛行第三十一戦隊としては、紙がある限り、今の状況をつづける。

それが出来ないときは、司令部でまとめなさい。

補給がなければ、第三十一戦隊は、戦斗出来ないので、それで良いと考える。」

と、いったら、師団司令部の兵器部の担当下士官は、何やら、ぶつぶつ云っていたが、

作戦司令部で、私の方法で良いということになったらしかった。

陸軍に限らず、官所、司令部というものは、極端に、白已の責任となる事を嫌い、困難

な仕事を忌避する。

その責任は、第一線のもの、現場のものに押し付けようとする。

勿諭、具体的現場の実情を知っているものは、現場で働いている、実際に仕事をしてい

るものである。

そのものからの報告書は、現場の本部から、官所の現地のものから、中央までゆくよう

に考えるのは良いのであるが、全ての責任の場所のものまで、下に下に、重ねた、作業を

事務の上で、押しつける形になっている。これが陸軍の事務方式であった。

第一線部隊は、直接戦斗を行うことになり、敵軍と対決する事において、事務をとる余

地は全くない事になる。

報告書は、紙がある間、型式その他にとらわれているが、しかし、その後には、単に、

口答での状況報告をする事になるだらうと予測された。

毎日、毎日、何等かの損害が繰り返されると、また、事務機関をもつ、固有の基地で

あるなれば、或程度可能であらうが、飛行部隊は、高速移動性を広範囲に持つ部隊で

あるから、台流、中国、陶方地区から、飛行して、戦斗を行う部隊においては、整備員も、

事務員を連れての戦闘は出来ないであらう。

戦闘は、事務処理を行うものでなくて、猛烈な破壊、消耗を行う活動であることにおいて、

事務管理上の間題は、何を重点と考えるかということにおいて、処理方法を考えねばなる

まい。

この事は、究極的に申せば、第一線部隊の戦斗能カを常に把握するためのものであって、

事務機関、事務員の責任逃れのためのものではないのである。

このことを、考え間違いすると、直接の戦斗能力を、この間接的な、無用の努力、処理

において阻害する事になる。

それは、戦争、戦斗という面のみでなく平時の生産、その他の活動においても云える

ことであらう。

この両者のものは、運用と、根本の処理を行う考えを間違うと、破壊的な緒果を生む

ことになる。

特に生産、販売、運営においては、常に新しい創造性を要求されるとき、それを助長し、

発展せしむべきものが、事務処理であって、この本質を間違っている場合が多いと思は

れる。

この事において、海軍はいざ知らず、日本の陸軍において、また現在の日本の官庁、一

般のものにおいても、法律家、経理中心のものであって、非常に重い制約を持っていると

考える。

この制約は、人間が平常時における、賛任、犯罪を回避するために、極めて細部までの

規定、規則によって成立させている。

このために、人間の予想、考え以外から起こる突発事件、戦争、災害においては、収拾

出来ない事態を生ずる。

その極端なものがパニック、恐慌である。

戦争と、戦斗という行為は、お互いに、相手の弱点、予想を裏切って、予想外のものに

よって、相手にパニックを起させて、戦果を拡大してゆくし、また、この弱点や、予想外

の出来事に対して、如何に速やかに立直って、事態を収拾して、その逆手に出る行動とも、

いうことが出来る。

日本の陸軍の作戦計画その他は、そのエリートを選んで、陸軍大学にて教育して、参謀

として、作戦計画を作らせていた。

しかし、急速な近代戦えの変化において、この陸軍大学そのものが、近代戦の作戦に、

間に合わぬ程に、武器作戦の在り方が変って行ったいうことが云えるであらう。

この陸軍大学の教育のセオリーどおりにはゆかない状況があり、米軍に虚を突かれると、

実際に戦斗経験の無い人々は、その変化、虚に対しての対応が出来なくなって、呆然、

自失した形で、そこに残るのは、人間的恐怖のみと、責任回避の気持のみが、残ったと

いうべきであらう。

このことが、比島における58機動部隊の奇襲作戦によって生じたとも云える。

基本的な、近代戦の基礎の問題については、紙上の作戦計画や、陸軍大学の教育には、

修得出来なかった問題が生じたのである。

日本陵軍の悲劇は、ここに根本的な原因があったと思はれる。

比島作戦は、日本の眞面目な作戦として、太平洋方面のみならず、アジア地域において、

日本耶を中心とする作戦の、最終的決定づけるものであったと考えるが、しかし、この

第二次大戦における、日本の戦争遂行能力は、政治面、軍関係においても、植民地軍相手

の緒戦においては、戦勝の状況はつくり得ても、眞面目な、全世界を相手とし、特に米国

を相手にしての戦争は、遂行不可能のものがあったと考えるべきであらう。

陸軍においても、緒戦の戦勝によって、また、中国軍相手の戦いの本質を知らず、何時

の間にか、この隈界を超え、それによって、軍内部の続帥、人事等に、誤りを犯していた

と考えられる。

その内容において、実戦の体験のあるものは、近代戦の遂行において、作戦計画、戦争

遂行においての体勢においても、遠ざけられ、急速な変化、進展に対応出来ぬものとなっ

ていた。

各軍司令部の司令官、作戦関係においての人事において、作戦遂行出来る、また、急速

な変化に対応して、処置できる人々が居ない状況になっていた事実があると考える。

私は、昭和十九年九月十七日、クラークフイールドの飛行第三十一戦隊の飛行部隊に

追随すべき命令を受領して、出発準備にかかった。

戦況が急速に変化することを予想すると、再びフアブリカ基地に帰って来ることは、予

測出来ない。

そのために、飛行場大隊長に会って、クラークフィールドに転進することを通報し、

私の留守の間、飛行第三十一戦隊整備隊員のことを頼みに行った。

飛行場大隊長は、快く、留守のことを承知して、最善を尽くすことを約束して呉れたが、

彼自身、飛行第三十一戦隊というよりも、飛行場大隊として、戦隊に従属して行動する

のを、愉快に思っていなかったのである。

この人の性格上の間題もあったであらうが、私が、飛行場大隊長室を出ようとすると、

飛行場大隊長は、室の出口まで送って来て、

「杉山大尉、

戦隊の飛行隊は、口ほどにもないなー

あんなに威張りくさっていたが、

いざとなると、片っ端から、やられてしまうて、

あっ、はっ、はっ、はー」

と、大空に向かって大笑いした。

八月、飛行第三十一戦隊がフアブリカ基地に着いて以来、飛行部隊に、無経験である

ことで、飛行隊から、叱られどうしであった、うっぷんを、一気に晴らすような、笑いで

あった。

私は、その笑い顔を見あげて、心中深く誓った。

この飛行場大隊とは、最後においては、協カ出来ぬであらう。

飛行第三十一戦隊は、戦隊として、独自に、比島で生き抜いてゆく方法をとり、飛行場

大隊とは、最後に決別した行動をとれるように、やってゆかねばならぬと、覚悟した。

如何に、問題があったとしても、日本軍のものとして、同胞の、戦友の散華である。

その散華、奪斗に対して、嘲りをもってする行為は、絶対許すことは出来ぬと決意した。

フアブリカから、襲撃機で、クラークフィールドに前進し、アンヘレス北飛行場に着いて

見ると、飛行第三十一戦隊の飛行機は、一機も姿が見えない。

飛行場の北から、歩いて、南の方に行って見ると、滑走路の南西部に、約十数機の飛行

機が、綺麗に焼けて、十米間隔で、灰になってしまっている。

灰の中から、焼け残った、尾部の垂直翼を見ると、飛行三十一戦隊の雷光(イナズマ)

のしるしが焼けくすぶって見えて、赤黒くなっている。

確かに、私の戦隊の飛行機である。

何ということであらうか?

飛行第三十一戦隊の飛行機は、全機、米軍の銃撃を受けて、焼けてしまっていたので

ある。

しかも、十数機が、滑走路に並んで二列になって、焼けた残骸を曝している。

私は、その焼け跡に立って、身動き出来なくなってしまった。

何んということであらう?

戦隊長も、飛行隊も、歴戦の人々を失ったとは、云え、第二次大戦からの歴戦者である。

基地に着いたら、直ちに分散配置にしなければならぬことに、気付かぬ筈は無い。

このアンヘレス北の飛行場大隊の整備隊は、恐らく、戦斗に無経験なのであるまいか?

飛行機が無くなって、整備員も、誰も居ぬ、飛行場に、私は、じっと立ちすくんでいた

が、誰も、飛行場に出て来ぬ。

仕方がないので、指揮所のある方に、歩いて行ったら、一人の兵士が、昼寝をしていた。

それをゆり起こして、飛行第三十一戦隊はと聞いても、寝ぼけ眼の兵は、只眼をこすって、

バチクリさせているだけで、そのようなものは知らぬという。

飛行場大隊の本部は、何処かと聞くと、あっちだという。

あっちとは、何処だと聞くと、電話、があるから、聞いて呉れという。

野戦電話機の取手を廻転させて、電話機を耳に当てたら、アンヘレス北飛行場大隊本部

だという。

「飛行第三十一戦隊の整備隊長の杉山大尉だ。

飛行第三十一戦隊は、何処に居るか知らぬか?」

と、問うと、「宿舎に居られます」という。

「その宿舎に、案内せい。指揮所に居るから。」

と、いうと、「承知しました。暫く待って呉れ」という。

やれ、やれと、指揮所の竹製の椅子に腰かけて、煙草を喫って、待っていたら、一人の

見習士官が、やって来た。

アンヘレス飛行場大隊の整備隊のものであるという。

「飛行第三十一戦隊に、案内して呉れ。」

と、頼むと、「承知しました。」と、案内して呉れた。

アンヘレス町の北の郊外の森の中に、竹とニッパ椰子の葉の掘立小屋の中に、アンペラ

を敷いた部屋がつくられて居て、その中に、西進戦隊長が、一人ぽつんと、横になって

いたが、私達の足音が近づいたので、眼を覚ましたらしく、やおらと、起きあがって座った。

私は、見習士官と敬礼して、

「整備隊長杉山大尉、只今、到着しました。」

と、申告すると、

「オー、杉山っ!」

やっと、着いて呉れたか?」

と、無生髭を生やして、痩せてしまった顔に、やっと、生気が、漲り、眼を輝かした。

私の声に、隣の部屋から、寺田中尉が、やって来た。

フアブリカの九月十三日の戦斗で、全顔が火傷になり、正に白い薬膏の化物のようだっ

たのが、まだらに、皮膚が出来ていて、妙な顔になっていたが、彼もやつれ果てながらも、

眼に輝きを失っていなかった、

私の宿舎は。戦隊長と一緒に居ることになり、荷物を置いて、寺田中尉の部屋に行った

り、荷物を置いて、寺田中尉の部屋に行ったら、生き残りの下士官連中が、皆、

「オッ、杉山大尉が来た!

整備隊長が来て呉れた!」

と、異口同音に、喜びの声を発して、寄って来た。

私は、

「ご苦労であつた。

さあ!戦さは、これからだっ!

頑張ろう!」

と、いうと、

「おーっ」

と、声なき、声の、喜びがあがった。

私は、寺田中尉に、

「飛行機は、全部やられたのか?」

と、尋ねると、

「二機だけ、残っています。」

と、いう。

「何処かっ!案内しろ」

と、いうと、飛行隊全員が、寺田中尉と、共に、ついで来て、アンヘレス北飛行場の滑走

路から南の、竹林の蔭に連れて行った。

二機は、その竹林の蔭に、深く凝装綱を被せ、上に、色々の枝が覆っていた。

風房や、胴体に、多少の銃弾は受けているが、致命傷でなく、弾痕修理と、風房の

取換えで、何とかなりそうである。

「よし、これなら、何とかなる。

すぐ、修理して、明日から、飛べるようにするぞ!」

と、いうと、飛行隊の人々の生気が、一度によみがえった気がした。

 

2.空虚の戦場

 昭和十九年九月二十日、二十一日における、クラ−ク、フィ−ルドに対する、米

海軍機動部隊の攻撃によって、飛行第二師団の各戦隊のみならず、飛行第三十一

戦隊は、全滅状況になり、飛行機は、旧式の隼戦斗機、二機のみが残り、その二機

も、中破の状況で、修理しなければならぬ状況になっていた。

 飛行第三十一戦隊の戦隊長、西進少佐が、整備隊長、杉山龍丸大尉に伝えた

ところでは、フアブリカ基地に居た、杉山大尉に対して、クラ−ク、フィ−ルドえの前進

命令を出したのみならず、メナド基地に派遣していた、飛行第三十一戦隊の整備隊、

市川中尉以下にも、クラ−ク、フィ−ルドえの帰還命令が出ているということであった。

 しかし、飛行第三十一戦隊のクラ−ク、フィ−ルド基地、アンヘレス北、飛行場には、

整備用の工具、器具、ばかりでなく、点火栓一つも、部品そのものも、持って来ていない。

 私は、アンヘレス北飛行場の飛行場大隊本部に行って、飛行場大隊長、整備中隊の

中隊長に会って、挨拶をしたが、あまり協力的ではなかった。

米軍の攻撃に、フアブリカ基地飛行場大隊程ではなかったが、初めての空襲経験に、

度肝を抜かれた感じで、私の挨拶と、協力要請に対して、私の苦労をねぎらう言葉は

あったが、積極的に、協力するような態度は見えなかった。

 整備中隊の整備用の器具を点検し、弾痕修理の手配を頼んだが、独立整備隊も

居ない状況で、何時になったら、弾痕修理が出来るか判らない状況であった。

 仕事がないので、飛行場大隊長に、クラ−ク、フィ−ルドの飛行第二師団司令部に、

連絡のための、トラックを借して呉れるようにお願いしたら、それだけは、渋々と貸して

呉れた。

 飛行隊の下士官の操縦者は、搭乗する飛行機も無く、作戦も、訓練もなくて、体の

始末に困っていたので、西戦隊長に云って、これら、下士官の搭乗員を借りることにした。

 これら下士官操縦者を、トラックに乗せて、クラ−ク、フィ−ルドえと乗り込んだ。

クラ−ク、フィ−ルドの基地は、東飛行場と、南飛行場の間に、一本の道が、引込

鉄道と共に、マニラからリンガエンえゆく主幹線道路より左折して入っている。

 一面にすすきの野原であるが、米軍の攻撃に遭って、東飛行場に、点々と、飛行機

の燃えた残骸がある。

 その中を通って、クラ−ク、フィ−ルドの本部の森の中の建物に近づいて行っても、人

一人の人影は、何処にも見えない。

 本部の入口に立って、大声で、声をそろえて、

「誰か居ないか−っ!」

と、叫んでも、人一人出て来ない。

 本部の建物に入っても、誰一人として、居る気配はないし、飛行第二師団司令部の

建物に入っても、ガランとして、誰も居ない。

 作戦参謀の居たと思はれる二階の室に入って見ると、机の上に、鉛筆や紙が散乱

しているだけで、机の引出しを開いて見ると、筆記具や、文房具、その他手帳等が、

今まで居たように、キチッと入っていた。

 何か?狐につままれたような気になった。

 一瞬にして、飛行第二師団司令部の人員が蒸発してしまったような気配である。

 奇妙な恐怖を覚えるような心地である。

 下手に、何か見とがめられても、致し方ないし、何かの嫌疑をかけられたら、馬鹿

馬鹿しいので、外に出ることにして、飛行隊の下士官連中は、司令部を見たことがない

ので、何か?不思議なものを見たように、呆然としているもの、キョロキョロ、あたりを

見廻しているものを促して、外に出た。

 もう一度、皆声を揃えて、

「誰か?居ないか−っ!」

と、叫んだが、返って来るのは、建物からの木魂だけである。

 全く、薄気味が悪い。

 本部の建物から、東北えゆくと、引込線の終点であり、その向うの飛行場が、クラ−

クフィ−ルド北飛行場滑走路があって、修理廠である。

 その修理廠には、鉄筋の格納庫が建っていて、爆撃、銃撃に会ったのか、屋根が、

大部分吹き飛び、屋根を覆った、鉄板がめくれ、弾痕の痕が見える。

 その修理廠の格納庫の中に入って見ると、修理しかけた、飛行機が、発動機を卸し

たり、機体を、オ−バ−ホ−ルしたまま、放置したままになっている。

 修理用の工具、器具はないかと、探して見ると、大部分のものは、片づけて、何処か

に収めてあるか?木箱には、鍵がかけられたままになっている。

 格納庫の中には、ねじをゆるめる、ドライバ−や、その他の工具が、あちこちに、落ち

たままになっている。

 爆撃や、銃撃を受けて、慌てて逃げたらしい。

 ままよ、我々には、一本のドライバ−も、スパナも、何もないので、誰も居ないから、

これらを拾い集めて、頂戴することにした。

 さて、飛行場に出て見ると、飛行機の胴体をやられたものや、尾部をやられたもの、

米軍は、地上にある飛行機に対して、思うままに、銃撃して行ったらしい。

 その飛行機の近くを見ると、整備用の工具、器具が、そのままにしてある。

 これも、頂戴することにした。

 正に、戦場泥棒である。

 しかし、比島の現地民に盗まれるより、我々が利用した方が良いであらう。

 変な理屈をつけた。

 さて、クラ−ク、フィ−ルドの北飛行場から、東飛行場え巡って見ると、隼戦斗機の

残骸が、沢山ある。

 これらの飛行機が、どうなっているのか?

 誰も居ないので、その所属も判らぬ。

 米軍から攻撃されて、炎上したといわれても、恐らく、その所在は判らぬであらう。

 何処かの戦隊に所属するものか?

 または、補給して、到着した飛行機かも、判らぬ。

 ままよ、盗んでしまえと、覚悟を決めた。

 一機、一機、飛行機の状況を調べて歩いて、飛行機の故障状況と、破損状況を

調査して見た。

 二〜三機、破損したり、故障はしているが、何とかなるものがあり、尾部をやられ

たり、発動機を射ち抜かれているものもあるが、これらを破損機として、分解して、

組立てると、何とかなりそうである。

 焼け落ちた、飛行機からは、利用出来る部品を回収する事にして、トラックに積み

込んで、引揚げた。

 アンヘレス、北飛行場に、引揚げて、西戦隊長に、クラ−ク、フィ−ルドの状況を

知らせると、ここ、数日、何の連絡も無いということである。

 しかし、去る十七日に、メナド基地に対して、クラ−ク、フィ−ルドえ転進して、

帰って来るようになっているから、もう到着しなければならなぬ筈であるということ

であった。

 翌日も、米軍のクラ−ク、フィ−ルドえの攻撃は無く、飛行場大隊の整備隊は、

残った二機の弾痕修理にかかった。

 飛行隊の人員を二つに分け、一つは、寺田中尉指揮の下に、アンヘレス北飛行

場の飛行第三十一戦隊の炎上した飛行機の残骸の片づけと、修理飛行機の調整

作業を行はせ、私の方の隊は、クラ−ク、フィ−ルドにおける飛行機を移動させる事

にした。

 クラ−ク、フィ−ルド、東飛行場に行って見ると、人一人通っていない。

 師団司令部も同様である。

 仕方がないので、飛行場に戻って、放置してある飛行機を見ると、何処の戦隊とも、

マ−クは何も入っていない。

 燃料タンクと、潤滑油タンクを見ると、どちらも、満タンである。

 ついて来た、飛行隊の下士官に、始動機を廻転させて、始動して見ると、何処も悪く

ない。

 決心して、盗んで、戦隊のアンヘレス北飛行場に運ぶことにした。

 師団司令部に報告して、万一、問題が起きたら、飛行機を保護したことにすれば良い。

と、決心して、随いて来た操縦士に、アンヘレス北飛行場に、移動させることにした。

 一機、二機と、誰も居ない飛行場に、爆音をたてて、飛行機が飛びたつと、何か活気

が湧いて来たような気がする。

 もう一度、修理廠、師団司令部を巡って、夕陽の射す飛行場に戻って来たとき、飛行

場のすすきの原の中に、一つの黒い影がうずくまっている。

 近よって見ると、一人の少年軍属である。

 修理廠の所属であるという。

「どうしたのか?」

と、聞くと、

「私の部隊は、何処でせう!」

と、逆に聞かれて、閉口した。

「何処でせう!と云っても、俺は知らぬ。ここ二日つづけて、来ているけれども、誰一人

居らんのだ。

 貴様は、一体、どうしたのか?」

と、問うと、

「はい。

 私は、九月二十日、二十一日の米軍の空襲で、先輩達が、逃げろといわれるので、

夢中で西の山の中に逃げました。

 はい、師団長閣下も、一緒でした。

 山を三つ越えての向こうの方です。

 山を三つ越えたら、盆地がありまして、そこの大きな樹の蔭に座っていました。

 息が苦しいのと、疲れましたので、そこに座っている内に、眠ってしまったようです。

 ぐっすり眠って、眼を開いて、起きて見ましたら、一緒だった師団長も、誰もおりません

ようになってしまいました。

 心細くなりましたし、腹も空いて来ましたが、恐いので、その樹の蔭にじっと、して

いました。

 夜が明けて、一つ山を東に戻って見ましたが、誰も居ません。

 そこで、一夜泊り、また、翌日一つ、山を越して、そして、その翌日の今日、ここに

戻って来たのですが、修理廠も、師団司令部も何処に行ったのか?

 誰も居ないし、腹は空いてるしで、ここにうずくまっていたのです。」

 と、いうのである。

「年齢はと?」

と、問うと、

「十七才です。」

と、いう。

 まだあどけなさの残った顔である。

 さて、困った。

 この少年を収容は出来るが、修理廠そのものが、何処に行ったのかが判らぬ。

 あたりを見廻しても、一面にすすきの野原で、正に狐に鼻をつままれたような気持

である。

 司令部のあったところえ、戻って見たが、人影は見えない。

 段々と薄暗くなって来る。

 仕方ないので、アンヘレス北飛行場に戻ると、飛行場大隊に泊めて貰って、明日、

また来ることにしようと決心して、クラ−ク、フィ−ルドの森を出て、クラ−ク、フィ−ルド

南飛行場に沿った道を走っていたら、南飛行場の西の茅原に一人、将校の服を着た

人影が見えた。

 慌てて、トラックを止めて、その人影に向って、大声をあげた。

「そこの将校っ!

 ちょっと止まれ−っ!

 貴様は、何処の部隊かっ!」

と、問うと、その将校は、ギクリとした様子をしていたが、私が日本軍の飛行服を着て

いるので、慌てて走って来た。

 近づいて来るのを見ると、少尉の軍服を着ている。

 その男は、私が大尉の肩章をつけているので、慌てて敬礼をして、

「あっ!

 私は、クラ−ク、フィ−ルド飛行場大隊のものです。

 大尉殿は、何処の部隊ですか?」

と、問うので、

「俺は、飛行第三十一戦の整備隊長の杉山大尉だ。

 二、三日前から、飛行第二師団司令部を探しているのであるが、貴様知らぬか?」

と、問うと、

「九月二十日、二十一日の米軍の攻撃で、何処かに移動したようで、何処に行った

のか判りません。

 私の隊は、南飛行場から西の方の部落の中に、全部移動しました。

 本日、飛行機の爆音がきこえたので、何処かの部隊が来たのかと思って、私は、

飛行場偵察に来た次第です。」

と、いうのである。

「俺は、アンヘレス北飛行場に居るのだが、さっき、この少年軍属が、誰も居ない

飛行場に、腹を空かして、うずくまっているのを収容した。

 クラ−ク、フィ−ルドの航空廠の所属だそうだが、何処に行ったか知らぬか?」

と、問うと、彼も知らぬというのである。

 まあ、何処か近くに分散したのであろうから、明日、この近くを探せば判るで

あろうから、一晩、貴様の隊の泊めてやって呉れと、頼んだ。

 その将校が承知したというので、その少年軍属を降ろして、一目散に、アンヘ

レス北飛行場に帰った。

 その将校は、我々が、飛行機を盗んで行ったとは、気がつかなかったらしい。

 いやはや、驚いたことには、大きなクラ−ク、フィルド基地には、一兵も、人が

居ない基地になっていたのである。

 指揮統帥どころでなく、師団長以下、空襲に会って、少年軍属の言によれば、

約三日間、山を三つも越えて、逃げていたというのである。

 一体、どうなっているのか、さっぱり判らぬ。

 無敵陸軍、そのものが、全く、オカシナ事になってしまったと思はざるを得ない。

 これでは、飛行第二師団司令部相手に、飛行機その他の補給を交渉しても

駄目だらうと思った。

 この状況を西戦隊長にお話をして、とりあえず、今ある今日の盗んで来た飛行機

を合わせて、四機になったので、一ヶ少隊の編隊訓練は出来る。

 クラ−ク、フィ−ルド基地全体に、この数日、一機の日本軍飛行機が飛ばない

ということは、比島の住民に対しても、日本軍に対しても、影響するところ大である

から、兎も角も、米軍の攻撃の間に、飛行機を飛ばそうということになった。

 飛行場大隊の整備隊と連絡して、細々ながら、飛行訓練を行うことを申出たら、

飛行場大隊長も大賛成であった。

 米軍は、間欠的に、攻撃して来るが、全面的な攻撃でないので、この一週間、

休養をしているのかも知れない。

 とも角も、翌日から、飛行機を飛ばそうということになった。

 先ず、現地習熟飛行と称して、四機編隊で、クラ−ク、フィ−ルド、上空を飛ぶ

ことにした。

 それは、日本軍側に、元気を与えるためにであるが、私達にとっては、第二飛

行師団命令以下、何処かに逃げてしまって、行方が判らぬので、部隊の指揮及び

命令が何もないということは、全く困ったことである。

 我々えの飛行機の補給のみならず、行動は全て、師団司令部からの命令が

あって、行動が出来るのに、師団司令部そのものが、何処かえ行ってしまって、

命令も何も、指揮そのものも、何もあったものではない。

 クラ−ク、フィ−ルド基地全体に、人の気配がないことも、航空隊として、飛行機

の爆音が聞こえないこと自体が、空虚になったか、死滅したか?腰が抜けたことに

なる。

 既に腰が抜けているなれば、腰が立つように気合をいれねばならぬし、まあ腑

抜けであらうと、あるまいと、何かがあれば、我々の活動の手がかりになる。

 クラ−ク、フィ−ルド近くの各戦隊、各基地を出来るだけ、低空で飛べるという

ことで、戦隊長以下が、交替して、飛んだ。

 変なものである。

 弾痕修理をして、あちら、こちら、塗装のはげた、オンボロ、戦斗機が、爆音高ら

かに、編隊で飛ぶ様は、何か、御光が輝くような気がした。

 それは、昭和十九年九月二十六日のことであったと思う。

 その日に、奇しくも、市川中尉以下、飛行第三十一戦隊の整備隊員の精鋭が、

メナドから、クラ−クフィ−ルドに前進して来たので、私も安心した。

 四機の隼機、整備隊、飛行隊の生き残りによって、飛行第三十一戦隊は、再生

したことになる。

 その翌日、飛行場に居た私のところえ、西戦隊長からの伝令が来て、直ちに戦

隊長室に来いということであった。

 早速、西戦隊長室に行って見ると、飛行第二師団司令部の参謀が一人来ていて、

第十三飛行団の江山六夫飛行団長も来ていた。

 この会合の目的は、飛行第二師団としての、特に第十三飛行団、飛行第三十戦

隊、飛行第三十一戦隊の再建の問題であった。

 飛行第三十戦隊も、全滅状況で、出動可能機は0の状況であるので、飛行第三

十一戦隊の出動可能機、二機を、飛行第三十戦隊に、譲れということであった。

 本当のことを云う訳にゆかぬので、私は快く、飛行第三十一戦隊のクラ−クフィ−

ルドより盗んで来た二機を、飛行第三十戦隊に譲ることにした。

 兵器名簿その他のことが、どうなっているか判らぬが、この二機は、公式に、飛行

第二師団の飛行第三十戦隊えの補給機となった。

 この事が、あとで、マバラカットで、飛行第三十戦隊の間で問題になった。

 それは、飛行第二師団司令部から正式に、飛行第三十一戦隊え補給されること

になっているが、実は、米軍の攻撃で、航空廠、飛行場大隊で、収拾つかぬ混乱に

なって、放置していて、焼け残り、弾痕その他の整備を飛行第三十一戦隊で盗んだ

形で、行ったものを、飛行第三十戦隊に譲ったことにしたことが、問題になったので

ある。

 公式に、補給されるべきものを、譲ったとは何事か? というのである。

 公式命令として、そうしただけの事であって、本来は、焼失してしまったものとして、

処理されるのを、飛行第三十一戦隊で、確保し、修理して、出動機に加えたことが、

そのために、わざわざ、公式命令を出して貰ったことが、気に喰はぬというのである。

 飛行第二師団の命令も、飛行第三十一戦隊所属のものを、飛行第三十戦隊に、

補給したとは、書けない性質の飛行機であったのである。

 何故か、米軍の攻撃で、クラ−クフィ−ルド基地には、全機破壊されたことにして、

師団長以下、逃亡していたと云はれても、致し方がなく、兵器の補給についての業務

も、滅茶苦茶になっていたのである。

 正に、飛行第三十一戦隊え持って来た飛行機は、幽霊飛行機になっていたのを、

第二師団司令のこの命令、第十三飛行団長の指示に従って、幽霊行儀を公式に記

載して、復帰させた、復活させる作業をしたことを、飛行第三十戦隊の方では、判ら

なかったので、飛行第三十一戦隊から譲ったということを云はれ、それは、公式の補

給であると云って、私に、喧嘩を売って来たものであった。

 事情を知っている第十三飛行団長が、飛行第三十戦隊の方をなだめたので、私も、

笑って済ませた。

 しかし、飛行第三十一戦隊の方は、また、オンボロ、隼戦斗機に戻ってしまった。

 飛行第三十一戦隊々長、西進少佐は、早急に、飛行隊の戦力を回復するという

より、充実しなければならぬ。

 特に、夜間飛行の出来るベテラン操縦者が殆ど居ない状況になっていた。

 このために、アンヘレス北飛行場大隊には、夜間飛行の照明設備が無いので、

アンヘレス南飛行場を使用して、夜間訓練を行うことになった。

 私は、最初の夜間飛行訓練のみ立会って、早急に、飛行機や、整備器具を充足す

る任務があったので、飛行第二師団司令部に行って、後方補給参謀に会い、アンヘレ

ス北飛行場大隊から、トラックを一台借用し、マニラの航空廠に出張する事にした。

 マニラには、整備隊の西山中尉が居る筈であるので、飛行第二師団司令部より、

マニラ兵站宿舎に、電話連絡をさせて、出発した。

 マニラに着いて、第四航空軍司令部参謀部に出頭して、後方参謀部と連絡をしたら、

航空廠にある器材は、何んでも持って行って呉れ、どうせ爆撃を受ければ、吹き飛ん

でしまうのであるからというのである。

 その夕、私は、マニラ港に近い、将校用の兵?ホテルに宿泊した。

 マニラ湾には、駆逐艦や、輸送船等が、約三十隻程、停泊していたが、その艦船に

向って、グラマン、F6Fやヘルダイバ−艦爆撃機が、高度六千米の上空から、約三千

米近い雲を通って、急降下爆撃をしていた。

 地上では、海岸近くにある高射砲陣地からと、各艦船に搭載してある高射砲と機関

砲で、この攻撃を迎撃していた。

 西に傾いた太陽の光に映える白雲の蔭から、編隊を解散して、一列になって降下

する急降下艦爆群に向って、高射砲弾が炸裂する。

 高射機関砲弾が、網の目のやうに、空中を飛び交うのは、絵のような光影であった。

 米軍の急降下爆撃機の尾部のところに炸裂した高射砲弾で、尾部が吹き飛び、両

翼を軸として、胴体がとんぼがえりながら、墜落してゆくのを見て、この飛行機に乗った

操縦者は、どんな気あしたであらうと、同情した。

 兵站宿舎は、皆相部屋になっていたが、世話をする女の軍属の人々も、心からオビ

エ切っていて、私達が、宿泊の手続きをする間に、米軍機の銃爆撃の音がすると、悲

鳴をあげて居た。

 幸い、西山中尉が、彼女等に顔見知りであったので、手続きは簡単であったが、

その間も、彼女等は、自分等の運命が如何になるのかと、心配しているような様子

であった。

 翌日、西山中尉と航空廠に行き、昨日、第四航空軍司令部で手続きした、整備器材

その他の部品、消耗品等の書類を航空廠の係官に手渡して、西山中尉に、蒐集させた

が、航空廠長も、何時爆撃されて、焼失四散する状況が起こるかも知れぬので、必要

なものは、何でも、持って帰って呉れということであった。

 それで、飛行第三十一戦隊のみでなく、飛行第三十戦隊の分も、二重の数量を受

領する文書を作製して、戦斗機用の整備工具、器材、必要の消耗品等を出来るだけ、

トラックに積み込んで、クラ−ク、フィ−ルドに帰ることにした。

 西山中尉には、引続き、マニラに残って、航空廠と、第四航空軍司令部と連絡させ

て、補給器材の状況を調査させる事にした。

 米海軍機動部隊は、マニラ港に補給して来る日本軍の補給船を主体に攻撃をして

いるようで、マニラ上空は、米軍機が乱舞している状況であった。

 比島の市民は、米軍が、日本軍のみを攻撃しているにのであって、あまり市民に被

害を与えないと知っているのか、マニラ市内は、思ったより平穏であった。

 しかし、インフレ状況は、進行しているのであらうか?

 私達は、トラックに、器材、部品、消耗品を満載して、マニラ、リンガエン道を、全速

力で、つっ走った。

 平原は、戦争があっているにもかかわらず、比島農民が、連る平原の田畑で、働

いているのが見受けられ、まだ、危険はなかった。

 問題は、平原の街道を走るとき、米軍機に見つからぬ事であったので、トラックの

荷台の上に、監視兵をつけて、一目散に走った。

 戦場とは云え、日本軍の飛行機は、一機も飛ばず、マニラ周辺の大平原は、南

国の太陽の下に、白く輝き、何か、突然大地が、大きな大きな空虚な状況になった

ような気がした。

 その中で、マニラ湾の上空の白い雲の間から、青い青い空から降って湧き、舞い

下りて来る、米軍機の降下する様が、私の眼の裏に、何時までも、鮮やかに残って

いた。

 

3.戦力、0

 昭和十九年九月二十五日、私は、マニラの器材受領から、アンヘレス北飛行場に

帰って来た。

 メナドから市川中尉以下、遠藤少尉、多田茂准尉等が、アンヘレス北飛行場に

到着していたので、私の持って来た、整備器材や、部品、消耗品等によって、俄然

整備活動に活気が出た。

 特にメナドに行って居た人員は、まだ戦斗に参加した事がないので、元気が良

かった。 アンヘレス南飛行場での夜間訓練も順調に進んでいた。

 飛行機が欲しいと思った。

 クラ−クフィ−ルドの飛行第二師団司令部に行って見ると、師団司令部は、クラ−

クフィ−ルドの司令部の建物から西南部の丘陵地区の河原のようなところに、ニッパ

椰子の掘立小屋を建てて、その中に居た。

 西側の高い丘陵の麓の下に、大きなトンネル壕を掘って、そこが、師団長以下の

退避所であるということである。

 我々は、河原にある作戦司令部の掘立小屋で、作戦参謀等と、飛行機の補給や、

打合せを行った。

 その小屋の作戦部の壁に、大きな黒板がかけてあって、飛行第二師団傘下の各

飛行団名が書いてあり、そこに、大きく、飛行第十三飛行団と記入してあり、出動可

能機数、0と明確に書いてある。

 確かに、飛行第三十一戦隊は、幽霊飛行機を、飛行第三十戦隊に渡して、オン

ボロの旧式隼戦斗機二機しか無い。

 飛行第三十戦隊に渡した幽霊飛行機二機も、故障で動かないらしい。

 飛行師団司令部に行って、交渉しても、戦力、出動可能機、0の記入は、整備隊

長として腹がにえくりかえる気がした。

 飛行隊の方も、戦隊長と寺田中尉のみで、下士官連中も、まだ未熟で、実際の

戦斗には、出動出来る状況ではない。

 新型の隼戦斗機が欲しい。

 是非、何とか? 手に入れたい。

 そのために、師団司令部に行って、補給参謀に頼むのであるが、戦力0のところ

には、補給を優先させる訳にゆかぬ。

 戦斗出来る部隊え、優先的に補給するというのが、あたりまえである。

「戦力、0 」 

 この文字。私は永久に忘れぬであらう。

 戦隊は、解散もなく、そのまま、忘れた部隊になってしまう。

 遂に、私は決心した。

 クラ−クフィ−ルドの補給廠、修理廠には、大破、中破の隼戦斗機が何機もあった。

 第二師団司令部の後方補給参謀鈴木少佐に交渉して、この大破、中破の飛行機

を貰うことにした。

 この飛行機は、既に師団司令部に、破損届が出してあって、修理不能ということで、

廃品になってしまっている飛行機である。

 それを貰うことにした。

 アンヘレス北飛行場から、メナド基地から来た人員と、新しく補充された初年兵を

連れて、クラ−ク、フィ−ルドの各飛行場にある、飛行機の残骸というか、放置して

ある飛行機を、再び点検した。

 発動機、プロペラ、胴体前部、尾部、脚、車輪、を点検すると、夫々一ヶ所大きく

破損しているものを、分解して、破損部分を除き組合せると、数機の飛行機が出来る。

 破損部分も、修理すれば、何とかなるものもあったので、それは、それとして、修理

して使うことにした。

 飛行第三十一戦隊は、関東軍で、飛行機の分解、組立競技で、第一等の整備技

術を持って表彰されたことがある。

 この技術がそこに生きた。

 正に幽霊飛行機というより、分解組立した、新しい飛行機である。

 分解した飛行機は、片端から、アンヘレス北飛行場の周辺の森の中に蔭匿した。

 多くの部品や、材料が出来た。

 生き残りの飛行隊の人員全部に飛行機は行き渡らなかったが、どうやら、作戦出

来る部隊になって来た。

 しかし、飛行第三十戦隊の方は、私の部隊から渡した飛行機も故障して、出動機

0である。

 それで、第十三飛行団は、戦力0という文字が、第二師団司令部の作戦室に、

明確に書かれたままになっている。

「戦力、0」

とは、何ということであらうか?

 戦斗部隊が、作戦不能ということである。

 この憤満が、訓練に拍車をかけた。

 昼間は、邀撃態勢で、夜間になると、アンヘレス、南飛行場に移動して、夜間飛行

訓練を連日行った。

 夜間訓練を始めて、二日目の夜、歩兵から転科して来た操縦者の一人が、誘導燈

に乗って降下着陸するのに、目標を誤って、低空着陸した為、猛烈なスピ−ドで、低

空滑空をして、プロペラを破損して、胴体着陸した。

 幸い、危険と感じたとき、スイッチを切ったので、プロペラは破損したが、発動機、機

体には、異常がない。

 さて、翌朝、プロペラの交換をするために、師団司令部の後方参謀に、プロペラの

補給を頼むのに、電話をしたら、師団司令部の交換に当る通信兵が、仲々、司令部え

電話をつながない。

 作戦電話は混雑しているというのである。

 仕方が無いので、その通信兵に、後方参謀えの連絡文を、口述して、筆記させ、伝

えて貰うことにした。

 ところが、プロペラと云っても、それは、一体何んですかと、問うて来る。

「貴様は、航空通信のものか?」

と、いうと、「そうです」というのである。

 色々話しても、正に珍文漢文(ちんぷんかんぷん)で、どうにもならない。

 とうとう、私もあきらめて、明早朝、師団司令部にゆくことにした。

 さて、翌朝、各戦隊からの命令受領者は、師団司令部に集まれということになって、

私の方も、司令部に緊急連絡する事があるので、クラ−クフィールドの河原にある作

戦本部に行った。

 各戦隊とも、米軍が攻撃して来るのに、邀撃するものが無いのは、良くないので、各

戦隊で、上空援護機を出すことにしたいというのである。

 日本本土からの補給が到着するのに、補給機の運搬に当たるものは、現地の戦斗

に慣れていないから、その援護が必要であるというのである。

 さて、その補給機が何時到着するのか?

 また、米軍が何時攻撃して来るものか?

 全く皆目判らぬ。

 「師団司令部で見当がつくのか?」

と、尋ねると、

「電波警戒機が配置されているので、大体、米軍の攻撃は、予知出来るように、連絡

が入る。」

と、いうのである。

 それはそれとして、如何にして、各部隊に、それを知らせて、邀撃態勢に入らせる

かの問題が、最終的にある。

 無線は傍受されるので、禁止してある。

 残るのは、地上の有線電話のみである。

 さて、その航空有線電話が、昨夜の私の体験で、果して、正確に、連絡が出来るか

どうかが判らない。

「そのような状況で、このような、重要な作戦が出来るであらうか?」

と、いう疑問が残った。

 後方参謀も、この問題については、ほとほと、閉口していたようで、「良い方法は、

何かないか?」ということになったが、無線が駄目、有線電話も駄目となって、方法が

尽きた。

 師団司令部として、邀撃しろという命令は、大変勇ましいが、如何に邀撃するか?

という問題は、考えていなかったのである。

 後方参謀も、命令の具体化に万策尽きて、

「オイ、杉山!

 この司令部の裏山から、狼煙をあげようか」と、いうことを云い始めた。

 私は、

「えっ?狼煙ですか?

 参謀っ! この山の高さは、100米もないでせう。

 どの範囲から見えるというのですか?

 各部隊で、狼煙台が準備してある訳でもないでせう。

 それは、どうするのですか?」

と、問うと、「それもそうだな? 」と、いうことになって、大変困った顔をした。

 何ということであらうか?

 二十世紀の近代戦において、四百年前の、戦国時代の命令伝達機構すら完成

されていない。

 それで、近代戦を斗うというのであるから、これは、大変な事になったなと、私も

思った。

 まさか? ここまで、日本軍、その最新鋭を誇った日本陸軍の航空部隊の実情が

そこにあり、司令部は、単に参謀肩章をつけて、威張り散らすだけのものであって、

内容は、戦国時代の武将や、武士階級にも劣るものになっていたのである。

 現代のおける、日本航空やその他の企業、日本政府の官庁の内容そのものも、

従来の日本のものを継承しているだけで、一朝事があるときに、どんな醜態を暴露

するか判ったものでは無いと思う。

 その飛行第三十一戦隊の飛行隊に対して、日本本土からの飛行機輸送が間に

会はぬので、飛行隊の大部分が、日本に帰って、新しい飛行機を持って来ることに

なった。

 飛行第十三飛行団の第三十戦隊、第三十一戦隊の飛行隊幹部が日本に帰った

ので、私は潜水艦にやられ、海を泳ぎ、赤錆だらけにになった、軍刀を日本に持って

帰って、私の予備の軍刀と、取換えて貰うことにした。

 西戦隊長以下、飛行第三十一戦隊の数名の飛行隊々員が、飛行第三十戦隊の

佐藤戦隊長以下と日本に帰り、飛行第三十一戦隊の飛行基地は、アンヘレス北飛

行場から、マバラカット飛行場に移動する予定になった。

 この基地は、日本海軍の第二航空艦隊の基地である。

 ここから、神風特攻隊が発進した。

 マバラカット基地は、マニラ−リンガエン街道の東に、東西に滑走路があり、それに

西から分かれて、東南に予備滑走路がついている飛行場である。

 飛行第三十一戦隊は、飛行隊が、日本に飛行機をとりに行っているので、飛行第二

師団司令部にては、戦力0として、飛行機の補給は、行はれない。

 しかし、米軍は、連日空襲して来るので、クラ−ク、フィ−ルドの方に空襲があると、

私以下、飛行場大隊から、トラック一台 借りて、それゆけとばかり、破損した飛行機を

盗みにゆく。

 そのようにして、何とか、飛行機が十機程になると、飛行第二師団から、出撃する部

隊に、飛行機が足らないから、飛行第三十一戦隊の飛行機を、出撃する部隊に渡せと

いって来る。

 ここでも、戦力0である。

 破損していると云っても、空襲の中で、生命をかけて運び、整備したものを、他の部隊

に渡すことぐらい辛い悲しいものは無い。

 飛行機は、確かに、金属その他の物体として存在しているが、立派に活動できるまで

に、整備するというものは、そのような作業というものは、物体に魂を吹き込み、活力をあ

たえるに等しい。

 そのようにして、どうやら飛べるようにしたものを、戦力0で、他部隊に渡すのは、極めて、

辛いものである。

 しかし、敗戦状況の日本軍では、万止むを得ぬことであるので、渡すことにした。

 整備隊々員から、大きな不満の声があがった。

 私は、飛行団長、江山六夫中佐に、度々進言した。

 何とか、飛行第三十一戦隊、第十三飛行団としての、戦力0より脱しなければならぬ。 

戦隊の手許には、旧型の隼六機のみ残ることになった。

 それも、アチ、コチ破損したものを修理した、オンボロ機である。

 クラ−ク、フィ−ルドには、日本から比島決戦のために、次々と、中国から、朝鮮から、

日本から、多くの戦隊が集中して来た。

 明野飛行集団も、新鋭のキ54戦斗機、(発動機、1800馬力、機関砲20o2門、

13o2門)を率いてやって来た。

 飛行第三十一戦隊は、これらの戦隊に、飛行機を譲渡して、日本内地よりの帰還を

待っているより外はない。

 飛行第二師団司令部に行っても、戦力0である。

 戦隊の飛行機を譲った代りに、補充して来る飛行機、破損した飛行機を、貰うことに

した。

 それも、一機、一機と、正に、僅かづつの補充である。

 飛行機が沢山あると見えぬように、日本軍側にも、秘匿するのに苦心した。

 演習、訓練は、何時も、オンボロ機であった。

 九月末、遂に、日本内地に、飛行機を補充しに行った、戦隊長、飛行隊の人々が、

アンヘレス北飛行場に帰って来た。

 新しい、新型の隼機である。

 私の眼には、南国の太陽の光に、輝くような気がした。

 塗装した、カモフラ−ジの色彩も、眞新しい塗料で、撫でると、若鳥のように、体を

ふるわせるような気がした。

 飛行第三十戦隊に行った、同期生の高橋福男大尉から留守宅に預けてあった、

私の予備の軍刀が届けられた。

 私の戦隊も、飛行団も、戦力0であったが、私も、新しい軍刀を持つことが出来た。

 飛行第三十一戦隊も、将校は、寺田中尉のみであったが、曹長クラス、軍曹クラス

の人々が、ようやく、飛行訓練、夜間飛行訓練を経て、第一線の操縦者としての戦力

が充実して来たので、編隊戦斗の訓練に入り、全戦隊の編隊訓練を行うことになった。

 飛行第二師団司令部に対して、通常の飛行戦隊の3分の1しかない数ではあった

が、戦力0の判定に対して、デモンストレ−ションを行うことになり、飛行団長機編隊を

含んで十六機の編隊で、クラ−ク、フィ−ルド、上空の旋回飛行を行うことになった。

 久し振りに、尾部の方向舵、垂直尾翼に、雷(イナズマ)の戦隊マ−クをつけた、編

隊が飛ぶことになったので、飛行場のあちこちの薮や、木蔭から、飛行機を出して、こ

の編隊飛行に参加させる事になった。

 久し振りの飛行第三十一戦隊の編隊飛行である。

 オンボロも混じているとは云え、十六機の編隊は、轟音を響かせて、空中にあがり、

クラ−ク、フィ−ルドの上を飛んだ。

「戦力0」

これでも、戦力0か?と、いいたかった。

 飛行第二師団司令部の上を十六機で、編隊飛行を行ったとき、河原の司令部の

建物などから、参謀や、その他の人員が、飛び出して来て、大空を仰いでいたと云っ

ていた。

 約半ヶ月近くの苦難の日月であった。

 この編隊飛行が効いたのか、良く判らぬが、飛行第三十戦隊の方は、戦隊長が日

本から比島えの新鋭機輸送途中で、何か事故があったらしく、第十三飛行団としては、

片目があいた状況であるけれども、師団司令部としては、矢張り、第十三飛行団、戦

力0のままであったので、どうなるのかと思っていた。

 しかし、レイテ島には、米軍が上陸して来ることになって、戦局愈急となって来て、

飛行第二師団司令部も、ネグロス島に移ることになったようである。

 

4、戦隊再々編成

 昭和十九年十月二十日に、レイテ島、タクロバン市に上陸した米軍は、橋頭堡を、タ

クロバン市の南の海岸線の地域、ドラツグ基地周辺に確保し、レイテ島を守備していた、

垣兵団の陣地に、攻撃を開始し、垣兵団は、レイテ島背梁山脈の山岳地域に陣地を

つくって、米上陸部隊に対し、その進出を必死で喰いとめていた。

 第四航空軍飛行第二師団は、レイテ島の眞西のレグロス島各飛行基地より、必殺の

攻撃を行い、正に死斗を演じていた。

 米軍は、タクロバン基地、ドラツグ、ブラウエン等の各日本軍の航空基地を占領し、米

軍の急速な建設機械化部隊で、僅か三日の内に、航空機の出発が出来るようになり、

モロタイ島ハルマヘラ島にあった、米陸軍のP38 ロッキ−ド、戦斗機が進出して来ていた。

 米海軍の機動部隊は、数隊、呂宋島沖、サマ−ル島沖、レイテ島、タクロバン沖、レイ

テ島の東南の海上を、遊弋していたが、日本軍の特別攻撃隊による損害が大であり、上

陸前後の作戦行動で、多大の損害が出た。

 サラビヤ基地における、明野飛行集団、進藤飛行団のP38 ロッキ−ド戦斗機との交戦

は、正に、双方消耗し尽した、限界に起った戦斗であったと思う。

 サラビヤ基地を攻撃した、モロタイ島からのB24 コンソリデ−デット、長距離爆撃隊も、

日本軍のキ84戦斗機の邀撃で、多大の損害を受けたことであったと思う。

 戦争、作戦には、波があって、双方の集中波動の高まりによって、決戦が行はれ、その

回復は、第一線部隊の志気、活力と、後方からの補給を、如何に速やかに、戦力化するか

によって、勝敗は決してゆくように考えられる。

 第一線の場合、攻撃されたら、はね返す。

 明野飛行団の戦例の如く、第一線の整備員が敵の攻撃下、一分一秒でも持ちこたえて、

飛行機を整備し、そして、攻撃が去ったら、一分一秒でも、反撃に転じてゆく出動に、直ちに

出来る状況にもってゆく、実行する事が出来るようにすることが、一つ一つの戦斗行動に

よって、勝利を生み出してゆくことになる。

 航空機の戦斗は、飛行機が地上にあるときは、正にガソリンを積んだ小型タンクという

べきで、戦車は、鉄鋼板で防備されているが、飛行機の場合、空中を飛ぶので、重量に

制限があるため、防御、防弾の装備に、限界がある。

 このために、地上にあるときは、極言すれば、小さなアルミのガソリンタンクの状況に

なっている。

 航空機は、空中に飛んでいるときだけが、飛行機として、攻撃機としての性能を発揮

するようになっている。

 このことを考えると、攻撃が終った飛行機は、銃砲弾を射ち尽くしているので、空飛ぶ

ガソリンタンクとなってしまう。

 そして、攻撃のための飛行距離で、燃料を使用しているので、自分の基地に帰らなけ

れば、再び戦斗力は得られない。

 攻撃を終った飛行機は、如何にして、無事自分の基地に戻れるかということのみが、

生きられる方法であり、只逃げの一手という形になる。

 飛行機で、戦斗する場合、この基地え帰るときと、地上に在るときが、最も弱いとき

である。

 これを、如何に攻撃し得るかが、航空作戦の飛行機による戦斗の眼目となる。

 自らの不利な面を如何にして回避し、敵の最も弱い点を攻撃するというのが、航空

作戦の主なものなり、一つの飛行隊が攻撃されたとき、他の部隊とのチームワークに

よって、この弱点を衝くことになる。

 サラビヤ基地における、明野飛行団のB24コンソリデ−デット爆撃編隊と、P38ロッ

キ−ド戦斗機との戦斗は、一つの模範的な、航空作戦の在り方の実情であったと思う。

 このような連携作戦は、通信機による連絡、情報の蒐集、作戦関係者の判断によっ

て、これを、具体化し、活動せしめる整備員の努力と実際の活動によって可能となる。

 このような損耗を敵味方が行っている戦争において、補給と、その補給されたもの

を戦力化する整備力が、戦勝の鍵になる。

 しかし、日本の陸軍では、昭和十五年に、私達陸士53期生から、初めて、高射砲、

戦車、そして航空に、航空技術、整備という兵科目が生まれた状況で、しかも、航空

技術の整備の将校には、兵科としてでなく、衛生、経理のもの同様に、指揮権と、作

戦会議に参加して発言する権限、立場は与えられていないのみならず、操縦の将校

重視の傾向において、下士官、兵と同様の待遇であった。

 昭和十九年一月から、航空部隊に整備隊が、旧航空隊の各中隊の整備隊下士官、

兵達を集めて編成され、その整備隊の指揮は、整備の将校が行う指揮権が与えられ

たけれども、作戦参謀司令部においては、整備の人々の参加は認められていない状

況である。

 このような状況が、航空部隊の各司令部、各飛行団、戦隊の戦斗、作戦において、

重大な影響をもつようになったことは、明野飛行集団の戦斗実情からのみでなく、日

本の陸軍航空部隊の欠陥として、比島戦の運命を大きく左右し始めていた。

 このような問題はあったが、レイテ島タクロバン地区に上陸した米軍に対する、日

本軍の激烈な攻撃が続行された。

 マバラカット基地に帰った飛行第三十一戦隊は、二度目の全滅というか?

 アンヘレス飛行場での潰滅状況から考えると、三度目であるが、マバラカット基地

に残した、訓練用のオンボロ隼戦斗機のみと、再びなってしまったが、しかし、大本営

の、比島での決戦という方針は強く打ち出されて、日本からの新しい飛行機の補給は

大変多くなった。

 私は、この新しい飛行機の獲得のために、マバラカット飛行場から、クラークフィー

ルドの第二飛行師団司令に、毎日のように通って交渉した。

 第二飛行師団司令部の参謀附として、私の航空技術学校時代の同級生、石井學

君が、新しく着任していて、この補給飛行機、部品等の手配をしていたので、私は、彼

と同室のものであったし、技術学校で同志として、日本の戦争停止について、努力した

仲であったので、私は大変良い便宜を得て、着々と、新しい飛行機を獲得することが

出来た。

 第二飛行師団司令部も、度々、飛行第三十一戦隊に補給した飛行機を、他の戦隊

に引渡したことで、飛行第三十一戦隊の戦斗整備力を高く評価して、好意的に飛行機

が貰えるようになった。

 レイテ島に上陸した米軍に対する日本軍の攻撃は、愈々最高潮に盛りあがってゆく

作戦計画が実施されて行った。

 しかし、私達第一線のものから見ると、日本の、このレイテの攻防を見るとき、米軍の

上陸作戦の高まり、そして、その上陸による陣地確保、上陸地域の進出という動きと、

その後方からの補給、充足の状況を見るとき、日本軍の作戦は、少しズレが、作戦命令

と、実際の部隊の作戦準備、具体的行動にあるように感じられた。

 形の上では、日本軍側は、米軍の上陸部隊、それを援護する米海軍、航空軍の動き

に対して、外から包囲、隼中攻撃をするように、作戦が行はれ、形の上では、米軍を全

滅させられるか、または、上陸部隊を撤退か、陸上に孤立、窮地に陥らせるべく計画さ

れていたように思う。

 しかし、通信連絡、技術力、整備力の問題のみならず、輸送機械の性能と、機動力

において、米軍と、格段の差が生まれていた。

 日本軍の輸送船、輸送方式は、明治の日露戦争以来、少しも進歩していると思えな

かった。

 このことが、レイテ島での攻防に、大きな差異を生みつつあるように感じられた。

 このために、レイテ島の背梁山脈の東斜面に陣地を作って、頑張っている、レイテ島

守備隊を含む、第16師団の各部隊は、米軍の猛烈な銃撃のみならず、砲撃、艦砲射

撃に曝らされて、一歩も前進出来ないで、ヘバリついたような形になっていた。

 タクロバン市周辺には、長距離砲陣地が出来て、タクロバン市から反対のレイテ島

西側のオルモック市の湾にも、この長距離砲の砲弾が落ち、オルモックに揚陸された

補給兵器弾薬等にも、損害が出るようになった。

 レイテ島における垣兵団、第16師団の運命はこれら砲爆撃によって、日に日に損害

が多くなり、特に、レイテ島の北方海岸地区は、タクロバン市からの高速舟艇や、その他

によって、垣兵団の左翼を迂回して、背後に上陸して来る状況すらあった。

 垣兵団は、辛うじて存在している状況と云えよう。

 レイテ島に上陸した米軍は、完全に、橋頭堡のみならず、中央の背梁山脈の斜面か

ら、平原、海岸線に、堅護な陣地を確保し、ドラッグ、ブラウエンの飛行場も、活動に入っ

て来ていた。

 レイテ島における米軍の上陸部隊をめぐって、日本軍の方は、愈々捷号作戦を具体

化する体勢が進められていた。

 それは、海岸においては、日本軍の全艦隊を動員して、レイテ島において、一大決

戦を行い、陸軍は、レイテ島の第十六師団が、レイテ島の背梁山脈地域にへばりつき、

必死に米軍の進出を止めているのに対して、北方地区から第一師団の玉兵団、南の方

からは、第二十六師団、泉兵団が米軍に攻撃を開始し、落下傘部隊、高千穂空挺団が、

泉兵団の正面のブラウエン、ドラッグ飛行場に攻撃をかけて、一挙に、米軍を包囲全滅

する予定の作戦に入ることに動き始めていた。

 これらの情勢が、日本軍全体として動き始めていたことで、飛行第三十一戦隊えの

新しい飛行機の補充、補給が活発になって行った。

 飛行第三十一戦隊は、昭和十九年の十月末には、参度目の全滅状況になって、マ

バラカットに引揚げて来たが、十一月十日から十五日の間に、新補給機を、比島で四

機、内地で、三機、そして、アンヘレス飛行場で六機を受領し、十一月二十日には、総

数二十五機に増加して行っている。

 そして、出動可能機は、二十機になっていた。 

 戦隊は、陸士57期生の新鋭将校、内藤研吾少尉以下、清水少尉、門馬少尉等が

着任し、補充された、隼戦斗機は、全て、三型の飛行機で、マバラカット飛行場は、新

鋭の気に満ちて行った。

 昭和十九年の十二日、十三日の戦斗で、戦隊の熟練操縦者を失ったが、しかし、

下士官級の人々の戦場における成長に著しいものがあって、剣持曹長以下、すっかり、

ベテラン飛行操縦者に成長している。

 すっかり、若返った、戦力に満ちたものになって行った。

 新しい補給を受けた隼戦斗機の整備と、新しく補充された、陸士57期生の人々、

また飛行隊の操縦下士官の編隊戦斗訓練等を、米軍の機動部隊からの空襲の中で、

続けていて、マバラカット西飛行場は、参度に亘る全滅状況から再起した、飛行第三

十一戦隊の活気に満ちた活動の中に、突然、特別攻撃隊である、八紘隊の栗原中尉

以下の隼戦斗機が、両翼に百s爆弾を吊ったまま、飛来し、着陸して来た。

 私達は、九月十三日払暁、飛行第三十一戦隊の飛行隊全員で、特別攻撃隊を編

成して、米海軍50機動部隊に対して攻撃を行う予定が、小佐井中尉、山下軍曹の二

機のカン作戦えの参加となって見送ったことがあるので、隼戦斗機に、百s爆弾を吊

ることは、それ程、不思議に感じなかったが、その百s爆弾の尖端の信管には、安全

栓も、安全装置の風車も装置していない、信管そのものがむき出しになっているのに、

度肝を抜かれた。

 この信管に、指が触れても、また、衣の端がさわっても、また、マバラカット飛行場

のススキや、萱の葉が触れても、また、離陸するときの後塵の中の小さな石でも当た

ったら、瞬間に、この100 s爆弾は、爆発する。

 飛行場のように、広々とした、何もさえぎるもののないときは、その破片と、爆風で、

どんな被害を蒙るか、想像が出来る。

 技術将校として、飛行場の安全を確保するものも、その任務である。

 栗原中尉の特攻隊の飛行機は、私の戦隊で整備を引受けることにして、栗原中尉

以下の特攻隊隊員は、飛行第三十一戦隊の戦隊長、西進少佐の前に並んで、到着

の申告をした。 栗原中尉以下、正に、日本の若武者というべく、誠に凛々しい姿で

あった。

 栗原中尉は、私より長身の苦み走った、浅黒い性質の皮膚をしていて、大変好感

の持てる青年であった。

 彼等は、飛行帽に日の丸の鉢巻きをしていて、襟のスカ−フは、眞新しい、白の

絹布のものであった。

 全員の立居振舞が、キビキビしていた。

 私の心の中にこみあがって来るものがある。

 日本の興亡をかけた、比島の決戦場に、特別攻撃隊として、散華するという事実は、

軍人として生きている事において、本望であらう。

 しかし、このような大本営の方針で、特別攻撃隊をつくる事に対して、私は、彼等を

いとおしむと共に、心から憤りを感じていた。

 彼等は、自ら志願して、特攻隊に参加したのであらうが、一人と雖も、無駄な死に方

をさせてはならぬと思った。

 この思いから、栗原中尉が、西戦隊長その到着の申告が終り、私が整備を引受ける

ことで、彼と、飛行機の状況について、他の操縦者と共に打合せをする事になった。

 彼等は、日本内地で、飛行訓練を受けただけで、現地の状況も、特攻として、敵に近

づいて、超低空で敵艦に接近してゆく飛行方法についても、充分な訓練を受けていない。

 それを、飛行第三十一戦隊の隊員と共に、特別訓練を受ける事になって、明日、明

後日の出撃を待つ間、飛行第三十一戦隊と共に行動する事になった。

 私は、その打合せが済んで、栗原中尉に対して提案をした。

 この飛行第三十一戦隊との訓練に際しては、翼下に吊った、100 s爆弾を下すか、

又は、安全栓を装着して行うこと、それでないと、特攻隊のみならず、飛行第三十一戦

隊の隊員、飛行機に、万一のことがあると損害が出る危険が非常に大きい事で、是非、

そのようにして欲しいという提案を行った。

 栗原中尉は、爆弾を下すことは、飛行機の重量を軽くすることにおいて、操縦上の変

化が生まれるので、それは、訓練上、下すことは出来ないが、このマバラカット西飛行

場での訓練の間は、安全栓を装して、行うことを、承知した。

 さて、私は、飛行第三十一戦隊の整備隊員に、この特攻機の爆弾に対して、全部安

全栓を装置する事を命令して、全機点検したのちに、西戦隊長、56期生の寺田中尉と、

私とで、戦地での懇談に入った。

 栗原中尉から、比島の戦況や、米軍の各戦斗機、飛行機の状況、航空作戦の状況

等々について、飛行第三十一戦隊の経験や実情について質問があった。

 その雑談の中で、私は、栗原中尉に、一つの提案をした。

「翼下の爆弾は、予備の燃料落下タンクを懸吊す架に、懸吊されている。

 この爆弾には、この懸吊架から、長い針金のピンが、爆弾の安全栓の風車の穴に

挿入さいて、風車の廻転をとめるようになっている。

 そして、出発時の地上滑走や、離陸時機の思いがけない事故によって、信管に何か

当たっても、この風車安全栓によって、カバ−されていて、信管に作動出来ないよう

になっている。

 この故に、特攻隊が空中に上って、この安全栓に入っている風車を止める、針金の

ピンを、操縦席で、除去出来るようにして、不時の事故で、無駄死を免れるようにし

たら」と、いうことを申出た。

 栗原中尉は、即座に、

「杉山さん!

 それだけは、やめて下さい。

 その安全ピンを操縦席で抜くということは、大変な苦労を要するものなのです。

 私は、特攻隊を志願した人間ですが、私は今、生きています。

 その生きている人間が、この安全ピンを抜かなければ死なないで、生きられるとい

  うことになれば、その安全ピンを抜くということに、大変な苦労と、力を必要とします。

 それは、人間の本質的な心理ですので、それを克服するのは、容易ではありません。

 私達は、特攻隊として、出来るとき、離陸するとき、爆発しても、無駄死になっても

良いという覚悟があるので、突込めるのです。

 どうか、そのような装置をつけるのは、是非やめて下さい。」

と、いうことであった。

 私は、栗原中尉等の覚悟の見事さに、深い敬服を覚えて、彼の手を握って、

「良く判った。」

と、いって、頭を下げた。

 私達、飛行第三十一戦隊と、栗原中尉以下の特別攻撃隊八紘隊との協同の飛行

訓練を行い、整備隊は、補給された隼戦斗機の整備に全力をあげているとき、昭和十

九年十一月十日〜二十日の間に、レイテ沖における日米の海軍による決戦が行はれ、

確か十月二十日 頃と考えるが、第二師団司令部よりの情報として、レイテ島の南の

スリガオ海峡から、レイテ島の西のセブ島の間の海面を通って、一隻の巨艦が、北進

中であるが、それは、日本海軍の戦艦であるから、攻撃するなという指令が出た。

 この巨艦というのは、実は、日本海軍の最大の戦艦、大和、武蔵の、その武蔵で

あったのであった。

 米海軍の機動部隊は、全力を挙げて、この武蔵に攻撃をかけて、遂にこの武蔵は、

呂宋島の南の海域まで近づきながら、沈没してしまったようである。

 レイテ島沖の日米海軍の決戦は、北方から小沢艦隊が南下して、米海軍機動部

隊の攻撃を引受けて、陽動、おとり作戦に出て、米海軍の総力を引付けて、南の方

からスリガオ海峡を通って、武蔵等の戦艦群の栗田艦隊が、レイテ島のタクロバン沖

に殺到して、その巨砲で、タクロバン沖にある上陸支援艦船を撃破すると共に、海岸

に、各座して、米軍の上陸部隊を背後より攻撃することで、米上陸部隊を支離滅裂に

して、陸上からは、玉兵団、泉兵団、空からは、高千穂空?隊等が降下して、集中攻

撃して、米軍を撃滅する作戦であるということであった。

 しかし、小沢艦隊が南下突入中、あまりにも激烈な、米海軍、空軍の攻撃を受けて、

方針を維持することが出来なくて、早く返転したため、米軍の方は、南からくる艦隊に

気がついて、スリガオ海峡の入口で、日本の戦艦の艦隊に対する攻撃を行ったことで、

これも、全滅に近い打撃を受けて、反転し、武蔵だけが、辛うじて、呂宋島南海域に

逃げていた状況であった。

 私には、大方の想像がついていたが、しかし、これ程、日本海軍が弱体になって

いるとは、思いもかけなかった。

 我々陸軍の方は、愈々玉兵団、泉兵団が、レイテ島のオルモックに上陸することで、

レイテ島タクロバン市附近から南に上陸した米軍に対して、陸軍の決戦が近づいていた。

 泉兵団の輸送船団、玉兵団の輸送船団が、相踵いでレイテ島に出発する事になって

いた。

 しかし、今から考えると、日本海軍のレイテ沖海戦の作戦計画と、陸軍部隊の決戦態

勢の計画とで、少くとも、半月、一ヶ月に近いズレがある。

 日本の大本営の作戦計画は、どんなになっていたのか?

 日本海軍において、小沢艦隊が、米海軍の猛烈な集中攻撃に耐えかねて、早く返転

したことで、南方からの武蔵を中心とする、レイテ島沖タクロバン湾内えのなぐり込み作

戦が頓座するとしても、日本軍のレイテ島えの増援部隊である。泉兵団、玉兵団のオイ

モック湾えの上陸の時機が、あまりにも時間的ズレがあったのではないかと思う。

 ここに、日本軍の陸海軍の間における、近代戦の思想というか、作戦についての経験

と、能力の問題があるし、又、通信連絡、輸送、補給の問題についても、多くの問題点が

あって、米軍の近代戦における態勢、能力の間に本質的な差があったように思はれる。

 このようなことは、第一線部隊のものには、特に整備、技術将校には、作戦会議に参

加を許されないし、また、部隊の指揮権も与えられていなかった事において、日々に出る

命令、部隊え師団司令部から来る情報等を、目を皿のようにして、私は私なりに、研究し

て、部隊の行動、部隊に来る作戦命令と、比島における全体の作戦の推移予測をもって、

部隊の飛行機の準備整備を行ってゆくより外はなかった。

 愈々、飛行第三十一戦隊に、最後の出撃命令が来ることを予測され、マバラカット飛

行場で、米海軍の機動部隊から出撃して来る攻撃に対して、飛行機を飛行場の北の全

ての薮蔭に蔭匿して、整備に努力した。

 日本軍は、日露戦争、日本海戦における、戦勝の形になったものを、信じていること

は、万止むを得ぬことではあったが、しかし、近代戦における、部隊運用、兵器の進歩、

作戦連絡、特に、大本営以下各司令部の人々の研究において、決定的、欠陥がありな

がら、特に、情報判断、戦力の判定等、運用、作戦計画において、大きな欠陥をもって

いたように思はれる。

 日本海軍の戦艦において、昭和十六年、マレ−沖海戦において、英国の不沈艦と

称する、レパレス艦、プリンスオブウエルズ艦に、航空機による攻撃で、撃沈している

ことにおいて、日本海軍の方が近代戦において、優れた発想、技術運用の開発が行

はれていると考えていたが、日本の海軍の首艦部において、まだ、日露戦争の勝利の

余映があったのに対して、米軍の方は、思い切った機動部隊作戦に出ていることにお

いて、このレイテ海戦は、決定的なものになったと考える。

 この事は、日本海軍のみに云うべきことではなくて、日本陸軍においても云えるこ

とであらう。

 日本陸軍は、日露戦争における主兵器であった、三八式歩兵銃が中心で、機関

銃は、十年式、大砲等も、又然り。

 近代戦における火器、通信連絡、また、航空機作戦の運用においても、根本的欠

陥をもっていたように考えられる。

 これは、軍人のみならず、一般の日本国民、社会も同様であらう。

 この事は、極めて、頑固であり、自由な発想方法を持たぬということより、持たせぬ

事が、良いと考えていると思はれる場合が多い。

 我々航空機技術将校の意見や発想は、司令部に対して、何等の権限をもっていない。

 そのような中で、如何に戦い、如何に部下の人々を生き残らせるか?

 これは、最も苦しい戦いというべきであらう。

 

5、戦隊出撃と全滅

 台湾沖の敗残機動部隊えの攻撃に出撃したことで、ようやく十三飛行団の戦力0

の記載事項が消えた。

 しかし、戦隊の出撃機は、総点検をさせているので、まだ、最低である。

 出動出来る飛行機は、一機も無い。

 しかし、新しい補給機が、飛行第三十一戦隊に、僅かづつであるが、一機、二機と

補給されてゆく傾向が生まれた。

 私は、毎日、飛行第二師団司令部に行って後方参謀の鈴木少佐や、野々垣作戦

参謀と、交渉を重ねた。

ようやく、戦力0を脱したのみであるので仲々、飛行機を補給して貰えない。

 私の整備日誌に、

 歯がみして、寝たる夜半の寝醒めかな。

と、記録を記した余白のところに、ポツリと書いてある。

 第二飛行師団司令部の作戦室の参謀や人々の動きで、愈々米軍の比島地区え

の上陸の時機が近づきつつある事が察知されニューギニヤのホ−ランジャ、ウエワク

等の基地に集結していた大船団は、一路、比島地区に近づきつつあることが考えら

れた。

 十月十六、七日、レイテ島の東のスルアン島、ホモンホン島に、米上陸部隊の先

遺隊の船団が近づき、上陸を開始したという情報が入って来た。

 愈々来たと、私は思った。

 大本営からは、愈々、捷号作戦命令が発せられ、この米軍のレイテ島、タクロバン

市から南の海岸線に、米上陸部隊の本隊の上陸が確実となり、スルアン島の電波警

戒部隊と、守備隊からの情報で、米軍大船団が、レイテ島タクロバン市沖に来たことを

報じて、消息を絶った。

 比島に展開している、日本軍の陸海の航空部隊は、全力を挙げて、この大船団を

攻撃し、上陸を阻止する事になり、各部隊出動命令を受けて、色めき立っていた。

 第十三飛行団の我々に対しては、何の命令も出ていなかったのである。

 飛行第三十一戦隊は、保有している全機の燃料タンク潤滑油タンク、その他の系

統や、装置の清浄化と、新しい部品に変え、操縦系統の各装置も、新しい油に代えて、

決戦に備えた。

 全員にも、休養を与えて、鋭気を養はせた。

 幸いか、大本営の捷号作戦命令が発令されたことで、飛行機の補給が充実されて

行った。

 私は、この補充される飛行機の獲得に、毎日、飽きもせず、クラ−ク、フィ−ルドの

師団司令部に通った。

 そのような或る日、師団司令部を出て、クラ−ク、フィ−ルドの東、南飛行場の中間

を通る、道路に来たとき、富嶽隊の特攻機が出発するのに、南飛行場の滑走路に、六

機のキ87が、並んでいるのに遭遇した。

 私は、思はず車を止めて、富嶽隊の出発の状況を見ていた。

 キ87の機体は、新しいプランジャポンプのついた発動機で、強制冷却ファンが、発

動機の前について高速回転している音が、キ−ンと音を立て、発動機、プロペラの音が、

隼機の発動機のバラバラいうのと異なる、澄んだ冴えた音をしていた。

 正に、ほれぼれするような出来ばえである。

 機体は、二屯近いサクラ弾を積み、機体の光端には、電気信管の触角が、一米近く

も出ている。

 操縦者は一名で、機体の操縦も、軽々としたものである。

 飛行場大隊の整備員、師団司令部の参謀やその他の人々が見送りに来ている。

 それらの人々が、滑走路に一列に並び、帽子を脱いで、頭上で振っているのに、操

縦者は、操縦席の側窓を開いて応えていた。

 ふと、クラ−ク、フィ−ルドの上空にある五千米以上の積乱雲の方を見ると、その白

い雲影から、グラマン米海空戦斗機が、発動機の回転を止めて、約十五六機、急降下

で、富嶽隊をめがけて、降下中である。

 私は、思はず、

「危い!

 あれをみろっ!」

と、自動車から飛び降りて、近くの飛行場大隊の将校に、ゲラマン機を指示して、教えた。

 その将校は、「あっ!」と云って、隣の将校に、それを教え、本人は、クラ−ク、フィ−

ルドの方にある、20oの機関砲隊の方に、まっしぐらに走りながら、天を指し、何かを叫

びつつ走った。

 私は、自動車に乗っている兵達に、思はず、

「危い!

 皆逃げろ!」

と、叫んだ。

 並んで送っていた人々も、気付いて、富嶽隊の操縦者に、早く出発しろと、盛んには

げしく手を振って教えるのであるが、操縦者は、熱烈な送別をして呉れるものと思って、

側窓から身体を乗り出して手を振り出した。

 私は、背後も見ないで、クラ−ク、フィ−ルドの道路を越え、その北側にある鉄道線路

も越えて逃げ、鉄道の沿うてある側溝の中に身を伏せた。

 ようやく、機関砲陣地の方に走っていた将校の叫びに気がついた、20o機関砲座の

隊員が、機関砲に飛びつき、約二千高さに降下しているグラマン機群に向って、一斉に

射撃を始めた。

 白雲を縫って、降下中のグラマン機にその弾丸が当ったのかどうかは判らぬが、先

頭のグラマン機が、グラリと降下方向を変えてマニラ方向の空えと逸脱し、他の編隊機

も、それにならって、方向を転じた。

 いや、全く生命の縮まる思いをした。

 富嶽隊のキ87機に、若し、一発でも当ると、搭載してある、二屯のサクラ弾が爆発し、

戦艦でも、一瞬に轟沈してしまう威力がある。

 恐らく、1q四方の地表にあるものは、吹きとんでしまうであらう。

 このときばかりは、さすがの私も、一生懸命に逃げて、溝の中に伏せた。

 恐らく、私がこのように、意識して、一生懸命に逃げたのは、比島戦で、最初であり、

「逃げろ!」と叫んだのは、最後であったように思う。

 富嶽隊は、20o機関砲の射撃で気がついて、一番機から、出発して、離陸してゆき、

ゆるく、右に、ルソン平原の上を旋廻して、マバラカット西飛行場の方に着陸したようで

あった。

 我々も、その状況を見て、慌てて、自動車に乗って、マバラカット東飛行場に帰った。

 戦局は、愈々近迫し、米軍は、遂に、レイテ島のタクロバン沖に、大船団を進入させ、

上陸を始めた。

 このために、米海軍機動部隊の航空母艦群は、何隊も、呂宋島沖から、サマ−ル島、

レイテ島沖に??して、日本軍の比島における各基地を攻撃していた。

 また一方、南方のセレベス島のメナド基地群に近いモロタイ島、ハルマヘラ島に十月

初め上陸した米軍は、長距離重爆撃機のコンソリデ−デットB24と、ロッキ−ドP38戦

斗機の活動を始め、南比島群島のミンダナオ島のダバオ、デルモンテ、カガヤン基地を

叩き始めていた。

 日本軍は、ボルネオを通って、佛印地区の各航空隊、中国の各航空部隊、日本より

の増援航空機隊を比島に集結し、米軍のレイテ島上陸を中心に、必死の攻防を行う状

況になっていた。

 しかし、第十三飛行団に、まだ、出動の命令は、飛行第二師団より来ない。

 この戦機に出動の機会を掴かまないと、永久に、飛行第三十一戦隊は、比島戦史

より抹殺されてしまい、解散より外は無い。

 出動可能機がようやく十機を超えて、レイテ島のタクロバン市南の海岸線にとりつい

た米軍上陸部隊をめぐって、日米の攻防戦が繰り拡げられ、米海軍の各機動部隊も、

必死になって、ネグロス島、セブ島、呂宋島地区の各基地を攻撃している様子である。

 恐らく、日本軍側の損耗も大であったのであらう。

 十月十九日、飛行第三十一戦隊に、陸軍航空士官学校57期生の新鋭将校、内藤

研吾少尉以下が到着した。

 彼等の飛行第三十一戦隊えの到着は、戦隊が解散するのでなくて、存続される証

拠である。

 解散される危機は去った。

 私にとって、彼等の飛行第三十一戦隊えの着任は、何よりも、勇気を与えた。

 望みが倍増された。

 そして、彼等が輸送飛行して来た、新しい三型の隼機は、決定的に飛行第三十一戦

隊のものであった事も、私には嬉しかった。

 隼二型のオンボロ機、幽霊飛行機のみの状況から脱出出来る。

 しかし、私の心の底に、米軍のタクロバン沖からのレイテ島えの上陸は、ブラウエン

飛行場に、第二師団司令部直属として、派遣されている、飛行第三十一戦隊の舟本准

尉以下の消息が気にかかった。

 米軍は、これらの基地に対しては、徹底した、銃爆撃のみならず、艦砲射撃の外、ロ

ケット攻撃を行ったであらう。

 捷号比島航空作戦記によると、第四航空軍と、飛行第二師団は、ブラウエン、ドラッグ

飛行場基地に、カン作戦の部隊を夜間に進めて、払暁上陸部隊艦船に攻撃させる計画

を具体化して、命令したが、実施部隊の実情は、米軍の猛烈な攻撃と、飛行機の故障

続出で、実行不可能になったということであった。

 私が最初から危惧した如く、この様な小細工の作戦は、実行不可能であることが、

日本の司令部関係には判らないという実情があり、もし、このような小細工が成功して

も、戦争の勢、態勢を転換出来る程、決定的な打撃を与えるような作戦計画でない事

が、判っていない。

 徒らに戦力を分散して、犠牲を増大するだけのものであったのだ。

 舟本准尉以下が如何なる運命か? 巧く飛行場大隊と共に、垣兵団に収容されたか?

 私は、機会あるごとに、彼等の消息を、司令部の人々に聞いた。

 彼等は、巧く、飛行場大隊と共に、兵団収容されて、オルモック飛行場に向ったという

消息を得て、私は安心した。

 遂に飛行第三十一戦隊の出動出来る飛行機は、十四機になった。

 一個小隊編隊四機として、三編隊が、完全に、出動出来ることになった。

 十月二十日である。

 飛行団長機編隊二機を入れて、十四機となった。

 これ以上は、飛行三十一戦隊の生き残り、熟練出動可能の操縦者は居ない。

 新鋭の陸士57期生等は、まだ、慣熟飛行や、戦場の戦斗に慣れていないので、残

置して、飛行訓練を受けることになった。

 レイテ島には、愈々、米軍が上陸し始めて、タクロバン市周辺から、南の海岸線に、

橋頭堡が確保され、この地方の第16師団は、レイテ島の背梁山脈の方に、防御陣地

をつくり、米軍と対峙する事になった。

 タクロバン航空基地及びドラッグ、ブラウエン等の日本軍の飛行基地は、米機動部

隊の猛烈な銃爆撃の次に、米海軍の艦砲射撃によって、全て破壊されていたが、米

軍は上陸するや否や、組立式の滑走路や、その他によって、すぐ基地化をすると共に、

多くの機械化土木工事によって、修復し、僅かの日時で、活動を開始しモロタイ、ハル

マヘラ地区より、長駆、米陸軍のP38ロシキ−ド戦斗機が進出して来つつあった。

 日米の必死の攻防において、日本軍の損耗も大きなものであったのであらう。

 正に、猫の手も借りたいということであらうか?

 遂に、飛行第十三飛行団に対して、出動命令が下ったが、飛行第三十戦隊の方は、

どうしたのか参加せず、飛行第三十一戦隊と、第十三飛行団長の編隊のみの十四機

で出撃することになった。

 十月二十三日の午後、飛行第三十一戦隊は、久し振りというか? 長い長い、戦

力0の状況から、勇躍出撃いてゆくことになった。

 僅か十四機であるが、マバラカットの飛行場より、西進戦隊長機を先頭として、江

山六夫中佐の飛行団長の編隊を援護するように、編隊を組んで出撃してゆく様子は、

私の心の中に、例えようのない感慨があった。

 やっと、飛行第三十一戦隊の再建が出来たという思いで、一杯であった。

 さて、私も、フアブリカ基地に前進しなければならぬ。

 しかし、フアブリカ基地、または、ネグロス島のバゴロド基地群えの連絡機は、そう

容易に、見つかるものではない。

 私は、軍刀と、カバン一つを持って、何時でも、出発出来るようにして、クラ−ク、フィ

−ルドの第二師団司令部に通いつめた。

 一日、二日と、前進する事が出来なかったが、或る日多分十月三十日と考えるが、

タリサイ、サラビヤ基地にある偵察機戦隊の地上偵察機が、バゴロド、タリサイの第二

飛行師団の参謀を乗せた飛行機が、クラ−ク、フィ−ルド南飛行場にやって来て、この

飛行機に乗って来た参謀は、打合せのため、バゴロドに帰還しないため、この飛行機

の帰路は座席が空いていることが判ったので、私は強引に頼み込んで、司令部の許

可を得て、それに乗ることにした。

 この機は、日本陸軍飛行機でも、地上部隊に直接協力して、偵察や、砲兵の観測

に協力するものであるので、最も速力の遅いものであり、武装も、何もない、通信機の

みを載せた飛行機であった。

 クラ−ク、フィ−ルドを出発して、マニラ市の東を飛び、呂宋島を離れて、ネグロス島

に向うと、バゴロド、サラビヤ、タリサイの各基地は、タクロバン米軍基地からのP38戦

斗機の攻撃をうけつつあるので、フアブリカ基地に、直行する事になった。

 フアブリカ基地に着いて、飛行第三十一戦隊と、第十三飛行団はと、問うと、飛行第

三十一戦隊の飛行機は、現地にある戦隊に、全て引渡して、飛行団長と、西進戦隊長、

生き残りの操縦者は、バゴロド基地に行って、クラ−ク、フィ−ルドに、引返すことになっ

ているので、バゴロドに居る筈であるという。

 「何ということか?」

 僅か数日で、再び飛行第三十一戦隊は、出動機0になっていたのである。

 私は、返す言葉も無く、サラビヤ基地に行くという、クラ−ク、フィ−ルドから乗って

来た、直協機に乗って、サラビヤ基地に向った。

 軍偵察機隊は、サラビヤ基地の東側、シライ山の山麓側に指揮所があったので、

そこに着陸した。

 サラビヤ基地は、南北の滑走路で、西側には、明野飛行集団の進藤飛行団が、新

鋭のキ84戦斗機で、展開し、1800馬力、20o機関砲を持った大東亜決戦号と銘打

った戦斗機であり、日本陸軍の戦斗機の訓練学校として、最も勇猛を誇った明野戦斗

飛行集団である。

 特に、進藤飛行団長は、歴戦の戦斗機乗りで、進藤常エ門という本名であったが、

心臓すげ−えもんというように、勇名を馳せた人であった。

 私も、明野飛行学校で、面識があり、私の十三飛行団長江山六夫中佐とは、同期の

親交であった。

 私は、直協機隊の隊長に便乗させて頂いたお礼を云って、この指揮所を離れ、スタ

コラと、サラビヤの北側の道路を通って、西側に向った。

 滑走路の北方の端から、飛行場の北部に、数機のキ84戦斗機が、田圃の中に

している。

 これは、キ84戦斗機は、急激な馬力向上をはかり、二重クランクシャフト室になった

ため、潤滑油の循環が巧くゆかず、油圧低下を起こしたり、戦斗機であるために、急激

な発動機の始動と、出撃のために、一挙に回転数を、急激に高めて出動する事で、ク

ランクシャフト軸にあるベアリングに、大きな衝撃がかかって、ベアリングが割れてしま

う状況が起り、出撃の際、離陸直前直後に、大きな発動機故障を起こして、滑走路の

外れの大地に座してしまうことになったのである。

 私は、これらの座した飛行機の傍を通って、サラビヤ基地の西側の方に巡って行

った。

 折から、モロタイ米軍基地から、コンソリ、デ−デットB24の編隊が、十機程、サラビ

ヤ基地の爆撃に進入し始めていた。

 急遽、離陸して行った、キ84戦斗機4機が、このコンソリデ−デットB24の編隊の

邀撃に、急上昇して攻撃をかけると、見事、大きな機体のB24は、翼から火を吹いて、

次々にゆっくりと、墜落して行った。

 一機は、海え、一機は、シライ山の方に墜落し、残りの編隊も、二三機、火を噴き始

め、編隊を四散して、方向変換して、海上の方に逃げてゆき、執拗に追いかけていた、

84戦斗機は、全機無事帰って来た。

 私は、この状況を見ながら、ノコノコ、飛行場の西を走って、進藤飛行団長の居る

天幕に近づいて行った。

 この指揮所は、進藤飛行団長の居る天幕と、飛行隊の人々の居る天幕があり、そ

の天幕の西側に、弾痕を埋める砂利と、砂の山が点々と山盛りしてあった。

 そこに、第四航空軍司令官富永中将が、参謀一人と、憲兵下士官一人を連れて自

動車で馳せつけて来て、コンソリ、デ−デットB24の攻撃に対する美事な邀撃で、二

機も、撃墜し、残りを追い散らした、進藤飛行団の功績をたたえて、日本酒の瓶を賞め

てあたえていた。

 やった、やったといって、喜んでいたが、キ84戦斗機は、滑走路に次々に着陸して

来て、夫々の撃留地に戻って来たが、進藤飛行団の整備隊は、B24の爆撃を恐れて、

遠くに退避していたらしくて、仲々、飛行機の位置に帰って来ない。

 どうなることかと思っていたら、B24を攻撃した操縦者達が、指揮所に戻って来て、

軍司令官のお酒を頂いている頃、やっと、整備員が飛行機の方に帰って行った。

 軍司令官のお賞めの言葉があって、飛行隊は、次の哨戒飛行に移るべく飛行機の

方に散ってゆき、一番機が、燃料の補給を終って、出発線に移動を始め、二番機も移

動を始めた。

 一番機が、出発線に着かうと、方向を変えたとき、シライ山の方向から、P38戦斗機

が、十六機飛来して来て、出発線についている、一番機めがけて、対地射撃を始めた。

 あっという間もなく、一番機は、火を噴き、操縦者は、風房を開いて、機外に脱出した。

 一番機が出発線で火を噴いたので、勿論、二番機も、出発線に近づけないで、操縦

者は、飛行機を止めたまま、機外に飛び出して、何処かえ、逃げてしまった。

 他の飛行機も、発動機を始動したまま、プロペラは廻転しているのであるが、操縦者

が逃げてしまい、整備員も何処かえ行ってしまった。

 第四航空軍司令官は、参謀につれられて、眞青になりながら、ヒョコヒョコと、憲兵を

連れて、自動車に乗り何処かえ行ってしまった。

 指揮所には、前の天幕の前で、進藤飛行団長が白いワイシャツを着て、何やら攻撃

して来るP38や、整備隊員、飛行隊員にわめいているが、皆われ先きに、何処かえ逃

げてしまう。

 残ったのは、進藤飛行団長と、私のみになっている。

 進藤飛行団長は、天幕の外に飛び出して、両手を天に挙げて、何やらわめいている。

 P38米戦斗機は、邀撃して来る戦斗機の無いのを見定めると、百米程の低空に舞

降りて来て、地上にあるキ84戦斗機を、一機づつ、銃撃を始めた。

 南北に銃撃していたのが、東西に始め、低空50Mくらいの高さで、私の眼にも、米

軍の操縦者の顔がはっきり判る高さである。

 私は思はず、進藤飛行団長を連れて、天幕の西側に置いてある砂利と砂の山の蔭

に入った。

 二人で、一つの山に入れぬので、進藤中佐と、私で、約五米程離れた小山の蔭に

入った。

 地上からの対空射撃も何もない。

 高射砲も、機関砲銃座もあるのであるが、全く沈黙を守っている中に、私と進藤飛

行団長だけが残っている状況である。

 随分長い間のようであったが、P38の攻撃は約十五分程であったと思うが、正に

縦横に、銃撃して、北方の海上の方に、悠々編隊を組んで引揚げて行った。

 約四十機あった、キ84戦斗機の半数以上が、損害を受けたであらう。

 火災を起こしたものだけで、四〜五機はあった。

 P38米戦斗機隊の編隊の消えてゆくのを見送って、砂利、砂の山蔭から、進藤飛

行団長と、私は、やっと体を起こして、天幕に戻ったら、天幕の中には、第四航空司令

官の持ってきた祝杯のコップが、酒を注いだまま放置してあったのを、進藤飛行団長が

とりあげて、私の方に出し、彼も、もう一つのコップをとりあげて、二人で、その酒を一気

に呑み欲して、乾杯したら、進藤飛行団長が、

「やあ−、杉山、久し振りだったなあ−。」

と、照れ笑いのようにして、私の手を握った。

 私も、

「やあ−、進藤さん!

 久し振りでしたな−。」

と、いうと、

「杉山、貴様は、偉いぞ、

 とうとう、最後まで逃げなかったな!」

と、いう。

「いや−、

 進藤さん、

 久し振りに、貴方のお元気な指揮振りを、拝見しました。」

と、いうと、進藤さんは、天を仰いで、大笑いした。

 私と、進藤飛行団長とは、三重県、明野飛行学校で、喧嘩というのでないが、大激

論をしたことがあった。

 進藤飛行団長と、明野飛行学校長、青木武三少将を向うに廻して、私は戦斗機隊

の整備について、明野飛行学校のやり方を批判したことで、天下の明野飛行学校に

文句をつけたのは、私が初めてということで、大議論になったことがある。

 私は、戦斗機隊の整備は、明野学校のような、大学出のヒョロ、ヒョロでは、実戦

に役に立たない。

 我々研修に来たものが、明野の隼戦斗機を飛行しているのだと云ったことが、彼

等の気にさわったのであった。

 戦斗機隊の整備の成果は、今日の戦斗状況で云うと、もう三十秒も、整備隊の対

応が早く、コンソリデ−デットB24の邀撃から帰って来る飛行機に対して、またB24の

攻撃に逃げないで、頑張っていたら、P38の攻撃に対しても、たら、たらづくしの問題

があった。 一番機が離陸していたら、こうも、傍雀無尽に、P38米戦斗機の攻撃を

受けないで済んだであらう。

 飛行機の分散と、敵の攻撃に対応する準備も出来ていない状況で、キ84戦隊は、

殆ど全滅状況になっていた。

 私達二人が飛行場で、大笑いしている声に、様子に、元気がでたのか?

 整備隊員が西の方の壕から出て来た。

 整備隊長は、大学出の予備将校であって、まだ顔がひこきつって、青い顔色して

いたが、進藤飛行団長から

「何をしていたかっ!」

と、一喝を喰っていた。

 天幕の前の一機が、まだ、カラカラと低回転で、プロペラが廻っているのを、やっと

止めていた。

 私は、その様子を見て、進藤飛行団長に別れを告げて、タリサイ町の飛行第二師

団司令部にゆき、第十三飛行団長と、飛行第三十一戦隊長西進少佐の宿舎を尋ね、

その宿舎に行った。

 二人の顔を見るなり、私は、

「一体、どうしたのですか?」

と、聞くと、十月二十八日出撃して行って、タクロバン上空で、坂梨稔軍曹、田口寛

軍曹の二人を失い、戦死させ、戦隊の飛行機も、多く被弾が出て、それらの飛行機を、

ファブリカの他の部隊に譲って、これから、又、クラ−ク、フィ−ルドに、マバラカット基

地に帰って、出直すのであるという。

 私もうんざりしたが、万止むを得ぬ。

 一緒に同行して、輸送機に乗り、マバラカットに、翌日引返した。

 

6、戦隊再生

 昭和十九年九月十二日十三日、米海軍58機動部隊と、眞正面から邀撃して、一

矢を酬いて、殆どの将校を戦死させて潰れた、飛行第三十一戦隊は、日本より、新造

の飛行機を受領して帰って来た、西戦隊長を迎えて、愈々、再生えの息吹きを起こし

始めた。

 飛行第二師団えの隼戦斗機の補給は、九月二十日以降、キ43(一式戦)二型、

16機、三型、33機というニュ−スを得た。

 愈々、飛行機の補給が始まる。

 それと同時に、部品の補給も始まる。

 私の比島戦整備記録に青鉛筆で、

 「明日、部品が来る」

 と、明確に書いてある。

 しかし、私の心からの期待とうらはらに、師団司令部から出た、命令は、九月二十

九日、アンヘレス北飛行場に居た、飛行第三十一戦隊の飛行機は、十七機あったが、

その内の十一機は、他部隊え補給、譲渡することになった。

 ネグロス島基地群に出撃する他の部隊の第一線え渡すことになったのである。

 また、飛行第三十一戦隊は、オンボロ二型の隼戦斗機、六機のみに戻ってしまった。

 その六機も、大破一機、中破一機、故障四機であって、飛べる飛行機は、一機も無

い状況である。

 フアブリカの基地に残置した、飛行機は、十一機あったが、58機動部隊との交戦で、

破損した飛行機は、完成六機あり、完成近いのが、五機あった。

 この飛行機が欲しいと思ったが、フアブリカ基地に残置温存する事になっているの

で、クラ−ク、フィ−ルドのアンヘレス北飛行場では、何とか、補給機を獲得するより

外は無い。

 長い、長い、司令部作戦室の「戦力0」という文字から脱出しなければならぬ。

 私が、九月二十九日から、十月四日の間に、どうして、故障した使用不可能の六

機から、出動可能機、十八機に充実して行ったのか、私の比島戦の記録にも、記憶

にも、全く残っていない。

 しかし、私の比島戦整備日誌によると、十月四日に記録したものによると、十八機、

戦斗機編隊六機の三隊が完成している。

 飛行隊は、戦隊長西進少佐、寺田慶三中尉の外、飛行第三十戦隊に行っていた、

原正生大尉が復帰して来て、実動員十九名、合計二十四名になっていた。

 整備隊は、メナド地区え前進していた市川中尉、遠藤少尉等が来て、五十五名に

なり、初年兵十名の補充を受け、その外、飛行第十一戦隊の残置隊、三十一名の協

力を得た。 この外、第五十二独立整備隊が展開して、修理に協力することになった。

 飛行第三十一戦隊は、戦力0状況で苦しんだ、アンヘレス北飛行場より、マバラカ

ット飛行場に、移転する事になった。

 十月五日、私は、マバラカット飛行場を改めて、偵察しに行っている。

 マバラカット飛行場は、海軍の第二十六航空戦隊(マニラ)が使用していて、隊長

は、松元大尉で(第201航空隊)であるという。

 現在約20機程度が使用していた。

 後に、戦斗第311航空隊、三十二機、補給用十六機、合計四十八機になる予定

であるという。

 編成としては、分隊長二名、整備分隊長1名、兵器分隊長1名(装備)関係がある

ということであった。

 隊長は、小佐大尉であるということであった。

 第一航空艦隊は、第二六航空戦隊と、第六十一航空戦隊で、構成されていると

いう。

 海軍航空隊は、マバラカット飛行場全部を使用することになっていたが、海軍と協

定して、マバラカット飛行場の東南地域を、飛行第三十一戦隊が使用することにした。

 マバラカットの飛行場の東南の地域に、ちょこんと、飛行第三十一戦隊のオンボロ

飛行機六機を、飛行場の薮の中に匿して、出発した。

 戦隊の整備隊から、必然的に、私え飛行第三十一戦隊は、何時、再建出来るの

かという質問が集中した。

 彼等にしては、敵の空襲、銃爆撃の中で、必死に整備しているのに、自分の戦隊

のものにならないで、折角精魂篭めて整備したものが、アッサリ、他部隊のものなっ

てゆくのは、誠に口惜しかったであらう。

 彼等には、第十三飛行団「戦力0」という、第二師団司令部作戦本部の黒板に書

かれている状況は、知らせてなかった。

 知らせても、せんない事であった。

 必然的に、整備隊のみならず、飛行隊のものまで、志気に影響が生れ、皆殺気

だって来た。

 米海軍の機動部隊の攻撃は、二〜三日の間隙はあったが、どれだけの空母群が

るのか、毎日のように間断なく攻撃がやって来る。

 マバラカットの飛行場で、オカシナ事であるが、海軍の0戦斗機、艦上爆撃機等が

配列されていたが、彼等は、航空母艦の甲板上のように並べて、飛行機を置くので、

米海軍機の集中攻撃を受ける。

 このため、海軍の飛行場のみ損害があって、私の戦隊の飛行機は、少しも攻撃を

受けない。

 遂に、海軍から、飛行機の匿し方を教えろと申して来たので、樹の蔭や、竹林の

蔭を利用して、太陽の影を考えて、飛行機の形状が判らぬように偽装する事を教え

たが、どうも海軍の人々には納得がゆかなかったようである。

 マバラカット飛行場に移って間もなくであったが、私は、マバラカットの町の中にあ

る戦隊本部で飛行機の補給の連絡を受けているとき、米軍の攻撃があって、マバラ

カット飛行場に、米海軍の艦爆が急降下して行って、飛行場から大爆発が起こった。

 私は、急遽、軍刀を帯び、飛行場に、飛んで行った。

 リンガエン湾えマニラから来る本街道から、マバラカット飛行場に、右え入ると、海

軍機が、数機炎上しつつある。

 その飛行機の撃留してある地域の広場の眞中に、水牛が、牛車を引いたまま、

横倒しになっている。

 水牛は、体は横倒しのまま、首だけをあげて、大きな悲鳴の泣声をあげて、うめい

ている。

 良く見ると、爆弾の破片で、腹部を切り裂れたようになっていて、肝が大地に噴き

出したように出て、血塗れになっている。

 その横に、フィリッピン人の若者が、仰向けに倒れていて、眼をむいたまま絶命し

ている。

 見ると、左足が、大腿部から、ボッキリともぎとられてしまっていた。

 出血多量もあるが、爆風ショックを受けて、倒れたままなのであらうか?

 もぎとられた、下肢は、どこかに吹き飛んだのであらうか?

 黒い大地に、血液がよどみをつくっている中に、大腿骨が白く出ているのが無気

味である。

 血液の臭いのするところ通って、飛行場大隊の指揮所のところえ進んでゆくと、倒

れた水牛が、地面から首をあげて、断末魔の叫びをあげて、救いを求めるようであった。

 指揮所から、その水牛の叫びに気がついたのであらうか?

 壕の中から、一人の下士官が首を出して、私を見つけた。

 すぐ首をひっこめたら、一人の見習士官が壕の中から飛びだして、

「大尉殿−、

 危い!

 時限爆弾が落ちていますから!

 何時、爆発するか判りません!

 退避して下さあ−い!」

と、叫ぶ。

 私は、手を挙げて、

「判った。

 お前等は、無事だったかっ!」

と、云うと、

「はい、無事でした。

 大尉殿、危いから、すぐ、退避して下さい。」

と、云う。

 私が、笑顔で、

「心配するな、俺は、大丈夫だっ!」

と、云うと、やっと、彼等も、人心地がついたような、顔になった。

 初めての空襲で、気が転倒したのであたうが、多分、米軍の爆撃は、延期信管でも

ついて、時限爆弾のような気がしたのであらう。

 爆弾の弾痕を見ても、大して、多くの爆弾が落ちた様子はなかった。

 指揮所の傍を通って、飛行場の東南地区の飛行第三十一戦隊の飛行機を撃留して

ある地区に行って見たら、掩体の中にある、海軍の艦爆機が、見事に直撃を受けたの

であらうか、粉砕されて、炎上していたが、その傍に、十米程離して、偽装綱を被せた

だけの、隼戦斗機には、何んの損傷も受けてなかった。

 大声で、

「誰か居るかっ! 」

と、叫んでも、誰も、応じるものは無い。

 滑走路を北に横切って、飛行第三十一戦隊の新しく補給を受けた飛行機の撃留地

域に行って見た。

 人、一人、姿が見えぬ。

 薮蔭に匿した、隼戦斗機は、全部無事で、薮の群の空地に、一発、爆弾の弾痕が

あった。

 私は、その弾痕のところに立って、再び、大声で、

「飛行第三十一戦隊のものは、誰か居ないか!」と、叫んだら、武装の係の久保見習

士官が、遥か向うの竹薮の蔭から、走り出て来た。

 彼は、私に敬礼をして、

「久保見習士官以下、整備員、全部、異常はありません。」

と、報告をした。

 彼の顔は、走って来たために息ははずませていたが、顔は、眞青にひきつっていた。

「よ−し、判った。

 整備隊のものを、呼んで来い。

 もう!大丈夫だ。

 大分、やられたようだったな!」

と、いうと、

「いや、隊長!

 米軍の奴、我々の方に、集中攻撃して来ました。

 いや、ひどかったのなんて、いうものでありませんでした。」

と、いうので、私は、

「オ−、そうだったか?

 集中攻撃して来たということであると、あまり、弾痕が無いようだが、一つ弾痕を探し

て見ろ。」

と、私が云うと、彼は、キョロ、キョロ、あたりを見廻して、あちらこちらと走り廻っていた

が、

「隊長!

 どうも、弾痕は、一発だけのようです。」

と、いう。

「そうだ、弾痕は、一発だけしか無い。

 集中攻撃ということであれば、何十発かの弾痕がある筈であらう。

 海軍側は、向う側で、まあ十発くらい喰ったようであるが、集中攻撃では無い。

 実際の戦斗というものは、そんなものである。

 貴様も、今日、初めて、敵弾を喰ったので、自分を狙い撃ちして来たように思ったで

あらうが、まあ、この弾痕は、狙ったものでなくて、下手糞が狂うて、あやまって落

としたものであらう。

 敵も、空中で、ひやひやしながら、夢中でやっているので、こちらが冷静に撃ち返す

と、向こうが集中攻撃を受けたように思うだらう。

 戦争、戦斗というものは、そのようにお互いが思うものである。

 しかし、そこに、恐怖を耐えて、克服して、立ち直って、初めて、戦機というものが

判り、勝つことが出来るのである。

 一発でも喰ったら、おしまいなのだから、それは、機敏に逃げねばならぬ。

 それがすんだら、どう出るかで、勝負は決まるのだ。

 戦斗機隊の整備は、攻撃されたら、攻撃されたとき、如何に被害を少なくして、敵

 の攻撃が済んだら、すぐ一刻も早く、やり返すことが必要なのだ。

 良く覚えて置くと良い。」

と、話している内に、彼の顔に、血色があがって来た。

 海軍の方には、相当数の損害が出たようであった。

 私の方には、全く被害が無かった。

 飛行第三十一戦隊は、猛烈な戦斗訓練を始めた。

 このため、故障機が続出して、十月十日には、出動可能機は、一機になってしまった。

 九月二十五日頃、戦隊の大部分の飛行機が炎上して、僅かに故障機二機のみと

なったときに比べて、保有機は十機前後となっているが、いくら良い飛行機を整備して

も、その殆どが、他部隊え譲らねばならぬことになってしまった事から来る、整備員の

人々の心の中に、他部隊にやってしまうことになるのであれば、努力しても、せんない

事になるという気分が、何処かにあるために、精魂こめて、飛行機を整備することに、

手抜かりが生まれるのであらう。

 また、約一ヶ月以上も、毎日のような空襲の中での整備において、緊張も、集中力

も、長く続くものではない。

 何処かで、緊張が、ぷつんと切れるときが来るものである。

 この状況が、故障機続出ということになって来た。

 この事は、技術面からいうと、熱帯地域で、露天に曝露して、長期撃留していると、

飛行機の燃料タンクや、その他に、露が出来て来て、タンク、燃料系統の中に、水溜り

が出来て来る。

 また、電気系統の絶縁状況が悪くなる。

 これらの累積したものが、故障として、出て来る。

 私は、全機に、水抜き作業をやらせ、整備員に、休養の日を与えることにした。

 彼等は、休暇といっても、外出するところがないので、思い思いに、体を休める方法

をとらせる事にした。

 さて、比島周辺の戦況は、次第に緊迫して来た。

 米軍の大船団が、ニュギニヤのホ−ランジア、や、ビアク地区に集結していることが

明らかになった。

 それらは、比島の何処かえ出発した。

 既に、ハルマヘラ島、モロタイ島には、米軍が上陸し、日本群の第四航空軍、第二

師団は、米海軍58機動部隊の比島地区各航空基地えの攻撃で、パニック状況になり、

引揚げたあとであるので、殆ど抵抗らしいものを受けず、基地建設を進めて、P38戦斗

機や、B24、コンソリデ−デット重爆の基地が出来ていて、メナド地区のみならず、南

比島群島のダバオ、デルモンテ、カガヤン基地の長距離爆撃が始まっていた。

 愈々、このニュ−ギニア地区の各基地に結集した、米軍の大船団が、多分、比島地

区に上陸を敢行することが予想され、日本軍の方も、捷号の大作戦命令が発せられる

ことになった。

 米軍の上陸を如何に防ぐかが、比島における、日米の決戦場としての動きが始まっ

たのである。

 そこに、米海軍の機動部隊による台湾地区えの航空撃滅戦が行はれた。

 しかし、日本軍は、米海軍、第58機動部隊との交戦において、空中戦での不利を

充分知っていたので、正に必殺体当りの戦術が、大本営でも、認められ、米航空母艦、

戦艦に対する直接攻撃の方法が考慮され、多くの特別攻撃部隊が、準備されていた。

 海軍は、既に、零戦斗機に、二百sの爆弾を吊って、体当たりする戦法が行はれて

いた。

 陸軍では、隼機による、特攻部隊が、編成され始めていた。

 特に、日本陸軍の最新鋭爆撃機、キ87においては、全ての爆弾装備や、機関砲

装備を除去してしまって、飛行機の胴体内に、約二屯の、最も危険な、黄那薬という、

非常に鋭敏にして、爆発力の強い爆薬が充填、搭載されて、機首に、電気信管を突

出させて、少しでも、これに触れたら、瞬間にして爆発する特攻機で、操縦者一人で、

攻撃する、これを、富嶽隊と呼ばれるようになっていた。

 この爆撃は、米国のT.N.Tより、爆発力の強いものであった。

 この富嶽隊は、重爆撃機隊の精鋭が、自ら志願して、搭載していた。

 キ84は、三菱で作られた、最新鋭の重爆撃機で、発動機は、1500馬力二基で、

速度も早いし、また、極めて、操縦性の良い飛行機であった。

 これらの富嶽隊が、台湾に配属されているところに、米海軍機動部隊が、攻撃を

かけて来たので、台湾の航空部隊は、海軍は勿論、陸軍を挙げて、この機動部隊を

攻撃したことで、米軍の機動部隊は、十月十二日〜十月十三日の間に、殆ど潰滅的

な打撃を受けて、ニュギニヤ方面から出動して来る、米軍の上陸部隊の船団を掩護

する機動部隊と合流すべく、西太平洋上を、台湾沖から、比島の呂宋島沖え南下して

来た。この敗残の米機動部隊を攻撃する事と、ニュギニヤからの上陸船団に攻撃する

ため、マバラカットの基地に、海軍の零戦や艦爆機群が集結し始めた。

 日本海軍も、歴戦の零戦斗機隊の勇士は、殆ど、ガダルカナル島、ブ−ゲンビル群

島、ラバ−ル群島の戦斗で、戦死してしまって、その生き残りが、指揮しているのであら

うか?

 マバラマカット基地に、約五十余機、零戦が飛行して来たが、航空母艦上に着陸する

要領で着陸するので、地上の滑走路は、抵抗が大きいことと、母艦の甲板では、鉤で、

滑走を止めるのであるが、飛行場ではそれが無いので、機体をひねって、急ブレ−キを

かけるためか?脚を折って、二機、三機と、飛行第三十一戦隊の指揮所の滑走路の傍

に、座してしまった。

 そのような、0戦の機体は、滑走路から僅か五、六米のところにあって、これは、クレ

−ン車をもって来るか、また、機体を何かで持ちあげないと、運搬が出来ないまま、放置

してあった。

 いやはや、荒っぽい着陸で、私も、飛行隊の人々も、目を見張って、呆れていた。

 十月十五日、この海軍の航空隊と協同して、第十三飛行団は、南下する米機動部隊

の敗走するものに、攻撃をかけるため、出動する事になった。

 攻撃隊の指揮は、比島捷号航空作戦記によると、飛行第三十戦隊長が行い、この

攻撃から帰投するのを掩護する上空警戒隊は、飛行第三十一戦隊長の西進少佐が

指揮する事になっていたが、実際は、飛行第三十戦隊の佐藤少佐は出動せず、原正

生大尉が指揮して、出撃して行った。

 第三十戦隊も、第三十一戦隊も、出動出来る機数は極めて少なかった。

 補給受けた新鋭機は、三回に亘って、第一線部隊に譲らねばなかったので、残った

飛行機は、旧式の二形隼機が大部分であったからであった。

 飛行第三十戦隊から四機と、飛行第三十一戦隊から六機、出撃して行ったが、第三

十戦隊の二機と、第三十一戦隊の二機が、故障で途中で引返えしてしまったので、戦

場に行ったのは、僅かに六機であった。

 主航空戦は、海軍の零戦部隊が攻撃したので、十三飛行団の編隊の戦斗は、大し

た事がなく、残存のグラマン機を二機撃墜破したと云っていた。

 海上には、沈められた米海軍の将兵が、まるで、カボチャか、水瓜のように、無数に

浮かんでいたと、原大尉は私に話していた。

 そして、彼は、私に嘆いた。

「杉山さん、

 もっと、飛行機を整備して下さいよ。

 途中で、ポロポロ、引返されては、心細くなりますよ!

 飛行機の機数の多いのは、戦力ですよ。」

と、いわれて、私は一言も無かった。

 飛行機は、九月以来というより、満州を出てから、一回もオーバーホールという、全

機体と、発動機等の大点検、修理をしないまま、次々に出撃、訓練演習をやって来て

いたので、飛行第三十一戦隊で、出撃して行った、伊藤曹長(後准尉)の飛行機は、

潤滑油の発動機についているパイプが、疲労で破損して、不時着陸した事故があった。

 伊藤機のみならず、殆どの飛行機が、疲労している状況であった。

 私自身、原大尉からいわれるまでもなく、日夜努力しているのであるが、限界の近

づいている飛行機は、色々の故障が起こって来る。

 徹底的に、燃料タンクから何もかも、点検して、洗い直さねばならなかった。

 さて、台湾沖の攻撃で敗残した米機動部隊えの攻撃に出撃して行った後、飛行第

三十一戦隊の旧型の隼戦斗機で帰還する出撃隊を掩護する編隊が出発した。

 飛行第三十一戦隊のオンボロ戦斗機六機である。

 最初の四機が離陸して行ったあと、残りの二機が、出発した。

 先頭機の右側の二番機が、滑走路を走っているときに、右側の車輪に、爆弾の破

片を踏みつけたか?

 突然、二番機が、右側に外れて走り、やっと離陸して、車輪を胴体内に畳んだと思っ

たら、右翼に吊ってある落下タンクを、滑走路の傍に座している0戦のアンテナの支

柱にひっかけてしまった。

 落下タンクは、飛行機のスピ−ドで、正面が、眞二つに割れて、洩れたガソリンに、

全速で走っていて、全回転している発動機の排気の焔で発火し、火を吹いたまま、飛

行機は宙を舞って、半廻転して、右翼を地面につけ、その衝撃で、機体は、空中に飛

びあがり、飛行第三十一戦隊の指揮所の前に、デ−ンと落ちて来た。

 飛行機は、幸に、脚を折った形で、平に、操縦席を上にして、大地の上に座した

形になったが、右翼の落下タンクも、割れて、溢れたガソリンに火がつき、飛行機は、

火炎に包まれてしまった。

 操縦者は、火炎に包まれたまま、座席の中で、気絶して、うつむいている。

 このままでは、焼け死んでしまうので、私はとっさに、火炎の中をくぐって、翼の上に

飛びあがり、操縦席の風房を開いて、操縦者の肩を叩いて、彼の身体の前の落下傘

帯の止金を外した。

 操縦者は、気がついて、立ちあがったので燃えあがる炎に顔をあぶられて、その熱

さに狂乱状況になってしまった。

 逃れようとするのであるが、落下傘帯の止金ははずしたが、落下傘を開くための紐

が、床の上の座席のフック(鉤)にかかっていて、自由に動けぬのでもがいていた。

 私は、そのフックを外そうと、座席の中の上半身を入れて、そのフックを外したとき、

突然、発動機の方に廻った火炎が、座席の計器板の下から吹き出して来て、私の顔

の右側半面を焔で吹いた。

 私は、一瞬視力を失ってしまって、慌てて座席から飛び出した。

 操縦者は、落下傘の止金を外してあるのであるが、落下傘の帯を肩から外すことを

しないで、四周から来る炎の中に、立ちあがりもがいていた。

 井出衛生軍曹は、私が、飛行機から飛びだしたのを見て、すぐ炎の中に入り、操縦

席から操縦者を、飛行機の翼の上に引きずり出した。

 おかしなことに、操縦者は、気が転倒しているのか、翼の上に出たのに、翼の上で、

ただ手足をバタつかせているだけで、立ちあがって、炎の外に出ようとしない。

 私も、ようやく眼が見えるようになったので、再び炎の中に飛び込むと、井出軍曹も

飛び込んで来て、二人でようやく、操縦者を助けて、指揮所の掩体の中に逃げ込んだ

とき、隼戦斗機の燃料タンクに火が入って、瞬間に爆発し、大きな炎と黒煙があがり、

積んである機関砲弾が、破裂して、弾が四方に飛散り始めた。

 いやはや、思いがけない事故であった。

 操縦者は、中谷軍曹で、大した火傷も受けていなかったが、私は顔の右半分、完

全に皮膚が焼けただれてしまっていた。

 道化師のように、顔半分、眞白に、軟膏を塗って、作戦任務に着くことになった。

 西戦隊長に、再び進言して、全機を総点検し、燃料タンク、その他を、全部清浄す

ると共に、整備隊に休養を与えて頂くことにした。

 考えてみると、六月満州嫩江基地を出発して以来、約半年間、一日も、休養をし

た日が無かったのであった。

 

7、特攻隊志願

 昭和十九年十月十五日、二回目のレイテえの出撃で潰滅した飛行第三十一戦隊

は、マラバカットに、十一月初旬戻り、参度目の戦隊再々建に着手した。

 第一回目のフアブリカ基地での、邀撃で、戦隊の将校の殆どを失い、戦隊長と、

寺田中尉のみになっていた、飛行隊は、新鋭の陸士57期生を三名迎え、また、下士

官も人々も、訓練が充実して、気力に満ちた部隊になって行った。

 毎日、マバラカット基地での訓練は、米軍の攻撃の間を縫うようにして続けられ、

飛行機も、三型の隼機のみとなり、馬力が僅かであるが向上しているので、俊敏さが

加わった。

 十五日になると、戦場の保有機数は、二十五機に増加し、マバラカット基地周辺の

樹蔭、竹林蔭に匿すのが、やっとの状況になって、来た。

 日本海軍のレイテ沖海戦は、遂に失敗に終り、多くの戦艦、その他を失って、不沈

艦といわれた武蔵も、呂宋島の南海域に、米軍の攻撃で、撃沈されてしまっていた。

 しかし、現地の我々には、このような無惨な状況は、全く知らせれていない。

 日本の海軍と陸軍と、如何なる協同作戦になっているのかも、我々は知る由もなか

ったのである。

 日本陸軍の我々は、九月十日前後、海軍情報が、ダバオ上陸を知らせ、パニック

状況になったことが、僅か一週間足らずで、誤報であったことにおいて、日本の海軍

を信ずるに足らないという気風が生まれていた。

 事実、日本海軍の、第一航空艦隊、第二航空艦隊という名称は存在したが、事実

は、空母も何もなく、呂宋の陸上基地を根拠地とし、航空艦隊司令部、長官は、マニ

ラにあった。

 ミッドウエ−海戦の失敗以来、日本海軍は航空海戦を行う、空母や戦艦群を失っ

ていて、眞面目の海戦を行う能力も、力も無かったようである。

 この様な実態は、我々には知らされていなかったが、私は、大体の想像がついて

いた。 そこに、レイテ総攻撃計画が、海軍の海戦から約、半月遅れて行はれること

になって来た。

 これは、海軍の犠牲において、米軍に大損害を与えて、その間に、兵員、部隊の

輸送と、レイテ島えの上陸を容易にして、米軍の狼狽に乗じ、一挙に、米軍を潰滅さ

せる計画であったように思はれる。

 しかし、この計画は、予定の如くならなかった。

 それは、敢えて、栗田艦隊、長官の栗田中尉の責任のみでないように考える。

 今、作戦の失敗は、栗田艦隊の早期反転に全ての責任を負はせている形にな

っているように思はれるが、実際は、近代戦そのもの、世界戦略そのものにおいて、

日本全体が、思いあがっていたし、その点で盲目になって、事実を認められないよ

うになり、判断を失ってしまっていたように考える。

 これは、国家として、最も忌むべき、避けるべきことであり、亡国えの道であると

云えよう。

 それは、単に比島戦全体、レイテ島の戦斗、作戦のみではない。

 比島、レイテ作戦を、捷号作戦と称した事において、日米の眞面目の会戦の様

相を持っていた。

 しかし、通信、兵器、補給、技術、生産力、政治家の素養のみならず、軍人でも、

本質的欠陥をもっているものが、レイテ作戦で、具体化して行ったように考える。

 この意味で、私は、この比島戦を、軍人としての、私の生涯の死に場所として

考えていたし、昭和十七年以来、陸軍航空技術学校における、戦争停止運動や、

東条暗殺計画等が失敗に終わったときから、覚悟し決意していた。

 栄光ある日本陸軍の軍人、将校として、このような不利の状況の中で、何処ま

で戦えるか?出来る限りの事をして、戦死しても悔いは無いし、本望と考えていた。

 しかし、部下の人々や、若い人々には、この戦争の経験を生かして、良い日本

をつくって貰いたいと切に願っていた。

 万止むなく戦死することがあっても、無駄死をさせてはならぬと考えていた。

 そのためには、出来る限りの努力をしてゆきたいと思った。

 マバラカット基地からの今度三回目のフアブリカ基地えの前進は、愈々、飛行

第三十一戦隊として、最後の戦斗、作戦になるであらうことを予測された。

 米軍は、日本海軍をレイテ沖海戦で、撃滅撃退し得たことで、再び、比島各地

えの機動部隊からの海軍機の攻撃が活発になり、呂宋島のマニラ周辺各基地、

クラ−ク、フィ−ルド各基地えの空襲がつづいた。

 日本軍側も、日本国内からは勿論の事であるが、満州、中国、南方各地域から

の飛行戦隊が、陸軍のレイテ総攻撃作戦を目ざして、比島に集中して来ていたこと

で、連日、比島の空に、日米両国戦斗機の空中戦が行はれていた。

 マバラカット基地の周辺にも、各機種の戦隊が居て、米海軍のグラマンF6F戦

斗機に、腕に覚えのあるパイロット達が、挑戦し、空中戦を演じていた。

 しかし、性能にすぐれ、しかも、防弾装置も完備して、武装も三倍近い火力のある、

グラマンF6Fには、到底太刀打ちは出来ない状況であった。

 或る日、日本内地から、防空戦斗用につくられた、キ44、鐘鬼と名称される戦斗

機群が、クラ−ク、フィ−ルド周辺に進出して来て、グラマン、F6Fに空中戦を挑んだ

が、上空5000米から低空50米に亘る、大空中戦を行って、壮絶なものであったが、

しかし、グラマン、F6Fの性能には及ばなかったのであらうか?

 グラマン、F6Fに追尾されて、全速で低空に逃げたけれども、逃げられず、マバラ

カット東北の大地に撃突して炎上したのを、目の前に見た。

 飛行第三十一戦隊は、このような戦斗機には加はらず、専ら飛行機の整備に集

中した。 マバラカット基地にも、米軍の空襲があったが、それは、海軍機に対しての

攻撃で、不思議にも、我が戦隊の飛行機には、損害が無かった。

 十一月二十日をすぎて、遂に、飛行第三十一戦隊の出動可能機が二十四機に

なった。

 六機編隊の中隊が、四個編隊出来ることになった訳である。

 本来の各中隊十二機、戦隊で三十六機の姿には程遠いが、しかし、三回全滅し

た部隊が、遂に、半分の姿であるが、三個中隊の編隊が出来ることになった。

 愈々、飛行第三十一戦隊に対して、比島に来て、第三回目の出撃の命令が下った。

 レイテ総攻撃の参加である。

 昭和十九年十一月二十三日、マバラカット飛行場を出発して、ネグロス島のフアブ

リカ基地に向うことになった。

 フアブリカ基地では、九月十四日以来、飛行第三十一戦隊の整備員は、自分の

戦隊の飛行機を整備する事なく、他部隊のレイテ島えの攻撃参加に協力したことで、

非常に苦しい、地味な戦斗参加であったことと思う。

 晴れて、自分の戦隊の飛行機を迎えることになって、どんな気持ちでいるかと、

私も、自分で、心の踊る気がした。

 戦隊長は、出発の決まった、十一月二十三日の前日に、第二飛行師団長から、

飛行団長江山六夫中佐と司令部に招かれて、特別の激励の言葉と、日本酒、白鹿

一本を頂いて帰って来た。

 その夜、新しい出撃を祝うことと、残置されるものとの、別離のための宴を、ささや

かながら、マバラカットの街にあった、宿舎のニッパハウスの食堂で開くことになった。

 集まったのは、飛行隊全員と、整備の将校と、軍医、経理の将校のみであり、末

席の方に、特別操縦見習士官出身の人々が居た。

 彼等は、随分機会を与えて、飛行訓練をしたのであるが、米軍の空襲下に、単独

飛行がようやく出来る程度になって来たばかりで、また編隊、空中戦斗訓練までには

及んでいなかったのである。

 我々の気持ちとしては、私達は、職業軍人であり、軍人として志願したときから、

生死は度外視して来た身である。

 そのための職業軍人である。

 比島の戦いのみならず、この第二次大戦そのものが、最初から勝算のない戦争

であることは、私には、判っていた。

 私以外のものにも、航空に関係するものには、薄々は判っていた筈である。

 それが、比島での眞面目の戦いになって、飛行機の性能、通信連絡、作戦指揮、

判断等、米軍と格段の差異があることを、目前に、また、自ら身をもって、体験して来

ていることは、明かであった。

 我々は、それを知った上で、軍人として、最後の戦いをしているのであった。

 軍人ということになっていることで、職業軍人であらうとか、或は、召集を受けた、

特別操縦見習士官であることにおいては、変りはないということも云えるであらう。

 同じ日本人である。

 しかし、私達は、彼等を残置する事にした。

 何故か?

 レイテ島での戦いは、日米双方死力を尽くしあらゆる術を尽くして戦っているので、

まだ、戦斗訓練も充分でない彼等を連れてゆけない。

 また、連れて行く飛行機も無かったのである。

 57キ生の門馬中尉が比島に来て、猛烈な環境のため、デング熱になって、残置

される事になった。

 それで、彼等と共に、引続いて、飛行訓練をつづける事になっていた。

 午後五時三十分、全員集合終り、夕陽の斜光の入るニッパハウスのテ−ブルの上

で、茶碗と、椰子の実の殻のカップについだ、御飯と汁のみの、夕食会である。

 全員毎日、比島の太陽の下で、戦って来ているので、眞黒に焼け、頬には、髪が

伸びていた。

 西戦隊長は、本来、あまり肥った方でもなく、小柄の体格の人であったが、出撃と

いうので、どうにか頭の髪は、短く切ってあったが頬は、こけてしまっていた。

 しかし、全員、斗志だけは、すさまじいものがあり、眼がきらめいていた。

 飛行隊、整備隊の将校、戦隊本部付将校の全員が着席した状況を見た、西戦隊

長は、やおら立ちあがり、

「飛行第二師団長より、明日、フアブリカ基地に前進し、レイテ総攻撃に参加すべき

命令を受けたことを告げ、このレイテの総攻撃の成果如何は、恐らく日本の運命

を決することになるであらう。

 飛行第三十一戦隊は、再度の再建の上、三度、フアブリカに前進し、このレイテ

総攻撃に全力を尽くして、努力し、戦勝えの道を拓きたい。」

と、いった趣旨の開宴の言葉を述べた。

 そして、更に、

「残置隊のものも、一日も早く、戦隊に参加する日を待っている。

 戦況は、必ずしも、日本に有利では無いし、米軍の飛行機のみならず、あらゆる

面において、あなどり難い状況である。

 このことは、我が戦隊は、既に充分体験していることであるので、最後の決戦を

挑むことになるであらう。

 お互の健斗を祈って、この宴を開くことにする。」

と、いう言葉を述べ、師団長から頂いた、日本酒の栓を抜いて、各人の茶碗に分

配し、一同起立して、

「天皇の??!

 武運長久!」

を祈って、と称して、一斉に乾杯した。

 その飲み欲した茶碗が机に置く音が、カタ、カタと高く響いてき、一同が、ガタ、ガ

タと、席に腰を下したとき、末席の方に居た、特別操縦見習士官のものが、お互いに

眼くばせをしていたと思ったら、一斉に、西戦隊長の前に列んで、深く敬礼をして、先

頭の杉田繁見習士官が、

「隊長殿!

 お願いであります。

 どうか?

 これを受けとって下さい。」

と、一言云うと、残りのものが、一斉に戦隊長え一歩詰め寄って、

「戦隊長!

 お願いです。

 我々は、特攻でも、何でもやります。

 どう−か?

 我々も一緒に連れて行って下さい!」

と、一気に、叫ぶように云った。

 折から、夕闇が迫り、机の上の椰子油を満たした、灯の火が、一斉にゆらいだよう

な気がした。

 西戦隊長は、受けとった文書を開いた瞬間、カッと、眼を見開き、文書の文字に見

入って、身じろぎもしない。

 再び、彼等は、一斉に敬礼して、

「戦隊長!

 お願いします!」

と、云った。

 その声に、戦隊長は、何かを云はんとして、

「うっ!」

と、声がつまり、文書を持つ手が、ぶるぶる震え始めた。

 その内に、眞赤になった、眼、両瞼から、したたるように、涙が頬を流れ始めた。

 そして、文書を両手にもったまま、西戦隊長は、俯向いてしまわれた。

 何秒、何分たったか判らぬ。

 西戦隊長は、何も、一言も云わぬまま、俯向いたままである。

 私は、静かに、席を立って、戦隊長の背後に行って、何を受けとったのか、肩越し

に、その文書を見ると、その文書は、

「特別攻撃隊志願書」

と、赤黒い血潮で書かれているのが、眼に入った。

 瞬間、私の背条に、一つの戦慄が走るのを覚え、私も、声を呑んで、静かに、自

分の席に戻って、ドッカリと、腰をかけた。

 特別操縦見習士官の人々は、眼をむいて、緊張した顔で、戦隊長の返事を待っ

ているが、戦隊長は、只身を震はして、文書を持ったまま、俯向いて、立っている。

 また、一斉に、

「戦隊長殿、お願いします。」

との声があがり、彼等は、一歩進んで、その中の一人が、

「戦隊長殿、そして、飛行第三十一戦隊の皆さん。

 私達は、飛行隊の一員として、この飛行第三十一戦隊に来まして、去る九月十

二日、十三日の壮絶な戦い振りを眼の前に見て来ました。

 そして、今日まで、飛行第三十一戦隊の戦斗振りや、皆様の姿を見て来ました。

 何故、日本が、世界を相手にして、米軍と戦はねばならなかったかを知りました。

 私達も、軍人として、飛行将校として、この比島、飛行第三十一戦隊に配属され

たことを誇りに考えます。

 どうか、私達も、フアブリカに連れて行って下さい。

 特攻でも、何でも、します。

 お願いです。

 皆さん、戦隊長殿、お願いします。」

と、いって、皆が、机にしがみつくようにして、願った。

 その声が終ったが、戦隊長は、俯向いたまま、顔をあげないので、私は、スックと

立って、

「ちょっと、待って、呉れ!

 その決定は、戦隊長の御決定で、如何様にお返事されるかは判らぬ。

 私も、その御決定に従うことを、最初に云って置く。

 しかし、私は、この飛行第三十一戦隊の整備隊長である。

 諸君が、この出撃に際して、特攻を志願されたことは、私達、飛行第三十一戦隊

のものとして、大変感激していること、何とも云いようのないことであるが!

 しかし、 敢えて、整備隊長である私から、一言云はして欲しい。

 皆のものが知っている通り、この比島での戦い、わけても、レイテの総攻撃は、

日本の運命を決めるものになるであらう。

 飛行機の方から申すと、飛行機一機一機は、全て天皇の大御心の賜であり、日

本の全国民が、全力を挙げて、寝食を忘れ、全てを捧げて作って、この前線に

送って来たものである。

 私達、整備隊は、皆も良く知っている如く、敵の空襲下に、身命を賭して、この飛

行機に、魂を篭めて、整備して来た。

 今や、一機と雖も、無駄な、無闇みな消耗をさせてならぬときである。

 九月十二日、十三日、皆は、眼の前に、飛行第三十一戦隊の、日本空軍の最優

秀、熟練した、人々の散華や、多くの戦いを見て来たと考える。

 特別攻撃は、余程の熟練が無い限り、米軍の集中砲火、敵戦斗機の攻撃をかい

くぐって敵艦に迫って体当たりなでゆくことは、容易でない事が判っている筈で

ある。

 このような事から、この出撃に当たっての、前進区分が行はれていると考える。

 戦隊長は、如何に決定されるか知れないが、余分の飛行機は、もうないので

ある。

 皆、夫々技倆は、自分で判っている筈である。

 決定は、戦隊長によって、決めて頂くが、皆のものにおいてももう一度、良く良く

考えて欲しい。」

と、一気に云った。

 私の話を、噛みつくようにして、聞いていた、特別操縦見習士官は、大きく聞き、

眼球をむき出すようにしていた、瞳に、うっすらと、涙がきらめいて行った。

 やがて、全員が眼を下げ、俯向いていたが、最初に特攻志願書を戦隊長に渡

した杉田繁見習士官が、きっと、あたまをあげて、悲痛な声で、

「戦隊長殿、杉山大尉殿、

 判りましたっ!

 私達は、戦隊長殿の出撃の御決定に従います。

 そして、そして、ここに残って、必ず、御期待に添えるよう訓練にはげんで、立

派な技倆になります。

 そして、一日も早く、戦隊に追従してゆけるようにします。」

と、いう声は、すでに、涙声になり、全員の眼から、大粒の涙が、頬を伝はって流

れ、声と、云っていることは、立派な言葉であったが、全肺腑からしぼり出すような、

泣声になっていて、聞いている全員が、途中で、すすり泣きを始め、彼の声が終

了すると共に、一斉にオエツの声をあげた。

 私も、両の眼から、涙が湧きあがって来て、頬を濡らしていたけれども、この言

葉を黙って聞いていた。

 やがて、西戦隊長は、この特別操縦見習士官に向って、深く頭をあげ、

「有難う、有難う、有難う」

と、いうことだけしか言葉もなく、椰子油の灯が、微風にゆらめく光の中に、全員

の涙がキラメイていて、しきりに両手で、頬を拭う状況であった。

 戦隊長に渡された、この特攻志願書は、副官の小出中尉の方で、保管される

ように、西少佐から渡されたように記憶するのであるけれども、私の記憶も、明確

でない。

 特別操縦見習士官は、既に少尉になることになっていたと考える。

 八月末、飛行第三十一戦隊に配属されて来て、飛行時間、僅か百時間余で、

やっと、単独離着陸が出来るようになったのみであったと、記憶する。

 そのような人々が、飛行第三十一戦隊に、配属されて来ても、戦隊は、比島に

到着以来、戦斗訓練に習熟するのが、大変な状況であって、飛行隊として、この

人々に、基礎訓練の時間を割いて、訓練を行う時間も、飛行機もなく、九月十二日

十三日の邀撃戦斗以来、何も出来なかったように思う。

  特別操縦見習士官の人々にとっては、第一線の激烈な戦斗、空中戦を目前

に見ながら、訓練の機会も少なく、この三ヶ月間に近い月日は、只々、口惜しい

日々がつづいた事と思う。

 私達としては、この様な未訓練の操縦者は、たとえ空中に上がっても、戦斗を

する技倆も、経験もなく、充分飛べない雛鳥のように、一撃で飼食になるだけの

事である。

 特別攻撃と云って、飛ばせば良いものでは無い。

 それは、明らかに、無駄な事である。

 そのような、無駄な死をさせてはならぬという気持ちもあった事は、事実であった。

 比島、特にレイテ島の攻防は、米軍側も、必死の戦斗、作戦をやっていることに

おいて、このような、未熟なものの人々に入り込む余地もない、我々の戦斗は、激

烈なものであった事も事実であった。

 そして、彼等も、私の言葉を、事実として認めた事も、事実である。

 しかし、人間として、この事実を認める事は、悲しい事であった。

 現実の事実というもの、死によって、昇華出来るものでなく、只一つの生命を失

うことの死は、全てを空にしてしまうことであり、戦争は、このような、無駄な死の累

積の上に進行している。

 無駄なものは、一瞬に飛び散って、一顧も与えられなくて、大きな、巨大な、戦

争という鉄輪は、廻転してゆく。

 

                               <幻の戦斗機隊>

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