第5章 特攻隊攻撃               <幻の戦斗機隊>

1、特攻隊発企の前

飛行第二師団司令は、昭和十九年の九月初め、ネグロス島、パゴロド市から、戦斗指揮

所を、セレベス島のメナド市に移し、飛行第三十一戦隊と、飛行第十三飛行団の隼戦斗隊

である、飛行第三十戦隊と共に、九月九日から、メナド地区基地に進出してゆくことに決

定していた。

このため、輸送機二機、夫々各戦隊一機づつに、最後の整備隊人員と機材を積んで、飛

行隊が出発したあと、出発する事になっていた。

私は、この輸送機の出発前に、飛行隊と共に、襲撃機に乗って、メナドにゆくことに

なっていた。

九月八日の夜は、フアブリカ基地に残る人員と共に、暫くお別れの宴を張って、お互い

の健斗を祈った。

九月九日、朝、突然、戦隊副官の小出中尉に、叩き起された。

何事かと思って、戦隊長室に行って見ると、ミンダナオ島のダバオ基地が急襲されて、

米軍は、ダバオ市近くに、上陸したという電報である。

西戦隊長と、岡野飛行隊長と私で、直ちに警戒態勢に入ることになった。

ミンダナオ島のダバオ基地が急襲され、米軍が、ダバオ市近くに上陸したという報告は

海軍情報であるという。

ダバオ基地群には、海軍のO戦、百機、その他を併せて、二百機前後の日本海軍の航空

機が展開していた筈である。

日本陸軍としては、先づ、米軍が、セレベス島付近のハルマヘラ島、ボホール島に基地を

作り、長距離爆撃機の根拠地をつくり、その攻撃圏内において、比島地区に、上陸して来る

ものと考えられて、飛行師団の主脳は、つい二三日前、メナド基地群に進出したばかりで

あった。

若し、ダバオ市付近に奇襲上陸したとするなれば、当然、ネグロス島、その他の中部比

島地区各基地が、急襲されるべきである。

第二飛行師団司令部は、その主脳が、メナド基地に前進していて、バゴロドの司令部に

は留守の者しか残っていないので、このダバオの海軍航空隊のダバオ市付近上陸の情況に、

狼狽して、あがってしまった様子である。

勿論、ダバオ市にある、海軍第一航空艦隊司令部は完全にパニック状況になってしまっ

たらしい。

ダバオ基地群には、約百機の零戦戦斗機隊が居た筈であるが、その損害の状況も、抱戦し

ている状況も、何も情報が入らない。

第二飛行団司令部からは、ダバオ地区、米軍上陸の報と共に、警戒警備が下命されただけで、

何の連絡もない。

デルモンテ基地群からも、何の連絡も入らない。

しかし、飛行第三十一戦隊としては、メナド基地えの前進命令がでているのであるけれ

ども、この撤回命令も来ていない。

第二飛行師団司令部に問い合わせをしても、明確な命令を下すものが居ないらしい。

何等の返事も返って来ないで、あとでというだけである。

ここで、飛行第三十一戦隊は、具体的出発の命令が、明確に出るまで、待機して居ること

にして、戦隊としては、各中隊から、二機編隊で、ネグロス島のフアブリカ基地上空から、

セブ島え東方の地域の空域に、哨戒機を出して、時間割をつくって、飛行機の航続時間

のある限りにおいて交代し、航空警戒を行い、操縦者飛行隊は、夫々愛機の側で待機する

事にした。

一体、ダバオ市付近、ダバオ基地群から、何が起こったのか、全く状況が掴めなかった。

第二飛行師団司令は、当然、偵察機や、その他を発進させて。具体的情況を明らかにすべ

きであるが、何等の措置もとっていない状況のようである。

各中隊の哨戒編隊は、時間割に従って、哨戒飛行を行ったが、正午をすぎても、何等の

情報が入って来ない。

セブ島のセブ基地にも、零戦斗機の海軍飛行隊が、約百機居るる筈であるが、これからも

何等の状況がしらせて来ない。

一体、何が起こったのか?

只一つ、ダバ才市付近に、米軍が上陸して来たという情報のみである。

この妙な、奇怪な状況なんてあるものでない。

事実は、今から云うと、ダバオ基地群は、日本の海軍航空の基地があって、米機動部隊

は、この海軍の基地群に対して、徹底した集中攻撃を、九月九日の午前六時から行ったら

しい。

セレベス地区のハルマヘラ、モロタイ、両島の攻撃があるであろうと予想して、セレベ

ス基地群の海軍飛行基地と共に連繋して攻撃する予定であったところに、普通なれば、先

づ上陸予定地の付近のセレベス基地群に攻撃が、航空撃滅戦として始まるべきところに、

この日本軍側の予想を裏切って、米軍58機動部隊が、突然、ニューギニヤのウェワク、

ホーランジャ地区、また、ビアク地区に集中している米軍の主部隊と別に、米海軍によって

日本軍の警戒体制のまだ出来ていない南太平洋海面を通っての奇襲攻撃が始まったので

あった。

故に、昭和十九年の九月九日、午前六時に、ダバオ基地群の海軍航空艦隊は、まだ、眠っ

ているか?やっと目を覚ましたばかりの基地に対して、58米海軍機動部隊から発進した、

グラマンF6戦斗機群と、艦載爆撃機群に奇襲されてしまったので、ダバオ海軍基地司令

部以下、完全にパニック状況になったのである。

このパニック状況での連鎖作用が、第二飛行師団司令部え伝はり、第四航空軍司令部に

も伝播して行って、先づ司令部関係が完全にパニックになって、とるべき処置について、

何をしたら良いのか判らぬ混乱となったのであった。

ネグロス島のファブリカ基地にある飛行代三十一戦隊は、このパニック状況について、

司令部から遠い地域にあったので、この混乱に巻き込まれる事は無かったが、九月九日と

いう日は、重陽の節句でありながら、実に奇怪な、不安な日を過ごすことになった。

飛行第二師団司令に情報が入り、ダバオの米軍上陸は、海軍の誤報であるということが

明かになったのは、午後四時過ぎであって、それが、我々、飛行第三十一戦隊に伝えられ

たのが、その日の哨戒機の最後の編隊が帰って来てからであったから午後六時過ぎであっ

たと思う。

戦隊本部の宿舎に集まり、情報を確かめようとしても、ダバオの海軍情報である、米軍

の上陸は誤報という以外は、何も判らぬ状況であった。

ダバオの基地に居る海軍の零戦斗機部隊が、どんな損害を受けたのか?

または、損害を受けなかったのかも、判明しない。

単に米軍の上陸は誤報であるということのみである。

防衛戦においては、敵の行動が明確に知る事ことが出来るということにおいて、戦斗の主

導権を、防ぐ側として、判断が出来る、対応出来るという利点があるのであるが、源平の

戦いにおいて、富士川の戦線で、水鳥の音に驚いた平家のように、パニックを起こして、

収拾つかぬ状況となった。

しかし、第一線部隊としては、この司令部関連の混乱と、情報の不適格さは、良い経験に

成り、我々は、命令そのものも、充分に自ら判断し、適切に行動するという意識を持った。

翌九月十日、ダバオ基地、ダバオ市について情報は、全く入って来ないので、西戦隊長

と相談して、メナドえの前進は中止する事にして、フアブリカ基地での応戦準備を完全

にする事になった。

昨日に引続いて、哨戒機は、二機編隊で、夫々の割当時間を行うことにして、全員、飛

行機の側で待機することにした。

そして、デルモンテ基地に対して、電報も、何も通ぜぬようになってしまっているので、

師団司令部を通じての連絡も何も出来ぬ状況であるので、私が飛行隊より先発して、デ

ルモンテ、メナド基地に前進する事になっていたのを、とりやめて、この事を、デルモン

テ基地の飛行第三十一戦隊の先遺隊に伝えるべく、今野伍長の襲撃機を連絡に出し、これ

によって、ダバオ基地の状況を適確に掴むこととした。

我々には、ダバオ市に米軍上陸というのが誤報であるということは、判明したが、ダバ

オ基地の日本海軍航空基地群が、米機動部隊によって、奇襲されている状況については、

全く情報が入って来ていないし、飛行第二師団司令部より、何等の連絡が入って来てなか

った。

兎も角も、デルモンテ基地、そして、メナド基地えの前進は、中止して情勢を明確に把

握しなければならぬ。

その上で、行動を決定する事にした。

この事を、少くも、デルモンテ基地の先遺隊に伝えねばならぬ。

我々の予想として、考えられたのは、ダバオ地区の海軍の米軍上陸は誤報であったとし

ても、米軍が航空撃滅戦として、日本軍に対して、攻撃して来るであらうこと、特に比島

地区を何処からか攻撃して来るであらうことは、ニューギニヤ島のウェワク・ホーラ

ンジヤ基地群えの奇襲による攻撃の経過を見ても、考えられたのである。

しかし、ダバオ基地群の攻撃が、米海軍の58機動部隊での、本格的攻撃の初めであると

いうことは、ダバオ基地軍の海軍からの連絡も、陸軍からの情報からは、何も入っていな

かった。

この事は、我々は前記の如く予想、考えることは出来たが、九月九日は勿論、九月九日

の夜、朝になっても、何等の情報が入らぬ事において、このダバオ基地群の米海軍による

攻撃が、如何に重大であったかについて判断がつかなかった。

飛行第二師団司令部そのものにおいても、同様であらう。

我々は、米軍上陸が誤報であったということのみの情報を受けて、次のように云って大

笑いした。

日本の海軍は、ミッドウェー海戦、以来、敗戦につぐ、敗戦で、丁度、今、南太平洋に

は、台風の眼が生まれる時季であるので、この積乱雲群を、米国の機動部隊、上陸部隊の

艦艇と、誤認したのであるまいか?

まさに富士川における平家の水鳥に驚くようなものであって、一体、ダバオ基地群は勿論、

飛行第二師団司令部は、如何にしているのであらうか?

何等の情報もないところで、とりあえず、出発は中止したが、デルモンデ地区は、何で

もあるまい?

それで、今野伍長の襲撃機を出発させた。

私は、幸か不幸か?これに搭乗せず、戦隊長の連絡文だけであった。

今野伍長には、気の毒であって、借しまれてならぬが、この九月十日、デルモンテ地域

の基地群は、早朝から、米海軍の58機動部隊の攻撃に曝らされていたのである。

この攻撃状況が、飛行第二師団司令から入っていれば、我々は、今野伍長を出発させなか

った。

しかし、何の情報もないところから、午前八時に出発させて、今野伍長は、それから二

時間後の十時頃、つまり、米海軍58機動部隊の攻撃の第二波に捕まった事になる。

今野伍長は、低空で、デルモンテ基地に侵入しているところを、グラマンF6F米戦斗機

に掴って撃墜され、その電報が、飛行第二師団を通じて、我々に伝達されたのが正午すぎ

であった。

この連絡で、ダパオ基地群の日本海軍の部隊を攻撃したのは、米海軍機動部隊の本格的

航空撃滅戦であることを知った。

しかし、飛行第二師団司令部からも、箪四航空軍司令部から、何等の情報も、命令も、

指示も入って来なかつた。

この事は、日本の海軍も、陸軍の第四航空箪司令部、飛行第二師団司令部は、パニック

状況から、まだ、九月十日になっても、立直っていないし、収拾と前後処置が出来ていな

いことになる。

恐らく、日本の大本営、南方総軍司令部においても、適確な情報が入っていなかったで

あらう。

この事は、米海軍の58機動部隊は、全く無傷で、思う存分、ダバオ基地群及び、デルモ

ンテ基地群を政撃したことになる。

この様な状況でも、日本軍の陸軍、海軍も、全く対策を講ずることをせず、何等の偵察

も行はず状況も、知らせていなかった。

非常戦備下命だけで、メナドえ前進の命令は、出たままで、撤回も変更も、何もされて

いなかった。

激撃するのか、回避するのかも、何等の指示を与えていなかった。

第一線部隊である、飛行第三十一戦隊としては、今野伍長の戦死の状況が、米軍のグラ

マン、F6Fの攻撃である事において、木格的、米機動部隊の航空撃滅戦が始まった事が、

決定的に考えられた。

九月十日の予定の哨戎讐戒飛行を終了し、その夜、飛行第二師団、その他に、情報を

求めて連絡をしたが、何等、具体的な情報も、適切な指示を得られなかった。

第四航空軍司令部からも、何等の対策が明らかにされていなかった。

ダバオ基地群が九月九日、デルモンテ基地群が九月十目の攻撃であるので、或は、九月

十一日には、我がネグロス島基地に対しての攻撃が行はれるかも知れない。

今野伍長機の撃墜死によって、飛行第三十一戦隊は、事態の容易なものでなく、緊迫し

て来た事を感じた。

それで、九月十一日からの哨戒編隊を、夫々四機に増加して、厳に警戒態勢に入ること

にした。

しかし、九月十一日は、フアブリカ基地には勿講、ネグロス島基地にも、何等米軍の攻

撃が無い状況であった。

恐らく、米海軍は、九月九日、十日の攻撃で、無傷状況とはいえ、連日の攻撃によって、

操縦者その他に、一日の休養をさせたのであらうか?

十一日になっても、米海軍58機動部隊の位置は、全く不明である。

恐らく、ミンダナオ島の東の太平洋上からの攻撃であるので、戦斗機等の航続距離から

云って、ミンダナオ島の東、二、三百q〜四百qの海上に位置している筈であるが、その

所在は、全く確かめられていない。

飛行第二師団司令部も、第四航空軍司令部も、又、第一航空艦隊からも、何等の情報が

入って来ないまま、九月十一日は暮れてしまった。

極度の緊張のまま、丸三日間の哨戒警戒態勢というものは、辛いものである。

三日目というものは、緊張の一つの限界であるが、何にもないのは、一種の評子抜けみ

たいなものであるが、哨戒は、無駄でも行はねばならぬ。

メナド、デルモンテえ、最終的整備員を出発させた状況での、この哨戒飛行えの努力は、

全機の発進でないので、整傭員は、若干の休養の間はあるものの、我々第一線の指揮官

は、瞬時も、緊張を解く暇は無い。

いざというときに、直ちに、全部隊の飛行機を発進せしめねばならぬし、その瞬時の遅

れが、全部隊の生存の、運命を決する事になる。

飛行機は、地上に在るときは、高価な、しかも、全く死物に等しい、金属塊であり、燃

料、弾薬を収蔵したままのものである。

地上で攻撃されたら、只炎上し、爆発するだけの代物である。

それが、一瞬でも、地上を離れ、空中にあれば、恐るべき攻撃機と変身する。

それは、地上と空中の僅かの差で、変わるのである。

整備員は、この一瞬の変身に、秒分をかけて、全生命を集中しなければならぬ。

例え、敵の航空機による集中銃撃爆撃を受けても、搭乗した飛行隊の操縦者が、座席に

搭乗している限り、飛行機の側から離れる事が許されぬ、飛行機と操縦者が一体になって、

この攻撃機えの変身を、一刻も早く出来るように、しなければならぬ。

我々整備隊員の生命とするところ、その真骨頂とするところは、この変身を立派にやり

とげて、飛行機の全性能を発揮せしめるところにある訳である。

長い整備の、昼夜を分かたぬ努カは、この時に達成され、労苦は酬いられるのである。

九月十一日、ネグロス島、ファブリカ基地の飛行第三十一戦隊は、割り当てられた哨戒飛

行の編隊が、四時間毎に、午前六時から飛び立ち、何時、何処から来るか判るか判らぬ、

米海軍の機動部隊の攻撃を待って、全飛行隊員は、夫々の飛行機の傍で休息、整備員は

全機、武装と、燃料補給を終了し、何時でも出動できる態勢で、午後六時まで、待ったが、

何事も無かった。

この日も、飛行二師団司令部よりも、又第四航空軍からも、何んの連絡も、指示も、

行はれぬままで過ぎた。

一体、何事が起こったのか、米海軍機動部隊は、何処え行ったのか?

ダバオ、デルモンテ基地を攻撃したのは、我々の推定では、米海軍機動部隊であると思

うのであるが、それが何処から来て、何処え行ったのか?

何等の情報も入らなかつた。

ダバオ、デルモンテ基地群の損害の状況も、全く知らせて来なかった。

我々に出ている、メナド地区えの前進命令は、そのまま残って居り、若し出発するとし

ても、デルモンテ基地は、滑走路その他が無事なのか?

燃料その他が、補給出来るのか?

一切状況が不明のままである。

飛行第二師団司令部の主脳部は、メナドに前進して、留守のものしか残っていないので

あるが、その主脳の人々は、メナドより帰って来るのか?

その行動は、如何にしてゆくのかも、全く判らない状況である。

指揮系続としては、第四航空軍、そして、飛行第二師団の中に、我々、飛行第十三飛行

団があり、その下に、飛行第三十一戦隊はある。

しかし、第二師団、第四航空軍は、全く指揮能力を発揮しないで、ダバオの日本軍航空

艦隊のパニックを受けたことによって、そのまま沈黙したままである。

飛行第二師団も、第四航空軍も、何等自主的な指揮能力も、統帥能力も無いままである。

ダバオの米軍攻撃は、九月九日の早朝から始まっているが、これに対して、九月九日は

パニック状況に入り、九月十日、十一日と、それは全く回復しないままであった。

この事は、師団司令部や、航空軍司令部が、戦争に無経験な、陸大の試験を受ける事の

みを、軍人としての出世コースと心得ている参謀というしろものの、人々の無能力、無策

のみでない。

一旦パニックになったとき、その災害をうけるのは、第一線でなくて、この参謀連中で

あって、腰が抜けたのか?

呆然となってしまったのか?

軍人は、生命をかけて、国防の戦斗をするが故に、軍人である。

生命をかけた瀬戸際で、パニック状況になったり、腰が抜けたり、呆然となっては、軍

人でないのみならず、軍人たるの資格は無い。

軍人も、人間である。

故に、生命の危険に対しては、絶対的恐怖がある。

それは、私も、輸送船で遭難したときの瞬間、腰は抜けなかったが、魚雷爆発の瞬間に、

何も判らなかった事を認める。

しかも、軍司令部、師団司令部で、参謀連中が、丸丸、三日も、何も出来なかった事実

は、光栄ある日本陸軍の名において何も云うことは出来ぬであろうと思う。

第一線の部隊としては、これら司令部の実情に、命令、統帥系統として、日本陸軍の

伝統に生きるものとはいっても、敵を目前にして、此の如き状況を知ったものとして、

心からの絶望を持たざるを得なかった。

その結果として、統帥部や、司令部えの信頼は全く無くなってしまったが、己の本分と

して、第一線部隊として、生死に拘らず、日本陸軍、航空部隊として、最善、最大の努

力して、立派にやらうという覚悟だけが残った、その決意のみに生きたということが、明

確に云うことが出来たであらう。

飛行第三十一戦隊の飛行隊のものも、整備隊も、只、そのことのみに、生き、努力して

いた。

 

2、特攻隊発企前の状況

昭和十九年十一日の夜、飛行第三十一戦隊は、飛行隊全員と、整備隊長の私と集

まって、全ての情報を研究して、明日からの警戒について打合せをした。

集められた情報は、デルモンテ地区からの米軍機動部隊による攻撃の情況の外、特別に

何等の特別のものは無くて、十一日には、デルモンテ基地群にも、また、ダバオ基地群に

も、米軍が攻撃した様子は無かった。

正に嵐の到来する前のような静けさである。

ダバオ、デルモンテ基地群を攻撃した、米海軍の機動部隊は、何処え消えてしまったか、

全く情報は無かった。

決戦を前にして、全く情報が無いとき程、無気味なものは無い。

ここで、考えられるのは、次の事しか無かった。

1、米海軍機動部隊が最も恐れるのは、ダバオ基地群に居た、約百機の日本海軍の零戦

斗機隊であったであらう。

ダバオ基地群がパニックを起す程の集中攻撃をして、米軍がダバオ市付近に上陸

すると思はせる程の攻撃して、これは、殆ど潰滅状況にした事であらう。

ハルマヘラ島、モロタィ島に上陸するとするなれば、米軍側で最も恐れたのは、こ

のダバオ基地群の零戦斗機隊の存比であったことであらう。

これを壊滅せしめ、そして、付近の基地群も叩いたことで、一応所期の目的

を達成したと考えるなれば、米軍は、ハルマヘラ島、モロタイ島えの上陸攻

撃を敢行するであらう。

その場合は、速やかに、メナド地区に進出して、この米軍の上陸作戦に打撃を

与えるべきである。

このため、従来出ている命令通り、メナド基地え前進出発すべきであらう。

2、米軍、米海軍の航空撃滅戦が、単に、ハルマヘラ、モロタイ島えの上陸作戦前の

.めのものであるなれば、ダバオ基地群の日本海軍の航空艦隊の零戦部隊や、デル

モンテ基地群の日本陸軍基地だけでは、不徹底である。

なぜなれば、この飛行第三十一戦隊のある、ネグロス島の第二飛行師団のバゴロ

ド基地群があり、陸軍航空の主カ部隊は、そこにあり、また、ネグロス島の隣、東

側のセブ島のセブ基地には、日本軍の零戦都隊が約百機も存在していて、これらは、

無傷である。

しかし、米海軍の機動部隊は、九月九日、十日における、ダバオ基地群、デルモ

ンテ基地群の攻撃において、日本軍側がパニック状況になったため、全く抵抗を受

けていないので、無傷状況で、撤退した形で、十一日には、何処にも攻撃して来て

いない。

この状況では、まだ、我々、ネグロス島の飛行第二師団のパゴロド基地群と、セ

ブ島の海軍零戦斗機隊のセブ基地群を攻撃してくる公算が残っている。

以上の情況を判断して、九月十二日、何時でも、出発出来る態勢で、もう一日、様子を

見て、決断しても良いのであるまいか?

この様な状況判断を我々はした。

その結果、或いは、十二日、大挙して米海軍機動部隊が攻撃してくる可能性と公算が

極めて大きい。

この様な予想、予感が我々にした。

飛行第二師団司令部や、第四航窒軍司令部からも、メナド前進の命令が出てはいるが、

具体的に出発の指示も何もないし、他の指示命令も無い。

それで、万一、米軍の攻撃に備えて、哨戒飛行は、飛行第三十一戦隊は、独断で、飛行

隊の各中隊は、中隊長以下、時間割に従って、翌十二日は、第三中隊の増永大尉以下、全

中隊の編隊から午前六時から、哨戒警戒飛行を行い、順次、第一中隊、第二中隊と、

行うことになった。

飛行第三十一戦隊としては、最大の警戒態勢を行い、若し、米軍の攻撃があれば、全機

離陸し、その離陸援護に、哨戒中隊が当り、フアブリカ基地の北方海上で、集合し、これ

に哨戒中隊が合流し、フアブリカ基地を攻撃する、米軍航空隊を撃滅することを決定した。

第四航空軍司令部は、ミンダオ島のダバオ基地群、デルモンテ、カガヤン基地群を攻撃

した米機動部隊は、南東えと撤退したと判断し、比島地域の航空部隊に対して、警戒戦備

命令を撤回して、メナド地区えの前進を命じたということが、記録されているが、確かに、

これらの情報命令は、十二日朝になって伝達されたが、しかし、飛行三十一戦隊では、

これらの命令を無視せざるを得なかった。

それは、その時、十二日の朝は、米海軍、58機動部隊の攻撃に対して、真正面からの激撃

戦斗に入っていたからで、第四航空軍司令部の判断のあやふやさと、状況判断が全く出

来ていない証拠というべきである。

このように、ダバオ基地群のパニックから、引続いての、司令部統帥部の状況判断と、

命令の誤りは、第一線部隊えの混乱を起すのみであった。

飛行第三十一戦隊の場合は、このような、軍司令部、師団司令部の情況判断や、命令に

関係なく、自らの歴戦してきた、戦争に対する感というか、自ら生命をかけての戦いで、

鋭ぎすまされた判断によって行動をしたので、十二日における、米軍第58機動部隊えの攻

撃に巧く対処することが出来たと考える。

昭和十九年の九月十二日、飛行第三十一戦隊は、第三中隊の増永中尉の率いる、全中隊

編隊での哨戒飛行を、午前六時から出発せしめた。

フアブリカ基地の早朝は、露がしとどに降りて、誘導路外の草原を歩くと、作業衣が、

腰、膝から下は、びっしょりになる程であった。

朝六時というと、やっと、暁闇が晴れかかって、サガイ河から昇る川霧が、滑走路に、

かすかにたなびいている頃である。

増永編隊は、八機、二少隊で、この河霧をけちらしつつ、轟音を立てて離陸し、フアブ

リカ基地上空で、ガツチリ編隊を組んで、東に消えて行った。

午前七時、小出中尉が、フアブリカの戦隊本部から.飛行場大隊のトラックに乗って、飛

行場の指揮所にやって来て、航一四航空軍司令部の警戒戦備解除の指令と、.コウ作戦発動

(ハルマヘラ・モロタイえの米軍攻撃えの反撃出動作戦)の文書をもってきたが、我々は、

これを無視する事にした。

西戦隊長と、私、小出中尉と、三人で、飛行場の指揮所で、話をして、私は遅い朝食を摂

っていた。

その当時の日本軍の飛行機は、早朝、全機試運転をして見ないと、発動機その他の好・

不調、故障が起こっているのが判らぬし、また、夜間の冷気によって、また、日中の高温

によって混じて来た空気が冷えて、結露する事で、燃料タンク、気化器などに、水分が溜

まることがあったし、また、電気系統において、露や、湿気によって、ショートしたり、

故障を起すことが多かった。

早朝、増永隊の出発前から哨戒編隊の出発と共に、整備隊は、戦隊全部の飛行機の状

況を知って、十分な整備をすると共に、万一に備えて、全機出動しても大丈夫なように、

準備をして置くことにした。

このために、私は、これらの状況を、各中隊の誘導路を巡って、指示を与えると共に、

整備兵達の健康や、精神状況、また色々の訴えや、意見を聞くことにしていたのである。

このためには、どうしても、私の朝食は、最後になってしまった。

午前八時頃のことである。

私は遅い朝食のお茶をのんでいたときである、遥か東方のセブ島方向に、かすかな爆音、

飛行機群が来る音が聞こえて来た。

私はお茶のコップを机の上に置いて、指揮所の板の台の上の階段の上に立って東を見る

と、東の方は薄く霞がかかってよく見えないが、黒い粒の塊のようなものが見えて、爆音

は、そこから聞こえて来る。

双眼鏡で見ても、まだ遠くて、機影は黒く見えるだけであるが、翼端がぶった切ったように

なって、海軍の零戦戦斗機のように見える。

西戦隊長も立って来て、見ていたが、どうも零戦斗機のように見える。

「ああ!セブの海軍航空隊の零戦部隊が、マニラ防衛に移動するのであらう?」

と、二人で、そのように、云い交していた。

その時、フアプリカ基地の飛行場の東北方より、零戦斗機が二機、超低空で、飛行場に

近づいて来るのが見えて、飛行場の着陸方向指示が、南から北方に離陸し、着陸するよう

にしてあるのに、そのまま、北方から、この零戦二機は、急角度に方向をかえて、フアブ

リカ基地の北から滑走路え着陸するように脚を出し、フラツプを開いて、着陸態勢に入り、

滑走路に着陸してきた。

私は、着陸方向を無規した、この海軍の零戦斗機の行動に、怒って、指揮所の西側の台

上に立って見ていると、滑走中の零戦斗機の操縦者は、私の方を見ながら、空を指して、

何かを叫んでいる。

人を馬鹿にするのも、程があると思って、私は、滑走路の傍に下り、零戦斗機を追いかけた。

零戦斗機が停まって、操縦者が降りて来たら、ブンナグッてやらうと思いつつ走っていた

ら、先頭機は、滑走路の南端に近く、カーブを左に切って停止し、操縦者は、飛行機より

飛び降り、地上を走って、東の方の飛行機群を指して何かを叫んでいる。

「あれは、敵機だっ!

あれは、敵機だっ!」

と、叫んでいるのである。

私は瞬間、立ち止って、東の飛行機群をみると、セブ上空を過ぎて、ネグロス島の東に

あるシライ山頂上の方向に進んでいる。

「あれが、敵機かっ!」

と、云うと、

「隊長、あれは、敵機ですよっー

あれは、敵機ですっ!」

と、又叫ぶ。

そのとき、フアブリカ基地の東方の丘陵地域を低空で越えて来た、増永編隊が、一斉に、

フアブリカ基地の上を飛びながら、機関砲を斉射しつつ、西方の椰子林の方に飛び、北

方海上の方えと飛び去って行った。

私は、すぐ指揮台に引退して、飛行第三十一戦隊え、全機出動の合図の鐘を鳴らし、飛

行場大隊に対して、対空警報のサイレンを鳴らさせ、また指揮所の傍の対空監視所の鐘を

鳴らさせた。

そのとき、西戦隊長機は、指揮所の東側の誘導路から出発して、指揮所の南側から、滑

走路を斜にして、離陸して行った。

第一中隊、第二中隊、第三中隊も、これに引続いて、僅か十分足らずで、全機、飛行第

三十一戦隊は、予定の如く、北方海上の集合地域の方に、姿を消して行った。

その頃、シライ山頂付近にかかった、米軍機は、三隊に分れ、アナプラ、サラビヤ、バゴ

ロドの方に釣瓶落しに、編隊のまま、突込み降下してゆくのが見えた。

幸いに、フアブリカ基地え攻撃して来る様子は無かったので、私は、零戦斗機の方を見

ると、一番機は、滑走路の東南端付近に止まっていたが、二番機は、南端まで走って止ま

ったようであった。

三番機も二番機に並んで滑走路に向って、停止していた。

この三機の搭乗員が、皆、飛行第三十一戦隊の全機が離陸していくのを見守っていたが、

出発し終ると、指揮所の方に、体を丸くして走って来るのが見えた。

シライ山の頂上附近から三つに分れた米軍機は、ワナプラ、サラビヤ、バゴロドの各基

地に突っ込み降下して行って、少しの秒数か、分数がたつと、マナプラ飛行場の方は、西

の椰子林の蔭から、黒煙があがりはじめ、シライ山の西北方の裾野の山蔭からも、猛烈な

黒煙が、大空に吹きあげて行った。

バゴロド基地の方は、シライ山の山蔭になって、相当の損害を被っていることであらう

が、まだ黒煙も何も見えなかった、

恐らく、最初に突っ込んだのは、グラマン、F6F戦斗機の地上掃射であらう。

やがて、ノースアメリカン艦上爆撃機が急降下爆撃地上掃射を始めたらしく、黒煙の塊

が大空を馳けあがるように昇って行って、爆発音が、空中からと、地上の地響になって、.

聞こえて来た。

その頃は、夫々の基地の飛行機が燃えているのであらうか、黒煙は、各基地から、数条のも

のとなって、大空の白い雲の層えとどいていた、

フアブリカ基地えの米軍の攻撃は、このとき、全くない事を確めて、私はやっと指揮所

に馳せつけて来た、海箪の零戦斗機の搭乗員の方を向いたので、三人ば姿を正して整列し、

私に敬礼をした。

この三人は、セブ201海軍航空隊のもので、飛長 小林正一、一飛曹 橋島敏、二飛曹

松村茂の三名であった。

私は、三人に、飛行第三十一戦隊の整備隊長、杉山大尉であることをつげて、本朝の急

報により、無事全機出撃したお礼を云つた。

彼等が、私に報告したのは、次のような事であった。

「セブ島のセブ基地群には、零戦斗機、約百機がいた。

午前六時、起床ラッパで、起床したとき、突然、米海軍の機動部隊のグラマン、F・6・F

の攻撃を受けた。

この三人は、丁度、少し早く起きて、哨戒任務に着くところであったので、服装が整っ

ていたので、そのまま宿舎を飛び出して、飛行場にある、零戦斗機に乗って、基地を超低

空で飛び出して行った。

セブ島北方の海上まで、良く無事に、脱出出来たと思う。

さて、セブ基地、セブ島を脱出したものの、セブ基地は、米軍機の攻撃中で、引返すこ

とが出来ないので、レガスピーに行くか?と思っていたが、何処かの飛行場に着陸して、

米軍のセブ島えの攻撃が済んで帰ろうと思い、進賂を西にとって、ネグロス島に近づいて、

海岸線に沿うて飛んでいたら、このフアブリカ基地が眼に入ったので、着陸方向指示も

知っていたが、緊急着陸して、知らせねばと思いましたので、失礼しました。」

と、いうのである。

「いや、実は、ブンナグツてやらうと思って、馳け寄ったのであったが、貴様等のお蔭で、

全機出動出来て助かった。

恐らく、貴様の仇は、飛行第三十一戦隊で、とって呉れるであらう。暫く休んで、帰っ

て呉れ。

食事は済ましたか?」

と、聞くと、まだであるとの事。

飛行場大隊に云って、食事を持って来させて、

「いやー、貴様等のところだけでなく、バゴロドその他は、大分やられているようである

が、俺のところは、昨日から、どうもおかしいと思って、厳重に警戒していたので、すぐ、

全機出発出来た、お蔭で助かった。」

と、いうと、三人とも、妙な顔をしていた。

彼等も、ダバオ基地群の例があるので、警戒はしていても、第四航空軍の警戒解除で、

ホットしていたところであったので、全くの奇襲を受けたようであった。

マナプラ基地は、燃料タンクか、燃料集積所に火がついたらしく、猛烈な黒煙が天空に

昇って、時々、ドラム罐が爆発するのか、黒煙の輪が、黒煙の柱の傍を、上の白雲の方に

かけあがってゆくのが見えた。

バゴロド基地も、相当の損害をだしたのであらう。

シライ山の山蔭から、大きな黒煙の柱が大空又あがっていて、その頂上の則近は、大き

な、大きな積乱雲となっていた。

バゴロド基地を攻撃した米軍の飛行機群から、約二、三十分経って、第二の米軍機が、約.

二百機近く、東進して、バゴロド基地群を、攻撃して行った。

飛行第三十一戦隊が全機集合したと思はれる北方海上の方は、白い雲の塊が、ヘンペン

として浮かんでいて、戦隊の機影は、何処にも、見当たらなかった。

マナプラ基地は、弾薬庫が爆発しているのであらうか?

第二次の攻撃か?

バゴロドの方も、何か、大爆発を起こしているらしく、椰子林をふるわし、フアブリカ

基地の大地まで、震動が伝って来た。

どうゆうのであらうか?

フアブリカ基地には、一機の米軍機の攻撃を受けなか.った。

三人の海軍航空隊の操縦者達は、バゴロド基地群の爆発を聞いている内に、心配になっ

て来たのであらう。

机の上のお茶を飲み干して、セブ基地に帰るといいだしたので、私もとめる理由もない

ので、帰還を許可し、三人で、滑走路の南の零戦斗機の方に走ってゆき、三機そろって離

陸して行った。

既に飛行第三十一戦隊が離陸して行って、約二時間程経っていた。

私は、各中隊の繋留してあった、誘導路地区を巡って、各少隊長に、戦隊全機の帰還準

備をさせた。

全員、マナプラ、バゴロド基地群の攻撃を受けている状況で、青ざめていたが、夫々の

飛行機の繋留地に待機して、燃料、弾薬の補充準備をすすめていた。

第一小隊、武装班の久保木少尉に、「大丈夫か?」と聞くと、「大丈夫です。」と云う。

「顔が青いぞっ!」

と、ひやかすと、

「いやぁ、隊長、夢我夢中でしたが、飛行機が出発して、あと、膝がふるえました。

しかし、もう大丈夫です。」

と、いう。

「いや、初戦の経験は、皆、同じようなものだ。

貴様は、立派だ。それが判っているということは、大したものだ。俺だって、何時も、

膝がふるえるよ。貴様のは、武者振いという奴だ。」

と、いうと、彼は、

「隊長、そうでせうか?

これが武者振いでせうか?」

と、いって、苦笑していた。

オカシナ事であるが、米軍は、フアブリカ基地を、まったく攻撃して来なかった。

午前十一時前後して、飛行第三十一戦隊飛行機は、戦隊長機を先頭に。三三、五五と、

各編隊長に分裂はしているけれども、大部分帰って来た。

帰って来た飛行機を点検すると、被弾したのは、仰かに四機のみであった。

午前八時、全機離陸した飛行第三十一戦隊は、フアブリカ北方海上にて集合し、マナプ

ラ、サラビヤ、バゴロド各基地を攻礫した、米軍の帰投するのを待ちうけて、攻撃をした

ところ、米軍の各飛行機は、殆んど、弾を射ちつくした状況であったので、我が方が有利に、

戦斗を挑むことが出来たようである。

各飛行隊々員の報告を総合すると、撃墜六機、撃破十一機、合計撃墜破十七機であった。

しかし、第二師団司令部からの命令は、夫々の割当てられた、飛行場に回避せよとの命

令を、小出中尉が持って来たので、燃料弾薬の補充の間、昼食を摂って、全機、パイナ島

の西南端のサンフェルナンド基地に、午後の攻撃から回避することになった。

午前一時、飛行第三十一戦隊の飛行隊は、全機、サンフェルナンドに回避して行った。

米海軍の機動部隊の攻撃隊は、午後一時半頃より、第二波の攻撃が始まり、どうゆうの

か、ファブリカ基地には攻撃をせず、マナプラ、サラビヤ、バゴロド基地に集中して行は

れた。

午前中の攻撃によって、ネグロス島の西の空には、大きな積乱雲が出来ていたが、午後

の重ねての攻撃によってあがる黒煙で、更に積乱雲が大きくなった。

飛行第三十一戦隊の未帰還二機の中で、一機は芹田伍長で、機関砲が暴発して吹き飛び、

発動機の吸気管が破壊されてしまって、発動機が停止したので、落下傘降下をして助か

った。

一機は、伊藤曹長で、故障のため、ピリ飛行場に、不時着をしたのであった。

米軍の飛行策二師団傘下のバゴロド基地群えの攻繋は、午後四時頃までつづき、天を柱

する黒煙は、西陽に映えて、赤黒く輝き、物凄い様相を呈して、積乱雲となっていた。

その中から、飛行箪三十一戦隊は、サンフェルナンド基地から帰還し、午後五時には、

全機、フアブリカ基地に帰投した。

恐らく、今日の米海軍機動部隊の攻撃において、本格的激撃を行って、米軍に損害を与

えたのは、我が飛行第三十一戦隊のみであったことであらう。

しかし、飛行第三十一戦隊の飛行隊の人々は、この初戦の戦果に関係なく、皆の顔には、

戦勝に酔う色は無かった。

夫々静かに、戦果を報告したが、同僚と、戦い振りを、誇張して話をしている姿は、全

く見かけなかった。

戦隊長西進少佐も、少しも笑みは無く、むずかしい顔をして、飛行隊全員と、整備隊員

に対して、全部、戦隊本部に、集合して、本日の戦斗に関する研究会を行うことを申渡し

た。

第四航空軍、第二師団司令部は、まだ、メナド地区えの進出出発の命令を撤回せず、機

会を見て、出発すべしという命令であるから、戦隊の全機は、長途飛行のための補助タン

クを、機側に準備して、明日の発進準備、整備を行うことになった。

敵弾を受けた、四機の飛行機は、致命傷の弾痕は一つもなく、容易に修理出来たし、こ

の状況で、本日の戦斗においては、飛行第三十一戦隊は、殆ど損害が無かった等しかった。

しかし、本日の戦況から云えば、間一髪の状況であったらう。

不思議にも、米軍は、フアブリカ基地を攻撃して来なかったし、米攻撃群の発見が早か

ったので、全機離陸し、有利な態勢で攻撃をして、戦果もあったが、明日は、どうなるか

判らぬ。

師団司令部その他は、全く当てにならぬ。バゴロド基地、サラビヤ基地等は、完全に奇

襲されたことであらう。

セブが、午前六時というのは、ダパオと、同じである.

どうなっているのか?

第一線の我々にも判らぬ状況であった。

 

3、特別攻撃隊発企について

飛行第三十一戦隊の飛行隊全員と、整備隊々長とは、昭和十九年九月十二日夕、午後六

時に、飛行第三十一戦隊の戦隊本部宿舎の二階のバンガーロに集合して、本日の米軍との

戦斗についての研究会を行った。

一、グラマン、F.6.F戦斗機について

飛行第三十一戦隊の戦斗機は、陸軍一式戦斗機であり、その性能は、次の通りである。

これに対して、米、海軍、グラマンF.6.F戦斗機の性能は、次の如きものであった

*一式戦と、グラマンF.6.Fの性能対称表を揮入

この性能表と、九月十二日、実際に斗った、経験からのものを、述べると、次のような

ことになった。

1、グラマン,F.6.F戦斗機は、発動機の馬力は、1800〜2000馬力である。

このために、巡航速度から、最高遼度えの加速が、極めて速やかであって、速度変

化の幅が大である。

この事は、上昇速度において、数段、グラマンの方が、優れていて、上昇能力が

大である。

最高速度を比較すると、一式戦の最高速度は、急降下によって出る最高速度であ

るが、グラマンのは、水平飛行によるものであるので、最高速度を出す能力のおい

ても、差異がある。

2、武装について

一式戦斗機は、十三o二門に対して、グラマンは、二十o、二門、十三o四門を持

っていることで、火力が完全に異なる。

3、防弾装置について

一式戦斗機は、燃料タンクに防弾ゴム被覆が出来ているが、しかし、7.7oの機銃

弾に対して、完全に効果があるが、十三oや、二十oの機関砲弾には、完全に効果

は無いと云っても良かった。

これに対して、グラマンF.6.Fの防弾装備は、十三oに対して、殆ど完全であって、

しかも、排気ガスを入れての消化装置がついていた。

このために、仲々、火が着き難い状況であった。

操縦席の防護装備については、一式戦斗機は操縦席の背に、十三mmの機関砲に

耐える鋼板の防護板があるのみであるのに対して、グラマンF.6.Eには、操縦者の

背後に二十oの鉄甲弾に堪える鋼板があり、座席の四隅に13mmの機関砲に堪え

る鉄鋼板が装備してあった。

故に米軍の操縦者は、日本軍戦斗機の射撃を受けると、この装備の中に、頭を潜

めて飛行し逃れた。

以上の如く、性能、武装、装備に、徹底的な日米の相異があって、日本の戦斗機は、米

軍機に対して、決定的に撃墜することは、容易でなかったし、瞬時に飛び交う、空中戦の

高速度の戦斗で、決定的勝利を収める事は、不可能に近い状況であった。

本日、九月十二日の飛行第三十一戦隊の攻撃において、六機の撃墜機を得ることが出来

たのは、この攻撃に、決定的優位で、しかも、米軍側は攻撃後の帰投途中で、全く戦意が

無かったものによるのであらう。

しかし、明日以後の戦斗を考えると、司令部の情報連絡の不良な状況、命令の不適確、

不良の状況で、しかも、性能その他に格段の差のあるものにして、如何に斗か?

戦いに勝つのが、我々第一線部隊の任務であるが、万に一つの見込みが無いことになる。

このような結論に達せざるを得なかった。

戦隊長西進少佐は、以上のような結論に達した状況で、一応、本日の戦斗に関する研究

を止めて、従来の日本軍と米軍とのブーゲンビル、ガダルカナル島の戦斗以来の戦斗情報に

おいて、また新しく来た情報において、何か、戦勝えの途を拓く方法は無いかという研究

を行うことになった。

飛行第三十一戦隊本部に来ている、これらの情報集は、四部あったように記億している。

それで、飛行隊を、第一〜第三、戦隊本部の四つに分れて、夫々、これらの情報につい

て、研究する事になった。

この研究において、見出した結論は、次のようなものであった。

@米海軍の機動部隊の攻撃は、偵察機の調査によると、日出前には、一機の哨戒、機動

部隊の援護戦斗機は飛んでいないということである。

これは、電波探知機による、電波警戒網が出来ているのを信頼しているのであらう。

A電波探知機の電波警戒網の性能として、海面からの干渉があるので、超低空の五〇米

くらいのものは、探知不可能となる可能性がある。

B米機動部隊の攻撃は、夜間は、出来るだけ攻撃正面の陸地から、海上遠くに離れて、

休息し、夜半から攻撃陸地正面に近づいて発進せしめる。

米軍戦斗機の攻撃航続距離によって、攻撃後、その機動部隊の位置は、陸地から見て、

左右に位置を変えて、敵側の攻撃を避けるが如き行動をとる。

C昭和十九年九月十二日の米軍の攻撃において、米海軍機動部隊の位置は、タクロバン

94度270哩に空母八隻その他四隻基幹の機動部隊を発見していた。

大体以上の事が、情報集の中から拾った、飛行第三十一戦隊の九月十三日以降の米機動

部隊に対する攻撃の資料となるべきものであった。

飛行第三十一戦隊は、隼一式戦斗機に機種改変をする前は、九九式襲撃機隊であったの

で、堆上から50mの高さ以下の超低空で攻撃するのは、専門の戦隊であった。

この事において、米海軍機動部隊に対して攻撃に成功する機会があることになった。

空中戦では、グラマン.F.6.Fの性能と、米編隊の機数において、到底、勝桝昇は無い。

米海軍機動部隊が、払暁前の対空警戒、哨戒機を出さないで、陸地に近づいて来るとき

超低空で、これに近づいて、跳飛攻撃をするなれば、米軍機の離陸する前の甲板上で、

これを捕捉して、撃破出来るであらう。

勿論、隼一式戦斗機で搭載可能な、百kg燃料では、米機動部隊の母艦に損害を与える

ことは、絶対的に不可能であらう。

しかし飛行甲板上の飛行機を撃破、炎上せしめる事において、燃料その他が流出して、

航空母艦内の燃料タンクその他に、誘爆発をさせて、航空母艦が撃破出来れば幸いであ

る。

飛行甲板上の米軍機を撃破炎上することで、飛行甲板に損傷を与え、攻撃を頓挫させる

ことが出来る可能性が強いことで、この攻撃の目的を達成する事が出来ると、信じるとい

う気が、飛行第三十一戦隊の飛行隊の全員に漲った。

飛行第三十一戦隊で、この米海軍機動部隊に対して、戦勝を拓く遺は、この方法よりな

いという結論に達した。

戦隊長西進少佐は、この研究の結果を受けて、飛行隊全員を、バンガーローに整列せし

めて、次のような決意を述べた。

「皆が、今、研究をして、結論した如く、米海軍機動部隊に対して、我が飛行第三十一戦

隊で、必勝を期し得る方法は、明払暁、米海軍機動部隊に対して、超低空攻撃を行うよリ

外なしと考える。

このために、明払暁、この私が先頭に立って、米海軍機動部隊に、特別攻撃隊をつくっ

て、攻撃しようと思う。

このため、飛行隊より志願者を集めて、この特別攻撃隊を編成する。

志願者は、一歩前に出て呉れ」

と、いう声と共に、飛行隊の隊員、全員が、バンガローの床板を高々と音を立てて、一歩

前進した。

この様子を見た、西進少佐は、一瞬、眼をカッと見開き、やがて、顔をうつむけた。

暫くの間、無気味な空気がつづいたが、やがて、西進少佐は、顔をあげて、

「ありがとうーっ」

と、一言云った。

その眼は、真赤に充血し、瞼に涙があふれそうになっていた。

そして、

「よし、判った。

全員、この特別攻撃隊を、志願したことを、心から嬉しく、有難く思う。

それでは、この特別攻撃隊の編成については、私の方で、決定する事として、一応、全

機、この特別攻撃隊のため、杉山大尉、何機、出動出来るか?

爆撃装備その他、全機について、再点検して、俺に報告して呉れ。

すぐ、頼む。」

と、私に云うので、

「はい、直ぐ調査し、点検して、報告します。」

と、いって、私は寝室に行って、飛行場に行く、準備をして、二階の階段を下りて行った。

飛行第三十一戦隊の本部は、一階にあって、西進戦隊長は、第十三飛行飼団と、電話で、

この研究の成果と結論と、全飛行隊で、特別攻撃隊を編成する事を進言している様子で

あった。

その声は、涙声で、熱心に、心をこめて、話している様子であった。

私はその声を背にして、一階から地上えの階段を下りて、飛行場に向かって走った。

飛行場に着いて、全機は、まだ、メナドえの出発準備があったままになって、翼下に増

加タンクが懸吊されていたが、それを全部降ろして、百kg爆弾を吊って見た。

増加タンクのガソリンの重量が、約80kgあるので、タンクの重量を加えて、大体100s

になるので、無事、全機の調整点検が終了して出動可能になった。

私は、これを確認して、また、戦隊本部にとって帰って、戦隊長室を訪ねた。

西進少佐は、私の同期生飛行隊長の岡野大尉と、一緒に酒を汲み合して、もう大分出来

あがっていた。

「杉山大尉、全機を点検し、爆弾の懸吊が終了しました。

隼戦斗機による、爆撃攻撃は、100s爆弾で、全部可能です。」

と、報告したら、

西少佐は、

「よし、判った。

杉山、愈々、明日はなぐり込みだ。

しかし、第二飛行師団司令部の命令で、小佐井、山下のみがゆくことになった。

明日五時出発だ。

よろしく頼む。」

と、いう。

私は、一瞬、変な、妙な気がした。

飛行第三十一戦隊、全部で、特別攻撃隊を編成しての攻撃であることで、私は、全機点

検しにいった筈であるのに、何で、二機のみになったのか判らぬ。

今更、西戦隊長に反論しても始まらぬことであらう。

恐らく、西戦隊長も、この師団命令に不平があって、岡野君と、酒を欽んでいること

であらうが?

整備隊々長は、命令が下る前に、意見を云うことは出来るが、本来作戦に関しては、整

備の将校には、指揮権も、作戦えの発言権も、指導権も与えられていない。

整備隊長と云っても、整備の指揮のみであって、作戦に関しては、飛行隊長の権限である。

私が飛行場に、行っている留守中、西戦隊長と、第十三飛行団長、第二飛行師団司令部の

間に如何なる経緯や交渉が進められたのか?

私には測り知ることが出来なかった。

註)

西少佐の記憶では、この作戦研究会の前に、第十三飛行団長から、明日は、米機動部隊

に対して、跳飛攻撃の特別攻撃隊を出すことが決定していて、私に、

「杉山、明日は、なぐリ込みだ」

と、云ったということを、記憶をしているということである。

確かに、私はそのような記憶がある。

それは、飛行隊全機が、サンフェルナンドの回避基地から帰還して後、西進隊長は、第

十三飛行団長のところに会いに行って、後に、飛行隊の研究会に出席することになったの

であるが、私は、飛行第三十一戦隊の戦隊本部に入る入り口のところで、飛行団長と打合せ

て来た、西戦隊長と、バッタリ一緒になった。

そのとき、西進少佐は、私に向って、

「杉山!明日はなぐり込みだっ!」

と、いう言葉を聞いた、記憶があるように思う。

しかし、そのとき、西進少佐は、

「戦隊長、中隊長を除くもので、特別攻撃隊を出す」

と、いう条件がついていることは、私に申さなかったし、飛行隊の研究会の結論として、

米海軍機動部隊に対して、払暁、跳飛攻撃をもってする、必死の特別攻撃隊を編成すると

きに、志願者を募って、

「俺が先頭に立って、攻撃をする。

故に、志願者を募集する。」

と、いう言葉が冒頭にあったことは、

私の記憶に、今も鮮明に残っている。

このために、飛行隊全員が志願をした。

この事は、戦隊長、中隊長を除く人員での、この特別攻撃隊の編成が、この研究会を行

う初めの条件であったとは、思はれない。

これは、第二飛行師団、第十三飛行師団において、第一線部隊よりの、米海軍機動部隊

攻撃要望が強く出されたことにおいて、これら司令部からの条件であったことであらうと

思う。

ここに、公式に記憶して置きたい事は、昭和十九年九月十二日十三日の米機動部隊の攻

撃に反攻するための、跳飛攻撃隊は、十二日より十三日に亘って行はれていることになっ

ている。

これは、捷号比島航空作戦という防衛庁戦史室の編纂で、次のように明記してある。

各部隊からのカン作戦の出動は、

十二日薄暮、 第三十戦隊  二機

十二日夜間  第十七戦隊  一機

十三日払暁  第十九戦隊  三機

第三十一戦隊 二機

と、なっている。この少数爆装戦斗機による、独力進攻の成果は明瞭になっていない。

しかし、私の記憶する限り、飛行第二師団司令部として、前記の如く、統一した、作戦

命令が出た形跡は、私の記億としては、全く無い。

これは、各部隊の志気旺盛な部隊よりの熱烈な要請に対して、師団司令部として、その

要求をかわすために、許可したものであらうか?

または、戦後このような事実があった事で、この様に作文したものであらうか?

いづれにしても、九月十日以来の米機動部隊の攻撃に対して、ダバオ海軍基地司令部小

パニック状況から脱せず、第四航空軍司令部は、十二日、非常警戒戦備命令を解除したと

きに、この攻撃があったことで、第二飛行師団司令部は、全く収拾のつかぬ混乱状況になっ

てしまったと考えるべきである。

まして、第二飛行師団長、山瀬中将以下は、十日、レベス島メナド基地から、やっと、

バコロド基地に帰着したばかりのものであって、そこに、この米58機動部隊の集中攻撃に

会い、バコロド基地群の日本陸軍各部隊は、ほとんど壊滅状態になってしまったのである。

前記の如く、散発的な、跳飛攻撃のカン作戦そのものが、米58機動部隊に、効果をあげ

得るべき、態勢も無いし、また、援護機も、戦果確認をする偵察機も出してない状況での

作戦命令は、無諜というか、暴挙とも、いうべきものであらう。

私は、九月十二日の午後十一時近く、小佐井武士中尉と、山下軍曹、二機のカン作

戦出撃の特別攻撃隊としての出撃の準備命令を、西進少佐戦隊長から受けた。

私の胸の中には、何故、全機出動が、二機のみに変更になったかを、理解できなかった

し、釈然としないものがあったが、一旦、作戦命令として、下ったものに、整備隊々長と

して反論し、修正せしめる権限は無かった。

私は、又飛行場に、とって帰って、出撃機の整備、装備を変える用事が出来たが、小佐

井機、山下機は、既に爆弾を、懸吊して、出発準備が出来ている。

残りの飛行機は、出発まで、時間がまだあるので、爆弾と、増加タンクの取り換えを行

えば良い。

小佐井中尉機等は、午前五時三十分に出発するので、午前五時までに準備させれば良い。

整備隊は、本日の作戦行動で、クタクタになっているであらうから、出来るだけ休ませ、

眠らせねばならぬ。

私自身も、まだ夕食が終わっていないし、一休みしてと考えて、二階のバンガーロにあ

る机の上に、ポツンと残してある、夕食の冷えたのを喰べ始めた。

冷えた汁を、冷えた飯にぷっかけて、私は、一息に、腹の中に、かき込んでいた。

一階の階段の下から、突然、岡野大尉が、

「杉山―、杉山大尉、杉山っー

何処に行ったー。杉山大尉は何処に行ったー。」と大声をあげ始めた。

岡野大尉は、飛行隊長として、西進戦隊長と共に、戦隊長室で、酒を飲んでいた筈である。

私は食後の冷えたお茶を飲んでいたときであったので、

「おーい、岡野っー

二階のバンガローだよっ!」

と、いうと、岡野大尉は、階段をよた、よた、あがって来て、

ふらふらしながら、私の姿を見定めるようにしていたが、

「オー、杉山っ!

貴様っ!ここに居たかっ!

おいっ!杉山っ!

よーうく聞いてくれっ!

いいかっ!よーうく、聞いて呉れっ!

明日は、愈々、決戦だっ!

明日は、俺が、一番に、哨戒にあがる。

なー、杉山っー

貴様と、俺とはなーっ、

予科から、この戦隊まで、不思議な、御縁であったと、思うしよ、

なー、杉山っ!

貴様は、どう、思っとるのかっ!

俺は、そう、思うとるよっ!

なー、杉山っ!

俺は、俺は、貴様と、同期で、しかも、しかも、この戦隊で、一緒になって、一緒にな

って、なあ!杉山、随分お世話になったよ、いや、いや有難う、有難いと思うよ。

なー、杉山っ!

明日は、決戦だっ!

明日は、決戦だっ!

杉山っ!おう!杉山っ!

明日は、一番にあがるぞっ!

なー杉山っ!

あとのことは、あとのことは、頼んだぞう。

あとのことは、くれぐれもよろしく、なー

杉山!あとのことは、頼んだぞう!

くそったれ、

飛行師団司令部の奴等、くそったれめがっ!

くそったれっ!くそったれっ!

なあー杉山っ!

判って呉れるだらうっ!

なあー、杉山っー、杉山ー、杉山ー。」

と、いいつつ、体が崩れて、バンガーローの床の上に、座り、そのまま、両手を挙げて、

大の字になって、眠ってしまった。

岡野和民大尉は、陸士53期生で、私とは、陸軍予科士官学校の時、同じ中隊で教育を受

け、航空に岡野君は入リ、私は歩兵から航空技術に転科して、又飛行第三十一戦隊で一緒

に少尉時代から、斗って来た仲であった。

この比島派遣が決定する前の本年の二月か三月に結婚して、新婚の御夫人を満州の基地

に連れて来ていて、私も一緒に、彼等と過ごし、御夫人は、比島に出発するときは、妊娠

して居られた筈であつた。

あとの事は、頼むとは、飛行第三十一戦隊のことのみでなく、新夫人のことについての

ことも含めてのことであったらう。

最近判ったことであるが、西進少佐から聞くと、明朝出発する、小佐井中尉、山下軍曹

の特別攻撃(カン作戦)に対して、最後まで、岡野大尉と、増永大尉が、西戦隊長に対し

て、一緒に出撃させて呉れと、懇願してやまなかったが、特に岡野大尉は、執劫に迫って、

最後まで、ねばっていたということである。

私には、研究会の結論として、戦隊長を先頭として、全飛行隊の精鋭で、特別攻撃隊を

編成して、攻撃を行うことになっていたのが、催か二機のみになってしまった経緯は、全

く判らないままになっている。

僅か二機のみでは、勿論効果はあがらぬ事が白明のことであリ、まして、援護機も、戦

果確認機の処置もなしということで、何故、出撃させることになったのか?

私には、今でも、疑問であるのみか、司令部その他の良心において、人間性のみならず

軍人として、しかも統帥者としての心情を疑うものである。

さりとて、私には、何の発言権もなかった。

岡野君が、私に云った、明日は、決戦だっ!

司令部のくそったれ、馬鹿野郎と、叫んで、酔いつぶれた姿の中に、私はやり切れない

ものを見ることが出来た。

彼が、バンガローの床板の上で、大の字になって眠り、いびきを立てはじめたので、私

は慌てて当番兵を呼び、二人で、岡野大尉を、彼のベットえ運び、毛布をかけた。

私も、二機出発のことは、夫々の中隊に、当番伝令によって、知らせることにして、私

は、暫く仮眠することにした。

すでに、時間は、午前一時近くである。

私は足音をしのばせて、私の寝室に入り、私のベツトの上に横になった。

隣のベツトは、第二中隊の木塚准尉であったが、私がベットに横になったとき、ベット

が少し、キシンだ音をたてたとき、木塚准尉が、私の方と反対側え、大きく寝返りをう

って、たった一言、

「岡野大尉は、いいですね。

杉山大尉に、何でも云えるんですからねー」

と、ぼそっと云ったのが、私の心、胸の中に、ジンーンと通るものがあった。

 

4.特別攻撃出撃と戦況

昭和十九年の九月十二目の真夜、十三目の早朝、私は僅かに、まどろんだだけで、起き

て、飛行場に向った。

午前四時から、全戦隊の出撃機の発動機その他の調整のための始動が始まるからである。

早朝、真暗な道を、飛行場に急いだ。

大空は、黒青色に澄み渡って、満天の星が手近に取れるようであり、南十字星が、西の

空にあった。

飛行場の指揮所に入って、各中隊からの始動の試運転の状況を見ていたが、各中隊の繋

留地を一巡して、夫々報告を受けた。

昨日の戦斗による被弾機の修理は、大した事でなく、終了して、本日の予定の出動機は、

全機異常が無い。

本日も、メナド基地えの出発の命令は出ているが、十二日、警戒戦備解除の命令が出て

いるけれども、米機動部隊の攻撃を受けた事で、我々は、全機、爆弾装備と、メナドえの

出発のための、増加タンクを、機側に置いて、命令の変化に応ずることにした。

フアブリカ町は、青黒く澄んだ空に、真黒な椰子林の中に、まだ眠りに陥ちこんでいる

ように見えて、サガイ河の河谷から、ほのかに河霧が、はい上り、かすかな風によるもの

であらうか?

飛行場の方え、地面をたなびいて、消えている状況が見え、草々には、しっとりと、露

がおりている。

指揮所の裏にある一かたまりの、椰子林の葉は、少しも動かないで、黒々とした葉をみ

せたままである。

各中隊の飛行機も、今まで轟音を響かせていたのが、薄い霧の中に静まり返ってしまった。

午前四時三十分、フアブリカ街の方で、一つの電燈の灯が、つけられて、何かの動きが

出て来た。

小佐井中尉等が起床して、朝食を摂り始めたのであらう。

私は、一人、指揮所の机に向って座っていたが、床の下から、当番兵が、ごそごそと起

きて来た。

背後の椰子林の中の対空無線の壕の中にも、椰子油の灯がつけられて、その光は、露に

濡れた、椰子の幹を、照らし出した。

やがて、フアブリカ街の東南端の戦隊本部の宿舎全部に、灯がつけられて、人の動きが

見えるようになった。

小佐井中尉と共に、飛行隊全員が、午前六時からの岡野大尉以下、第一中隊の哨戒飛行

をする人々が、いや飛行隊全員が、本日の決戦のために、起床したのであらう。

一台の自動車が、フアブリカ街から、飛行場えの坂を昇って、指揮所の方に近づいて来る。

西戦隊長、小佐井中尉と、山下軍曹とであった。

三人は、指揮所の前で降り、戦隊長と三人で、最後の出発の打合せと、出撃の申告を行

っていた。

私は戦隊長に、全機出動の準備が整っていることを報告して、戦隊長の傍らに立った。

戦隊長は、米機動部隊の位置の推定、そして、これの攻撃要領等を指示しているようで

あり、三人は、椰子油の灯で、何かを打合せをして、西戦隊長に敬礼して分かれた。

そこに、飛行隊全員を乗せた自動車が到着し、西戦隊長は、全員に、本日は決戦である

こと、全員の蕾闘を期待する事を告げて、岡野大尉以下、第一回の哨戒出動のものが、戦

隊長に申告して、夫々の中隊の飛行機の場所に散って行った。

午前五時十五分、小佐井機は始動を開始し、ついで、箪三中隊の山下機が、始動を始めた。

小佐井機の両翼下に、黒々とした百kg爆弾が懸吊されているのが、無気味であったが、

爆弾の尖端の信管についている風車の安全栓には、鉄針が指込んであった。

機付長は、最後の点検である。発動機の回転を、最高にあげて、異常が無いのを確かめ、

機の傍らに来ていた、小佐井中尉の方を見たので、小佐井中尉は手を挙げて合図をしたの

で、発動機の回転を緩くして、機上にあがって来た、小佐井中尉と、交替した。

小佐井中尉は、隼戦斗機の座席に入って、発動機の回転をあげ、彼自身で、発動機、そ

の他の調子を確かめて、回転を落とし、前にかがんだような姿勢でいたので、機付長が、

小佐井中尉の顔の付近に、体を屈めて、何やら二人で、話をしていた。

我々には、発動機の轟音で、何を話しているのか良く判らなかった。

小佐井中尉と機付長の話は、二言三言のように思はれたが、機付長は、小佐井中尉に

敬礼して、機から降りて来て、他の機付兵と共に、車輸止めについた、縄を握り、小佐井

中尉の合図を待った。

どうしたのか?小佐井中尉は、座席の前にある計器盤の方に向って、何かを祈るような

姿をして動かない。

五時三十分出発の予定であるのに、既に二分も過ぎてるのに、小佐井中尉は動かない。

私は、三分になったので、不思議に思い、意を決して、小佐井機の翼にあがり、小佐井

中尉の座席に近づいて、小佐井中尉の肩に手をかけ

「どうか、したのか?」

と、一言云ったら、小佐井中尉の方が、

「どうか、したのですか?」

と、問うので、私は黙したまま、左手の腕時計を示した。

小佐井中尉は、

「ああ、もう、出発時間をすぎましたか?

 杉山さん、早く知らせて、下されば、良かったのに」

と、一言を云って、両手をあげ、車輸止め外せの合図をして、発動機の回転を高め、指揮

所の背後の位置から、滑走路の出発点に向かって、動いていった。

第三中隊の方を見ると、山下機は、最後の点検を終了して、誘導路上に出ているらしく、

赤と青の両翼端の灯りが、動いて見える。

小佐井機は、サガイ河からはいあがって来る河霧の中に入ってゆき、滑走路の南端え行

って、くるりと、機首を離陸方向に向けて、山下機の来る状況を見ている様子であった。

山下機が、誘導路を、離陸出発に向かっているのを見定めて、小佐井機は、轟然と、発動

機の回転数を上げて、離陸していった。

両翼の赤、青の翼端灯と、尾部の白い灯りが、滑走路を走り、車輪を見事に翼の下に畳み

込み、空中に上昇したとき、滑走路の出発点に、山下機が、出て来て、轟然と出発して行った。

小佐井機と、山下機が、空中に赤青の翼端灯を、すい星のように、鮮かにきらめかして、

上昇して行つたとき、南の方のシライ山の頂上部近くを一機、東の方に向って行く飛行

機が見えた。

何処かの戦隊の飛行機か判らぬが、満天の星がきらめく中に、青、赤の灯が、ゆっくり

と、星影を縫うようにして、東えと、飛び去って行った。

小佐井機と、山下機は、飛行場上空を、左旋回して、我々の頭上を飛び抜けて、東方の

暗闇みの中に消えて行った。

第一中隊は、岡野大尉以下、全中隊機が、十三日の第一回目の哨戒警備飛行として、離

陸してゆくことになっているので、第一中隊の方で、始動が始まったので、私は第一中隊

の方に行った。

私が近づいてゆくと、岡野大尉は、彼の愛機の傍で、試運転の状況を見つめていたが、

私の方を振りかえり

「杉山っ、

 では、行って来るぞっー」

と、一言私に云つた。

昨夜は、私の首にかじりついて、真赤な顔をして、くどくどと、色々の事を云って、最

後は、

「司令部の馬鹿野郎っ!」

「くそったれっ!」

と、いいつつ、酔い潰れて、バンガローに倒れ、眠ったのに、今日は、顔全体が、朝の気

に洗はれたように、真白く見え、何となく、神々しいような、澄み切った顔になっていた。

私は、彼に敬礼して、

「しっかり、やって来て呉れ」

と、全く、つきなみの事しか、云えなかつた。

岡野大尉は、私の方に手を出して、私の手を握り、

「お世話になったなー」

と、云ったので、私は黙って、彼の手を握り返すと、彼は、

「では、行って来る。」

と機付長の方に合図のため、補助翼に手をかけて、動かし、翼の上にあがって行き、機

付長と交替した。

彼も、一通り、発動機の回転をあげて、点検をすますと、片手をあげて、車輸止めを外

すように合図をして、動き始め、滑走路の出発点に向って行った。

これを契機に、策一中隊の出動全機が、動き始めたので、私は指揮所に戻った。

第一中隊の出動機は、まだ薄暗い飛行場を、滑走して、次々に離陸してゆく。

東方海上で、編隊を組んで、飛行場上方を東方に向かって、出発して行った。

それを見送って、私は、指揮所に運ばれて来た、朝食の飯と、味噌汁を急いで、食べ

始めた。

昨夜以来、私、初めて、ゆっくりと、食事をすることが出来たので、一粒一粒の御飯を

ゆっくりと、噛みしめて、食べた心地がした。

その喰べている、一噛み一噛み毎に、夜明けになって行った記憶がある。

滑走路まで、たなびいていた、サガイ河のミルクを薄めたような霞か、河霧は、岡野第

一中隊編隊で、けちらしたように、激しい動きをしていたのが、何時の既にか消えて無く

なり、フアブリカ町の椰子の林が、ほのかに見え始め、シライ山の頂上一帯にキラメイて

いた、星の光が、一つ一つ、東からの光の線に貫かれて、落ちたように、光を消してゆく。

あたりが、次第に明るくなって、滑走路の隅々まで見えるようになって来た。

やっと食事を終り、お茶を飲んで、茜色の暁の光に、東方の空を見ていて、ふと、気づ

いた。

小佐井中尉の機付長が、機付兵と二人で、車輸止めを持ったまま、二人並んで立ちつく

して、東の方を見つめたままである。

彼等は、朝食も摂っていない様子なので、私は不思議に思って、指揮所の階段を下りて、

近づいて行った。

東の空は、暁の光が、地平線にみなぎり渡って、真赤な太陽が、もうすぐ、顔を出すで

あらう。

機付長の兵は、その東の空を見つめたまま、両の眼に、一杯に涙を溜めていた。

「おい、どうしたのか?」

と、私が尋ねると、彼は、慌てて、顔をこすり、涙を拭いて、

「隊長っ!

小佐井中尉殿は、帰一て来ますよねーっ!

必ず、帰って来られますよねーっ、

隊長っ!

必ず、必ず、帰ってこられますよねっ!」と、私に尋ねるのであった。

「小佐井中尉は、必ず帰って来る。

そのような、命令になっている。

一体、どうしたのか!」

と、聴くと、

「隊長、隊長っ!

小佐井中尉は、出発のとき、私を呼んで、こう申されました。

『今日は、特攻をして来るからな。

長い間、お世誘になったな!

有難う!

では、行って来るぞっ!』

と、申されました。

隊長、特攻というのは、体当たりでせう。

命令はカン作戦ということでせう。

跳飛攻撃でせう。

小佐井中尉は、必ず、帰って来られますよねっ!」

と、いうことであった。

私は、この言葉を聞いたとき、

「小佐井の奴、とうとうやったなっ!」

と、思った。

小佐井中尉は、典型的、薩摩武士である。

第三中隊の増永大尉と、同郷でもあったが、この二人は、日本陸軍の将校の模範的な

青年将校としての気概をもっていた。

気持は、誠に、純粋でのものであった。

私も、軍人としての気概、士気については彼に少しも劣らぬとは思っていたが、小佐

井中尉の真正直と、真剣さには、全く兜をぬがされることが多かった。

彼は、あまリ、シヤベらぬ人間で、話は、気分が先に立つ、トツ弁の人であった。

しかし、九月九、十日のパニツク状況と、十一日、米機動部隊に対する、非常警戒戦備

命令等の撤回等で、統帥部に対する、不満が、噴き出る程であったことであらう。

カン作戦の跳飛攻撃は、米艦に肉薄して、対空砲火の中を、超低空で飛んで、爆弾を落

とし、敵艦を跳び越えて、攻撃する方法であるので、決死の覚悟でやらねばならぬ攻撃

方法である。

勿論、この突撃肉薄してゆく攻撃は、掩護機も、何も、一機対一艦であるが、この攻整

に移るための途中は、爆弾を抱えての空中戦は出来ない。

掩護が必要であり、決死の攻撃であるので、万一というよリ、十中八、九、は休当たり

の攻撃である。

当然、戦果確認をなすべきである。

私には、司令部も、また、飛行団も、また、戦隊長、飛行隊も、このような単独の攻撃

を命じ、何もしなかったこと自体が、どうしても、理解出来なかった。

命令は、特攻ではない。

しかし、小佐井中尉は、

「特攻をして来る。

お世話になったな。」

と、機付長に、最後のお別れの言葉を残していた。

私は、呆然として、昇って来る太陽を機付の兵達と、眺めていた。

心の中で、

「何と、いうことだ。

何と、いうことだ!」

と、繰り返し、繰り返し、つぶやいて、立ちすくんでいた。

突然、指揮所の背後の対空無線の壕から、飛行場大隊の兵が、上半身を出して、私に、

「杉山大尉殿っ、

岡野大尉殿からの無線電話です!」

と、いう声が聞こえたので、私は振り向きざま、走って、壕にゆき、地下に入って、

受話器を受けとった。

「岡野っ!

俺だっ! 

杉山だっ!

どうしたのかっ!」

と、聞くと、

「岡野編隊、報告。

セブ、東方海上、5000、米軍機、約二百機、西進中」

と、いう。

「よし、判ったっ!

すぐ、全機、出撃させる!

あとは、予定通りだっ!

頑張れ!」

と、いうと、

「諒解!諒解!

岡野編隊は、この敵機に一撃かけて、戦隊の集合地に向い、合流する。

終りっ!」

と、云って、無線電話は切れた。

私は、受話器を置いて、すぐ壕から飛び出したら、立っていた、小佐井中尉の機付兵

等が、

「隊長、敵機っ!」

と、叫んだので、指揮所え走りながら、東を振り向くと、フアブリカ飛行場の東にある、

シライ山からの東北えの尾根が、丘陵となって、黒い背を見せている。

その尾根を越えて、約五十機の戦斗機が、超低空で進入してくるのが見え、私は、

思はず、指揮所の上にかけ上がり、出動の鐘を鳴らした。

そのとき、横一列に、真っ黒な翼を並べてくるグラマン、F.6.F.戦斗機が一斉に射

撃を開始し、黒い影の中カら、真赤な火が連なって見えた。

指揮所の裏の椰子林の中にある、対空監視哨も、一斉に鐘を鳴らしつづけている。

その上を、米戦斗機群が望楼すれすれに、飛び走ってゆく。

そして、フアブリカ町上空で、反転した戦斗機群は、第二波の編隊が、銃撃を終了して、

追尾して来るのを確かめると、更に第二撃の攻撃に、急降下して来る。

その攻撃して来る状況を見つめていると、背後で、

「杉山っ!杉山っ!

何処に居るのかっ!」

と、叫んでいる、西戦隊長の声がする。

飛行場の上空を見ると、約高度四千米くらいに飛行して来て、シライ山の頂上近くまで

来た、艦爆編隊群が、三方に分れ、その一隊が、このフアブリカ飛行場に突っ込んで来

るのが見えた。

第二中隊の繋留地から、中沢大尉機が滑走路に飛び出して来て、斜めに走り、フアブ

リカ北方の空え消えて行った。

第三中隊の繋留地からは、増永大尉であらう、誘導路から、速度の低いまま滑走路に

出ないで、飛びあがり、フラフラした速度でシライ山の麓の空に飛んで行った。

第二中隊、第三中隊機が、何機か?中沢、増永機につづいいて飛び出していくときは、

反転していた米戦斗機が、第二回の銃撃の弾丸、曳光弾の飛び交う中のことであった。

その上空から、艦載爆撃機が、夫々の編隊が、一列になってつながり、急降下、爆撃姿

勢に入ると同時に、両翼についている機関砲の銃撃を開始して、滑走賂の西側から、指揮

所をめがけて、機関砲弾の弾着が、土煙りをあげて近づいて来る。

滑走路の上の低空で、爆弾が離れて、指揮所目がけて、落下して来る。

私は、滑走路の機関砲弾の弾着が、両翼であって、あまりの低空であるためか、真中に

間隙があるので、その間隙のあるところに逃げると、小出副官と書記の加藤曹長が、私の

尻について、しがみついて来る。

もう立って居られないので、指揮所の床に伏せると、私の体から両方僅か1mのところ

を、銃弾がミシンのように、床板を縫って穴をあけ、通りすぎ、爆弾は、指揮所から十米

ほど離れたところに落下して、爆発した。

第二中隊の石川軍曹機が、その銃爆撃の中を潜り抜けて、滑走し、離陸して行ったが、

これを見つけた、グラマンが、まだ速度の遅い、石川機に、急降下して来て、銃撃すると、

石川機は、一瞬にして火に包まれた。

しかし、石川機は、グラマン機が、つんのめるように、石川機を追い越して行ったのに

対して、一斉射撃を行って、グラマン機に追尾して火を噴きながら上昇し、グラマン機か

らも、火を発したと見ると、見事な加藤ターンで、大地に激突して、炎上した。

そのとき、背後から、西戦隊長の声が、またした。

「杉山っ!杉山っ!

どこに居るのかっ!

俺の飛行機は、敵の第一撃で、風房が飛んでしまって、出撃出来ないっ!

他の飛行機を、出せっ!

杉山っ!杉山っ!」

と、叫んでいる。

見ると、西戦隊長は、頭の上に、鉄帽をかさした形で、顔を真赤にして、対空無線の傍

で、叫んでいる。

そのとき、フアブリカ町上空から、艦爆の第二編隊が、急降下で突込んで来るのが

見えた。

私は大声で、

「戦隊長、危ない!

 対空無線の兵は、手を貸して、戦隊長を、壕の中に入れろっ!」

と、叫んだら、対空無線の兵が二名、壕より飛び出して、西戦隊長を、壕内に引摺り込

んでしまった。

その西戦隊長が走って来たところに、艦爆からの爆弾が二発、つづけて、爆発した。

ひょいと、もう、離陸する飛行機は無いかと、第二中隊、第三中隊の誘導路を見ると、

第二中隊の飛行機繋留地域の一番奥にあったのか、高橋中尉機が、猛然と、誘導路を

滑走路に向けて、走ってくるのが見え、滑走路の南から、滑走路に沿った誘導路を、

飛行場大隊のトラック貨車が、気狂いのようになって、指揮所の方に砂煙を上げて、

走って来るのが眼に入った。

私は、思はず立ちあがって、指揮所の東南隅の台の上にあがリ、トラックに向って、

大声で、

「止まれっ!

飛行機、が来るっ!

止まれっ!」

と、両手を、狂気のようになって振り、大声をあげて、声を振り絞って叫んだが、トラッ

クは、気がつかないようであった。

滑走路上空に急降下した艦爆撃機からの銃撃が、けたたましい音を立てて、私の背後の

指揮所の床板を撃ち抜き、爆弾が、指揮所から、約三十米離れて、大地に吸い込まれるの

が見えたので、私は、思はず、指揮所の床板に伏せた。

大地から、猛烈な土煙りの柱があがって、高橋中尉機の方は、全く見えなくなってしま

った。

もう、離陸する飛行機は、無いようなので、小出中尉と、加藤曹長とに、声をかけて、

指揮所から退避する決心をして、指揮所の階段を下りようとしたとき、飛行場大隊のトラ

ックは、眼の前に、爆弾が落ちたので、誘導路の出口で、停止したのに、高橋中尉機が、

横から突っかけてしまったのであらうか?

二、三の兵が、トラックから降りて、高橋中尉を助け出さんとしていたが、グラマン戦

斗機が、二機、高橋機めがけて、銃撃をかけて行った。

高橋中尉は、立ちあがっていたようであったが、座席の中に入ってしまった。

トラックの兵は、銃撃に逃げようとしたが再び高橋中尉を助けようと、高橋機にとりつ

いていた。

指揮所の上空を見ると、艦爆が、五、六機、一列になって、指揮所の方に向って、突込

んで来る。

指揮所と、高橋機の中間に、二発の爆弾が、黒い線を引いて、大地に吸収され、その大

地が、ふんわりと盛りあがり、次第に大きくなって、丁度、風船のように、ふくらんで、

その中心から、雷の光の様な火光がキラメキ、その風船は、パット、粉々に散って、火光

から出る黒煙と、風船の土煙りが一緒になって、大空え舞いあがる。

対空無線の壕の方も、二、三発、爆弾が落ちた様で、私は壕えの逃げ場が無い。

指揮所から、優か二十m近い、爆弾の弾痕の中に飛び込んで、艦爆が急降下して来る方

の斜面に伏せたら、小出中尉、加藤曹長も一緒になって伏せた。

米軍の艦載爆撃機の急降下、爆撃は、一、二発、指揮所より、滑走路の方に落ちて、大

きな地煙りの柱を立てたが、大部分は、指揮所よリ、東側に落ちた。

三番機くらいの一機が、百kg爆弾と思はれるものを、つづけて、三発、機体から離して

急上昇して行った。

その中の一発が、真正面の45度の角度から、私の方に近づいて来る。

落下する場合、少しでも、長めに見えると、他え外れるのであるが、此の爆弾は、何時

までも、真っ黒の真円に見える。

「小出、加藤、

いよいよ来たぞう!」

と、私は声をかけて、弾痕の斜面に伏した。

そのまま、私の記憶は、フッ切れたようにくなってしまった。

何秒、何分たったか判らない。

真黒暗の中に、私は、モガイていた。

ふと気がついて、私は、伏せたまま、顔をあげて、周囲を見廻すと、もう米軍機は居な

かった。

爆弾は、私達が伏せている弾痕の反対側の線のところに落ちて、私達は、直撃されたの

では無かつた。

爆弾が落ちたところから、十米も離れていないで、全身に、土を被ってしまっていた。

恐らく、爆弾の衝撃で、地面に叩きつけられて、気を失ったものと思はれる。

隣を見ると、小出中尉、加藤曹長も、地面に伏せたまま、気を失っていたので、小出中

尉と、加藤曹長の肩を叩いたら、二人とも、気がついて、起きて来た。

その二人が私の顔を見て、大笑いするのて、二人の顔を見た、私も、吹き出してしま

った。

爆弾の衝撃で、三人共、地面に叩きつけられたとき、弾痕の斜面の軟かい土に顔をつけ

ていたのが、叩きつけられた瞬間に、土の中に押し型のように、叩きつけて、顔全体が、

真黄色になってしまっていたのである。

三人で慌てて、顔を拭って、さて、米軍機はと見ると、艦爆群は、飛び去って行ったら

しい。

これから、三十分後に、第二波が来る筈である。

それまでに、激撃の態勢をつくらねばならぬと、私は決心して、準備にかかった。

離陸して行った、飛行機は、恐らく、全滅であらう。

小佐井、山下機の帰遼時刻は、とうにすぎている。

岡野編隊も、どうなったか、判らなかった。

対空無線の壕から、西戦隊長が飛び出して来て、私と戦隊長機のところに行って見ると、

風房が、ふっとんでしまって、前面の風房ガラスに穴があいているだけであったので、

西戦隊長は、誰か生きているかも知れぬから、飛んで見るといって、きかなかったので、

私が始動装置を回転させて、殆動し、西戦隊長は、急いで離陸して行った。

滑走路から飛びあがり、低空で、フアプリカ町の上空を周って、シライ山の河麓地帯か

ら、飛行場東方地区、サガイ河の河口地区え飛んで行ったが、一向に様子は判らなかった。

銃爆撃のすざましい轟き、爆発音、飛行機の空中戦等の音などのあった戦場は、誠に空

しいもので、幸い、空中で炎上した、石川機以外に、地上機で炎上したものは、一機も無

かった。

全く、戦場の音絶えた、緑の大地の上を、鮮かに、戦隊長の標識をつけた、飛行機が、

ゆっくリ飛ぶ姿は、何とも、云いようのないものであった。

 

5.激斗のあと

昭和十九年の九月十三日、飛行第三十一戦隊の米機動部隊との戦斗は、米軍の奇襲に

よって、優か二時間足らず、午前六時三十分から午前八時三十分の間に、絶対的敗勢からの

激撃は終了した。

戦死者は次の通りである。

岡野和氏大尉  飛行隊々長第一中隊長

中沢比佐雄大尉 第二中隊長

増永三七男大尉 第三中隊長

高橋真也中尉

木塚雪夫准尉

上野久四郎曹長

岩部信夫軍曹

石川 伸軍曹

芝田栄太郎軍曹

永田利喜雄伍長

以下十名の外、特別攻撃を行った、カン作戦の二名

小佐井武士中尉

山下光義軍曹

の二名で、合計十二名である。

飛行第三十一戦隊の将校は、戦隊長の西少佐と、最も若い将校の寺田中尉のみに

なって、飛行隊の下士官も、木塚准尉以下、最も、ベテランの人々を失った事になった。

午前十時頃、飛行第二師団司令部より、激撃を停止する命令が出て、戦隊は残った飛

行機の遮蔽と、分散に努める事になった。

その指揮をしていると、伝令が来て、高橋眞也中尉が、私に会いたがっているとの事で

ある。

指揮所に帰って見ると、西戦隊長が、是非会ってやれということで、飛行場から離れ、

飛行場大隊の医務室に行った。

医務室は、フアブリカ町のサガイ河の東岸の砂糖工場の上の斜面の兵舎にあった。

医務室の患者収容病棟の入口を入って、そこに居た、衛生兵に、高橋中尉は、何処か?

と、尋ねると、医務室の奥で診察していた、四十歳年輩の軍医が出て来て、奥の方の高橋

中尉が寝ている場所に案内した。

軍医に、何処をやられたのかと聞くと、

「左胸部貫通機関砲傷です。

もう、助かりません。」

と、首を振って、奥の方に入って行った。

高橋中尉は、鎮痛剤の注射を受けているのか?眞蒼な顔をして、眼を塞いで眠ったよう

にしていた。

「高橋!俺だ!杉山だーっ!」

と、云うと、高橋中尉は、眠っていた眼をあけて、私を見た。

彼の顔には、もう薄青く、死相が出ていたが、薄く開いた眼で、顔を近づけた、私が判っ

たのであらうか?

「おう、杉山さん、!

杉山さん、私は、私を、飛行機の上に連れて行って下さい。 

飛行機の上で死ぬです。」

と云う。

私は、

「高橋!しっかりしろっ!」

と、声をかけると、彼は、私の言葉に、何かを感じたらしい。

眼を大きく開いて、私の顔を見ながら、

「天皇陛下、万歳」

と、大きく云って、大きく口をあけて、あえいだ。

胸部の負傷で、肺の機能を破壊され、前から胸部の背後に、機関砲弾が貫通し、背中の

方に大きな穴が関いてしまって、呼吸する空気が洩れるので、大きな、厚い脱脂綿と、ガー

ゼで塞いであるが、ブガ、ブガと音を立てて、抜けてしまうので、酸素の補給が、充分でない

為に、昏睡状況に入らんとするのを、必死に努力している。

何かを云はんとして、口をもご、もごと動かしてしたが、

「杉山さん!

 機上に連れて行って下さい。

 機上で死にます。」

と、云って、目を塞じたが、やがて、

「杉山大尉殿、

あとを頼みます。

しっかりやって下さい。

木内、サヨウナラ」

と、目を塞ぢ、唇をなめていて、大きく、口を開いて、あえいでいたが、

「杉山大尉殿、

長い間、御邪魔しました。

畜生英米野郎!

P五十一メ

戦隊長に宜しく」

と、私に、これらの事を云ったので、安心したのか?深い昏睡状況に入った。

時に、九月十三日の午前十二時五十分から午後一時十五分の間の出来事であった。

彼が昏睡状況に入ったので、私は、整備日誌に、急いで、なぐり書きのメモをしていた

ら、飛行場の方で、急に、銃撃の音が始まった。

米機動部隊の第二波の攻撃が始まったらしい。

私は軍医のところに、飛んで行って、飛行場に帰る旨を伝え、戦隊の衛生兵に、高橋中

尉の世話をする事を頼んで、飛行場に引返した。

銃撃しているのは、午前の攻撃同様、戦斗機群が、我々の激撃を予期して来たらしいの

であったが激撃が無いので、地上攻撃に移ったらしい。

私は、飛行場の北端から、地隙の凹部を通って、指揮所に着いたら、戦隊長以下は、

激撃中止ということで、飛行隊全員は、宿舎の方に、退避したらしく、誰も居ない。

指揮所に居た、留守番の当番兵が、壕から出て来て、私に、

「飛行団長が、お呼びである。」

と、伝えた。

飛行団司令部は、飛行場の滑走路を、戦隊指揮所と、反対側の、サガイ河河谷の断崖

の上にある。

激撃中止で、離陸する飛行機が無いので、一気に滑走路を横切って、走れば行ける

が、途中は、全く暴露した姿で、走らねばならぬ。

私は、カモフラージ用に、指揮所にあった、将校マントを持って、飛行団司令部に走

った。

しかし、飛行団司令部には、誰も、残って居なかった。

さて、飛行団司令部から、戦隊本部の指揮所え帰らねばならぬ。

飛行場を銃撃していた、米戦斗機は、引揚げて、上空に待機していた、艦載爆撃群が、

編隊を解いて、フアブリカ町上空を旋回して、急降下して、攻撃して来る。

飛行団司令部の指揮所と、飛行戦隊の指揮所を目標にして、突っ込んで来るらしい。

艦爆機の突入して来る方向軸線から外して、滑走路を横切って、戦隊指揮所の方向に

走る。

艦載爆撃機は、突入急降下の方向が決まると同時に、両翼についている機関砲と、機

関銃を発射し始めると、その曳光弾と、銃砲弾の弾着で、バナナの葉が吹き飛び、地面

から、土煙りがあがって来る。

私は、その方向を真横に走って避けて、将校マントをすっぽりと、頭から被って、滑走

路上に、うずくまると、すさまじい音をたてて、銃砲撃弾が、滑走路に、土煙りあげて、

走り去ってゆく。

その音が横を通るのを見定めて、全速で、滑走路を走る。

二番機が、今度は、私の姿をめがけて、突っ込んで来て、滑走路の西側の端から

土煙りをあげ始める。

それの方向の真横に、一生懸命で走って、避けて、うずくまると、艦爆撃機は、方向修

正が出来なくて、一瞬の内に、弾着は、私から二〜三米離れて、飛び去り、爆弾は、遥

かな先方に、土柱をあげて爆発する。

その瞬間に、戦隊指揮所の蔭に逃げ込んだ。

対空無線機のある壕の中に飛び込むと、私の様子を見ていた、飛行場大隊の兵達が、

眼をむいて、驚いていた。

私の行動を、はらはらしながら見ていたらしい。

対空無線機は、米軍艦上爆撃機群の指揮官らしい声で、全機に対して、攻撃の指示を与

えているらしく、第一回の攻撃が終了して、上昇して来たものを、高度二千くらいでまとめて、

対空砲火も、激撃もないので、各編隊に、攻撃の指示を与えている状況が、手にとるように

明瞭に聞こえた。

ジョン、アタック、ライト

ボブ、アタック、レフト

と、いう風に指示を与えると、夫々の編隊は空中で編隊群に分かれ、その編隊が一列に

解隊して、夫々の地区え、急降下して来る。

畜生っ!と思うが、対空射撃の武器を持たない戦隊では、手の施しようがない。

じっと、攻撃を我慢してゐるより外は、手が無い。

指揮編隊と思はれるものは、指揮所を中心とする地域え、左の編隊は、第一中隊及び、

飛行場大隊の燃料弾薬の集積所付近に、右の編隊は、第二、第三中隊の地域に、各編隊

が、釣瓶落しに、編隊を解いて、急降下をして、爆撃して行った。

全飛行場が、すさまじい土煙の煙柱に包まれて行った。

攻撃した、各機は、夫々、東の空に、飛び去り、やがて、消えて行くと、上空を援護し

ていた戦斗機群も、約三千米の上空を、東の空に消えて行った。

この状況を、対空無線の壕より出て、見定めた私は、飛行場の対空監視哨の望楼の上に

昇っている兵に向って、空襲警報、解除の鐘を鳴らすように指示して、私白身も、指揮所

の鐘を鳴らした。

しかし、飛行場の何処からも、戦隊の兵達が出て来る様子がないので、私は、第一中隊

の方に、行って見た。

ここには、飛行場大隊の燃料、弾薬の集積所があったので、これに、爆弾や、銃弾で火

がついていたら、大きな損害を受けたであらうと思うが、幸いに、無事であった。

各飛行機の援体、係留してある場所を見ても、兵達の姿が見えぬので、第一中隊の地域

の東側の台地の地隙が出来ているところに行って見ると、各兵が、地瞭の斜面の凹地に

ひれ伏すように、伏して、動こうとしていない。

私が、

「空襲は、終わった。

さあ、飛行機の点検だっ!

飛行機の損害状況を、警告しろっ、

第一小隊の小隊長、何処に行ったか?

速やかに、探し出して、隊長の許に来るように伝えろ。」

と、叫ぶと、やっと、兵達が、

「ああ!隊長、無事でしたかっ!」

と、顔を起し、立って来た。

兵達の奥から、第一小隊長の久保木少尉が、眞蒼な顔に、油汗をしたたらせていたが、

「第一小隊長!参リましたっ!」

と、いう。

まだ、気分が、動転しているらしいので、彼の肩に手を置いて、

「速やかに、兵達をまとめて、負傷者は無いか調べろ、

そして、各飛行機の損害を調査して、報告しろ」

と、いうと、急に、顔に血の気があがって来て、

「はい、兵達を調べ、飛行機を調査して報告しますっ。」

と、いうので、私は、もう大丈夫と思って、戦隊指揮所に戻り、次いで、高橋中尉機が、

飛行場大隊のトラックに乗リあげているのを外したのを点検した。

プロペラは、自動車の鋼鈑にうちつけて、ひん歪ってしまっていて、多分高橋中尉を撃

ち貫いたと思はれる弾痕が、前の風防ガラスに穴が開き、機体に十数発の弾痕があった。

恐らく発動機のシヤフトも、損傷しているので、発動機交換をしなければならぬであらう。

機付長に、その措置をとるようにして、第二中隊の繋留地域を巡ったが、このとき

には、整備隊員全部出て来て、各飛行機の点検と、遮蔽、分散を始めていたので、一人、

一人に声をかけて巡った。

第三中隊は、増永大尉以下離陸して行って、未帰還であり、山下軍曹も帰って来ない。

増永機と一緒に飛び出して行った、寺田中尉のみが、空中戦斗で、火を噴き落下傘降下

して、愛機は、大地に墜落し、炎上した。

将校では、寺田中尉のみが生き残ったのであった。

幸い、整備員には、負傷者も、戦死者もなく、皆元気であったので、私も安心した。

飛行隊の方では、前述の寺田中尉が、全顔面に火傷を負うて、軍医から、顔全部に、自

い軟蕎を塗リつけられて、白塗りのピェロみたいな顔になっていたが、元気である。

第一中隊の阿部伍長は、左下眼盲貫銃創を受けて、収容され、福山軍曹が、顔面火傷で、

左下肢盲貫、右下肢に挫傷し、左顔面を、多分、不時着するときに計器板に打ちつけた

のか、打撲傷を受けていて、サガイ河口の付近の飛行場大隊の警備員に助けられ収容さ

れた。

謹 「これらの生還した人々のものは、私は、負傷の状況のみ記録しているが、夫々の

生還した状況は、私は充分な記録も記憶もないので、想像によって記した。」

私が各中隊を一巡して、戦隊の指揮所に帰って来たとき、米機動部隊の第三波がやって

来た。

私は、直ちに、空襲の鐘を鳴らして、退避せしめていると、各攻撃の編隊の先頭に、戦

斗機群が攻撃態勢に入って来たが、地上から、何等の反撃の様子もないし、地上の飛行機

は、分散遮蔽を充分しているので、一応、飛行場地区を射撃したのみで、艦爆群の攻撃は

無くて、バゴロド方向えと移動していった。

マナプラ、サラビヤ、タリサイ、バゴロド等の各基地は、相当の損害が出たらしく、黒

煙は空を覆って、大空に昇り、頂上の方は、積乱雲となって、壮絶な、様相を呈していた。

爆弾や、或は、火薬庫、或は、燃料のドラム罐が破裂するのか、猛烈な黒煙を噴きあげ

ると共に、時々煙の輸が、上の積乱雲の方に馳けあがって行き、大きな地鳴りが、フアブ

リカの大地まで、揺すった。

午後三時頃、第三波の米軍の攻撃は、終了し、この攻撃で、米戦斗機は、飛行場大隊の

宿舎の方まで、銃撃して行ったとの事で、高橋中尉は、他の負傷者と共に、退避壕え避難

したが、その中で、遂に散華したということである。

米軍の攻撃が終了し、戦斗機編隊群が東の空に消えて、戦斗指揮所にて、各整備小隊か

らの損害報告を受け、そこに、独立整備隊長が、修理のための連絡に来たので、私は彼と

一緒に、各中隊を巡り、飛行機の修理の指示をした。

高橋機については、発動機の交換を必要とするので、そのために、飛行機を飛行場から、

独立整備隊の居る場所え、自動車で運ぶ手配をして、私は、飛行団長の許に、出頭する

ため、戦隊本部宿舎に行って、戦隊長も、飛行団司令部に行っているということであった

ので、司令部に出頭した。

戦隊長は、既に、飛行隊の戦死者、負傷者の状況を報告していたので、私は飛行機の

損害状況を報告した。

地上にあった、飛行機には、殆ど損害が無かったので、まだ、戦隊としては、出動可能

であった。

これらの状況を説明すると共に、今後の対策を報告していたら、整備隊の人事係の高橋

准尉が、息せききって、私を求めて、飛行団司令部にやって来た。

何事が起こったのかと思って、

「どうか、したのか?」

と、いうと、高橋准尉は、

「隊長、

飛行場大隊は、非常時態勢に入って、今晩の食婁から、給与を打ち切ることになり、各

部隊で、飯ごう炊飯をするようにということです。

戦隊は、飯ごうを持っていませんので、如何にして、晩飯をつくったら良いか?

指示を仰ぎに来ました。」

と、いう。

飛行団司令部も、飛行場大隊からの給与を受けているので、晩飯は、飛行団自体で、飯

こう炊飯をやれということであると、司令部の給与係下士官が云う。

私は、すぐ、飛行団司令部の成屋高級部員と一緒に、飛行場大隊本部に車を飛ばせて行

ったら、飛行場大隊長は、飛行場に行って留守だという。

残っていた、飛行場大隊副官に、

「一体、飛行場大隊は何をやろうとしているのか?」

と、いうと、副官は、泣き出したいような顔をして、飛行場大隊長の各中隊えの命令書を

出して見せた。

この命令に日く

「米比葛島攻撃軍は、その重点を、フアブリカ飛行場に指向して、攻撃するものの如く、

近く、米軍は、落下傘部隊を降下せしめ、フアブリカ飛行場の占領を企図するものと、

考えられる。

フアブリカ飛行場大隊は、飛行場を死守し、この米軍の企図を破砕せんとする。

よって、本日以降、飛行場大隊は、飛行場に、展開して、この米軍の攻撃を要撃すべし。」

と、いった命令書である。

成屋少佐と、私は、この命令書を見て、正に唖然としてしまった。

二人で、顔を見合わせただけで、云うべき言葉もなかった。

私が、大隊長副官に、

「大隊長は、一体、何処に居るのか?」

と、問うと、飛行場だと云う。

成屋少佐が、苦虫を噛みつぶしたような顔をして、副官に、

「何処に居るのか案内せい。」

と、いうと、副官も、助かったといわんばかりの顔をして、喜んで、自動車に乗った。

バゴロド上空に積乱雲となっていた雲は、大空全部に拡がって、夕闇と共にそぼ降る雨

で、肌寒くなってきた。

しかし、兵達に如何に飯を喰はせるかの問題であるので、私も真剣になって、雨の中を

飛行場に向った。

飛行場の戦斗指揮所では無くて、滑走路の南半分の西側に、サガィ河渓谷からのゆるい

斜面が、飛行場に上って来ているやや広い凹地がある。

そこに在る防空壕かと思っていると、その壕の傍に自動車を止めて、副官は低く生い茂

った、笹と草の中え入って行ったので、我々も呆れながら従って行った。

副官が、我々を振りかえって、

「高級部員殿、整備隊長殿、

飛行場犬隊長殿は、ここに居られます。」

と、いう。

見れば、草笹の中に、携帯用の天幕を張って、その中に、飛行場大隊長は、眼を血走ら

せ、口をひきつって、伏せているのである。

成屋少佐が、飛行場大隊長の顔のところにかがみ込み、敵を見るようにして、

「大隊長、一体、どうしたのですか?」

と、問うと、大隊長も、びっくりしたような様子をして、

「ああ!成屋少佐殿ですか?

米軍は、この飛行場に攻撃の重点を置いて、攻撃して来ています。

恐らく今夜、または明朝、落下傘降下して、この飛行場を占領するための作戦を展関す

るでせう。

飛行場大隊は、飛行場を守るのが、主任務です。

ですから、我々は、今夜から、飛行場に展開して、この米軍の攻撃に備えているのです。」

と、いうのである。

成屋少佐と、私は、腹を抱えて、大笑いしたいのであるが、飛行場大隊長は、真剣に、

そのように考えているらしいのである。

成屋少佐は、

「師団司令部も、飛行団も、誰も、そのように考えていない。

今日の攻撃は、航空撃減戦の一つであって、このフアブリカ飛行場なんか、戦略的にも、

戦術的にも、占領しても、何んの価値もない。

落下傘部隊の降下なんか、とんでもない事であって、こんな飛行場に落下傘部隊を使用

する訳は、全くない、

航空撃滅戦は、これからなほ続くので、今日より、激烈な航空戦が、ずーっとつづくで

せう。

飛行場大隊の任務は、飛行場の警備もあるが、飛行団、戦隊えの給与が主任務でないか?

その主任務を放り出して、このような状況では、飛行場大隊としての任務を果たして

いない事になるので、師団司令部に云って、交替して貰うより外は無い。

大隊長ーっ

一体どうするのか?」

と、問うと、

「成屋少佐、

今云はれたのは、本当ですか?

米軍は、この飛行場の占領を、主目的にはしていないのですか!

はー、そうですか?」

と、見る見る、顔に血色が出て来た。

成る屋少佐は、

「その通り、この飛行場占領なんて、考えていない。

それより、速やかに、兵達に飯が喰へるようにしなさい。 

今、すぐ、命令を出しなさい。

副官、大隊長の命令を今書け。」

と、いうと、副官が図嚢から紙と鉛筆を出したのに、大隊長は、ふるえる声で、

「米軍の攻撃は、この飛行場を主目的にしていないらしい情報が入ったので、飛行場

非常警備戦斗配置を解く。

各隊は、速やかに通常勤務に復帰して、夕食その他の手配をするように。」

と、いう命令を下したので、飛行場大隊長をそこに置いたまま、我々は、大隊副官を自動

車に乗せて、飛行場大隊本部にゆき、副官が、飛行場大隊の各中隊に命令を伝達する

のを見て、やれやれであった。

その日、どうにか、夜遅く晩食にありついた。

 

6.戦場掃除

昭和十九年の九月十三日は、米58機動部隊の三次に亘る攻撃によって、終日、飛行場で

の応戦、激斗戦斗に過ぎ、夕から夜にかけては、飛行場大隊のパニック問題の解決に苦慮

して、十時すぎ、やっと、私の仕事は一段落して、戦隊本部に帰った。

 戦隊長は、飛行団司令部に行っているということなので、飛行団司令部に行って見ると、

マナプラの飛行第三十戦隊の佐藤戦隊長も来て居られて、明日は、午前六時三十分に出発

して、出動出来る全機で、マニラに進み、マニラにおける防空作戦に参加する事になって

いるということである。

私は、整備隊の宿舎に行って、この命令を伝え、出動出来る飛行機は、全機出動させる

ことにした。

戦隊長以下、全機で、九機である。

勿論、生き残りの操縦者が沢山居たが、塔乗させる飛行機が、まだ出来ていない。

この出動は、第十三飛行団の成屋少佐の記録では、九月十四日、午前六時三十分飛行団

長機編隊二機、飛行第三十戦隊四機、飛行第三十一戦隊九機、合計十五機、クラーク、フ

イルドル前進したとある。

そして、この前進は、戦力回復のための前進であるというが、飛行第三十一戦隊は、ク

ラーク、飛行場に、整備隊の配置はしていない。

整備隊の居ない基地で、戦力回復が出来る訳も無い。

成屋少佐は、兵カを分散させて、損害を少なくするためのものであったであらうという

ことであるが、私が戦隊長から受けた命令は、マニラにおける防衛航空戦参加のためと

いうことであった。

飛行団司令部から、マニラに居る、整備隊の西山中尉と、三名の兵に、急遽、クラーク・

フィールドに行かせて、前進した飛行機の世話をさせる事にした。

しかし、西山中尉と共に、彼等は、飛行機の整備をする任務でなく、兵器の管理の事務、

のみの専門家であるので、恐らく役に立たぬであろうと思った。

飛行第三十一戦隊の九機と、飛行団長の編隊二機が出発したあと、飛行場に残っている

飛行機の再点検に入った。

と、云うのは、飛行第三十一戦隊飛行隊の下士官で、出撃できる、操縦者が、四、五名

残っていたので、出来るだけ多く飛行隊員と、飛行機を、マニラ防衛航空戦に参加させた

いと念願したからである。

飛行第三十一戦隊の一機一機、夫々の故障、損害箇所を調べて、修理の対策を建てる

ための目的であった。

ところが、第三中隊と第二中隊の飛行機繋留地の中間に、一機の飛行機が、単にエンジ

ンカバーを脱しただけのが残っていた。

私が点検し、始動したところ、何処も悪くない。

エンジンカバーを取りつけて、機関砲も試射したら、立派に出動出来る。

飛行団司令部の方に連絡して、この飛行機を、クラークフイルドの飛行第三十一戦隊及

び、策十三飛行団に追随させる決定をして、飛行隊の成瀬軍曹を搭乗せしめることにした。

今日は、午前中も、午後も、米機動部隊の攻撃は、全く無い。

青々とした、南国の空に、白く輝く太陽が出て、シライ山より二つ三つちぎれ雲が、空

中に浮かんでいる好天気である。

午後一時、成瀬軍曹が戦斗指揮所にやって来て、私に出発の申告をして、飛行団の飛行

機に搭乗し、第三中隊の誘導路を通って、滑走路の南端の出発点についた。

私は、指揮所で、手を上下して、出発の合図をすると、発動機の回転数をあげて、最終

の点検をし、最大回転数を見て、そのまま、滑走して出発し、滑走路の半分程、約三百米

くらいから急上昇して行った。

高度六、七十米え急上昇中に、両脚を見事に胸に畳み込んで、そのまま機体は上昇して

行ったが、その脚を畳んだ瞬間、胴体から、二つの黒い点が離れて、ゆらゆらと、地上め

がけて、落下して来る。

瞬間、何が落ちて来るのか判らぬ。

二つの黒いものは、丸い形をしたもので、空中をゆらめいて落下して来る。

ああーっ!と思っていると、その二つの黒いものが、滑走路の真中に落下して、大地に

衝突した。

太陽の光線が照り映える、眞昼の滑走路に、隼戦斗機が飛びあがり、轟音をたてて、北

方の海上の方え消えて行った。

物音一つしないところに、大きな円いものが、二つ、

ぽかん!ぽかん!

と、空中に飛び跳ねる。

飛行師団司令部の隼戦斗機が、空中で、両脚を折り畳んで、胴体の胸に入れたところで、

二つ車輪が外れて、滑走路の上に落ちて来たのであった。

私も、飛行隊の残置人員も、一体何事が起こったのかと、呆気にとられて、ぽかんと、

口を開いて見ていたが、滑走路上に飛び跳ねして、転がったのが、車輸であることを知っ

て、いやはや、大笑いした。

しかし、成瀬軍曹は、それを知らないで、クラーク・フィルドで脚を出して、着陸した

ら、大変だと思ったが、連絡のしようがなかった。

幸い、成瀬軍曹は、この車輸の脱落を知って、胴体着陸して、転覆をまぬかれたという

ことであった。

飛行団司令部の整備員が、車輸を止める、ピンの揮入をしないで、車輸カバーの組立や

その他をやっていたので、外部から見ても、気がつかなかったのであった。

長い間、戦備の仕事をして、此の様な失敗は、初めてであった。

この日は、空襲が無いまま、飛行隊の残置操縦者と、整備隊は協力して、残っている飛

行機の整備、修理を継続した。

さて、九月十三日に散華した、岡野、増永、中沢、その他の飛行隊の戦死した人々を、

何処に自爆したかを探さねばならぬ。

フアブリカ町にある、憲兵隊の分遣所長や、フアブリカ町長、飛行場大隊等の全ての機

能をつかって、近辺の各地域を捜索して巡った。 

飛行第三十一戦隊の激撃は、離陸するときには、既に米軍機が蔽いかぶさって攻撃を受

けていたのであるので、高度は、二百米もあがっていないと思はれた。

飛行距離も、そんなになかったであらうと思うのであるが、フアブリカ周辺には、殆ど

見当たらなかった。

シライ山麓から、サガイ河、河口、セブ島に近い東海岸近くまで捜索したが、全く判ら

ない。

飛行第三十一戦隊の激撃計画は、フアブリカ北方の海上に集結して、反撃することになっ

ていたので、大部分というより殆どのものが、海上で空中戦をやったのであらうか?

私は、増永機や、中沢機その他が、急遽、離陸して行つた瞬間は見ていたが、どんな、

戦斗をしたのか?

指揮所に、次から次え襲いかかる米軍機の銃爆撃を避けるのが精一杯で、彼等が空中に

あがって後の行動を見ることが出来なかった。

確か、十五、六日であったと思う。

フアブリカ基地より、西南方のシライ山の麓につづく、砂糖黍畑の中に、一機の墜落機

がある情報が入った。

午後に入ってのことであったので、直ちに捜索隊を編成し、北村大尉に整備の指揮を委

ねて、私が引率して出発した。

北村大尉は、根っからの航空出身者で、私のように、歩兵科からの転科ではないので、

地上戦斗は、不得手というより、全く知識も、経験もないので、私が行くことにした。

歩兵科から航空に変った兵達を武装させて、二時頃出発した。

あちこち尋ね歩いて、日本機の墜落の情報を知らせた、フィリツピン人の部落についた

のは、午後四時を過ぎてしまった。

西からの太陽の光を浴びて、砂糖黍畑の中を、シライ山の密林のある麓えと進んでゆく。

フィリツピン人の部落のところに、自動車運転手と、二名の兵を残して来たが、何処で

米比軍のものと、衝突するか判らない。

背よりも高く生い茂る甘蔗畑の中を通る、トロッコの線路沿いに、全員、銃に着剣させ、

弾丸をこめて、何時でも、対応出来るようにして、私も拳銃を抜いて、進んで行った。

甘蔗畑には、地隙が幾つもあって、トロッコの線路は、鉄橋のようになって、甘蔗の中

に消えて行っている。

幸い、米比軍のものが潜んでいる気配もなく、一匹の蛍が、.砂糖黍の葉蔭の暗がりを飛

んでいた。

三つ目の地隙の谷越えた、蔗糖畑の茂みが東ら西の方え、なぎ倒されている地域があ

り、その西の果てに、灰白色の飛行機の垂直尾翼が見えた。

胴体と、両翼の付根のところは、燃料タンクがあるためか、燃えてしまって、発動機の

みが、プロペラをつけて、転がっている。

座席のところは、飛行機の燃えた灰で、埋まっていて、搭乗員の姿はないが、太陽の西

の空に落ちるので、砂糖黍の生え茂りの中にすかして見ると、座席のところの灰の上に、

微かに、燐光が燃えていた。

屍臭があたり一面に臭う。

兵達がもって来た、シャベルの円匙で土を除いて見ると、灰の中から、焼死した体が、

既に腐敗して、誰とも区別がつかないようになっている。

体全体を、持ちあげようとしても、ぐちゃぐちゃになっていて始末が出来ない。

大地に墜落した衝撃で、全身骨折している上に、腐敗してしまっていて、蛆もわいてい

るのであらうが、もう暗くなって見定めることも不可能になって来た。

胴体か、頭蓋骨かも、見判けがつかないで、骨の砂片から、小さな青い燐光が、チロ、

チロと燃えていた。

体全体をまとめて、持帰ることは、不可能であると決心して、腕から手首だけを切離す

ことにした。

しかし、腕も、指も、腐り切ってしまっているが、その腐敗した肉の中に、腱だけで、

骨がつながっている。

スコップの光った刃で、土の中に突きさして、切断しようとしたが、手首の腱は、白く

て、何本もあり、土が軟らかいので、切断が出来ない。

兵士が持って来た、十字鋏の厚いところを手首の下に敷いて、円匙の刃で、切断しよう

としたが、それでも切れない。

私は、全身のカで、十字鋏の上に、スコップの刃を打ちつけた。

もう、太陽は、西の空に沈んでしまって、大空に星が輝き始め、シライ山の方からの、

山風が吹き始めて、甘蔗畑の茂みは、眞暗くなって来た。

兵士達がかざす、懐中電燈の光の中で、汗みどろになって、十何本かある、腱の筋を、

十字鋏の上に乗せて、スコップの刃で切ってゆく。

「カン! カン! カン! カン!」

と、その響がこだまする。

全身、汗びっしょりになって、片手の手首を切離し、それをスコップの上に乗せて、兵

士達に渡し、残りの屍は、どうしようもないので、兵士達で、土を掘り、その中に埋めて、

撤退することにした。

僅か十名足らずの兵力なので、米比軍に攻撃されたら、一たまりも無い。

先頭の兵士に、スコップに乗せた、手首の骨の塊を持たせて、私は、一番最後について、

撤退を始めた。

来るときに越えた地隙は、もう、夫々、眞暗な口を開いて、僅かに、トロッコ運搬道

路が夕闇の中に見えるのを頼りにして、帰って来た。

やっと、フィリツピン人の部落について、そこの、部落長の邸に行って、その庭で、ポ

ンプから汲んだ水を貰い、私達の両手を洗い、スコップの手首を、石の上に置き、薪を載

せ、自動車のガソリンを撒いて火をつけて、焼却し、骨が残ったのを、丁重に紙に包んで、

持ち帰った。

地上戦斗での戦場掃除というのは、皆戦死者は、地上に、しかも、大地の上で、倒れて

いるので、その所在も判って、遺骸の収容も容易であるが、空中戦斗の場合、何処え飛ん

で行ったのかも判らない。

フアブリカ基地から飛び出した戦斗でありながら、飛行機は、あっというまに、五十km

kmの外に飛び出してしまう。

遺骸は、日本の習いで、お墓に遺骨が欲しい、それでないと、本当の供養にならぬと思

うであらうが、実際の遺骸を求めて、遺族を満足せしめるが如く充分な措置は、殆ど、出

来ないであらう。

この遺骸収容で、多数の腱を切断するため、十字鋏の上で、スコツプを振って、

「カン! カン! カン! カン!」

と、音を響かせながら、全身に汗をかいて、努力しているとき、つくづく、私は思った。

海ゆかば、水漬く屍

山ゆかば、草むす屍

大君の辺にこそ、

死なめ!

かえりみは、せじっ!

と、いう歌は、日本国民、全部が噛みしめて、覚悟すべき歌であると考えた。

私は、第二次大戦の最初から、ベトナム、カンボジヤ、タイ、ビルマの各戦線、そして

このフィリツピンの戦線で斗っている。

その間に、幾百、幾千の戦死者の屍、また、馬、その他の動物、窺地の住民の死体を見

て来た。

私の戦隊が、爆撃した地域を通ると、何処に屍があるのか判らないが、死臭が空中に

漂い、密林の中に燐が燃える。

戦斗そのものは、人類の文明の中に生まれた悪であらうが、しかし、悪そのものは、

一つの転機をもたらしている事実があることも認めねばならぬ。

地球も、世界も、大宇宙も、我々には変わらぬという考え方もあるが、それは、人間自

身が考えたことであって、事実かどうか判らぬ。

大宇宙の中には、無限の変化と、進転を秘めていることであらう。

地球もその中の一つであり、人間は、その地表に生かされているものである。

その生かされている人間が、自分の考えによって文明をつくり、永遠の大義や正義を称

して、それを確保しようとしている事、自体が間遠いでないか?

戦って、戦死した人々の死体は、勝者も敗者も、同様に、無残な蛆と腐敗に朽ちてゆき、

骨は砂利と砕けて、土に戻ってゆく。

この姿は、勝者も、敗者も、誰でも変わりはない。

美事に死ぬということは、人間が自分の考えでのミエであり幻想にすぎない。

戦争は、膨大な資源と資材を浪費して、暴力の限りを尽くし、破壊を行う行為である。

大きな鉄輪と鉄輪の衝突みたいなものであって、いづれかが、負けるか、勝つかする。

愚かといっても、これくらい愚かなものはない。

しかし、人間の運命は、その愚かさの中にある。

戦場掃除という仕事は、その愚かさの果ての始末をする仕事とも云えよう。

飛行機、そして、戦斗機は、文明の利器の中での最新鋭のものであると云える。

しかし、その最新鋭の武器で、斗うのが、戦争である、

その戦争で、犠牲になるのは、斗って死ぬ戦死者のみでない。

戦争に関係のないものも、その被害を蒙ることになる。

戦争そのものは、愚かな行為と思はざるを得ぬが、その運命に捲き込まれたものは、必

死にならざるを得ぬ。

つまり、生き残れるか?または死であるかである。

そこに、暴力の無制限行使が姶まっているからである。

全世界の人々、人間は、皆、平和を願うであらう。

しかし、平和というものが、現実にあるものなのであらうか?

平和という言葉は、人間が考え、人間が作った願いのようなものであって、それは

願いという、一つの幻想ではあるまいか?

全てのものは、変化してゆくということ、人間は、オギャーと生まれてからは、一刻一

刻も間違いなく、必ず死ぬというゴールえ突き進んで行く。

人生、僅か五十年というが、それが二十年、或は百年という差はあっても、永遠に生き

ることはない。

エジプトのピラミッドやその他、永遠に生きることと、平和の来ることを願ったものが

あるが、生と死の事実と、その変化は、一分一秒もなく、変わってゆく。

それは、進化でもなく、変化である。

何が進歩といえるのであらうか?

戦争そのものは、使用する武器が異なっているが、生命を殺傷し、破壊する行為に、何

等変わりはない。

これを進歩といえるであらうか?

膨大な資源、資材をつかって、無数の生命を失う戦争は、古代も、現代も変わりは無い。

むしろ、愚かさの度合を深め、救い難いものにしているのではあるまいか?

私は、陸軍士官学校で、三国同盟に反対し、陸軍航空技術学校で、戦争継続の愚かしさを説

いて巡った。

しかし、誰も、それに耳をかさなくて、かえって、非国氏、売国奴の汚名を着せられた。

その私が、こうやって、比島戦での戦場掃除をしている事白体が、運命の皮肉ともいえ

る事であるかも知れぬ。

私は、フィリツピンの農民の部落から、白動車で、フアブリカの戦隊宿舎に、引揚げ、

持って来た、手首の遺骨を、戦隊の慰霊壇に安置して、祈った。

戦隊本部に来ている、戦況情報によると、米軍は、モロタイ、ハルヘラ島に、九月十五

日以来上陸したようで、日本軍の抵抗は、殆ど、見るべきものがなく、圧倒的な、米軍の

攻撃に、現地の駐屯部隊が、僅かに抵抗したとの事であったが、これも、すぐ撤退した様

子である。

米軍は、比島攻略のため、戦略航空部隊の基地を、モロタイ島、ハルマヘラ島につくっ

ている様子である。

日本軍であるなれば、飛行場と、基地建設に、少くも一ヶ月〜三ヶ月を必要とするであ

らうが、彼等は、一週間か、半月後には、活動を開始して来るであらうことを予測された。

セレベス地区の飛行第七師団もまた、米軍の機動部隊の攻撃によって、殆ど潰滅したよ

うである。

南方総軍司令部は、マニラから、サイゴンえ移転して行ってしまった。

飛行第三十一戦隊は、九月十四日、早朝、クラーク、フィールドえ、飛行隊のみで、移

動して行ったが、その後の情況は、さっぱり、戦隊本部に連絡が無い。

一体、どうなっているのか?

西進戦隊長は、何をしているのかも、判らぬ。

又、クラーク、フィールドの何処にいるのかも判らぬ状況である。

メナド基地に進出して行った、飛行第三十一戦隊整備隊の先遺隊は、目の前のハルマヘ

ラ、モロタイ島に米軍が上陸したことで、完全に、無駄になった状況である。

これを、どうするのか?

何等の指示、指令が無いので、或は、我々も、フアブリカにて、孤立する事になるかも

知れぬと考えた。

飛行場大隊のパニックで、私達も、決意を迫られる事になった。

陸軍の部隊の編成では、食料から、飛行機関係の補給は勿論、兵士達の給料も、全部、

飛行場大隊を通じて、受ける事になっていたが、このように、パニック状況になったり、又、

米軍から補給を遮断されると、何も期待する事は出来ぬ事になる。

我々の飛行第三十一戦隊は、飛行機関係以外には、何も戦う手段も、武器も持っていな

い。

飛行機が無ければ、食事も出来ぬ部隊である。

ここで、万一の場合を考慮し、いや、何時でも、自活出来る態勢をつくって居なければ、

最悪の情況になって、慌てても、手遅れであると決心して、自活態勢をつくる事にした。

第一に、食糧の自給自足態勢をつくる事である。

第二に、生活が全て、自活出来る状況にすることである。

第三に、飛行戦隊の整備員は、飛行機そのものを、飛行させる以外に、自衛の武器を持

たない。

この自力戦斗の武器を持つことである。

このために、飛行機の破損して、大破して、使用に耐えなくなったものを分解して、

武装の機関砲を外し、これに機関砲塵をつくって、対空、対地火器とする事にした。

第四に、熱帯多雨林の中で生きなければならぬ。

熱帯多雨林の中にある、食用、その他の植物や、その他のもので、生きるために必

要なものの研究を行って、食糧、生活用具をつくらねばならぬ。

第五に、恐らく、最後は、山岳密林内で生活することになるであらう。

その生活において、火を如何に保存するかの間題がある。

また、運搬用、人力で背負う方法を、工夫しなければならぬ。

飛行第三十一戦隊の大部分は、潜水艦に遭難して、背嚢も何も持っていない状況になっていた。

飛行部隊の兵隊は、地上部隊の歩兵や砲兵等と異なって、行軍や、生活の面では、全く、

力の無い部隊であつた。

これを、白活出来る、自分で生きることの出来る部隊とすることは、大変な努力を必要

とするものであった。

これに、着手する事にした。

兵士や下士官の中には、これに、不平を云うものが居たのは、事実である。

私は敢えて、これを行った。

 

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