第四章 飛行第三十一戦隊の作戦準備

1、 遭難よりの再起

昭和十九年七月三十一日パリタン海峡における、飛行第三十一戦隊の整備隊の主力は、

約三分一の人員百十五名は、米潜水艦の攻撃により船団三十七隻の内九隻のみ残るという

大損害に会い、失はれることになった。

先発の飛行隊に随行している整備隊員と併せて、二百五十名余となり、まだ、人員的に

戦隊の整備カに欠陥が生れる状況ではないが、全器材、部品、工具を失ったことは、

新しい補給を受けることの困難になる第一線には、最も致命的なものになる予感が出来た。

器材、工具は、同じものを新しく補給したり、また、工夫して作るより外はないのであるが、

整備員が手慣れた器材、工具というものは、微妙な整備を行うことに、不可欠なものである。

 一般の人には、同じものであるなればと思れるかもしれないが、まだ当時の日本では、

工具、器材の製作が、行員や整備員の作業を分解解明して行はれている状況ではないので、

夫々の工具、器材は、夫々、微妙な角度や磨耗による変化、材質等えの工夫は、夫々の

整備隊の工夫、研究に委ねられている状況であった。

パリタン海峡における地獄のような遭難から、ようやく、呂宋島のラオアグ郊外のサン・

ニコラウスに集結した、飛行第三十一戦隊は、部落の小学校の校舎に収容されて、バラ

バラになっていた、部隊の人員点検と新しい編成にとりかかった。

十四時間余の時間の漂流はとも角も、約一ケ月近い船団に乗船して、無意識であっても、

体全体が波に揺れるのに対応する習慣がついていて、山が、樹々が揺れる感じがする。

上陸できたという安心感と、疲労が出ているのであろうか?

全員が、消耗しているためか、眼ばかり大きくなったような気がする。

部隊の記録や、書類は一切失はれてしまっていて、私が胸のポケットに入れていた、手帳

のみとなった。

とも角も、何処からか、紙と筆記具を求めて来て、部隊の人員を点検することから始め

その日は、全員に休息させる事にした。

数人の下士官が、拳銃を持っているだけで、軍刀と、兵士の帯びている短剣のみである。

近くの竹籔から、竹を切って来て、竹槍りをつくり、歩哨を立てて、部隊の警備をさせた。

その竹槍をつくる主任の下士官が、数本の竹の子をもいで来た。

如何なる食事を給せられるか?

整備隊は、食事その他の生活補給を、飛行場大隊から受けているので、平常、自ら食事

をつくる経験をもっていない。

私の部隊だけでなく、多数の混乱した遭難兵士が上陸して来たので、現地の住民も驚い

たことであろうし、何時、武器を持たない日本軍に、米比軍の残党部隊が攻撃して来るかも

知れぬ。

ラオアグの警備部隊から、警備部隊が、僅か派遣されて来て、警備と、上陸した部隊への

食事の給与が行われた。

海岸での炊出し、握リ飯の支給である。

幸い、船団の残した、九隻の船から、十分な食料があって、当座の給与が行はれた。休息

と、体力をつけるための、食事が、目下の急務である。

熱帯地帯であるので、蛋白質、脂肪分の食事が、どうなるか判らぬ。

下士官が持って来た、竹の子を消し灰で煮させたら、結構食べられる事が判った。

現地の住民は、消し灰で煮て、竹の子のアクを抜く方法を知らないので、食べないという

ことで、我々が自由にとって良いと判り、植物性蛋白質を得ることになった。

誰かが茸を見つけて来た。

これらを塩味で食べた。

皆で食事の折、私が、この塩味の竹の子やキノコをむさぼるように喰べているのを見て、

「オイ!

お前達は、扶桑丸で、豚の飼といって嫌っていた、南瓜や冬瓜を、漂流しているときに甘

味そうに喰っていたが、今、南瓜や冬瓜が懐しいのでないか?」

と聞くと、皆が、

「いやーっ!

隊長っ!

漂流しているとき、鼻先きに漂う南瓜や冬瓜を手で避けていましたが、昼過ぎになって

あの南瓜や冬瓜を切って喰べたら、海水で丁度良い塩味がついていて、あんな

甘味い、南瓜や冬瓜を喰った事がありません。

あの味は、一生忘れぬと思いますっ!」

と、皆で大笑いした。

兵士達は、若いので、一夜、地上の陸でグッスリ眠ったら、体力が回復して、旺盛な食欲

が出て来た。

何処からか、雛を買って来たりして、武器も、器械工具も、何もない部隊になったので、全

力を尽くして、如何に愉快に過すかということだけに、努カする事になった。

しかし、駐屯地警備隊の達示によって、部落外に出ることは許されない。

武器も何もなくて、遭難した、オンボロ服の兵隊達では、格好も、部隊としての威厳も何も

あったものではなく、フィリッピンの、原住民えの影響を考えての措置であったと考える。

兎も角も、このラオアグから、マニラえの間の整備隊の編成を、遭難戦死した将校や下士

官を、生き残ったものにかえて、夫々小隊長、隊長を任命して、再編成し、兵士達の士気を

引きしめる事にした。

私としては、部隊の人事書類その他、一切が失はれてしまっているので、これらを整備す

る事を先づ行はねばならぬ。

これらの打合せを、人事係の高橋准尉等と行った。

マニラに着いたら、早速、これを整備せねばならぬ。

また、部隊の兵器、小銃、その他と、整備用の器具、工具の補給を受けねばならぬ。

何々せねばならぬという思いのみ、心につのるが、このサン・ニコラス部落では、どうに

も、手も足も出ぬ。

如何様にして、マニラえゆくかも判らぬ。

素裸になった部隊の悲哀は、例えようのないものである。

兵士達には、体操や休息を行はせて、心をまぎらすことと、思はぬ打撲傷や、内臓疾患が

ないかを確かめた。

三日目の朝、我々らの部隊は、アパリ港から巡航されて来た、機帆船の船団に乗って、

リンガエン湾にゆき、そこから汽車でマニラにゆくことになった。

機帆船というのは、百屯前後の、風があると帆で走り、風のない場合は、焼玉エンジンに

よって走るという船のことである。

内海の小さな運搬船とか、鮮魚、鉱石を運ぶ、木造や鉄板製の小さな汽船というのか、舟

に近いものである。

正午過ぎ、昼食をとって、我々は、サン・ニコラス部落の海岸の漁船用の船付場から、こ

の機帆船に乗り組んだ。

一隻に、三十名足らずの兵員しか乗れない。

この機帆船に乗り組むのは、我々航空部隊が優先されたらしく、歩兵部隊、その他は、

どうなったのか?良く知らなかった。

私は機帆船に乗り組むと、船長に挨拶に行った。

船長といっても、五十がらみの漁師あがりらしい、たくましいオッサンとも云うべき男

で、この男のみ、洗いざらしのズボンをはいていたが、この船の他の三人の船員は、皆、

上シャツを着けているが、下は、赤褌一本の連中である。

機関長は、職業柄、ズボンをはいているが、上半身裸である。

扶桑丸の船長と異なって、私が乗船すると、船長も機関長も夫々出て来て、逆に私が

挨拶されたので、私は、

「大変、お世話になります。

どうか、よろしく、頼みますよ。」

と、挨拶したら、二人で

「ヘイ」

とペコリ頭を下げて、

「隊長、委せときな、

俺達や、これから、インドネシヤまで、油を運びに行くんでさあ!

この船なら、米軍の潜水艦なんざ!魚雷を撃っても吃水が浅いから、底をくぐって当た

りませんよ。

あっはっ、はっ、はあー」

と、大口をあけて笑っていた。

「何処えゆくのか?」

と、問うと、

「いや、何処え行くのか?

どうせ、ジャバかスマトラでせう。

日本は石油が足りないから、この船で、ドラム罐に石油を入れて、運ぶんでさあー」

と、いう。

私は、昭和十七年、近衛内閣の懐刀といわれた、後藤隆之助氏を訪れたとき、戦争終結え

の努力というより、日本は石油が無いから、輸送機で、石油を運べないか?ということについ

て、数字を出せといわれた事がある。

日本の輸送機の搭載能力と、輸送機の燃料消費を計算すると、どうにも日本に石油が運

べるという数字は出なくて、後藤隆之助氏から叱られた事がある。

 日本の為政者そのものが、近代科学というものえの理解と、考えが、如何に足りないか

を見せつけられたような、うんざりした事があった。

日本の輸送船による石油の運搬は、米潜水艦の攻撃で、輸送路が絶たれる状況になって

いて、昭和十七年以来、もう戦争能力が無くなりつつあったのである。

A、B、C、D包囲陣を突破する意味での、南方進出は、何等の成算もなしに、とも角も、

南のボルネオ、ジャバ、スマトラ等の石油油井を確保すれば、何とかなると思っての事で

あったのであるが、この石油を確保はしても、それによって日本そのものの活路を見出す

対策も何も出来てない状況で、シンガポールを陥落させた戦勝で、英国の和平申出をけっ

てしまつたのである。

その結果が、この百屯前後の輸送トラック隊編成となった。

しかし、内海での輸送船であるので、無線もないし、手旗、発火信号等の連絡訓練を受

けていない船員達である。

大きな海図一枚を持たせられての船団行動であって、一隻の駆逐艦が先導しているのに、

十数隻の海上トラツク船が、ゾロ、ゾロとついてゆく形である。

焼玉エンジンであるので、機関の御機嫌が悪いと、速度が出ない。

ソロ、ソロ、ヨロ、ヨロ、ゾロ、ゾロと海面を走ってゆくだけである。

しかし、船員は、そのような、無鉄砲な計画の輸送に徴用されて、海の男としての誇り

として、

「これでも、お国のお役に立だせて貰います。」

と、さっぱり、きっぱりした態度であった。

大暴風や夜間、何処え、どうなってゆくか判らぬ船団を引率して、駆逐艦のほうは、あまり

速度が遅いので、かえって、エンストを起こすのではあるまい?と思はれ、この船団の周囲

をぐるぐる廻りながら誘導してした。

私は、私と同乗する第一小隊、本部人員と、この船団の先頭の船に乗り、兵士達に、船長、

船員のいうこと、指示に従うように説明して、この船の船尾に坐った。

船の速度は、最大八ノット、巡航五〜六ノット、船団を組んでいるので、四〜五ノットで

走ることになろう。

サン・ニコラスからリンガェンまで、約二百K、約二十五時間はかかる事になり、一昼

夜は、この機帆船の気ままな旅である。

船尾の機関室の後方の広い場に座を決めて、遭難以来初めて刀を抜いて見たら、真赤

に錆びていた。

機関長に云って、空き缶に水とグリースを貰って来たら、下士官連中も寄って来た。

軍刀の表面を、金属のタワシでゴシゴシ、錆を落とし、空罐の水で、刀身の塩分と錆を落とし、

鞘の方にも、一杯に水を入れて、塩分を溶かし出して、強い太陽の光線で干かして、刀身に

グリースを充分に塗って納めた。

下士官連中も、我も我もと、刀の手入れを始めたが、軍隊で支給した軍刀であるので、

この様に面倒なものでなかつた。

南の海面をフラリ、フラリでもないであろうが、旅するのも、乙なものである。

船長から一本釣りの道具を借りて、舷側で、船の進行に委せて流し釣りをして、鰹や、

まぐろのような魚を釣って、久しぶりに生の醤油で喰べた味は格別である。

夜は、船上の甲板の上で、皆、まぐらのように並んで、着のみのままで寝ても寒くない。

満天の空が、ゆらめく船の動きで、空の方がゆれているような感じで、面白い。

星が手に取るように近く感じる。

このように、のんびりと、空を眺めて渡るのも、最後であろうと思った。

この戦争は、出発点から、日本に大義名分は、本質的にない。

日露戦争時では、自衛と、アジアの侵略を守るという名分はあるであろうが、これが、辛う

じて、戦勝となって、徳川幕府、幕藩制度が明治の官制、官僚となって、日本政府は帝国主

義となった。

日露戦争後、日本が戦勝という形で、収拾出来たことで、日本の官僚制度と態勢は、自信

をもったというより、日露戦争前は、何とか、自分等の体制を維持する事を条件として、

露西亜帝国との条約を結ばんとしたことが、今度は逆になり、対支二十一ヶ条の条約となり、

アジアの独立を名目としながらも、自らの欲望態勢を拡大せんとしたことで、アジアに反日運

動が起こることになった。

日本の帝国主義の官僚制度は、また社会組織は、第一次大戦後、腐敗して、正に徳川慕

的な性格をもち、国民は困しめられた。

軍人は、自ら職業でなく、国を守るという自分の生命をかけて戦うという天職であるとい

うけれども、やはリ、一種の官僚制度、職業軍人といわねばならぬ。

第二次大戦は、満州事変、支那事変と発展していったが、本質的にアジア民族の興隆を

恐れる欧米諸国の帝国主義、植民地奴隷制度があり、それが起因というべきであろうが、

日本政府官僚制度、日本の態勢そのもの展因があるであろう。

我々軍人は、戦争となった以上、命をかけて戦うことを任務とするが、本質的に、日本に

は欠陥があり、また、軍も、日露戦争後の態勢において、重大な判断の誤りを持っている。

その中で、何処まで戦えるか?

無一物、無武装の姿となった、機帆船上に波にゆられて、リンガエン湾に向って進む夜、

綺麗な星空をながめながら、私は思い悩んだ。

何時、何処で、我が命終るとも、悔いまじ。

それも、人生、これも人生と考えた。

これは、陸軍航空技術学校で、昭和十七年に、戦争を中止させるため、心血を注いで、

考え、近衛公、頭山満翁、広田弘毅、その他の人々を訪れて、戦争中止の説得をした折に、

日本は行くところまで行かねばならぬと、覚悟を決めざるを得なかった。

すでに和平、講和のチャンスは去ったし、為政者、官僚、民間人は勿論、日本の軍人に、

生産や、技術に関する必要な常識や、知識をもっていないので、ブレーキの無い車で、坂を

走るようなものである。

しかし、これらの実情を、兵士達に話す訳にはゆかぬ。

必勝の信念をもって、鍛えられて来た兵士達に、敗戦の心得を説くことは不可能である。

それなれば、戦うだけ、死力を尽くして戦い、そして生き残る工夫を与えるだけであろう。

そのためには、戦い抜く、そして生き抜くという気持と方法を与えるより外はないと、思い

定めた。

手に取るように近い星空を眺めて、波にゆられての旅行であった.

船団は、米軍の潜水艦や、他の艦艇の攻撃を受けた場合、直ちに呂宋島の海岸に向って

全速力で走り、海岸線に乗りあげる態勢で、海岸に近い海を、ノラリ、クラリと走ってゆく。

駆逐艦艇は、あっちにフラリ、こっちにフラリして走ってゆく、海上トラツクの船団を、ヒナを

守る親アヒルのように、その周囲を走り周り、南下してゆく。リンガエン湾のリンガエン港に

入港するのかと思っていたら、リンガエン湾の東側の呂宋島、サン・フェルナンド町に海上

トラックの輸送船団は接岸して、我々を上陸させた。

海岸近い、崖の上に、鉄道の駅があり、そこに、輸送列車というのか、我々を乗せる列車

が着いていて、待機していたので、海上トラックの船から下りて、すぐそのまま、その列車に

乗り込んだ。

軽便汽車という程小さくないが、日本の列車から見れば、一廻り小さい列車である。

この地.区は、昭和19年12末から、20年の正月にかけて、米軍が上陸し、日本軍と死斗

をした地域であるが、優か数時間後に、マニラに着いた。

私達は、マニラ駅から兵站宿舎まで、市街地を、無武装の姿のまま、歩いてゆかねばならぬ。

如何にも、遭難部隊であるので、私自身の軍服は破れ、兵士達の姿も整っていないが、汽

車の中で、出来る限り服装を正すようにして、各小隊長、下士官は、軍刀をしっかりと、腰にさし

て、歩くように指示した。

幸いにも、兵士達は、遭難から日数が経ているので、元気を回復していたので、歩行の姿勢

はシャンとした態度であった。

行進は、全将校、下士官は、抜刀して、姿勢を正して、兵站宿舎に行軍して、無事着いた。

これから、南方軍としての被服の受領、そして兵器の補充、人事の報告書作成等、休養

する間もなく、また、飛行第三十一戦隊の空中部隊の状況を確かめねばならなかった、飛行

第三十一戦隊は、呂宋島のクラーク・フィールドに到着する予定である事が判った。

器材、部品を補給し、兵器の補充を受けるために、北島派遣軍、航空軍司令部、第二師

団司令部、補給廠等えの交渉を行はねばならぬ。

マニラの街、軍司令部は、まだ、決戦を行う空気でなく、進駐軍として、戦勝の気分を楽

しんでいる、快楽的な空気があった。

我々の部隊は、マニラの郊外の駅から汽車に乗り、クラーク・フィールドに向った。

飛行第三十一戦隊の空中部隊は、クラーク・フィールドの北側の中滑走路に到着してい

て、西進少佐は、長途空中移動の疲労が出たのか?デング熱にかかって、休養していた。

私達、飛行第三十一戦隊の地上部隊の生き残りの人員は、夫々宿舎につき、そして、

空中部隊に随従して来た、整備隊員と共に、新しい編成に入り、また、人員の補充を受けた。

 これらの処置が、とりあえず終了して、西少佐の許に行って、遭難の状況を報告したが、

西少佐は、デング熱でうるんだ眼をして、「只御苦労、休養して呉れ」と一言だけを、私に云った。

飛行隊は、既に、石井大尉が率いて、ネグロス島、フアブリカ基地に進んでいるという。

私は第二飛行師団司令部に行って、補給をうけるべき器材、部品、消耗品、また小銃その

他の兵器についての希望数量を示して、クラーク・フィールド、及びマニラの航空廠よりの補充

手続きをとって、各航空廠より出来る限り補充受ける書類を貰った。.

これらの器材、部品、消耗品が、何時補充出来るか判らぬ。

このため、兵器、器材、部品等の補充担当として、西山中尉以下、下士官、その他の兵数名

を、マニラに派遣し、必要ある限り滞在せしめる処置をとった。

このための、第二飛行師団、第四航空軍専司令部からの承認の書類も貰った。

クラーク・フィールド基地の飛行場大隊長は、私が遭難して、無一文になっている事と、部隊

の再建に努力している弱点と考えたのであらうか?

私を利用して、自分の欲望を遂げようとする動きがあったが、私は既に、航空軍、第二飛行

師団司令部からの特別文書を貰っていたので、相手にせず、戦隊再建の仕事を、どしどし進め

て行った。

飛行場大隊は、空地分離という形式になって、飛行部隊と、それを整備する整備隊は、飛

戦隊として、戦斗行動のみを行い、給与その他の補給は、飛行場大隊から受ける事になっ

ている。

飛行場大隊は、一切の補給基地になる訳であるので、この部隊の良否は、戦隊の戦斗行為

に重大な影響があった。

整備隊々長は、戦隊と、飛行場大隊の間にあって、戦隊の戦斗行動と、飛行場大隊のバツ

クアップを調節する役目と云えよう。

飛行場大隊長は、どういうか判らなかったが、四十歳以上になっても、大尉よりも上級佐官

に昇進しない人や、予備、後備の大尉又は少佐の人が任命されていた。

出世、昇進の望みがないので、必然的に、物の欲の方に考えがむくのであろうか?

軍人として、いかがわしい考えの人や、また、特異な性格の人が多かった。

精鋭なる日本陸軍の将兵といいたいのであるが、将校の方に、特に中級の将校に、拡大に

拡大を重ねたことで、多くの問題がある人々があった事も、事実である。

これらの問題が、比島決戦場での日本陸軍の行動、成果、生存率等において、大きな差

異を生む原因にもなり、特に比島で米軍に追撃されるとき、巨大な力で攻撃を受けたとき、

部隊の秩序、土気の間題、判断力に、重大な混乱や錯乱、さては、餓死間題を生じたと考え

られる。

飛行第三十一戦隊は、ネグロス島フアブリカ基地に向って、飛行隊に追従して来た輸送

機や、連絡用の襲撃機等を利用して、整備隊の重力の下士官兵を送り、残りは、地上輸送

で、西山中尉がマニラで蒐集した器材、部品、消耗品、兵器等と共に輸送船で、バゴロド基

地にゆき、そして、フアブリカ基地に移動する事になった。

飛行第三十一戦隊の米潜水艦により魚雷攻撃を受けた遭難による戦死者名簿と、連隊え

の通知は、マニラの第二師団司令部及びマニラの第四航空軍司令部を経て、留守業務部隊

より、措置されるので、これらの文書を、クラーク・フィールド基地で完成し、第二師団司令部、

マニラの第四航空軍司令部に届けて、処置の万全を期した。

ネグロス島のフアブリカ基地は、米軍の上陸を予想されレイテ島の西のセブ島の隣、しかも、

私のフアブリカ基地は、第二飛行師団で、最もレイテ島に近いところにあったので、決戦が起こ

れば、毎日毎日銃爆撃を受けて、書類の作成なんか出来るものではないと覚悟すべきである。

人事係の高橋准尉と、この文章の作成には、心血を注いで努力した。

ファブリカ基地には、すでに市川少尉以下の先遣隊、飛行隊と随行した整備隊と、地上の

部隊からの選抜隊が、到着している筈である。

パリタン海峡での戦死者の名簿のみではない。

整備隊のすべての文書が、沈没してしまっているので、これらの整備は、昼夜兼行で努力し

ても、短時日に出来るものではないが、戦死した、人々の名簿、功績名簿、戦死、行方不明者

の確認書等々を整備し、マニラの軍司令部を通じて、日本国内の留守業務部隊に送り、一応の

整理が終了した。

しかし、戦後、これらの努力したものが、日本国内の留守業務部隊において、空襲に会い、

全て、灰燼に帰していたため、御遺族の人々に伝達がなされていなかったし、留守業務部隊か

らの御遺族えの処置も、行はれていなかつた事を、終戦後知つて、非常に落胆した事があった。

これほど努力しても、御遺族に対して、一片の通知も、私の手紙も、到着していなかった事は、

御遺族にして見れば、これらの事情が判らないので、責任者である私に集中することは、一言

の弁解の余地もないのであった。

他の部隊の事は知らないが、この遭難についての処置は、このとき、完璧に行ったことを

私は確信している。

軍の責任というものは、軍そのものの巨大な組織にあって、責任が分散して、責任をとること

がないように出来ている。

最も責任をもたなければならないもの、作戦では、責任を負はぬように出来ているし、これは、

行政においても同様である。

整備隊は、その規模は大隊に等しいものでありながら、人事その他は、中隊と同じで、全ての

兵士達のことを行い、そして、兵器、器機その他は、優に一個師団に等しいものを取り扱うことに

なっていた。

整備隊長は、その全ての責任をもたせられる事になっていた。

 

2.作戦準備

クラーク・フィールドから、昭和十九年八月上旬に、ネグロス島、ファブリカに前進し

たのであるが、八月の何日に前進したか?全く私の記憶がない。

 西進戦隊長は、八月八日からの飛行第二師団の総合演習に参加するため、デング熱がやっ

と、下がったというのに、休養もせず、クラーク・フィールドに向かったので、多分八月六日頃

に出発されたであろう。

私には、八月八日の総合演習に参加した記憶が全く無いので、多分、私は、高橋准尉と

共に残り、遭難戦死した人々の人事書類の完成により、それを点検して、署名捺印をする

仕事があって、十日頃、ファブリカに行ったのであるまいかと思う。

 このとき、飛行隊と行動を共にした、市川少尉とは、ファブリカで会った記憶がない。

 市川少尉は、既に、飛行隊のセレベス地区えの前進のため先遣隊として、出発していたので

あるまいか?

 私の記憶の中に、ファブリカに着いたとき、西進戦隊長から、セレベスえの先遣隊を派

遣したことについての、私の承諾を求められた記憶が残っている。

ファブリカ基地に着いて、先づ、驚いたのは、飛行第三十一戦隊と、ファブリカ飛行場大隊と

の間に、何か間題があって、双方に気まづい空気が出来ていたことである。

ファブリカ飛行場大隊は、全く航空部隊の経験のない地上歩兵部隊からの新しい編成部

隊であって、航空部隊の経験があるのは、この大隊の整備協力中隊長と、二名くらいの先任

下士官のみであつた。

飛行場大隊長は、飛行場大隊といっても、飛行場警備が主任務であると考えて居る様子

であって、飛行場そのものの性質も何も知っていなかった。

航空部隊といっても飛行場大隊と戦隊の問題は、本質的に異なった立場であるが、しか

し、その任務とするところは、飛行戦隊は、航空部隊の主任務である空中での戦斗を担任

し、飛行場大隊は、その飛行戦隊の舞台である飛行場の仕事をするのを任務として、主役

である戦隊の活動を助ける事にある。

演劇における主役と舞台裏、裏方の相異がある。

目本陸軍には、この主役とするものを極端に尊重し、舞台裏、裏方の仕事と共に、技術

衛生、補給関係を、極端に軽視なればよいのであるが侮辱した取扱をする風がある。

元来軍の主兵として誇りを持ち、兵士から、下士官そして将校になった人々で、大隊

長、少佐というと、陸士出身者のものでは、大将、元帥に等しい、将官くらいの誇りをもっ

ている。

その大隊長が、任務とはいえ、全く判らぬ航空の部隊に来て、いきなり裏方扱いよりも、

何かの人夫、奴隷の仕事をするのが、あたりまえであり、特に歩兵では、将校でも、兵下

官でも、戦場では寝食を共にするということは、同じものを食し、同じ毛布で寝て、同じ行

動、戦斗をする事であるが、航空部隊は、全く異なっていた。

航空部隊での飛行隊の将校、下士官は、航空食として、特別の糧食や待遇を受ける。

特別の食事が支給される。

警備隊は、将校、下士官、兵士に同じ食事であるが、飛行隊の将校下士官は、全く別の

ものである。

これには、空中勤務という特別の任務、状況、苛酷な空中戦斗があるので、それに対応

するものであるが、しかし、空中勤務の将校、下士の人々には、それがあたりまえであり、

特権のように勘違いしている。

 それだけでなく、このような特別待遇を受けていることから、特別の権利があるように、

自分の欲望を拡大して、協力関係者に感謝の心を忘れ、何か特別の人間になった気で、勝

手な要求や待遇、従属を強要するものも居た。

戦隊の飛行隊には、そのような特別の意途が無くとも、自らが、空中での戦斗に挑み散華

する覚悟を持っていることからの緊張感というべきか?無意識の意気込みから生まれる、一

種独特の気風をもっていた。

地上部隊の歩兵等の兵隊が、軍の主兵として、第一線において、兵士等と共に敵と戦火

を交え、そして、自ら白刃をかざして、兵士等の尖頭に立って、敵陣に斬込んでゆく覚悟

と誇り、意気込みがあるが、そこに、兵士等と一団となって、斗うという心構えがあった

ので、人格上の統御という、特別の素質、修養、練磨を要求された。

航空部隊においては、大空の中での空中戦、一騎打ちみたいな感覚、考えにおいて、器

材と自らの技量の問題のみ重視し、そのために、他のものは従属すべきであるとの考えを

もっていて、自分のみの考えで、勝手な行動をとるものがあり、そのような傾向をもっていた。

これらの軍における、気風の相異点や、また、歴戦の航空隊の戦斗隊という特別の意気

込みをもつものと、全くそれらの経験のない飛行場大隊が、このファブリカで、一緒になっ

て、協力してゆくというより、飛行場大隊が協力させられる形になったのであるから、

色々の事件は、起るべくして起り、双方、口を極めて、相手側を非難する事になった。

私がフアブリカに着いたときは、このような空気が、双方に生まれたときであった。

このような状況になったときは、双方、自分の非は、絶対に云はぬものである。

 私には、事態の真実を収拾して、対策を決めてゆかねばならなかった。

 飛行場大隊長は、四十年輩の大きな、壮漢で、まさに歩兵の叩き上げと思はれる人

であったが、非常に気の強い反面、感情的なものを持つ人であった。

彼自身、航空榔隊の勤務は初めてであったが、しかし、空中勤務者の特権意識には、

目をむいて、驚き、呆れ、また、強い反感をもっていた。

飛行場大隊の整備中隊長は、三十前後の中尉で、航空部隊、飛行場大隊における、

戦隊の経験があったので、さ程驚いた様子もなかったが、今、戦隊と飛行場大隊の間に

生じている事態には、当惑もし、心も痛めていた。

飛行場大隊長には、全く理解出来ない航空部隊の態勢、機構、運営の在り方を、説明

して、納得して貰うより外は無かつた。

飛行場大隊長は、一応そのようなものであるということは、自分の任務上、納得出来た

が、飛行戦隊の飛行隊に対する心からの本質的な反感は、彼は表面上出していないが、

彼の中で、生涯、拭えない屈辱の思いをもっているであろうことが察知され、それが、如何

に、我々の戦斗に影響するものであるか、私の心の中で戦慄した。

しかし、この事は、私自身においても、このフアプリカに着いて間もなく、大きな事故には

ならなかったが、私自身が飛行場大隊の人々に、決定的に飛行戦隊々飛行場の性質を

知らしめる事件が起こった。

それは、飛行戦隊の飛行機が、飛行場の滑走路の出発点に着いて、出発しようとしている

のに、飛行隊の整備隊の先任下士官と、軍属技手が、滑走路の中央を横断して来たことであ

った。

飛行戦隊にとって、特に戦斗戦隊では、飛行機が滑走路の出発点に着いて出発態勢をとっ

ているときのみならず、滑走路を横断することは、絶対禁止されているものである。

 戦斗機隊は、滑走路の出発点に着いているときは、一分一秒を競って、速やかに離陸しな

ければならぬ。

一米でも空中にあれば、飛行機は自在の行動が出来るが、地上にある間は、一塊の金

属の塊にすぎない。

生死、死活を決めるのが滑走路である。

それを横切ることは、絶対に禁止してあることで、航空部隊であるなれば、絶対的に知

っていることである。

しかし、この飛行場大隊は、その第一の禁止事項を平気で犯して、悪いと思っていない。

私は万止むず、滑走路の東側のところまで飛び出して行って、飛行隊の人々が、処罰

しない前に、私自身がノコノコ歩いて横断して来る二人に対して、飛行機が出発点につい

ている事を知らせ、駆け足で来るように命令し、やっと横断し終ると、飛行場大隊長、飛

行第三十一戦、飛行隊長の石井大尉等居る指揮所の下に連れて行って、この二人に、

飛行隊、航空部隊として、絶対犯してならぬ、この禁止事項を犯した事、何故、このよう

な禁止事項があるのか、その理由を説明して、この二人が如何なる誤りを犯したかを自覚

させ、自らの誤りを認めさせて、見せしめのために、私は処罰することにした。

 それは、私の玄骨を食はせる事である。

二人は、私の一発ずつのゲン骨で、ブッ倒れ、気絶してしまった。

 私は気絶した二人に活を入れて、目を覚まさせて、二人を元通りに立たせて、私の

玄骨の痛さを生涯忘れないように、二度とこの禁止事項を犯さない事を誓はせた。

二人は、生まれて始めてのことであったようで、目を真っ赤にして、涙を流していたが、

ようやく納得したので、二人を自分の任務に復帰せしめた。

私は、指揮所に出て全てを見ていた飛行場大隊長の許に行って、大変他部隊の兵士を私

の手で処罰した事についての潜越を詫びたが、整備隊長は、指揮所にあるときは、飛行機

の運航のみならず、出発すべての指揮をとっているので、この飛行場で飛行機がをるとき、

絶対の権限もって処置をし、指揮をとっている。

軍司令官と雖も飛行場に入ったら、整備隊長の指揮指示に従って貰うことになって

いる旨を伝えた。

飛行場大隊長は、目を丸くして、納得行ったようであった。

航空部隊には、航空部隊の最新鋭の兵器による戦斗を行うことにおいて、歩兵の如く三

八式歩兵銃や機関銃と異なった厳しいものがあることを、やっと判った様子であった。

飛行場大隊と、飛行戦隊の間の間題が、これを契機として、やっと端緒についたようであ

った。

さて、私は、飛行場大隊の持っている、保存燃料、潤滑油、機関砲弾、爆弾、消耗品、油、

その他の状況を調査して、私は呆気にとられてしまった。

燃料は二出動分、機関砲弾、爆弾は夫々一出動分、潤滑油は、全くなし、その他の消粍品、

グリース、高圧油(油圧用)は0の状況であった。

潤滑油は、日本陸軍の飛行機は、まだ鉱油の潤滑油は使っていないで、医者が下剤に使用

するヒマシ油、つまり、ヒマという南方の植物の種子から取った潤滑油であった。

 専門的になるが、この潤滑油は、オイリネスと云って、高圧高速の時の潤滑する油の被

膜をつくるのには秀れた性能をもっているが、長期使用と、高温、高圧の運転をすると、こ

の潤滑油が分解して、急速に、その性能を低下するのである。

このために、出動する前、また、現地の戦場に着いたときは、長期輸送、飛行のために使用

した潤滑油は、全部取換えて、新しい性能の良い油にとりかえる事になっていた。

その潤滑油が全く無いので、フアプリカに着いた、飛行第三十一戦隊の隼戦斗機は、全部、

満州の嫩江基地で、積載した潤滑油で、飛んでいたのである。

 愈々決戦を前にして、飛行基地に、潤滑油が一滴も無いなどは、考えられぬ事であった。

比島群島における日本軍軍司令部は、戦勝に酔って、マニラでは、今でも軍司令部の連中は、

毎日、ダンスやその他に明け暮れていて、第一線えの準備は何もしていないのに等し

い状況であったのが、事情である。

私がフアブリカ基地に到着して、何日か経ったときと云うより間もなくの頃である。

第四航空司令部より、後方の参謀が到着して、第一線の状況を調査に来た。

私と、飛行場大隊長、飛行場大隊整備中隊長の三人で、この参謀に会った。

この参謀が、私達に

「何か?要望事項は無いか?」

と、問うので、

「何か?要望事項が、ですかですって、

この、ファブリカの準備は、一体、何をしていたのですか?

貴方の御手許にフアブリカ基地の燃料、弾薬、潤滑油その他の戦斗用準備材料の現在の

一覧表は、この通り差上げています。

それでも、お気付ではありませんか?

爆弾一出動分は判ります。

しかし、整備用の、特に潤滑油が一滴も無いのは、一体どうしたことなのでせうか?」

と、問うと、参謀は、

「理屈をいうな!

油がなければ、精神力でやれ、

東条首相は、空気で飛行機を飛ばせ!

油なしで、飛行機を動かせと云ったではないか?」

と、いう。

「馬鹿も、やすみやすみというが、そんな馬鹿な謡をまともに受けているのですか?

油なしで、飛行機を飛ばせといわれるのであるならば、油なしで飛ぶ飛行機を下さい。

ここにある飛行機は、全部油無しでは飛べないのです。」

と、いうと、

「今、ここに在る飛行機は、飛んでいるでは無いか?」

と、いう。

「今、飛んでいる飛行機は、満州、嫩江で積んだ潤滑油で飛んでいるのです。」

参謀は、

「それで、良いでないか?」

と、いう。

「馬鹿を云っては困る。

 潤滑油は、古くなると、性能が落ちて、何時故障するか判りません。

貴方は、ここに居る将兵は、愈々戦斗になれば、明目にでも、空中戦で散華するかも知

れません。

参謀ともあろうものが、第一線部隊が、最大、最善の性絡を発揮しないで、戦って、

戦争に勝てると考えているのですか?

潤滑油というものは、空中で最大、最善の性能を発揮するために、第一線に到着したら、

全部新しいのと交換しなければならないのです。

貴方は、比島決戦の参謀として、今、ここに来ているのでせう。

比島決戦は、航空が中心の決戦です。

それが、最善、最大の性能を発揮しないということは、米軍に敗けて良いということに

なります。

それで良いのですか?」

と、問うと、その参謀は、

「こんな事は、陸大の教育でも習はなかった。」と、いう。

「陸軍大学で、どのくらい、航空のことを習って、参謀に成ったのですか?」

と、問うと

「僅か10時間だよ!」

と、いう。

いやはや、驚いたのは、今度は、こちらの方であった。

しかし、飛行場大隊長や、飛行場大隊整備中隊長等も、眼を丸くして、私達の応答を見て

いた。

参謀は、

「良く判った。

帰ったら、すぐ、善処する。」

と、いって、帰って行った。

それから、一週間足らずで、一隻の輸送船に必要物資を満載して、パゴロドに送り、潤滑

油その他が届いて、やっと、戦備が整ってきた。

日本の大本営、陸軍は、比島決戦を叫んでいても・実際のところ、日本は緒戦の戦勝に

酔って、その余韻というのか?マニラの軍司令部は、型式的に、比島決戦と叫んではいる

が、心情や、決戦の態勢は、何もしていなかった事になる。

 日本の陸軍というより、日本の陸海軍は、植民地軍や、満州その他の匪賊、馬賊、軍閥の私

兵には勝つことが出来ても、本格的な戦争、戦斗に勝つ要素も、態勢も、全く出来ていない

事になる。

 この様な中で、我が飛行第三十一戦隊の作戦準備を進めねばならなかった。

この事は、次の如きものがあった。

比島えの集中、補給が、飛行第三十一戦隊の扶桑丸の遭難の如く、既に大きな誤算を

生みつつあった。

比島決戦という計画において、集中兵カ、兵器器材、補給線が確保出来ない様相が既

にあった。

大本営、軍司令部、師団司令部等は、実地実戦の体験のないもので構成されているこ

とで、緒戦の戦勝によって、物事の判断、情勢や、その他の冷静な事実についての考察

の姿勢や方法についての考え方が、失はれてしまっていたと考えられる。

比島決戦というが、島々におけるものであって、かつての陸軍の大陸における、戦斗決

戦の経験は生かされていない状況である。

つまり、島々での守備は、守る方は固定されて、補給線は無い。

攻撃側は、自由に補給線と、攻撃方向と方法を選択出来る立場を確保している。

大陸における如く、そこに軍があれば、無視出来ないが、島々にある大軍は、移動

の自由が無く固定しているので、無視しても、守る側は、攻撃側に、何も出来ないと

いう状況になっている。

攻撃側は、進退、攻撃方向の選択の自由と共に、攻撃する、しないの選択の自由も

持ち、兵力、兵器、資材の集中補給も、自由である。

日本陸軍として、最も、不得手であり、未経験の戦斗を行うことになった。

私の記憶では、明確な記憶が無いが、確か昭和十九隼の八月中旬、十八、九日であった

と思う。

 ネグロス島、バゴロド市に在る飛行第二師団司令部において、第二師団に属する飛行団、

飛行隊の将校を集めて、比島における決戦についての作戦会議が行はれた。

この会議は、作戦会議という以上、第二飛行師団全部の各部隊が集まるのかと思ってい

たら、飛行団と、飛行戦隊のみで、航空廠や飛行場大隊は含まれていなかった。

航空廠関係は、補給廠として、別であり、また飛行場大隊は、各地区司令官という組織で、

全く別の作戦部隊ということである。

この作戦会議には、本来、飛行隊の将校のみ参加するのが例であったが、私は、特別に

戦隊長、西進少佐に頼んで、第二飛行師団司令部の認可のもとに参加することになった。

この会議の主なものは、次の様なものであった。

1.大本営の比島決戦についての方策

米軍は、プーゲンビル諸島を突破して、ニューギニヤのウェワク、ホーランジャ等を攻

略し、愈々、比島の奪回作戦を行う態勢をつくりつつある。

これに対して、大本営は、陸海軍の全てを挙げて、この比島決戦に勝利を収めることに

よって、これまでの退勢を覆して、勝利、平和えの道を拓かんとするものである

2.米軍の比島えの進行の予想について

@米軍は、比島奪回の決戦を行うため、先づ長距離陸上爆撃機の基地をつくるため、セレ 

ベス島、その隣のモロタイ島を攻略しに来るであろう。

Aこれと同時に、機動部隊により航空撃滅戦を行って来るであろう。

B比島奪回の作戦の決戦を挑むための、米軍の上陸地点は、次の如く想定する。

1.南比島群島のミンダナ才島のダバオ市附近、または、ミンダナオ島の太平洋岸

2.中部比島群島の太平洋側のレイテ島の、タクロバン港及びその南側の海岸地域

3.呂宋島のマニラ市より東側のカスケード湾附近、或は、リンガマン湾

 以上の如く想定せられる。

3.日本軍の対応策

 米軍のこのような攻撃予想に対して、第二飛行師団は、南セレベス、モロタイ島から

 北部比島のクラーク・フィールドに亘る戦線において戦はねばならぬ事になる。

このために、第二飛行師団は、少ない航空機部隊において、これらの長い広い戦線に戦う

ためには、各地域に、整備員を派遣して、航空戦力の機動カを生かして戦はねばならない。

以上

このような、作戦構想に基づいて、如何なる戦斗行動を行うかが、この会議の主目的であり、

これに対しての各部隊の認識と、特別の意見を求めるものであった。

ここで、問題になったのは、飛行部隊そのものは、飛行機によって作戦するのであるが故に、

飛行隊そのものは、それで機動出来るであろう。

しかし、飛行隊の機動力を発揮せしめる整備を行う、整備隊そのものは、全く機動力を持た

ないものになっているので、夫々この長い、広範囲に分散せしめることになり、整備器材と

整備の兵は、各基地共に少ない兵員になってしまい整備力を集中させることが出来ない。

特に、長い広い地域に分散する防御というものは、防衛戦斗作戦のもっとも戒めるべき

ものであって、作戦の順序、集中の戦機等についての判断は、全く出来ていない状況であった。

特に、本質的に此の様な欠陥をもっているのに、レイテ島には、特別任務として、飛行

第三十一戦隊が属している飛行第十三飛行団が、米軍の上陸作戦の艦船に対しての奇襲攻

撃のために、レイテ島、サンパブロー基地に整備員を派遣しなければならなかった。

私は、このことに強く反対した。

その理由は、兵力の分散固定化は、整備力の低下を招き、それによって、戦力の低下をま

ねくことになる。

また、何時、何処で、敵が攻撃してくるか判らぬことにおいての分散は、防御作戦として、

最も戒しめるところであるからで、特に近代戦においては、攻撃の機動力が増大している

ことで、何処から来るか判らぬという心配から、分散して、何処から来ても良いように

ということで、固定的配備をすることは、集中して防御退勢を崩すものであり、戦はずし

て敗れる態勢をつくっているに等しい。

特にこの作戦指導において、最も注目しなければならなかった事柄として、次の事があっ

た。

米軍の攻撃開始に先だって、先づ航空撃滅戦に対応しなければならぬ。

これに対して、大本営、軍司令部、第二師団としては、この米軍の航空撃滅戦に対し

ての指導は、次の通りであった。

比島派遣軍の航空部隊は、米軍の上陸作戦を撃滅するのを主目的としているのであるか

ら、米軍の航空撃滅戦に際しては、極カ回避して、戦力の温存を計るということであった。

その措置として、各部隊は、回避、退避、飛行場基地を決定して置くというのである。

具体的に、璃行第三十一戦隊の回避飛行場として割り当てられたのが、中部比島群島の

パナイ島のサンホセ飛行場であつた。

パナイ島は、ネグロス島の西隣にある島で、サンホセ飛行場は、そのパナイ島の西海岸

にある街の飛行場であつた。

バゴロドから僅か百K足らずのところであって、回避と云っても、同じ中部比島地区内

であって、航空機の航続カから云っても、それば、僅か十分〜十五分の距離で、攻撃圏内

のところである。

これが敵の攻撃圏外であれば、回避といえるであろうが、攻撃圏内では、回避とは云え

ない。

大本営、軍司令部、第二飛行師団の作戦関係者が何を考えているのか、全く判らない状

況であつた。

この事は、第二飛行師団長であった、青木勇中将と、第四航空軍司令部、大本営との間

に意見の相異があった。

青木勇中将は、このような回避は意味がないし、航空撃滅戦を挑まれて、戦力の温存な

どは出来るものではない。

「米軍の航空撃滅戦は、機動部隊によるものであるので、この機動部隊に対して、必殺攻

撃をかけて、この航空撃滅戦を失敗せしめないと、戦勝えの道は拓けれない。」と、いう

意見であったと聞いていたが、第四航空軍司令部及び青木勇中将は、大本営によって、交

替させられてしまった。

そして、私の意見の、レイテ島派遣人員は、飛行第三十一戦隊の所属から、飛行第二師団

の直属という形になり、航空撃滅戦には、回避ということになったのである。

この様な状況は、第一線部隊の飛行隊の人々にも、大きなショックと不満、不安があっ

たことは否定出来ない事実であった。

必勝の信念というより、これらの事実は、必敗するという事実となり、絶望というより、

すでに、敗戦を覚悟して、如何に死するかと、いう問題に、しぼられた感じがあり、何処まで、

自己の生命で、戦えるかということに、決着した感じであった。

 

3.ファブリカ基地について

フアブリカ基地は、ネグロス島の東地端の方に流れる、ザガイ河の中流のフアブリカ町の

東、サガイ河を東に越えた台地の上にあった。

このネグロス島は、火山によって出来た島で・この島の中央に、火山山丘があり、その最北

の山がシライ山という。

このシライ山からの熔岩、火山土壌が北に流れている斜面の侵蝕された大地にあるのが

フアブリカで、サガイ河は、このシライ山の東の山の裾野の中から流れ出て、この火山性

裾野の大地を侵蝕している。

このサガイ河のフィリッピン海に出る口にあるのが、サガイ町である。

このファブリカ町は、フィリッピン離島をスペィンが占領していたのを、米西戦争の後、

米国領としての植民地にしていたところである。

米国領の時代に、米国は、このネグロス島のシラィ山の東斜面にあるラワン材の密林に

着目して、東洋一のラワン材工場をつくった。

その名前は、インシュラ木材株式会社のフアブリカエ場である。

フアブリカ基地は、このインシュラ会社のフアブリカエ場の私設飛行場としてあったも

のを、日本軍が基地として、拡大したというべきであろうか?

小型輸送機の発着所であったものに、手を加えて、軍用にしたので、滑走路は一本で、僅

か千米前後のものであって、最大としても千二百米以上は伸ばすことば出来ない台地上の

飛行場であった。

フアブリカ町は、この米国のインシュラ会社の米人の従業員の特別宿舎、バンガローの

特別地区と、フィリピン人の部落からなり、その中間に、小学校、公会堂、教会等の施設が

あった。

工場そのものは、サガイ河の西海岸地区に施設され、その工場から材木を運搬する軽便

鉄道が布設されていて、材木を伐り出す、シライ山の東斜面に入っていた。

この台地一帯は、砂糖の産地であるので、フアブリカの部落のある地域のサガイ河、東岸に

は、周辺の農場からの砂糖きびを集積して、砂糖をつくる工場があって、私達がフアブリカに

到着したとき、この工場には、砂糖の袋の山があった。

この砂糖工場から、河口のサガイに通づる一本の道があって、他からは、サガイに行けぬ

ことになっていた。橋も何もなかった。

多分米国のインシュラ株式会社の米国人達が使用したのであろう、砂糖工場から、少し下

流に、長距離用のヨットが一隻、つないであった。

フアブリカ部落の現地住民の住居は、サガイ河が、フアブリカ基地のある台地から西に

向かって流れる河岸の河成段丘の上、斜面にあった。

ここは、現地住民の、つまり海岸地域の住民と、シライ山地域に住む、山の住民との山の

幸、海の幸の交換市場的な町であったようである。

私達には、フィリッピンというと、一つの国民のように考えていたが、この群島は、八千

からの島々の群島であり、そして、極端にいうと、八千の言葉があるといっても過言でな

いであろう。

私のネグロス島も、東側と西側とで言葉が異なり、山地と海岸とで、また言葉が異なる。

 それは、住民そのものが異なっていることで、言葉のみでなく、生活様式、宗教も異な

ることになるのである。

そして、フィリツピン群島は、スペインの占領時代、そして、米国植民地となり、今日

に及んでいるので、言葉も、公用語が、スペイン語、米国英語と変って、日本軍占領下では

タガログ語となったが、このタガログ語はマニラ近くの一つの部族の言葉にすぎない。

商業的には、産業面でも華僑の進出によって、商取引の大部分は、中国語即ち華僑が中

心である。

日本人のように、日本語のみの国、人々には、この複雑さは理解出来ない。

ここに、日本人の独善的な物の考えの生まれる原因があるのかも知れない。

我々は、この中で、戦っているのであるが、日本人の無神経さは、また、日本軍の一人

よがりにつながったかも知れない。

しかし、フアブリカにおいて、現地の住民は、我々、飛行第三十一戦隊やその他のフアブ

リカ駐屯日本軍が、米国植民地時代にインシュラー木材工場の米国人の住居地域を占領し、

その建物に、夫々の本部を設け、住居としたそのとき、フィリピン人の代表を招いて懇談

したときに、フィリッピン人の人々は、この地域には、米国人の人々が立て札をして、犬と

フィリッピン人は、入るべからずと、我々は、一歩も入れなかったのだと、私達に告げたこと

があった。

米国人には、確かに、サガイ河岸の段丘の上にあって、独立した形で存在していた。

この地域の中央にプールがあって、皆で楽しんだことであったのであろう。

その米国人の住宅街の特別区の西側を通る道路を隔てて、公会堂があって、そこは、半

分空地になっていて、映画やダンスパーティを楽しんだところであったらう。

その公会堂の広場の南側、シライ山側に、キリスト教の小さい教会があった。

ここは、カトリックか、プロテスタントかは、私は確認出来なかった。

フィリッピン自体は、カトリックであるが、それらの教会は、頑丈な石造りの教会が多

いのに、フアブリカの小さい教会は、木造の綺麗な教会であったので、プロテスタントの

ものであったかも知れない。

その教会と道路を隔てて、サガイ河側、米国人に住居の南側台地の平坦部に、小学校が

あった。

ここも、木造の綺麗な小学校であって、教課書も完備し、ブラスバンドの楽譜等もしっ

かりしたものが置いてあった。

フアブリカの部落は、公会堂から西側のサガイ河による段丘の上から斜面にかけて、約

1Kに亘って続いていて、その西側は、一面のココ椰子林になっていた。

このネグロス島の首都というべきバゴロド市は、このネグロス島の西側海岸にある港街

で、パナイ島との間の水路にあって、パナイ島のイロイロ市と相対していた。

道路は、このバゴロド市より、タリサリ市、サラビヤ町と、西海岸を北上し、サラビヤ基地

のところより右折して、マナプラ基地に通じ、そのマナプラ町から、一面の砂糖きび畑の中

を通づる道路で、フアブリカのフィリツピン人住宅地の背後に通じ、教会と小学校の間で

左折して、公会堂と、米人住宅のところから坂を下り、サガイ河にかかった橋を通る。

この橋はコンクリートの立派な橋で、戦車でも通れるであろう。

この橋を通って、サガイ河が作った段丘の崖の下から右折して、段丘を登ったところで

道が二岐に分かれている。

右側が、フアブリカ基地にゆく道であり、左側は、左に曲がって行って、飛行場大隊の本部

と、その宿舎、飛行第三十一戦隊の整備員の宿舎、及び飛行場大隊の衛生、救護所の建物が

列んでいた。

この地域を更に、北えゆくと、砂糖工場があり、その付属の建物があった。

独立警備隊という修理廠の現地修理隊は、この地域にあった。

それから道路は、サガイ河に沿って、サガイ街に行く道と、再びネグロス島の東部海岸地区

え通じる道になる。

 さて、フアブリカ基地は、フアブリカ街のある、サガイ河の西側とは、深い崖のある、サ

ガイ河の浸食台地と対した、台上にあった。

火山の灰や石の堆積した土質の斜面台地を侵蝕した台地であるので、その台地に、地隙

が侵蝕したものを、ブルトーザその他の土木機械で平にして作った飛行場である。

飛行場の巾は、約東西1K、南北約2Kくらいの広さで、この滑走路のある台地は、東

の方に、広い草の生えた台地の起伏と地隙のある地域があったので、その地隙の凹地を埋

めて、飛行機の誘導路をつくり、飛行機の掩体が配置してあった。

火山台地斜面であるので、土は、赤褐色で、粘土分は、殆ど無い状況であった。

降雨によって、泥ねいとなるが、思いの外、良い排水出来る台地であった。

飛行団司令部は、南北の滑走路の西側のサガイ河の断崖の上にあり、飛行第三十一戦隊

の指揮所は、滑走路の東側中央に作ってあって、その指揮所の東北には、数本の椰子林が

あった。

その中に濠を掘り、対空無線や、その他の飛行場大隊指揮所が設備され、その椰子林の

中に対空監祝所の塔がつくられていた。

滑走路は、巾百米、長さ、1.5K程のものであり、綺麗に整地されていたが、火山地

質であるため、丁度アンツーカーを敷いた様なものになっていて、舗装はなかった。

燃料、弾薬は、指揮所のところの椰子林の北側の地域に、道路に面して、集積してあって、

何んの覆ひもなく、ドラム罐を青空に暴露した集積である。

飛行第三十一戦隊は、滑走路に付属する誘導路に沿って、北から、第一中隊、戦隊指揮隊、

第二中隊、第三中隊と南え展開し、指揮隊は中部、北部より滑走路に沿った広い台地に出る

ことになっていた。

特に滑走路のある台地の西側は、サガイ河に沿って、約二十米前後の断崖の急斜面にな

っていた、

僅かに、滑走賂の南端の堆域が、サガイ河の川岸になだらかな斜面をもっていた。

昭和十九年の八月二十日頃であったが、第四航空軍司令部の第一線部隊巡視が行はれた。

このときには、確か、市川中尉以上のゼレベスメナド地区えの先遣隊、また、ミンダナオ島の

デルモンテ基地えの派遣整備員が出発した直後のことであったと思う。

第二師団長、第十三飛行団長、飛行第三十一戦隊長、飛行場大隊長等が集合し、作戦準

備の状況を、第四航空司令官に報告することになった。

整備隊は第一線の整備将校の中心である市川中尉以下、全部、メナド・デルモンテ基地

に前進し、残ったのは、見習士官のみであったので、これを指揮して、私自身が整備を

行はねばならなかったので、作業着を着て、整備の指導を行なっていた。

南方熱帯地の日本の飛行機の整備は、大変であった。

日本の飛行機は、製作上精度が確実でないので、部品を組立てるときに、正確さがない。

これを調整すべき、パツキングが発達していない時代であったので、殆どの飛行機が、

油洩れを、多少に拘らずもっている。

この油洩れが、発動機の点火装置の高圧電力の電線に付着して、高温度で、電線の被覆、

ゴムの材質を軟化し、亀裂を生せしめる。

一出動終了した、飛行機は、全体に何箇所も油洩れを起こして来ているので、これの防

止と、故障を起こした場合、これらの油洩れを拭いて、故障箇所を発見しなければならない。

このため、全身油まみれになってしまう。飛行部隊は、飛行服のままで、司令官の前に

出ることが出来るが、整備隊の将校は、一般的に作業服を脱がねばならぬ規則になっていた。

規則というより、慣例、慣習とでも云うべきであらう。

作業服は戦闘服と認めていなかったのである。

メナド・デルモンテ地区え前進した人員のため、整備員は、出発の折の始動整備するだけの

人員を残しているだけの極限状況の整備をやっていたので、私自身が、整備隊長として、各

中隊の整備を指揮していた。

そこえ、急に伝令が来て、軍司令官が、私に会いたいとの事で、私が出頭する事になり、

慌てて、作業服の上に軍刀を吊し、始動車で、飛行場の指揮所に駆せつけた。

型の如く、飛行三十一戦隊の飛行隊の隊員の末尾に整列して、軍司令官に敬礼して、所

属、官氏名を述べ、お呼びによって到着したことを申告した。

そしたら、軍司令官の傍に居た、作戦参諜主任と思はれる参謀が、

「軍司令官の前に出るのに、作業服のまま、出頭するとは、何をいう不心得者かっ!」と

私を叱った。

私は、

「ここは、第一線の基地であります。

私の任務は、第一線の飛行機を整備する事であって、この作業服は、天皇より頂いた作業

服であって、飛行隊の人々は、航空服で軍司令官の前に出頭しているではないですか?

飛行隊のものが、戦斗用の飛行服を着て良いのであれば、整備隊の戦斗行動、戦斗用の

服は作業服であります。

その作業服を着て軍司令の前に出て悪いと申されるのであれば、戦場で作業服を着て

戦斗するなと申されるのでせうか?

ここは、第一線の基地で、我々は、地上において飛行機の整備をしている戦斗行動中の

ものです。

それが悪いということですか?」

と、問い返すと、軍司令官が、

「もう、そのことは良い!

飛行機の整備状況を聞きたいと思っていたのだ。

どんな具合か?

燃料その他、充分か?」

と、問うので、

「一応、一出動して、メナドに行き、戦斗出来る態勢は、お蔭様で完備し、潤滑油その他

後方参謀の御努力で整っていますので、当座の戦斗は、出来るようになっています。

しかし、その後、長期になると、まだ、補給その他、が出来ていませんので、それは保証

しかねます。

特にメナド・デルモンテ地区え先遺隊を出して、ここから出発するだけの人員を残し

て整備している状況で、私以下、御覧のように、必死に努力して、整備状況を落さず、出

動出来るように努力していますが、長期ということになりますと、無理が出来ている状況

で、それに対する処置が必要になります。」と、答えた。

「どのくらい持続できるか?」

との、問いに対して、

「大体一週間から十日でせう。」

と、答えた。

軍司令官は、

「良く判った。」

と、深く、うなずいていた。

この軍司令官の質間が終了したら、先き程の作戦主任参諜大佐が口を切って

「杉山大尉、このフアブリカ基地は、サガイ河の東岸台地にあって、その補給路は、西岸

から来て、サガイ川にかかっている橋によって存在している。

米軍のフアブリカ攻撃があったとき、この橋を攻撃して、落されたら如何にするか?

その対策を応えよ。」

と、妙な質問をして来た。

私は、

「参謀殿、この飛行第三十一戦隊、戦斗隊がここにある限り、サカイ橋の攻撃は出来ぬし、

我々は、それを許しません。

御心配はいらぬことであります。」

と、答えたら、その作戦主任参諜は、真赤になって怒った。

「馬鹿もの!

万一の場合のことを云っているのだ。

それを答えろ!」

と、いうので、

「万一の場合と申されますなれば、それは、飛行第三十一戦隊が全滅したというときでせう。

全滅したときは、橋が落ちたとしても、私たちは存在しない事になります。

意味が無いことにはなりませんか?」

と、いうと、もう真赤も、真赤になって怒った。

唇も肩もブルブルふるわせて怒っているので、もう言葉にならない。

「万一でも、全滅したときでも、何でも良い、橋が落ちたときは、どうするのか?

と聞いているのだっ!」

というので、

「ああ、橋が落ちたときは、ここは、東洋一のインシュラという木材工場のあるところで

すので、フアブリカに入ってくるバゴロドの道は、小学校の西南側から、この飛行場

のある台地え緩やか半斜面になっていますので、そこに、木橋がすぐかけられます。

しかし、私は、サガイ橋を米軍、が落すために攻撃して来るとは考えません。

それ程の価値、軍用目的はありませんし、米軍も、それくらいの補給路がすぐ出来るの

を知っていると思います。

それよりも、ここに居る、我々飛行第三十一戦隊を全滅させることに、やっきになって

来ることでせう。

その方が、サガイ橋より、米軍には重要と考えます。」

と、応えたら、作戦参謀を何と心得ているかと、カンカンになって怒っていた。

この二人の様子を見ていた、軍司令官が、私に、

「もうよい、判った。

御苦労であった。」

と、いうので、私は、白分の任務に戻った。

軍司令官以下がバゴロドに帰ったあと、飛行団長と戦隊長が、私を呼んで、次のように

云った。

「杉山、

面白かつたぞ、

しかし、あまり参謀連中を怒らせるなよ。

軍司令官は、貴様の応えに対して、飛行第三十一戦隊の戦斗機隊が頑張っている以上、

橋など落とすような、米軍に余裕を与えぬという、貴様の意気込みに感心して居られ

たがね!

参謀連中は、カンカンだったようだ。

あとの仕事がやり難くなるからな、

あまり、あやつを怒らせるなよ!」

と、いう頼みであったが、三人して、大笑いした。

本来、橋の確保などということ、補修等は、戦隊の整備隊長に問うべき事柄ではないの

である。

飛行場大隊や、地区部隊、その他の仕事であって、この参謀、格好良いところを見せよ

うとして、私にカラカワレた形になったので、彼自身が気がついてないが、質問の裏をか

かれた事でカンカンになったのであった。

これは、当時の日本陸軍の参謀連中の、無知、無学の実情を明らかにしたものとなった。

私の戦隊の若い将校連も、私の応答に、呆れていた。

航空軍の参謀といわれる人も、近代戦における航空戦の素養が全くなくて、大正、昭和

初期の大陸軍、大陸での地上戦のみの知識と経験しか持ち合せがないのみか、これらの人

々は、実戦の経験の全くない、文筆、おもねることを主眼とした、出世主義の人々のみで

あることを証明する応答となった。この様な実情において、若い青年将校の人々は、統帥

というものについて、大きな疑問を持つようになった。

航空部隊においても、飛行隊においても、整備隊の人々においても、その仕事、活動

の中心に考えられるのは、先づ技術である。

飛行術、空中戦、爆撃、その他のものは、飛行機の操縦技術の良否にかかるのもが多い。

整備についても、飛行機の整備というものは、各機械の組立、調整技術を中心にして、成り

立っている。

その技術能カのないものは、如何に人格的に優れていても、航空部隊の幹部としての立

場は無い。

軍隊は、階級、指揮続帥権のみで成立っているものではない。

素質の無い統帥権は、カを発揮し得ない。

しかし、軍隊は、兵士、下士官、将校と、夫々の能力によって、組織と団結によって、

成り立っている。

それは、披術や、単に権カのみでは無い。

戦場は、生死をかけた斗争の場、暴力の最大限行使の場である。

お互に、自己の生命をかけて、働いている。

そこに、お互に、信頼し、敬愛し得るものがあって、初めて、統帥というものの在り方

が確立する。

一つの号令、指揮命令によって、生命をかけて、行動するということは、そのようなも

のである。

ここに、大本営や、軍司令部の在り方に、疑問を生じて来たのみならず、第一線の航空

部隊に、軍司令部、師団司令部からの作戦指導を信頼せず、自ら判断するというものが

生まれたことは、否められない事実であった。

特に、若い青年将校の中では、兵士や下士官に、必勝を説かねばならぬ立場でありなが

ら、この戦争の在り方において、第二次大戦そのものに、勝利を確信出来ないのみか、日

本は敗れるということを考えるようになって、一種の絶望感があった。

これらのことから、青年将校の中で、尺八が流行し、特に飛行隊の将校で、尺八を携行

するものが多くなった。

特に、第三中隊長の増永大尉は、性格的に薩摩の人間らしく、非常に闊達な気性であっ

たし、積極果敢な気象の人であったが、心の中に、日本の将来について、憂える心が強

かった。

この軍司令官の査閲が終了した後、私は、飛行隊の将校と出来るだけ夕食を共にする事

にしていたが、しかし、メナド・デルモンテ基地に先発隊を出発せしめて、整備の将校が少

なくなり、若い見習士官や少尉の不慣れな人々のみになったので、ともすると、この夕食

時間に遅れて、食卓につくことが多くなっていた。

そのような或日、食事をしている私のところに来て、

「杉山さん、

今日は、折入って、お話したいことがありますので、御夕食後、一つ、私の話を聞いて

頂けないかと思いますが如何でせうか?」

と、私に話しかけた。

私は、食事、中途であったのであるが、増永大尉の特別な真剣な顔を見て、急いで夕食

をすまし、お茶を飲んで、彼の話を承った。

「杉山さん。

日本は、この戦争で、敗れるであらうと思いますが如何ですか?

我々は、必勝の信念をもって戦ばねばならぬと考えていましたが、今や、我々が勝ち得

るものは、何もありません。

貴方の軍司令部の検閲での、お答を、大変興味深く伺っていました。

我々の将校としての指揮権は、天皇陛下の統帥権に基づくものでありますことにおいて、

我々の命令は、陛下の統帥権の行使ということでありますことは判っていますが、しか

し、その天皇陛下の統帥権を行う、大本営、軍司令部の作戦指導、命令は、果して、万全

であり、必勝の信念に燃えしめるものであろうか?と、疑問があります。

我々は、陛下の統帥権を行使する命令を行うと共に、指揮を行うと共に、また自らは、

この統帥権に基づく組織において、大本営、軍司令部の命令に従ってゆかねばなりません。

さて、ここにおいて、我々は、軍人勅諭において、私兵はつくってならぬということに

なっていますが、果して、私兵をもつくれぬ程の作戦能力、指導能力の状況のものにおい

て、本当の統帥が出来るであらうか?

この比島の作戦において、我々は、天皇の統帥権の許において、果して、万全が期する

事、が出来るであらうか?

と、いう疑問が生まれて来ました。

杉山さんは、如何にお考えであるかを、御伺いしたいのです。」

と、いう、質間であった。

私は、この増永大尉の疑問に対して、このように応えるより外は無かった。

「増永、貴様が考えている、必勝の信念とは何か?

第一に、当の敵に対して、必ず勝つということであらうと思う。

この事は、貴様も気がついていると思うが、この戦争は、本来、日本に利は無い、朝鮮、

満州を占領し、中国と戦ったことにおいて派生した戦争である。

次に、貴様も、軍司令官以下の査閲その他で気付いているであらうが、大本営、軍司令

官のみでなく、軍そのもの日本の政府そのものにおいて、この戦争は、勝算は、全くない

ものである。

緒戦の戦勝は、植民地軍相手であったことで勝つことが出来たのであって、このように、

比島戦における戦斗は、殆ど勝算は無いと考えねばならぬ。

これらの意味で、第一の意味における勝利、必勝というものは、あり得ないと考えるべ

きである。

第二として考えるべきことは、何か?

何に、必勝の信念があるか?

アジアにおいて、世界において、貴様も、自ら、アジア各地において、体験した如く、かっ

て世界植民地であり、奴隷搾取の制度をとって来たという事実を、この戦斗は打破したと、

私は思う。

少なくも、この植民地主義、帝国主義は、打破されたと私は思うし、また、アジア各国、

世界に、この事実は、明らかになったと考える。

この事は、我々が自ら認識しないでも、アジア各国の国民が、自分等の体で自覚する

あらうし、再びアジアに植民地をつくる事は、不可能となるであらう。

この意味では、この戦争の勝ち敗れるということでなくて、我々の戦いは、成果を生む

であらうし、その意味では、第一の勝敗とは関係なしで、我々は、戦争の目的を達成する

ことが出来るであらうと、考えている。

この事において、戦争の目的を達成する事が出来るということで、我々は必勝の立場に

立っていると云えるであらう。

勿論、この戦争は、為すなさぬは議論の問題となるであらうが、しかし、起こるべくし

て起こったと考えるべきで、そこに、戦争の仕方についての問題、処理のやり方において、

批判は生まれるであらうと考える。

第三として考えることは何か?

我々は指揮官として、将校として、部下を陛下より預かって、指揮し、命令するという

統帥権を、現地で行使していることになる。

我々が指揮し、命令して行使して行動をとるとき、私兵であるか、または、統帥権の行

使、部隊を統帥するという行為を行った場合、私欲や白己の保身等のためにやっているか

どうかが、私兵か、どうかということが分かれる点であると思う。

この我々の行為を見て、第三者が私兵と見るか、本当に統帥権の行使であると見るかの

問題があるであらう。

残念ながら、我々は、自身を省みて、本当に、私は、私自身、統帥権の行使であるかと

いうことは、常々反省してゆかねばならぬし、一つ一つを噛みしめてゆかねばならぬ事と

思うのであるが、厳密に云って、私自身、自らの私情無しで、一つ一つの指揮、命令を下

しているかということについて、明確な、認識を持つほど、僅か二十四歳少しで、果して

出来るものであらうかと、疑問に思っている。

只一つ、私に云える事は、私自身、自らを省みて、自分が軍人として、この戦争に参加

して、今日まで、自分の階級の進み方と、年令を考えると、とてもじゃないが、立派に、

貴様のように、統帥権、私兵だと認識してやってゆくような器用なことは出来ないという

実感をもっている。

私が陸士に入って以来、只一つ思っていることは、毎日毎日、一生懸命やらうというこ

とだけである。

とてもじゃないが、貴様のように考える余裕も何も無いという状況だと云うことが出来る。

只只一生懸命やって、何時何処で、どんな形で一生を終り生命を落とすか判らぬという

ことだけは判っている。

その故に、この戦争を必勝したいという気も、一切無い。

俺が考えていることは、只一途に思っていることは、何時死んでも、全く悔いがないよ

うに、一生懸命やって見よう。

軍人として、この世界に入り、このような戦場に立って、軍人として、何処までやれる

かということと、一緒に戦って働いて呉れる人々に対して、出来るだけ無駄な死に方をさ

せたくないし、立派に生き抜き、戦い抜いて欲しいということである。

そのためには、私自身は如何になっても良いし、如何なる努力もして、一生懸命やって

ゆくということだけである。

日本の敗戦という問題は、貴様も或は知っているかも知れないが、陸軍航空技術学校時代

に、東条暗殺計画、戦争中止運動まで、俺は、正に心允を注ぎ、考えられるだけのもの、

努カをして来た。

それは、失敗であったかも知れぬ。

それは、それなりに、一生懸命やって、失敗した事になった事で、悔いは無い。

必勝とか、必敗とか、統帥とか私兵とかいう間題は、今の俺には全く無い。

このフィリツピンにおける戦いは、本質的に云って、日本の最後の戦いであると思う。

それは、必敗であるかも知れぬ。

また、それは、或は、日米の雌雄を決することにおいて、終戦、講和えの道が拓かれる

かも知れない。

何故かなれば、第二の問題で、アジアは、既に解放されたし、また将来も独立するであ

らうことは、明かである。

この俺は、軍人としてということもあるが、人間として、何処までやれるかということ、

そのために、俺は、自分の出来る限りの一生懸命にやって見よう。

そのことにおいて、油まみれで死ぬか?

或は、爆弾を受けて、木破微塵になって死ぬか?

褌もかえずに、汚いままに死ぬか?

そのようなことは、もうどうでも良い。只一生懸命やるという決意で、ここに来ている

だけである。

それが、この俺の、貴様に対する答えであるが、それで良いのでないか?

それ以上のことは、今の私には何も云えない。」

と、答えたら、増永大尉は、深くうなずいて、

「良く判りました。」

と、云って、私の手を握り、彼の寝室に帰って行ったことがあった。

 

4.嵐の前

フィリッピン群島における、日本と米国との決戦の態勢は、米海軍の日本軍のフィリッ

ピン群島えの集中補給に対する攻撃によって、日本軍は大きな損害を与えられ、飛行第

三十一戦隊は、長路、北満州からの集中移動において、整備隊の1/3の兵員と、全ての

器材を失うという結果になった

しかし、この損害を越えて、また、軍司令部、各飛行師団の必死の努カによって、辛う

じて、この決戦に備える態勢が整って来た。

本質的に云って、この第二次世界大戦、日本で云っていた、大東亜戦争、戦争そのものは、

終局的に勝利えの道はないものと考えられたが、緒戦に、アジア各国における、先進、帝

国主義的な植民地奴隷制度態勢を打破し、植民地軍と潰滅してしまって、今日、日本の野

望として、日本にある帝国主義的なものによるものがあったとされでいるが、そのような

面が確かにあったけれども、戦争の勝敗と別に、植民地を解放したという事実と、それに

より、アジアの民族、特に、東アジアにおける国民が、自ら自由の立場をとり得るという、

その果実を味はった事は、永久に残る事実であらう。

この事実はあっても、戦争そのものは、絶対的勝利えの道は無いことは、既に決定づけ

られているものであった。

この比島決戦というものは、一体何であつたであらうか?

既に、昭和十七年、シンガポール、陥落の時において、英国が提案した、講和えの機会

は、緒戦の勝利におごった、日本によって、失はれてしまっていた。

この事は、私自身が、この講和、平和えの道を拓かんとして、努カした事において、又、

日本が英国の申出を拒絶した事で、絶対的絶望を感じていた。

残るは、何であるか?

この比島決戦において、何か、戦争の空しさ、悲惨さを、全世界に明らかにして、日米

両国の首脳において、戦争の継続が、人類の破滅に及ぶという考え方をさせる、決意さ

せて、和平えの道を拓くということのみが残っているのであるまいか?

私達軍人は、戦争、戦斗、戦う事を専門として、職業として、国防というものに、一身、

生命を投じて来た。

戦争というものは、色々の政治上のもの、文化上のもの、思想上のものがあって、それ

から派生したものである。

軍人だけが、戦う時代は、既に終って、国全体、全国土、全国民の戦いである。

ドイツのクラウゼウイツテが云った如く、戦争は、暴力の無制限行使である。

ここに、暴力の無制限行使という、非常事態においては、全てのものを投入する事に

なる。

そこには、戦場も非戦場も、戦斗員も、非戦斗員も区別はない。

無差別、無制限の暴力の行使、殺傷、破壊があるだけである。

それが、戦争というものであリ、それは、非常事態の極限の状況があるだけで、尋常、

平常の常識というものは全く存在しない、非常識の世界ともうさねばならぬ。

殺すか、殺されるか、生きるか、死ぬか?の極限の状態というべきであらう。

そのような戦いが、我々の目の前に、時々刻々と遺って来つつあって、私逮は、その極

限の事態において、如何に戦うかという準備に、全力を尽くしていた。

そこに、青天の劈雷の如く、伝わってきたのが、軍司令部、第二飛行師団長以下、幹部の

交代が行はれた事である。

第二飛行師団の作戦会議に、出席した我々は、比島群島での米軍の進攻作戦を迎え撃つ

ことにおいて、米軍の攻撃の段階があることを述べた。

米軍は、上陸作戦を行う前に、一大規模の航空撃滅戦を先づ行い、そして、海軍による、

艦砲射撃、航空兵力による上陸地点の徹底的な攻撃があることを知っていた。

このことは、ガダルカナル島以来、ブーゲンビル諸島、ニューギニヤ島の各基地の米軍

の攻撃、上陸作戦において、一つのパターンがあった事で、我々は、既に承知していた。

第四航空軍の司令部の大部分は、ニューギニヤその他で、米軍の奇襲とも云ふべき、集

中航空撃滅戦と、上陸攻撃のために敗退して来た経験者が多く、この比島群島での決戦こ

そと、思はれていたものである。

この中でも、回避ということを、徹底して行うことは、大本営の示す、指示の範囲での

回避は不可能である事と共に、回避というと、聞えはよいが、米軍は、恐らく、回避で

抵抗をしない事で、図に乗って来るであらうし、下手をすると、戦争の勢いというものを

失うであらうことを恐れた。

米軍の航空撃滅戦に、先手を打って、攻撃する事こそ、この作戦の主導権を確保する事

が出来ると考えた。

また一方、回避ということで、米軍から叩かれていて、それを回復して、米軍の上陸部

隊が進攻して来るときに、攻撃をかけることは、戦争、戦斗の勢いというものと、米軍の

攻撃よる損害や、精神的な打撃から回復して、攻撃に転ずることは、極めて困難な問題で

ある。

この事は、実際の戦斗、戦場で戦ったものであるなれば、戦争という実体験より容易に

判断出来ることであったが、大本営その他のまだ陸大を出ただけで、緒戦の戦勝しか経験

のない人々、参謀、軍司令官では、判断が、理解出来ないもののようであった。

理論と申しても、それは、観念と紙、図上での議論では、可能であり、合理的であらう

が、実戦では、無理なことが明白な作戦指導であった。

地上部隊と、航空部隊とでは、作戦のやり方や、損害をうけたとき、また攻撃するもの

と、攻撃を受けるものとは、全く異なるものとなる。

航空機は、地上にあるときは、ガソリンを積んだ、最も燃えやすい、最も破壊しやすい代

物となってしまって、攻撃には、全く無カである。

回避しようが無いものであることが、大本営の人々には判っていない。

ここに、大本営と、現地の比島航空軍の間における意見の相異を来たした。

この事が、大本営の命令で、軍司令部以下の交替となって、八月三十日に行はれた。

比島決戦を称し、日米軍の戦斗の天王山と云っていて、決戦態勢え着々、あらゆる困難

を排除して整えているときに、この航空軍司令官の交替は、如何なる意味を有するものか

第一線部隊としての判断に苦しむものであった。

日本軍は、天皇の統帥権の下にあるということで、兵士、下士官、将校の団結、精神的

な連帯は、強固なものがあり、武器、兵器こそ、劣弱であったが、兵士、下士官等の訓練、

錬磨、素質においては、世界最優秀のものであリ、精強なものであったと、私は信じる。

しかし、軍首脳、大本営における状況は、必ずしも、明治時代の軍と異なるものになっ

ていたのではあるまいか?

増永大尉が、私に質間した如く、統帥というものの考え方は、余りに人間の考える論理、

機械的なものになっていたように思う。

決戦を目前に控えての軍司令官の交替は、大きな衝撃を、第一線部隊に与えたことは、

絶対的に否定出来ない事実であつた。

第四航空軍としては、ニューギニアより、ビアク地域、比島と、広い、長い戦線をもって

いることで、比島決戦は、比島のみに集中しての作戦計画は、出来ないし、心情的に無

理であったであらう。

兵力、武器その他の劣勢は、既に、ガダルカナル島の決戦以来、明白であった。

この情況の中での、比島決戦は、ニューギニヤ、ビアク地区、セレベス地区、比島地区

に亘る、長大なもので、これを全部万全なく、防備を固める事は、不可能なことであった。

まして、米軍は、自ら望むところに、兵力を集中して攻撃出来る態勢がある。

日本軍は、夫々、各地区に分散孤立すべき態勢で、これに、米軍の自由な集中的攻

撃を受けるという状況では、絶対的防備の決戦の成功は望めぬものであった。

このような状況で、作戦上も、態勢上も、決して、必勝というものが出来る状況では無

かった。

特に、この軍司令官以下の決戦直前の交替は、大本営、南方軍司令部、比島派遺軍、

第四航空軍等の比島決戦における、考え方、態勢の不統一の状況を暴露するものとなっ

た事を、如何に考えるかは、後世の戦史を研究する人によらずとも、明白な日本軍の重大

な失策ということが明らかであらう。

第一線部隊としては、夫々の受けた命令において、作戦範囲があったが、各自、夫々独

自の判断で行動を決定しなければならぬし、自己の生命をかけての決戦において、如何に

処するかについて、決意するところがあった。

日本軍において、比島決戦を前にして、夫々、最善を尽くしての努カの中に、無風にし

て、おののき、そよぐべきものが、各兵士、下士官、将校の心の中に、吹き抜けてゆくも

のがあったように思う。

正に暴風雨の前の静けさの中での、戦慄に似たざわめきとも云うべきであらうか?

決戦を目前にして、軍司令官の交替の報は目に見えぬ衝撃となって、第一線部隊の

将兵に伝って行った。

しかし、私の立場からいうと、私の本来の覚悟からいうと、このような問題を省みる余

裕は無かつた。

飛行第三十一戦隊としては、遭難して失った人員の上に、メナド、デルモンテ、そして、

レイテのサンバブロ基地と整備員を分散して、フアブリカ基地には、僅かに、出発に必

要な整備員しか残されていなかった。

そのような極限状況での整備作業であり、特に、満州より長路輸送して来た、飛行機は、

各部の調整が温度によって狂いが上じて来て、毎日、油洩れや、油圧低下、電気系統の

故障が相踵いでいて、五十余機ある飛行機の中で、幸うじて、第一線の出動する機数を確

保している状況で、日に夜を踵いでの整備努力を重ねていた。

その中で、指揮小隊の小佐井中尉と、第三中隊の山下軍曹が、マニラにおける、艦船跳飛

攻撃の訓練のため、整備員五名と共に出張して行った。

それと同時に、これは西戦隊長からか、或いは、石井勲飛行隊長からの発案であるかも

知れぬが、サラビヤ飛行場での、夜間飛行訓練に行くという発案があり、これを師団司令

部、飛行団司令部も承諾した。

夜間離着陸の訓練は、隼戦斗機によって機種改変後、一切やっていなかった事で、私も、

その必要は、認めざるを得なかった。

しかし、整備員は、メナド、デルモンテえの出発のために、最少限度、出発に必要なだ

けの整備員しか残っていない状況であった。

それに、小佐井中尉以下のマニラ出張え随行する整備員を派遣して、その夜間飛行訓練は

極めて整備員の熟練したものを出さねば危険である。

飛行機そのものは、出動予定機以外のものを当てたにしても、これらの人員を出して、残

った人員で、出動準備完了した飛行機の整備状況維持は困難になった。

サラビヤ基地の夜間飛行訓練には、55期生の北村大尉を指揮官として、整備下士官の優

れた人々を選抜して派遣し、私は、如何なる事態にも応じられるように、フアブリカ基地

に残つた。

しかし、残った人員での出動整備は、完全に不可能になったので、飛行戦隊本部の下士

官、当番兵等も、全部動員して、整備隊の整備作業に当て、そして、毎日、何機かの試験

飛行訓練を行って、整備状況の完壁を期する事になった。

私の考えでは、言葉の上で、完壁を期する事になったと述べているが、勿講事実にお

いては、不可能といわねばならぬ状況であり、私及び整備員の顔が、次第に油にまみれ、

黒ずんで行って、疲労の色が濃く沈積して行った。

只眼ばかりガ、ギラギラとなって来た感じがした。

この様な状況で、整備隊の戦斗は、整備そのものにあって、華やかな空中戦や、戦斗に

あるのでない。

それに参加する飛行機も、その空中戦、戦斗行動において、最大最善の能力を発揮する

如く、準備し、整備してゆくことにあるのである。

比島決戦を前にして、私に与えられた状況は、本来、決戦のために、充分飛行機を整備

して、本格的航空撃滅戦に、すべての飛行機に最高の性能を発揮させるべく、最後の点検

整備を行う時機を与えられるべきであったが、そのような事は望むべくも無く、最悪の状

況で、如何に、この決戦に出動する飛行機の機数を確保する事に精一杯の状況であった。

整備員の顔も作業服も、連日の整備に、油まみれになり、精魂をすりへらしての作業に、

神経が鋭くなって、皆の頬はこけてしまっていた。

サラビヤの夜間飛行は、第一中隊、第二中隊、第三中隊と連日行はれ、第四日目は、戦

隊としての夜間飛行訓練に入る予定であつた。

その頃、突然、マニラに出張さしていた西山中尉から電報が入り、

「小佐井中尉、艦船攻撃訓練中、低空にて、波に衝突し、機は、沈没したが、小佐井中尉

は無事」

との、連絡が入った。

私はこの電文を読んだとき、不吉な予感がした。

小佐井中尉は、無事であったが、出動可能機が、また一つ減ったということを、認めると

共に、何か起こりそうな気がしたのである。

飛行機の整備は、如何に尽くしても、万全ということは、不可能に近い。

一般の人は、飛行機は、全て、同じように出来ていると思はれるかも知れないが、飛行

機は、外見上皆同じように見えるが、何万という材料、部品が人間の手で組み合はされて、

一機の飛行機が出来ている。

人間が何億、何百億という細胞組織から出来ていることで、絶対に同一人物は居ないの

と、同様である。

飛行機にも、夫々癖、があり、特徴をもっている。

その特徴のある個性を知って、その性能を発揮させるのが、整備である。

それは、微妙な調整や、組立て、修理を行っているものが、感ずる、一種の感とでもい

うべきものであらうか?

サラビヤ、飛行場での最後の夜間訓練飛行の日、折悪しく、午前中よリ、あまり天気が

良くなかったように思う。

空は、快晴に近かったが、天候の不安を思はせるのもがあった。

小佐井中尉の事故の入電で、私は、サラビヤに馳せつけたい気持にかられた。

しかし、サラビヤ基地には、北村大尉が行っていることであるし、夜間飛行訓練が

終了すれば、メナドに前進して、モロタイ島を攻撃して来る米軍との真正面からの戦斗

に入る。

「その前進準備に万全を期さねばならぬ。」

と、自分に云い聞かせて、サラビヤ行きをやめていた。

午後から、天侯が次第に悪化して行って、大空には、厚い雲が覆い始めた。

雨になれば、夜間訓練は、中止になるであらう。

しかし、天候は、厚い雲が大空一杯に拡がっただけで、その暗い鉛色の雲は、重くどっ

しりと、我の頭の上にあつた。

午後五時頃、サラビヤの方の空を見ると、フアブリカから見たのでは、ネグロス島と、

西側のパナ島えかけて、暗灰色の雲が、次第に真黒な色に変って行った。

午後六時頃、この雲空の果、西の方は、或は、雲が切れていたのかも知れない。

地平線に沈む太陽は、真紅の光を、大空の雲に投げかけ、雲の果ては、真赤な色に

染まって行った。

フアブリカ基地から、アナプラ基地の間に、大きな椰子林がある。

帝王椰子という林で、約十数米の高さに、大空に手を拡げたやうな椰子の葉が茂って

いるが、西陽に、真黒な影の向うに、真紅の太陽が、地平線に沈むのが見えた。

フアブリカ基地の南にあるシライ山のみが、西陽に映えて、赤々とした、山肌の輝きを

見せていた。

そのシライ山の山肌が麓の方から次第に、濃い紫色から、暗黒の色がはい上がってゆき、

やがて、頂上の一点のみ、赤々と輝いていたのが、フット、真黒な頂きに変って行ったと

き、サラビヤ基地の電話連絡で、夕刻、夜間飛行の、天候偵察のため、単独で離陸した、飛

行隊長の石井勲大尉が、真紅の西の太陽に向って、飛び立って行ったまま、帰還しないと

いうことの電話連絡があり、戦隊副官の小出中尉が連絡してきた。

私は直ちに、サラビア基地の西進隊長に電話連絡したところ、サラビア基地では夜間

飛行訓練を止めて、全員で石井勲大尉機の捜索に当たっているということであって、私

のサラビア基地訪間はやめて、戦隊本部で待機するようにとの事であった。

日没の太陽に映えた、真黒の雲は、大空を覆って、雨が降って来た。

遂に、石井勲機は、太陽の中に消えたのか?

私の記憶の中に、西の空の真黒な雲と、その西の果てに落ちる太陽の真紅の色のすざ

ましさだけが、残っていて、遂に石井大尉は、帰って来なかった。

恐らく、石井勲大尉は、天候偵察と称していたが、小佐井中尉等が、マニラ湾で行って

いる、艦船跳飛攻撃の如く、超低空飛行を行い、南の国々の天候で、雨のときは、降雨と、

波のシブキがひどく、高度の保持が困難な状況になることで、恐らくプロペラを、波に接

触させて、波上に不時着したのであらうが、雨天のことであるので位置の発見が困難のた

め、愛機と共に沈没したのであらうと考えられた。

サラビア基地に在る全機での夜間捜索、また、翌日も、捜索がつづけられたが、遂に、

彼は帰還して来なかった、

飛行隊々長は、同じ同期生である、岡野和民大尉が、後任として指揮をとることになり

第一中隊長を兼務した。

第二中隊長は、中沢大尉が行うことになった。石井勲大尉とは、私は同期生であるが、

飛行第三十一戦隊が、戦斗機隊として、襲撃機よりの機種改変に引続いて、新しい編成に

なるとき、随分喧嘩し、議論をして、やって来た。

今も、彼の姿は、私の瞼の中にある。

彼の未帰還は、私にとって意外の出来事であるが、あの石井勲大尉の未帰選となったと

きの西に太陽の落ちるときの真紅の色、シライ山の山頂から夕映えが、フッと消えた状況

は、今も、彼の姿と共に、記憶に残っている。

彼が、遂に二日後も帰選しないことで、彼の死は決定的になったとき、ネグロス島の空

は、抜けあがるように、真青に晴れて、シライ山の東側に、夜、南十字星が、綺麗にきらめ

いていた。

私の心の中に、日本海海戦の折、東郷平八郎大将が詠んだ歌が、心の中に浮んだ。

おろかなる、おろかなる

心に示す、誠をば

みそなはしてよ、

天地の神

私は、心の中で、何度も何度も、この歌を、唱い、叫んでいた。

 

5.嵐の動き

日本に近づいてくる台風は、南方の赤道の北方のミクロネシア群島付近から低気圧が発生して、

西北方に移動して来る。

米軍は、太平洋の赤道より南の、ガダルカナル島をついに確保し、ラバール基地を徹底的な

航空戦で無力化して、固定せしめ、山本連合艦隊司令長官を戦死せしめた事で、二本の戦略の

限界界を見定めて、急速に西進し、ニュ例ギニヤ、島のウェワク、ホーランジャ各基地群の

日本軍航空戦力を奇襲状況で撃滅し、飛石づたいの如く、西進を進めていた。

そして、愈々北上する態勢をとるため、ビアリ島、ホーランジャ基地に、集結の動きを

見せていた。

丁度台風が、赤道よりで発生し、地球の自転による東風に乗って西進し、そして、

今度は、偏西風に乗るため、一時停止に近い状況で、勢力を蓄積するのと良く似ていた。

次の北上目標は、ハルマヘラ、モロタイ島、セレベス地区にやって来るか、又は、一挙

に、フイリッピン群島を目指すであらう。

米軍の戦略爆撃機の中心である、コンソリ、デーデットの航続距離とすると、先づ、ハ

ルマヘラ、ホロ島地区に来るであらうことが、予想された。

飛行第三十一戦隊は、石井飛行隊長の行方不明になった事件で、愈々、セレベス地区え

の出発の為の、最後の整備に入っていた。

私は、この指揮を、北村大尉に委ねて、レイテ島、サンパブロー基地に派遣して、そのまま、

飛行第二師団の直轄派遣員となった、舟本准尉以下十七名との別れのため、特に戦隊長

に願って、私がセレベスに行く予定にしてある、襲撃機に乗って、食糧品、甘味品等、

飛行機に載せられるだけのものを積んで訪れた。

私が、扶桑丸で遭難したこともあって、派遣の人達が直接出来ずこの舟本准尉以下は、

長男であったり、または、一家の大国柱となるべき人や、孤児の人々が多かった。

そのような人を、米軍が上陸するであらう正面に派遣する事は、人事上、心の何処かに

ひっかかるものがあり、舟本准尉等は、私が陸軍航空技術学校を卒業して、少尉で、飛行

第三十一戦隊に着任して以来、この第二次大戦中、正に苦楽を其にして来た、親友ともい

うべき人で、温厚着実な人であり、私に、兵士達のため、休憩時間に煙草を吸って、談楽

する事を教えてくれた人であった。

サンパブロ基地に着いた私は、この十七人の出迎え、飛行機に乗せて来た、食料品、甘

味品、その他の必要工具、器具を下ろして、サンパブロ基地の飛行場大隊長に面会し、持参

して来た、お土産を渡して、舟本准尉以下の事を、呉々も宜しくお願いした。

飛行場大隊長も、大変喜んで、舟本准尉以下が、大変真面目にやっているので、大いに

好感をもって、処遇されている様子であり、飛行場大隊として、飛行戦隊からの直接の連

絡があったことで、飛行場をつくってはいるが、果して、実際の戦斗に役立つのか、疑問

に思って居たところであったので、しかも、飛行箪二師団の直属としての派遣であったの

で、やりがいがあるということであった。

この言葉を聞いて、今も、私は、胃の底が痛くなるような、思いがした。

何故かなれば、サンパブローの航空基地は、米軍の艦砲射撃の圏内である。

米軍の上陸には、一気に叩いて来るであらうことが判っていたからである。

私は、舟本中尉とは、今生の別れのつもりで、私の気持ちとして、出来るだけのものを

持って、会いに行ったのであった

しかし、私として、心の中で、泣いてしまった問題が起こった。

それは、兵士達は、陸軍のすすめで、僅かであるが、徴兵保険に入っていたし、

夫々の故郷えの送金をしていた。

兵士の給料というものは、当時は今と違って、ほんの雀の涙ほどしかない。

それでも、兵士達は、戦時手当や航空部隊の手当等で、小使をやりくりして、留守家

族に支送りをしていたものがあったのである。

舟本准尉以下の兵士等は、米軍が上陸して来るかも知れぬ、正面の第一線に基地に

来ていることで、自然と覚悟をしているのであらう、

私に、自分の給料や、保険等の証明、その他のものを、私に託して、人事係の

高橋准尉と共に、手続きをとって呉れることを依頼したのであった。

私のように、白らの杉山家にも絶望し、また、日本自体にも絶望している状況のものに

とつて、この兵士等の僅かの金ですら、故郷を思い、日本のことを考えていて、このよう

なことを、私に願い出られることは、私にとっては、正に、頭をぶんなぐられたような気

がした。

別れを惜しむ彼等と、別離の日本酒を呑み交わして、お互の健闘を祈った。

事実、これが、舟本准尉等との、最後の別れになってしまった。

米軍のタクロバン上陸前に、サンパプローの基地は、艦砲射撃によって破壊され、使い

ものにならず、舟本准尉以下は、飛行場大隊と、撤退し、レィテ島の中央山脈を越えて、

才ルモツク基地え移動した事までは、大体の様子、軍司令部参謀等の証言で判っている

が、その後の状況については、一切不明である。

私は、その日の夕、フアブリカ基地に帰着した。

そして、愈々、メナド地区えの移動出動準備に入って行った。

第二飛行師団長、山崎中尉以下は、メナドに進出して行った。

愈々、日米決戦の時は、目前に追って来た。

それは、大きな、大きな鉄輪のローラーが、遠くから徐々に徐々に動いて来るようなも

のであった。

フアブリカ基地の飛行第三十一戦隊は、連日、機関砲、発動機、無線の調整に、余念は

ない、日々を送っていた。

その或る日の午後のことである。

私は、一通り、各中隊の飛行機の繋留地域を巡って、飛行機の整備状況を観察して、戦

隊の指揮所に帰って来て、昼食を摂った直後の事である。

整備隊の指揮隊に属し、武装(機関砲)の係をしている、(久保田)少尉が、私のとこ

ろえやって来た。

何か、私に話をしたいというのである。

幸い、戦隊長も、副官も、全部フアブリカ町の戦隊本部に引き場げていて、私以外に

誰も居なかつた。

K少尉は、そのところを狙って、私のところに来た様子であった。

「何事か?」

と、尋ねると、ひどく思いつめた様子で

「隊長、武装主任将校をやめさせて下さい。」

と、いうのである。

「その理由は、」と問うと、

「自分の技術に、自信がもてない」と、いうのである。

「何故、そう思うのか?」

と、問うと、

「私は、陸軍航空技術学校で、武装を、機関砲のことを学んで来ました。

しかし、実際の飛行機に当たって、しかも、その戦斗機が、愈々、米軍と空中戦を行っ

て戦うとき、絶対故障は起きないという保証もなければ、自信も無いからです。

私の手で、果して、絶対故障は起さない。

そして、立派に、発射出来て、その性能を発揮せしめるという白信が、全くないことで、

武装主任将校としての責任は、持てないからであります。」

と、いうのである。

私は、彼に云った。

「それは、その通りである。

この俺は、整備隊長として、ここに居る。

それなれば、今、ここにある、飛行第三十一戦隊の全機、故障無しで飛ばせることが

出来ると、断言出来る?

それは、絶対に出来ない。

私自身、絶対的な自信は無い。

日本の今の飛行機は、故障を起こさない飛行機であるかと云えば、絶対に故障を起す

飛行機である。

このように故障を起す飛行機を整備する隊長としての職務が、この整備隊長の私である。

絶対に故障を起す飛行機に対して、絶対に故障を起させない。

完全に飛行機の性能を発揮せしめる仕事が整備隊の仕事であり職務である。

そのようなことが出来るか?

絶対に出来ないと、思うのが、今の貴様の迷ひになり、武装主任将校を退きたいという

気持ちであらう。

貴様は、退職しても、この俺が居ることで、良いと思う気持ちがあっての事であらう。

この俺が、自分を省みて、整備隊長として、完全に出来ると思っているのか?

それは、絶対に出来ない、完全に出来るとは思っていない。

しかし、一生懸命やって、最善を尽くして、何処までやるか?

それは、この俺一人では出来ない。

一人、一人の整備隊の兵士、下士官、将校、貴様だけでない。

整備隊のものは、全部同じ思いである。

それだけに、一人一人が必死で、精魂を尽し、全精力を注ぎこんで、努力して、やっ

ている。

この俺は勿論のこと、全員が必死に努カしていることで、共に苦楽を共にし、共感を一

緒にし、生死を共にして来ている。

そのような信頼があって、始めて、整備隊長として、この俺はここにいる。

貴様が学校を出てきたばかりで、或いは、下士官の優秀なものより、技術的には劣って

いるかも知れぬ.

隊長である、この俺さえも同じである。

しかし、隊長となっている以上、最善を尽くすより外は無いと覚悟して、努力している。」

彼が云うには、

「隊長、貴方の申される通りであると思います。

しかし、私自身が自ら整備して、自ら戦うのであれば、自分も納得がゆくでせう。

しかし、戦斗機は、私自身が操縦するのでなくて、操縦者が、戦うのです。

万一、機関砲が故障を起したら、その操縦者は、無駄死をすることになります。

私自分が死ぬのであれば、自業白得でせうが、しかし、操縦者が死ぬのです。

私に、何等の責任はないのか?

責められる事はないのか?

私の親友、尊敬する人々を死なせる戦いにおいて、私自身の不充分でないもので、他人

を、人々を殺すということに、私は耐えられないのです。

それで、お願いをしたのです。」

と、云う。

「それは、今貴様が云った事が、整備の任務の本当の姿である。

また、この俺も同感である。

しかし、誰が、この辛い任務、責任を果たすのか?

操縦者は、一体、何を信頼して、飛行機を操縦して、敵の中に飛び込んでゆくのか?

それは、この俺なり、貴様なり、死力を尽して、精魂を尽々して、最善を尽して努力

し、精進したものを信ずる外ないであらう。

これは、飛行機の整備に任ずるものの与えられた任務であり、宿命であると、この俺は

思っている。

それだけに、この俺は、何時も、只々一生懸命、一生懸命と念じて、祈りつつ、整備を

やって、努力している。

人生というものは、自分に与えられた生命、たった一つの生命において、只生きている

だけではない。

貴様が、今、その任務、責任から逃げたいという気持は判る。

貴様が居ない場合は、この俺は、自分で、貴様の分まで、責任を負ってゆかねばならぬ

しかし、貴様は、どうだ。

このフィリッピン戦での日米の決戦を前にして、その責任を逃れたとする。

しかし、それにおいて、貴様は、悔いが残らぬか?

責任を逃れたことで、貴様は、生きている間、その責任を逃れたという悔いと、俺に負

はし、なげかけた、その責任を、永久に、貴様の心の中に持って生きなければならぬとい

うことになるであらう。それは、貴様の心の中にしみつく。

それで良ければ、それでもということであれば、この俺も覚悟しなければならぬし、そ

のように考えて、処置をしなければならぬであらう。

そのように考えるが、貴様の決心は、一体どうなのだ!」

と、話しているうちに、彼の目は、だんだん、大きくなって、その眼の底、眼のまわりに、

段々と血が走ってゆき、その大きな眼から、頬え、どっと涙が流れ始め、口は、ひきつ

って来て、遂には、大きく開いて、心臓から、しぼり出すような声をあげ、大声をあげて、

泣き出した。

私は、黙って、彼の泣く姿を、じっと、見つめているだけであった。

このように、彼の姿を見つめている私自身の心の中に、正に瀧のようにと云える程、心

からの涙を流し、眼頭が熱くなっていた。

彼の魂からしぼり出すような、大声の泣き声、体全身から吐き出す泣き声がしばらく

つづいた。

しかし、私には、どうしようもなかった。

私が少尉で、整備の将校として、北満の零下50度以下の酷寒で、整備隊将校として、飛

行場に立ち、そして、夜天幕の中に倒れるように横たわったとき、私の体全身で、ひそか

に流した涙は、彼と同じものであった。

しかし、彼には、私が居て、訴える相手がある。

私には、それすら無かった。

彼の心情、考え方、感じには、心からの同感と同情があったが、この第一線では、どう

することも出来ぬ真実の問題であった。

彼は、遂に、私の顔を見ながら、両手を顔にあてて、赤坊のように、口をあげて、

「あーあー」

と、泣いた。

が、一しきり泣いた後、やがて、両手で、眼尻から頬えの涙の流れを拭きあげ、拭きあ

げ、シャックリをしていたが、泣いたことで、気がすんだのか、やがて、真青な顔になり、

頬をひきつらせながら、服装を正していた。

そして、

「隊長!

私は、初めて、隊長の心が判りました。

良く判りました。

私も、一生懸命、一生懸命やって見ます。」

と、いうので、私は、

「お前には、まだ、私というものがある。

俺が、お前のやっているのを、見ている。

しっかり、やって呉れっ。」

と、いうと、

「はい!

よく判りましたっ!」

と、云って私に敬礼して帰って行った。

私は、彼のように、泣けたらと、心から思った。

 

飛行第二司令部の首脳である、山崎中尉以上、作戦本部の幹部が、メナドに進行し

て行った事で、飛行第三十一戦隊にも、輸送機が割り当てられ、整備用の機材、工貝、部

品等を、第二陣の整備員が、メナドえ、そして、デルモンテ基地えと、これらの器材料を

携行して、昭和十九年九月六日から空輸されることになった。

私も、9月9日から、襲撃機で前進し、フアブリカ飛行場には、北村大尉以下の残置隊

員と、残りの最後発の整備員を、輸送機で運ぶだけの事になった。

飛行第三十一戦隊の整備員は、大部分、メナド基地に集まり、南比島のデルモンテ基地

を中継として、戦うことになる。

この作戦指導は、ビアク島付近に集結した米軍が、セレベス島、ハルマヘラ島、モロタ

イ島に攻撃をかけて来るのを応戦する態勢をとるためである。

しかし、この戦線は、フアブリカ基地からセレベス島のメナド基地に亘っている、長い

戦線である。

日本軍の航空部隊でも、輸送や、後方補給、特に、第一線の整備ということを考えてい

ない作戦といわざるを得ぬ。

整備の人員は、輸送機、移動の手段を持たないと、夫々の基地に固定してしまう。

そのように固定して、分散すれば、整備員が少なく、飛行機の整備能力は、必然低下し、

飛行機の出動機数が減少してゆくのは、火を見るより明かであった。

しかし、第二飛行師団司令部は、敢えて、このような作戦態勢をとらせた。

フアブリカ基地の整備員は、若い見習士官や、数人のベテラン下士官、そして、熟練

の兵士達が残っているだけで、殆どが、新しく補充された、初年兵達が多かった。

米軍の集中する動きは、ビアク島付近と、ニューギニア島のホーフランジヤ付近とに分

かれて行はれていた。

丁度台風の暴風の渦巻きが、熱帯地区の低気圧発生地区で、二つ、三つと起って来るよ

うなものである。

台風は、回転し、渦巻きの風を伴って、襲来して来るが、米軍の攻撃は、この二つのも

の、が何処で合体して、集中して、何処に襲来し、攻撃して来るか判らぬ。

南太平洋地域が、来るべき決戦の時機を前にして、夫々、活発な動きを始めていた。

飛行第三十一戦隊は、少ない整備兵で、最後の点検を行い、その整備結果を再点検する

飛行訓練を続行していた。

飛行隊の人々は、新しい飛行隊長、岡野大尉の許で、連日、飛行訓練を行って、整備、

調整の完璧を期して、努カしていた。

少ない整備兵力であるので、私と岡野大尉は、陸軍士官学校の予科から、同じ中隊であ

ったので、お互い気心が知れていることもあって、操縦者、整備隊の努力は、一層に緊

密に行はれるようになり、態勢としては、不充分であったが、それなりに、充分な、整備

が出来て来たように思った。

しかし、米軍の攻撃が、何処に来るか?

我々は、師団命令で、メナドに移動をすることを、第一に考えて、準備を進め、全ての

行動を、決定して、やっていた。

私も、九月九日、襲撃機に乗って、メナド地区に先発してゆくことに決し、出発の準備

を始めていたし、メナド基地、デルモンテ基地の先発の飛行第三十一戦隊の整備隊員に

対して、夫々指示を行っていて、正に、矢が放たれる状態になっていた。

飛行隊も、整備隊も、いよいよ決戦に参加する事で、勇躍の態勢に入っていた。

実戦に臨んだ人々、経験のある人々には判ることであるが、この決戦というものは、遠

く遠雷を聞くようなもので、また、遠くから大きな、大きな鉄輪が近づいて来るようなも

のであって、この鉄輪を、我々の戦力が集中して、打ち砕けば、戦勝えの道が開ける。

少なくも、我々の力で、この大鉄輪を止めねばならぬ。

何故かなれば、止めねば、我々が圧し潰されてしまって、生存の可能性は無いからであ

る。

泣いても、わめいても、この大鉄輪は、冷酷、非情に進んで来る。

一種の戦慄と、武者震いが起るのがこのときであった。

飛行隊の人々も、戦隊長も、飛行隊長の岡野大尉以下、愈々出発を目前にして、身近な

品物の整理や、始末をして、準備した。

私自身も、褌をかえて、油まみれになった体を、戦隊本部の裏のドラム罐の風呂に入っ

て、体を洗い、新しい褌にかえた。

戦隊本部の二階のバンガーローで、夕食を飛行隊の連中と摂っていると、何処から来た

のか蛍が迷い込んで来た。

南の空に、黒くわだかまって見えるシライ山の頂きの東に、南十字星が、一きわ、あざ

やかにキラメイていた。

決戦の前夜というものは、全く静かで、無気味なものである。

先輩が、愈々第一線にゆくときは、何度戦争に慣れていても、失張り、全身的な恐怖は

去るものでない。

何度も、何度も、褌を締めるものであるといつていたが、私もその通り実感であると思っ

た。泣いても笑っても、愈々時が来たという感じで、生も死も考えない。

只々、努力、決死の働きをするだけという覚悟をするときが来たという思いだけがあった。

 

 

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