幻の戦斗機隊 (幻の戦闘機隊)

第三章 地獄の海上輸送作戦                  <幻の戦斗機隊>

1、出発

昭和十九年六月初め、遂に、比島えの出発の機はやって来た。

嫩江の飛行基地の営門の西にある引込線に、数台の貨車が、機関車に押されて入って来

た。

これが、私達の飛行第三十一戦隊の地上部隊輸送のための貨車である。.

一つ一つの貨車に、夫々、整備隊を一、二、三少隊と分け、戦隊本部の人員、医務室、

経理、整備隊指揮班の人員と一緒になって乗車した。

貨車の中は、稲藁を敷いただけのものである。

この中で、寝起きするのである。

ここで、長年、一緒に、中支、南支、ノモハン事変、ベトナム、カンボジア、タィ、ビ

ルマ戦線を共に戦って来た、飛行場大隊と永別する事になった。

汽関車が大空に真黒な煙を噴きあげ、煙突の下にある鐘を、カラン、カランと、出発の

合図を一きわ高く鳴らすと、期せずして、貨車の中からと、横み込みのプラットホームに

集合していた飛行場大隊から、万歳の歓声があがって、誰の声も、私の指令の声も、消さ

れてしまった。

貨車の列は、ゆっくリと、嫩江の大草原に進み姶めた。

飛行場大隊の人々の振る手、帽子の姿が次第に小さく衣り、汽関車の煙は、北満州の大

平原の上に、長く長くたなびいて、走って行った。

六月の北満州の草原は、芍薬、茸、百合、その他の名も知れぬ草花が咲き乱れていた。

航空廠の前を通り、変電所の前を過ぎ、歩兵連隊の所を通り、嫩江駅に着いた。

 高い水槽の塔の下から、嫩江の流れに沿って、ハルピンえと進んでゆく。

列車はハルピンから、白城子、奉天と、西満州の大草原を通って南下し、朝鮮を通って

釜山に着き、釜山の東北の廠舎に宿泊して、釜山の波止場から乗船する事になっていた。

輸送船は、大阪商船の扶桑丸という八千屯級の台湾航路の客船であった。

乗船会議に出席して見ると、先任の人は、通信隊の老大尉で、私より年次の古い人であ

ったので、その人を輸送指揮官とし、私が副輸送指揮官となった。

副輸送指揮官が、船内の一切の規律を行うことになっているので、通信隊は人員が少な

いので、私の部隊が、旧二等船客室を占める事になり、私が最も心配した米潜水艦の攻撃

の折、船室からの脱出が容易であるので安心した。

扶桑丸は、普通八百名の乗客を乗せる船室があったが、門司からの乗船を入れて、二千

名の兵員を載せる事が出来るようになっていたので、門司までは、楽な乗船であった。

しかし、黄海まで、米潜水艦が出没するようになっていたし、関釜連絡船の金剛丸が、攻

撃されたような状況になっていて、対馬海峡にも危険な情勢で、海上輸送そのものも、予

想した通リ、全く安全ではなかった。

このため、対潜水艦訓練が行はれるようになっていて、潜水艦警報のベルの音は、一瞬

神経に触れて、不気昧なものであつた。

しかし、扶桑丸は、無事、関門海峡の彦島を通り、門司港に入港し、海峡に仮泊したとき、

故郷の山々の景色、緑の色は、目にしみた。

仮泊三日で、我々は、一度門司港に上陸して、民宿して待機する事になったので、太刀

洗その他の航空廠で、部品器材を補充する事を行い、門司港の街の対空疎開の防火地帯を

つくる事や、対空演習にも参加した。

すでに門司の街々は、若い青年、壮年の人々は軍隊に入っていて、老年、婦人、少年の

人々しか残ってないところに、関東軍の精鋭である我々が宿泊して、民間の心づくしの

もてなしを受けるのは、大変嬉しいと共に、日本の家庭生活が、戦争で愈々最後の段階

まで近づていることを察知されて、暗然とした。

幸い、大刀洗で航空廠の方の器材・部品の補充は成功し、比島での戦いに必要なものは

大部分整ったので、心づよいものがあった。

これで、私が最も心を痛めていた、器材と部品・消耗品の補充は出来たので、あとは、

存分に比島で斗うことのみとなった。

昭和十九年の六月十日、我々は、約十日の待機の上で、再び扶桑丸え乗船する事になっ

た。

乗船会議に出席して見ると、東京の第一師団管轄の新編成の歩兵連隊の一個大隊、電波

探知機大隊、高射砲中隊、赤十字看護掃の中隊等と、一緒に乗船する事になった。

歩兵大隊の少佐は、通信隊々長より、入隊が一年か二年後の予備将校であったので、通信

隊々長の老大尉と少し争いがあったが、歩兵大隊の方は連隊に集合して、僅か十日もたた

ない状況で出発したため、まだ部隊の掌握が出来ていない状況であるため、少佐の方が折

れて、通信隊々長の老大尉が輸送指揮官となった。

私は陸士出であるので、事情に詳しい事から、少佐の方から、私に副輸送指揮官をやって

呉れとの申出があって、引受ける事になリ、私の整備隊は場所が少し窮屈になったが、釜

山で乗船したときの場所を占有する事になり、対潜避難の場所も上甲板と船橋に決定し、

これなれば大丈夫と私は安心した。

しかし、私の予期せぬ事もあつた。

満州の広い荒原の大空の下で生活していた私達の部隊が、狭い暗いペンキの臭いに満ち

た船室、船舎に閉ぢこめられて、対潜水艦の警報、攻撃に待機して、なすことなく、只々

忍耐の生活をしなければならぬ。

閉所恐怖症というものが、起こったことである。

特に嫩江で、四月、五月に入隊してきた初年兵の中に、慣れぬ軍隊生活と重なって、現在

の言葉で云う、ノイローゼ症が生まれて来た。

このために、同行して来た中村勘左エ門軍医は、京都大学医学部出身であるし、長年私

の戦隊の軍医をして来た事と、乗船して来た各部隊の軍医、衛生兵等の中の最年長、最上

官であったので、扶桑丸の医務室を拡大し、一等船室を特別に室をつくって、同乗した赤

十字の看護婦部隊の人々を助手とした。

看護婦部隊の人々は、一等船室のサロン、娯楽室のジュウタンつきの室が、医務室の近

くであったので、それを居住室にした。

看護部隊の人々は、三十名くらいであったであろうか、この人々は、医務室と船内の衛

生と食事の栄養を受持って貰うことにした、

さて、船内の衛生の問題であるが、兵員の便所は全て上甲板の舷側に張り出した、木造

の小屋である。

上甲板から、二本の厚板が、海面の上に突き出されていて、その二本の厚板の隙間から

大小便をする。

その二本の厚板の周囲には、別に張り出した丸太や板で囲んであり、その丸太につかまっ

て大小便をするのであるが、その間瞭の間から下を見ると、船の周辺の波が上下し、特

に荒天の場合、舷側に当った波しぶきが吠きあげて来る。

この様な便所を見て歩いていたとき、看護婦部隊の長である壮年の婦人が、私のところ

に苦情を云って来た。

婦人は、この吹き曝しの便所で、用を足すことは出来ぬというのである。

至極、もっともなことであるので、一等船客の船窒の便所は、水洗便所であったので、

これを使って貰い、医務室の便所と共に受けもって貰い、それらの便所は、看護婦部隊の

責任とした。

各部隊、夫々の船室が決定して、愈々乗船する事になった。

扶桑丸の一等航海士は、四十歳前後の士官で、兵員が乗船した後に、各部隊の荷物を積む

ことになつた。

前部と後部の船倉に、夫々の部隊の責任者を決定して、荷物を積むことになったが、前

部の船倉は、私の整備隊で受け持つことになった。.

部隊の荷物は、中甲板の船倉に積んだが、下甲板には、比島に送る、食糧、お米を大量に

積むことになった。

クレーンのモツコ網に、藁のカマスで包装きれたお米を、六〜八個入れて、船倉に入れ、

下甲板に積む。

この作業を扶桑丸の水夫長の指示で、行うことになった。

扶桑丸の停泊している門司港の岸壁のすぐ傍にある、巨大な、倉庫を闘いて、その中の米

包みを担いで、扶桑丸の黒い巨体のところに運び、クレーンで、吊りあげ、船倉で、積み込む

作業である。

陸上側と船倉内との呼吸が合はぬと、この作業は渋滞する。

この作業のテンポは、一つに水夫長の呼笛に従つて行うが、戦時下であるので、灯火管

制の下で行はねばならぬ。

星明かりの下での作業は、呼吸一つで、大きな惨事になりかねぬ。

クレーンのモッコに積み込まれた米カマスが、積み方が悪いと、崩れて、傾き、滑って、落下

すると、岸壁に当たって破れ、中の米が四散したり、悪くすると、船体と岸壁の間の

海水の中に、大きな音を立てて、沈んでしまう。ふと、気がついて見ると、岸壁から

約20米離れた倉庫の影から、そのたびに、かすかであるが太い溜息の音があがった。

岸壁の広場には、数人の憲兵が、荷物の盗難を監観するためか、四、五百米くらいの長

さのところに、分散して立っている。

しかし、その倉庫の間には、モンペをはいた、女の人達が群がって、私達の作業を見守っ

ているのである。

恐らく、配給米が足らぬのであろう。

岸壁に落ちこぼれ、散乱している米粒を拾うために集まって来たと思はれる。

その女の人達から洩れて来る溜息の音であった。

「あー、あーあー」

という、思はずあげる声には、明日、いや、今日の食糧を思うのに、戦地に行くとはいい

ながら、お米の大きなカマス包みが、ボシャと、海水に落ち込む音に、たまらずあげるも

のであろう。

憲兵はそのことを知ってか、知らないのか、時々ゆっくりと歩むと、その方向の女の

顔が、一斉にひっ込む。

私は、この戦争のおける、国民の苦しみを、この溜息の声の中に聞いた心地がした。

僅か二つか三つのこのようなことが起って、私の方の持場の作業が終り、水夫長が船か

ら下リて来て、私のところにやって来た。

作業の終了した兵員は、皆、船内に帰ってゆく。

憲兵がゆっくりと、他の持場に移ってゆくと、私の背後の倉庫から女の人達が、数人走

り出て、岸壁の米粒を拾い始めた。

私と水夫長は、その人達を無視して、煙草の火をつけると、憲兵が私たちの方を向いたので、

手をあげると、黙ってうなづいて、他の方え歩いていった。

憲兵がこちらをむいたとき、女の人達は、ギョットして、逃げる構えを見せたが、私が手を

あげたことで、向こうを向いたとき、女の人達が、一斉に私の方に視線をむけて、ニッコリ笑っ

たのが、極めて印象的に、私の眼底に焼きついた。

彼女らの服装は、戦時中であるので、思い思いのモンペをはいているが、中に相当の老

人と思はれる、品の良いお婆さんの人も層たし、若い乳呑子を背に負った人々も居た。

この人々が、岸壁の上の米粒を素手で集め、僅かの米を両手ですくって、布袋の中に入

れてゆく。

集めた米粒は、二た握り程のものであろうか?

塵埃の混ざった米粒を、急いで、たんねんに拾ってゆく。

私の心の中に、胸に、涙が流れた。

それを、そしらぬ顔をして立っているところに、水夫長が煙草を手にして、やって来た。

私は、彼の方にむいて、

「水夫長、今度は、お世話になります。

よろしくお願いします。」

と、挨拶をすると、水夫長は顔中を皺だらけにしてニコニコしながら、

「やあ、隊長さん。

貴方の部隊の兵隊さん達には、感心した。」

と、いう。

「おや、どんなことでせうか?」

と尋ねると、

「いや、何処がっていわれると困りますが、何処か違っています。

私は仕事柄、沢山の部隊を輸送していますが、

貴方の様な部隊は、初めて見ましたし、一緒に働けるのは嬉しいです。」

という。

まんざらお世辞を云う人ではない。

もう六十近くであらう。

「いやあー、貴方のような老練な人と航海をするのは、私の方こそ嬉しいですね。

戦時中でなければ楽しいでせうが?」

というと、

「いや、船長さんが六十何才、機関長が七〇歳を越えています。

私も、日本のため、命ある限り、奉公ですよ。」

という。

水夫長というと、荒波稼業の船乗り水夫等で、甘いも、酸いも、如何なる暴カも恐れぬ、経験

をつんだ人である。

骨格の大きい、ごま塩のイガグリ頭の人で、眼のすごい人であったが、こうやって話を

すると、好々爺であり、自分の子供か、孫に話している気がするらしかった。

船上で、水夫長を呼ぶ声がしたので、気がついて見ると、付近に居た女性達も、何時の

間にか姿を消して、岸壁のコンクリートは、綺麗に掃除したようになっていた。

 

二、豚詰の船団

扶桑丸の積荷を載せ終って、出発のドラも無く、船体は、岸壁を離れた。

真暗な関門海峡を西に向って、ゆっくりと進み、彦島の西を通って、海峡から少し離れた

ところに停船して、動かなくなった。

夜間の作業であったので、私も船室で暫く横になって、眠りをとった。

夜が明けたのか、当番兵が朝食を運んで来ると共に、日直勤務の交替が行はれ、私は急い

いで朝食を摂ってブリツジに上って行った。

船は、六連群島の西側の沖に俸泊し、四、五隻の船と船団をつくっていた。

他の船を見ると、正に満載であり、船の舷側にある仮設の木造の便所が、船体の両側に

張り出して、正に壮観というか?奇観というべき姿である。

恐らく、扶桑丸も同じであらう。

二千名の定員のところに、約四千名の兵員が乗船したのである。

十時過ぎ、一隻のランチが近づいて来て、各船に輸送監督官が乗船して来た。

この人は、少尉の人であるが、大本営から派遺され、憲兵としての役職、権限を持ってい

る人であった。

この人は、船橋で、船長、一等航海士、機関長と共に、乗船の状況、積荷の具合、その他

の状況を打合せを行っていた様子であるが、船室に居た私のところに、最先きに挨拶に来た。

私に尋ねることは、通信隊長の人と、歩兵大隊隊長の少佐との言い争いの問題であった。

「私が副輸送司令官として就任することで、輸送司令官の問題は、実際は棚上げ状態であ

り、通信隊々長も、実質は、只々名誉的なもののみであって、少佐より年次が上であるという

ことで譲らなかっただけで、根は、もう何も考えていない老兵の人であり、事実は、私に委

せている状況である。

歩兵大隊の方は、東京で編成されて十日も経っていない部隊、しかも後備兵の人達であ

るので、部隊の掌握が出来ていないから、副輸送指揮を私に委せると、大隊長である少

佐は云っている。

このような状況で、特別に間題が起ると思はれぬ。」

と答えると、まあ私が居ることで、問題が起らないであらうから、兎も角も、この船の指揮は、

私でやって欲しいとの希望であった。

二人で、船室の中の各部隊の隊長を訪問して歩いて、一応の御挨拶を終了した。

扶桑丸には、前部と後部の甲板に、高射砲が一門づつ、20o機関砲座が、夫々掘えつけら

れた。

正に満艦色ならぬ、満船の異様な様相をした船体となった。

これが、日本最後の輸送船の姿であらう。

これから何日間かかって、フィリツピンの基地に行けるのか、全く見当もつかない。

これらの船内に閉ぢこめられた兵員の衛生状況が問題となるので、早速中村軍医と連絡

して、一応の検診を夫々の部隊の軍医と協力して、行って貰うことにした。

私は、ここで、閉所恐怖症というのであらうか?

停泊中の船団は、毎日、対潜水艦の訓練を行う。

これのない日は、閉ざされた暗い船室に寝ているだけの生活である。

慰めになるものは、何もない。

三方を、船の鉄板、木の壁との対面である。

大部分のものは、まだ日が浅いので、元気であったが、約10%のものは、何等かの変調を

訴えた。

一つ面白い例があつた。

頭痛がして、腹が具合悪く、手足がだるいというのである。

中村軍医が一応の検診をして、首をひねった。

ふと、彼の顔を見て、

「お前の口の中に入れているものは、何だ?出して見ろ。」

と命ずると、手の掌の上に、ペロッと出たものを見ると、梅干しの種子である。

中村軍医が、しげしげと、差出した梅の種子を見て、

「お前は、その梅干しの種子を、口の中に入れて、味わっていると、安心がゆくのか?」

と、尋ねると、その兵は、こくっと、頭を下げて、合黙をした。

思ず、中村軍医が笑いを浮べて、

「よーし、判った。

お前は、今後、船の舷側の海の見えるところで、休め。」

という診断を下した。

彼は、船室に入ると、頭が痛かったり、腹の具合が悪くなるのである。

私は、彼の内務班長と、小隊長を呼んで、船の舷側に居れるように指示をした。

六月の十日頃であらうか、宇品からの輸送船が到着して、船団が十隻程になり、六群連

島を出発する事になった。船が動き出すと、誰に命ぜられるともなく、船内の全ての兵土が

甲板に出て来て、近くの六連群島の島々の緑に、そして、白い壁の漁村の家々に向って、

思はぬ、万歳の叫びが起った。私は、副輸送指揮官として、敢締らねばならぬ立場である

が、これを無視して、船橋に居た。

扶桑丸の舳先の方、後方からも、歩兵大隊の兵士等が出て来て、また、万歳の三唱が起こ

ったとき、輸一送監督官が、急いで船橋に上って来て、私の顔を見たので、私は手を挙

げて、彼の云はんとするところは、判ったと合図をして、全船に伝はるスピーカーの前に

立ち、

「本船は愈々出発する。

もう万歳は、三唱したので気がすんだことと思う。

今から米潜水艦.が待ちかまえている、水域に向って進んでゆくことになる。

厳重な警戒を要するので、全乗船部隊は、夫々の指揮官の許にて、点呼を行い、夫々の指

揮に従うようにすべきである。」

と、放送したら、全兵員が、黙って、故国に向って敬礼をして船室に入って行った。

一隻の掃海艇が先頭で、その背後に扶桑丸がつづき、船団は、単縦陣になって、玄界灘

に向って運行し始めた。

折柄の朝日の出に、九州、筑紫の山々は青紫に、緑に、そして、白い砂浜、海岸にある

漁村の山々、我が故郷の景色ながら、美しく映えて、これが見納めかと、私は船橋の上

にあがって、心ゆくまで、別れをつげた。

 

扶桑丸の速度は、十七、八ノットは出る筈であるが、船団を組んでいるためか、十ニノ

ットくらいで進んでゆく。

しかも、出来るだけ陸地に近い海域を進む。

宗像の大島を通り、相の島沖を過ぎ、遥かに背振連山の山々、筑紫山脈の山々、志賀島

の沖を通るとき、私は故郷に向って、脱帽した。

再び、この故郷を見ることは無いであろうと思ったのである。

門司から福岡まで、僅か二時間の汽車の旅で、私の母や、弟達が住んでいる福岡である

が、軍職にあり、隊長である私は、連絡も、面会も許されない。

只、無言の別れを、この扶桑丸で行った。

扶桑丸を先頭とする船団は、博多沖、唐津沖を通り、平戸海峡を通って、長崎の九十九

島の西部を通過して、島原半島沖を南下し、天草講島の西側の沖を通ってゆく。

看護部隊の婦長さんが、私のところにやって来て、婦人連中は、入浴に関して、特別の

処置をして呉れということである。

どうすれば良いのかというと、女性は、これから南の暑いところに進入してゆくので、

体からの分泌物が多いので、体が早く汚れるし、腫ものや、その他が出来やすいので、

出来れば毎日でも入浴したいが、一般の兵士が、三日〜四日であるのに対して、最少限

隔日にして欲しいというのである、

さて、困った。

一等機関士や水夫長等を集めて、この件を協議した。

男性の兵士は、上甲板上で、キヤンパスの海水による洗浄をして、浄水によって、体を

清浄にすることが出来るが、女性の場合は、キャンパス浴を素裸でさせる事が出来ない。

一等機関士と、水夫長で頭をひねって、二等船客の混浴風呂が密室になっているものを

婦人部隊のみに開放して、使はせる事になった。

これからの管理は、婦人部隊と水夫長の責任ということにした。

このことで、扶桑丸の水夫連中と、隔日置きに使用する事になった。

さて、船内の兵士達の居室であるが、扶桑丸は貨客船であるので、客室は、特別室、一

等、二等、三等の船室があるが、二等の船室は、将校連中、三等船室は、下士官というように

割りふりが行はれるべきであるが、一応、この原則は、原則として、各部隊の掌握のため、

三等船室も、いわゆる蚕棚といわれるような、兵員の三段寝床の棚、が組み立てられていた。

それでも、四千名近い兵員を乗せる事が出来ないので、船倉の荷物を置くべき、中甲板も、

全て、三段ベット棚がつくられでいて、この中甲板に下りるのは、木製の階段によらねば

ならなかつた。

そして、下甲板は、全て食糧、器材であり、ただ、前部の船倉のみは、兵員の背嚢、装具、

が置かれいた。

全体の船のバランスは、重心が上にあがったのでばあるまいかと思はれたが、超満員の

兵員の重さで、船の水深が深くなり、どうやらバランスがとれているようである。

. しかし、対潜水艦警戒に入ると、全兵員が上甲板以上にあがるので、問題が起きるので

ないかと思はれた。

しかし、そのような緊急の場合は、もう万止むを得ぬであろうと、私は考えた。

さて、二日までくらいは、兵員達も、初めてであり、また、慣れぬ船旅で、何かと身近の

整理その他で緊張していたので、文句は出なかった。

船団は、鹿児島湾に入り、夜間は、停泊した。

翌日は、愈々、沖縄群島を南下する。

奄美大島の西を南に下ってゆくころから、兵員達が、何やらブツブツ云いはじめた。

それは、船のコックさん達や、兵員の炊事がかりが、出来るだけ腕を振って、食事をつく

っているのであるけれども、塔載した食糧が、南瓜、冬瓜、馬鈴薯、ヒジキのみである。

朝、昼、夜と、夫々、料理方法は異っているけれども、材料は、この四つしかないので

あるから、殆ど全てく同じものと申しても良いであらう。

南瓜の煮付、南瓜の酢の物、南瓜の味噌汁、まかない方も、十人かせめて百名足らずで

あれば、作り方に工夫がつくせるであらうが、四千名の人々えの食事の準備は大変である。

各部隊から炊事兵の協カを得て、やっと出来る程度であるから、巧みな料理が出来る訳

でなく、必然的に同じ味付け、料理方法となる。

さて、兵達の言い分は、こうである。

「我々は、豚ではない。

毎日豚のように、暗い船室に押し込められて、しかも、豚の飼料のようなものを食べ

させられては、健康の維持に自信がもてなくなってしまうでないか?

何とか、良い工夫は出来ぬものか?」

と、いうのである。

至極、御尤もというより外は無い。

さて、献立を考えて見て、料理をつくる状況を考えさせたが、これらの兵達の人々も、

どうにも工夫出来ぬことが判った。

しかし、三度、三度、我々は、兎も角も、満腹で在くても、充分な食事を摂っているこ

とには間違いがない。

東京で新編成した部隊は、入隊して、十日足らずで、乗船したので、それまで、日本の

民間が、配給米で、しかも、混じりものの食糧で生きなければならなかった事情を、自分

の身で体験してきているので、あまり文句は云はなかったが、文句を云って来たのは、私

の部隊や、満州から来た部隊のものであった。

それは、満州では、高梁米であったりしたが、また、大豆の混った御飯であったが、

充分なものを食べていたからである。

私としては、兎も角も、満州では、高梁、大豆等の混じっていた御飯を食べていたもの

が、乗船して、二度三度、白米の御飯を食べられるのは幸いと思はねばならぬ。

何とか工夫して、巧く食べるようにすべきであるとは云ったものの、良い工夫は何もな

かった。

このことは、兵達も承知して、納得したようであった。

とはいいながら、気分転換をさせねばならぬ。

只、居住室に、漫然と寝ているだけでは、気分が沈滞するし、健康も悪くなる。

しかし、甲板上にあげて、体操や、その他の作業をさせることも出来ぬ。

各部隊の居住室や、廊下等で、適宜、体操、運動をきせねばならなかったが、これは、

やっとの事で、出来ぬ程の満載であったが、しかし、ここに工夫する事が生れた。

船団は、鹿児島湾を出て、奄美大島の西側を通り、宮古島付近にかかったときである。

夜の夕食後の休憩時間であったが、輸送監督官が私のところに来て、ちょっとという。

ちょっとに、良いことば無いと思いながら随ってゆくと、船の前部の船倉を降リ、東

京の歩兵大隊の一部が乗っている寝棚のところに降りて行った。

兵員の宿泊しているのは、中甲板であるので、下甲板にゆく船倉の口は、大きな厚い木

材の板で、蓋がしてあった。

その蓋の広場の上で、四十から五十に近い老兵連中が車座に集って、一六勝負の花札

賭博をやっていたのであった。

見ていた数人のものは、私が来たのを知って、バラバラと寝棚の方に逃げて行った。

しかし、中心の車座の中には、肌抜きになって、背中に見事な刺身をした奴も居た。

それらが、私の来たのを見て、ちょっとたじろいだ風をしていたが、黙って、花札をく

ばらうとした。

その手を、私は、長靴で、ガッチリと踏みつけた。

それで、その男は、船倉内に響きわたるような悲鳴をあげて、飛びあがった。

私は静かな声で、その車座になっていた連申に、一列に並ぶように命じたら、どうにか

一列に並んだ。

私に踏まれた男は、手をかかえて、痛そうにしていたが、私はかまわず、話かけた。

「右から、年齢を云え」

年齢は、皆四十以上のものである。

「貴様等は、家を出るとき、家族のものから何と云って、送別されて来たか?」

二、三人のものが、急に悲しそうな顔をした。

「軍隊では、賭博を禁じていることば、充分承知の上であらう。」

「その禁を破った以上、如何なる罰を受けるか、充分知っているであらう。

私は、副輸送指揮官であり、この人は、大本営からの輸送監督官であることで、憲兵同

様の権限を与えられている。

で、今から私が処罰する。

両手をしっかり握って、両足を開け。」

と、覚悟させて、五、六人の兵を、私はなぐつた。

その内三人くらいは、なぐられた瞬間、とんぼをうって、ひくりかえってしまった。

くりからもんもんのおやじさんは、さすがによろめいたが、辛うじて、立ち直った。

皆の眼が、くわっと開いて、血走ったのに、私は次のように云った。

「貴様等は、皆の子供のような、俺になぐられてくやしいか?

くやしかったら、二度と子供のようなものから、ふんなぐられるような事はするなっ!」

というと、さすがのくりからもんもののおやじさんも、真赤な眼をして、涙をにじませて

いた。

私は、輸送監督官に、

「これで、良いですか?

あとは、私に委せて下さい。」

というと、承知して呉れたので、一等船室に戻った。

その翌日の夕である。

突然、このくりからもんもんのおやじが、

「隊長、隊長!!

ちょっと来て下さい。

大変なこと、が起りました。

どうか?助けて下さい。」

と懇願する。

何事が起きたのかと思って、隣の輸送監督官を連れて、前の船倉の兵員室に入って見る

と、中甲板の船倉の蓋に一枚が開いたままになっていて、くリからもんもんのおやじ兵隊

は、ふるえる指で、下を指している。

船倉の底は、暗くて、何も見えない。

懐中電燈を持って来させて、下をのぞいて見ると、一人の兵が、下の船倉の底にうつぶ

せになって倒れていて、身動き一つしない。

くりからもんもんのおやじ兵に、お前の戦友かと聞くと、そうだと黙って、合黙を二回

した。

階段は無いので、船倉の壁の鉄棒の足がかりを見つけて、下に降りて見ると、そこは船

底で、専門語でいうと、スラッヂという、船底の砂が平にして敷いてあるところである。

倒れている兵の傍らに寄って、上半身を抱き起こして見ると、右の額からスリ傷をうけ

て、その部は打撲傷で、赤黒く腫れあがっている。

只、それだけで気絶しているだけであったので、上半身を抱え、活を入れたら、気がつ

いて、私に

「隊長!助けて呉れっ!」と、しがみついて来た。

「おい、生きているぞ」と、上に叫ぶと、一斉にワッっと歓声があがった。

しかし、立たせて見たが、腰が抜けてしまっているのか?脳震蕩を起こしているのか、

まだ夢うつつの状況であって、自分で動くごとは出来ぬ。

私は、上の船倉蓋から下をノゾイている連中に、巻脚絆を投げて呉れるように頼み、そ

の巻脚絆を二重にして、子供のように、その兵を背中に負うて、船倉の壁の足がかりを昇

り、階段をあがって、中村軍医室に担ぎ込んだ。

中村軍医が、応急手当をして、医務室の休養室に暫く休ませる事にした。

休養室から出て来ると、四、五人の四十すぎの兵隊が、

「隊長、大丈夫ですか?」と、心配そうに聞く。

「いや、大丈夫だと思う。

とに角、生きとるよ。

多分、ひどい、脳震蕩を起こしたのだろうから、暫く様子を見てみないと判らぬ。」

と云って、部隊の引率者である小隊長、中隊長はどうしたのか?と尋ねると、茨城弁まる

だしで、

「へえ、小隊長とか、中隊長とかは、入隊して、それも夜間に入営して、一度チラッと遠

くから見ただけでよう、よう判らんでよう。」という。.

いやはや、恐れ入ったと思った。

杖とも柱と頼るべき、小隊長、中隊長とも、乗船して、会っていないのである。この

様な日本軍は、初めて見たと思った。

それで、私は歩兵部隊の大隊長を訪れて、今日の事件の様子を知らせ、そして、速やか

に、中隊長、少隊長や、分隊長の軍隊、指揮権の確立と掌握をすべきでないかという

意見を述べた。

しかし、中隊長、小隊長等も、皆老兵で、しかも、予備、復備から召集されて来て、

この乗船で、豚諸め状況にされた事で、それだけで精神的に参っている有様で、部下の掌

握なんか、考えても見なかった。

白分の身の仕末だけで、精一杯というところであった。

この様な部隊と、比島での天王山の戦いを米軍の構鋭と行杉ねばならぬということを考

えるとき、一層の覚悟をしなければならなかった。

 

三、最後の航海

扶桑丸の船団は、宮古島沖から、一度基隆沖に一夜停泊し、そして、西に廻って、淡水

河沖を経て、高雄港に集合した。

ここは、さすがに港であるので、巡洋艦や、駆逐艦も、停泊し、夜間は、サーチライト

の訓練もあった。

正に前線に近い基地という緊張があった。.

ここで、扶桑丸の船団と共に、他から集まって来る船団の集合を待つことになり、高雄

港の外に、停泊した。

軍港であるので、輸送船団ということは、もう秘匿する必要もないので、全員、甲板に

出して、外に空気を吸はせる事にした。

南国の海は、蒼黒く、波が陽に映えて、白い光を投げていた。

既に嫩江から、空中部隊も出発している筈である。

嫩江−奉天−北京−南京−台湾−比島えと進んでいる筈であるが、扶桑丸に缶諾めにさ

れている今の状況では、知る由もない。

高雄に停泊、三日の夜、愈々、船団は出航した。

太陽に映える波を分けて、船団は進む。

先頭は駆逐艦であらうか?

その背後に、船団指揮船がつづく。

この船は、戦時中に作られた、輸送規格船である。

船団は、扶桑丸のように、八千屯級の船あり、また千屯前後の船も混じっている。

これらの速度は、夫々異なっているので、規格船を、輸送船団の基準船にもって来たので

あらう。

速度は十ニノツトくらいである。

扶桑丸は、石炭を使用する船であるが、速度は十六ノットから、十八ノットは出る。

基準船のあとに、規格船の列がつづき、その両側に、その他の船が並列の三列を形成して、

扶桑丸は、基準船の列の左側を走った。

台湾南の沖を、海岸線に沿って進む。

しかしこの進行は、単なる進行でなく、戦闘の駆逐艦と基準船からの全ての信号を注意

して進行の舵をとってゆく。

米軍の潜水艦の待ち構える攻撃網の中に入ってゆくのである。

恐らく、米潜水艦は、この台湾の西海岸、高雄の出入に、監規の潜水艦を配置し、そし

て、この船団を攻撃する、攻撃を、二段、三段と構成していることであろう。

正に、群狼の中を、ぐぐリ抜けるに等しい。

この船団は、総船数三十六隻で構成されている。

この船団は、一応輸形陣の形で、三列の輸送船団の周辺を五隻の駆逐艦、掃海艇が、護

衛してゆくことになっていて、各船は、夫々五〇〇米の間隔を前後左右にとって、進んで

いる。

海上で一五〇〇米というと一正に指呼の間といえる程、近い。

間題は、潜水艦の攻撃に対して、何隻、無事に逃げられるかである。

あまり密集隊形をとっていると、潜水艦の魚雷を扇形に発射して攻撃されると、この船

団の隊形の中の、どの船かに、命中する事になる。

ここが、駆逐艦、掃海艇の護衛艦群と、輸送船の逃げ足と、隊形変換の巧劣によって、運

命の決まるところである。

空中から、対潜水艦監視の飛行艇やその他の偵察機の護衛は、昼間はある。

しかし、夜間は、盲滅法に、全速力で逃げ廻らねばならぬ。

シャチの群に追はれる、鯨の群のようなものとも、云えよう。

水中探知機が発達したとはいいながら、潜水艦の待ち構える網から逃げる術は、十中十、

九は、難しいであらうと思はれた。

私達、輸送船に乗っている兵員にとっては、やられると、正にお陀仏である。

どうする事も出来ない、

せめてもの慰めは、私達の乗っている扶桑丸は、いざというとき、十九〜二〇ノットは

出る筈である。

この速度の点から串せば、他の規格船やその他が、十ニノットから十五ノットがせいぜ

いであるのとは、逃げ切って呉れることを祈るのみであった。

台湾の○○岬を過ぎて、南支那海から、いわゆるバシー海峡にある群島に沿うて南下す

る。

船団は、大洋の中を、何度も、何度も、ジグザグコースをとり、各船、全ての煙突から

真黒の煙を上げて、全速で走ったりして、色々の隊形をとって走る。

船橋の上から見ていると、このような行動は、我々、只乗船して、他の船と、方向が変

ったり、並んだり、また前後した形になるのは珍しく面白いが、船の操作に当たってい

る船員は、必死である。

船長は、六十過ぎの古武士的な風貌をした人で、大きな痩せた体で、船橋の前に立って、

じっと、船の舳先きを見つめている。

一等航海士は、四十歳くらいの精悍な、しかも、スマートな人である。

船橋の両側の舷側の方に、水夫が二人、立って、左右の船の状況と共に、特に先導船と、

先行する駆逐艦からの発火信号や、手旗信号と、マストにあがる、標識旗に注意を払い、

刻々と、状況を船長に報告している。

船長の背後には、羅針盤と操舵があり、その傍に、二等航海士が立ち、回転の操舵機に

は、三十前後の水夫か船長の号令に従って操舵している。

船長と、一等航海士は、交替で船の運行に当っているのであるが、非常事態では、全員

が、船橋に集まり、船の運行を操っていた。

船橋の背後の通路には、後尾に向って、海図室があり、そして、船の運命を知らせる通

信室がある。

船長の室は、その反対側にあり、その船尾の方に、輸送指揮官の特別室があった。

 

通信室よりの連絡は、海図室の机の上の海図に刻々印がつけられ、航海日誌に書き込ま

れる。

米軍潜水艦の動向は、この海図室に刻明に記入されていた。

大体台湾から、比島までの海路上には、今のところ三群の潜水艦の群と、外に、マニラ

湾、アパリ湾、台湾沖、高雄港周辺を監祝する潜水艦があるらしい。

これらが、如何なる行動で、我々を攻撃して来るかである。

比島に入る日本軍の艦船は、香港からのルートや、また、シンガポール、サィゴンを経

てくるルートもある。

比島群島を、日米の決戦場と考えるならば、米国の海軍潜水艦は、当然、日本−台

湾、比島えのルートを主体として、潜水艦の布陣を行ったであらう。

今は正に、決戦を行う前の、集中準備作戦の時機である、

我々の扶桑丸は、この米潜水艦の布陣の中を突破しようというのであった。

突破というと、大変勇壮なものに聞こえるが、三十六隻の船団の速さが十ニノットに規

正されてはいるが、中には、十二、三ノツトというと、も精一杯の船もある。

ヨタ、ヨタ、ゴタ、ゴタの船団である。

これで、とも角も、三列の船列をつくって進んでゆく。

一回目、二回目の航路変進は、昼間であるから巧く行った。

その夜のことである。

午後八時頃、ようやく日が暮れて、海面が闇に蔽はれて、各船の船首にあがる白波のと

ころが、夜光虫で、白くにぶく光って見える頃、突然、先方の誘導船から、進路変更の発

光信号が出され、船団の各船が、一斉に進賂変進をした。

扶桑丸の隣の船は、戦時規格船であって、四百米の間隔がある筈であっだが、扶桑丸が

進賂を右にとったとき、突然、この規格船が、そのまま、真直ぐに走っているので、扶

桑丸の船長は、これを見て、操舵手に、やや左寄りに進路を、急いで変更させて、一等航

海士に、左側を見張らせた。

それで、最初、扶桑丸は、グッと、規格船に近づいて行ったのが、ぐっと、左側にそれ

て進路が変はり、正に、規格船を、目の前にして、衝突を免れたと思った。

どうしたのか、規格船は、真直ぐしか進まない。

ふと、気がつくと、扶桑丸の後に続いていた、二千屯くらいの船が、扶桑丸と、この規

格船の間に入って来た。

丁度規格船の船腹のブリツヂの左側あたりに、接触角度である。

無 対鎧をされているので、船同志の連絡が巧くとれていないのであらうか?

背後から突込んで来る船は、まだ規格船が進路変更するものと、思っているらしい風で

真直ぐ突込んで来た。

規格船のブリッジから、懐中電燈の光が、一つ、二つ、三つと、左背後から突込ん来る

船の方に向って、振り廻しながら走り出て来て、

「本船は、舵がきかなくなった。

本船は、舵がきかなくなったので、進踏をかえて呉れっ!

衝突するぞっ!

衝突するぞっ!」

と、必死に叫んでいる。

これを見た扶桑丸の船長は、この後続の船が、衝突して、そのはね返りで、進路を扶桑

丸の方に向けて来るのを考えてか、さらに左に進路をかえた。

規格船の船体に向って、二千屯の船が、ぐんぐん近づいてゆく。

後続の二千屯の船は、全速から後退えスクリューを切り替えて、全力をあげて、後退さ

せようとしたが、船の憤性で、仲々速度が落ちない。

三十米から二十米になリ、十米になって、ようやく、速度が落ち始めたが、その十米か

ら、九、八、七、六、五、四、三、二、一米とじりじり、近づいて行き、規格船の船腹に、

あっと思う間に衝突した。

二千屯の船の船首から、すさまじい音響を海面に響かせて、船首の鉄板から、規格船の

船腹の鉄板を磨する火花が飛んでゆく。

ガリ、ガリ、ギリ、ギリと、すざまじい音がする。

規格船の船腹から、船尾を磨って、やっと二千屯の船は、規格船から離れた。

その間、二千屯の船は、全速での後退スクリューを廻していたのであったが、海水と

いう流体の中での惰性慣性というものは、すさまじいものであった。

この衝突で、この規格船と、二千屯の船は一船団から離れて行った。

二千屯の船は、船首が破損し、鉄板のリベットがゆるみ、船首に浸水があったが、規格

船も、船腹のリベットがゆるみ、舵の具合に故障があるので、船団と行動をする事が出来

ぬので、掃海艇が一隻、規格船を曳行すると共に、高雄え引返す事になつたと一等航海

士が私に話して呉れた。

すさましい、船同士の接唇の状況であった。

船団は三十四隻になり、護衛艦艇は、僅かに四隻となった。

此の衝突で、扶桑丸の位置は従来と変らなかったが、扶桑丸の後続には、約四千屯級の

貨客船が続いて来る事になった。

幸いにも、此の夜、米潜水艦の攻撃は無く、船団は無事南下して行って、夜が明けた。

太陽の光が、大空に征矢となって、キラメイていた星を、一つ一つ消してゆき、ゆるや

かにうねる海面の表面に、晒色の光をみなぎらせたときは、ほっとした。

午前十時噴であらうか、一隻の飛行艇が、鮮やかな日の丸を胴体に輝かせて、船団の上

を旋回したとき、どの船からも、どっと、歓声が湧いた。

私は、船橋から、自分の室に帰り、それから、一等航海士の室を訪れた。

一等航海士は、船長と二等航海士と交替して、今、部屋に帰って来たところであるので、

喜んで、私の訪間を歓迎して呉れた。

私は、恐らく、この船団は、無事に、敵潜水艦の攻撃網を突破出来ない予感がしていた

ので、米軍潜水艦の位置と、攻撃予測についての打合せをするためであった。

一等航海士の人は、気さくな人で、口に飾りなく、明瞭に話をして呉れた。

彼も、この船団が、無事に比島、マニラに辿りつくことば出来ないと、考えていた。

しかし、これは、絶対に口外しない事を約束しての明言であった。

恐らく、米潜水艦は、アパリ港の前の海面地域、または、マニラ湾に入る海域で、待っ

ているであらう。

しかし、最も公算の多いのは、バシー海峡の南の海域であり、ここに米潜水艦は集中し

て来るであらう。

それを突破出来たら、マニラ湾の近くの海域であらうという予測である。

船団は、ジグザグコースをしながら南下しているので、実際の速度は、十及至十ニノッ

トであるが、しかし、実際の直線に比べての速度は、五−六ノットというところであろう。

この状況で、危険海域に入るのは、明後日七月三十日の夜、アパリ港の西北地区海域に

入ってゆく。

このときが最も危険であろうという予測である。

この予想は、私にも理解出来た。

この事において、私は、この予想は口外すると、船内にパニックを起すことになるので、

最悪の場合の、人命救助の方法について、最善の対応策を講ずることにした。

そのために、今夜から米潜水艦の攻撃網に入ることだけは、事前の準傭として、乗船の

各部隊に伝えて、身辺の整理と、救命胴衣のつけ方や、携行品の整備、その他の点検を行

うことを命ずることにすると共に、対潜警戒姿勢と、非常攻撃待機姿勢、退船する場合の

集合等について、もう一度、確認すると共に、警報に応じての行動訓練を行うことになっ

た。

このことを、輸送指揮官、輸送監督官、船長、一等航海士で、連絡打合せを行つて、確認

の訓練を午後に行うことになった。

私の整備隊の非常状況における退船待機の場所は、第一小隊は、船橋の最上甲板上であ

り、第二少隊は、上甲板上、第三少隊は、上甲板に上る階段上と決定し、整備隊の指揮班

のものは、第一小隊と行動し、私は、船橋の上の屋根のところで、船橋と連絡をとって、

指揮を、副輸送指揮官としてする事になっていた。

この事は、門司を出て、高雄港に入る間に一回訓練を行ったのであるが、もう一度、確

認して、非常事態における混乱を防ぐことにしたのである。

訓練は、各部隊、整然と行はれたので、大変安心した、

しかし、一つ問題があった。

それは、乱数表の秘密通信の書類を入れた軍用行李の始末の問題である。

これは、部隊の指揮班にあって、将校の部屋に、特別に置き、暗号係の下士官二名が、

交替で守っていた。

この極秘通信用の乱数表を如何に始末するかの問題があった。

この二名の通信係の下士官は、軍命令で、この乱数表を容れた、軍用行李のカバンを、

絶対的に、

「生命をかけて、守れ」

と、命令されていた。

それは、その部隊の指揮官が、何というとも、生命をかけて、絶対的に守れという命令

を受けているのである。

私は、人間の力、努力というものには、限界があり、絶対的なものは無いという考えが

あった。

故に、非常情況に入った場合、本人は、絶対に守るという考え方で、努力しても、本

人達が意識を失ったり、人間の力より、大きな力、状況が起ると、その絶対的なものを失

ってしまう可能性があることを知っていた。

故に、私は、そのような絶対的にそれを守ることは、不可能であるから、非常の場合、

米潜水艦に攻撃されて、この扶桑丸が沈没するとき、この船と共に沈んでしまうように、

この軍用行李が、絶対的に涜れ出されないように、鉄片の重しをつけて、更に、この扶桑

丸に固定して、しまうことを行えと命令したが、この二人の下士官は、軍命令で、例え、

部隊の指揮官が、如何なる命令を出しても、この軍用行李を、生命をかけて、守れと命令

されているので、私の命令に従うことは出来ぬというのである。

そして、私達は、この軍用行李と共に死ぬ覚悟であって、そのような運命、命令がある

ことを充分知って、この通信兵下士官として、志願して採用されているのであるから、こ

の軍用行李を守って死ぬのは、本望であるというのである。

私にも、その通信用暗号、乱数表の軍における重大さや、このように、通信兵は、覚悟

しているのは、充分知っていた。

しかし、私にとって、この戦争は、また、比島での戦いは、絶対的に、日本軍の戦勝は

望むべきものでない事態にきているのであって、敗戦覚悟の戦いである。

そして、この戦いは、最終的、真面目の戦いであることで、何処まで、戦えるかという、

私には、軍人として、課題があって、そのために、多少の犠牲は止むを得ぬというより、

不可抗力の間題であろう。

しかし、出来るだけ、無用の犠牲者を出したくないという、正に、全く矛盾した、二つ

の問題を処してゆかねばならぬ。

作戦上の最上極秘事項である、通信の暗号である、乱数表は、作戦の鍵を握るものであ

るが、いざ、米潜水艦の攻撃を受けた場合、各部隊に在る乱数表の軍用行李そのものが、

絶対散逸しないと、いうことは防止不可能である。

このために、生命を失うより、絶対、散逸しない処置をした方が最も良い方法である。

しかし、日本陸軍においては、その様な考え方は無い。

兵士の犠牲で、死であがなったことが、絶対であると考えている。

全生命を尽してやったことは、是であるという考え方である。

人間のカには、限界がある。

死を賭しての行為でも、実行出来ぬことと、不可能な問題があるし、特に、人間には、

絶対的な能力がない。

生命があっても、無意識状況がある。

このようなときでも、任務遂行出来なかったものは、自決しろというのが、日本陸軍の

考え方である。

また、日本人の死に対する賛美した考えである。

死をかけて、死によっても、不可能は、不可能として存在するという考え方が出来ない。

そこに、日本陸軍の戦争に対する考え方や、物事の判断の欠陥が存在して、この死によ

って、万事絶対的なものということで、盲目になってしまう。

通信下士官は、私が、この軍用行李に鉄片をつけて、船から動かぬようにした場合には、

彼の考えている、通信兵としての義務、使命が失はれるのみならず、日本陸軍の通信兵と

しての存在意義が無くなり、通信兵の恥となるので、生きても、生ている効果が無いの

で、いづれにしろ、自決をしなければならぬことになるであらう。

それが、日本陸軍の通信兵に負はされた、責務であり、それを遂行するのが、我々の誇

りである。

であるから、自分達の気のすむように、やらせて欲しいとの希望であった。

希望というより、私に対する願いであった。

私としても、例え指揮官と云っても、そこまでの、強要権は無い。

せめても、彼に云えることは、

「彼が全カを尽して、生命をかけてやった事でも、不可能となる事がある。

通信兵に与えられた任務は、生命をかけた場合限界がある。

例え、全力を尽しても、死を覚悟してやっても、生命があるものはある。

その場合、私が、全力尽した事を証明し、信ずる。

如何なる非難があっても、私が指揮官として証明し、保証する。

故に、貴様の思うよう、気の済むまで、全力を尽くしてやれ。

その後のことは、私に委せろ。」

と、いうより外はなかった。

このような問答において、日本陸軍の従来の教育、訓練や、学校、社会における通念と

しているものと、私の考えている事は、全く異った立場を持っていた。

日本陸軍のみならず、日本の社会は、日本政府並び日本の国の行うことは、絶対的に正

しいとし、そして、戦争ば絶対的に日本が勝利を収めるということを前提として考えられ、

それが通念になっていた。

故に、日本に、生命を捨てる行為は、全て正しく、是であり、絶対的なものであるとい

う考えがあつた。

これに対して、私の場合、この戦争は勿論、日本政府、国のやっていることは、絶対的

なものでなく、大きな誤りを犯し、行いつつあるという考えがあり、この戦争は、絶対的

に勝利を収めることは出来ぬということが、判っていた。

特に航空技術においては、日本陸軍のみならず、日本の持つ技術水準や、生産力、また

資源の面においても、私達陸軍航空技術将校が、夜も眠らず、必死になって努力していて

も、欧米藷国に、大きな較差があることを知っていたので、真面目の戦いでは、絶対的勝

利を得ることの不可能を知っていた。

私達は軍人であることにおいて、「国、が戦うということを決定して、命令を出した以上、

絶対的にこれに従はねばならぬ。」と、いうことがあった。

この命令に背反する事は、軍の成立が根本から崩れてしまう。

そのことにおいて、国と運命を共にし、戦いの帰趨はいづれにあっても、最善をつくす

事にあった。

しかし、それでも、自らの生命を、無駄にすることではなくて、生命ある限り、最善を

尽くすことにあると信じていた。

一部の軍人は、白らの死を美化することにおいて、自己納得せしめるものがあり、これ

が極端な考え方、規律や、戦争方式を生むことがあった。

この通信兵、下士官の心情とするものもその一例であった。

私には、どうする事も出来ぬことで、船団は、その様な私たちを載せて、青暗き南海の

海原を、ひたすら、南え南えと下って行った。

 

四、地獄の遭難

扶桑丸の加はっている船団はバシー海峡を通って、バタン諸島の西側の海面の波を分

けて入り、パリタン海峡え入っていった。

昭和十九年七月二十八日、扶桑丸の船団は、バタン諸島に沿って、アパリ港の方向に向

けて、ジグザグ行動をとりながら進んでいった。

正午過ぎ、アパリ海軍の基地からと思はれる一式陸攻機が一機、船団の上空にやって

来て、船団の上を二周して、南西の方向に消えて行った。

パリタン海峡の海水の色は、愈々、蒼黒くなって、強い太陽の光に映える波の面の光が、

キラキラと眼にまぶしくなって来た。

扶桑丸の船長の顔が、一段と厳しくなり、彼の操舵手に伝える声が、シヤワガレた声で

あるが、一段と力が籠もって来たように思はれる。

輸送監督官と共に、もう一度、各部隊を巡って、対潜水艦の攻撃の功の退避と、退船の

準備状況を視てまわることにした。

パリタン海峡は、比島の呂宋島を通り抜ける風や、黒潮の流が異なって来たのか、波の

形がうねりよりも、三角形に変わってきたように思はれた。

輸送監督官と船内を一巡して、各部隊、夫々に準備が出来ているのを確認して、一等航

海士と共に船長室で、打合せを行った。

愈々、米潜水艦網の中に突入することになる。

アパリ港周辺から、マニラ湾えゆくとするなれば、最も危険な水域を通ることになる。

我々、陸軍の乗船部隊には、この米潜水艦の攻撃に対して、防御も、戦斗も、攻撃も、

何も出来ない。

また、如何なる攻撃法で進攻して来るかも判らぬ。

我々に残された方法は、只々、如何に犠牲を少くし、退船の折、混乱しない事である。

心配なのは、看護婦部隊の事であった。

輸送監督官と巡視したとき、看護婦部隊の長である中年の婦長と思はれる人は、気性の

強いようであるが、しかし、女性であるので、非常の折の混乱、錯乱が起らねばよいがと

思って、婦長を、船長室に招いて、気を落ちつけるように、状況を話した。

看護婦部隊は、一等船室の娯楽室が、乗船場所であるので、万一にも、退船が遅れるこ

とはないと考えたが、もう一度確認をした。

婦長が帰ったあと、輸送監督官と二人で、「とう、とう、来るところまで来たし、やる

べきことは、やりつくした。

あとは、運命を待つより外はない。

それも、今晩か、明晩か、明後日の夜であらう。

あと三日の中に決定するであらう?」

と、笑ひ合つた。

輸送指揮官である通信隊の隊長は、船に乗船して以来、酒びたりで、船長室の隣の特別

室に寝たきりで、通信隊は、その通信用のトラツク貨車と共扉の上甲板に位置して、退

船する場合、そこから海え逃げることになつているので、気を使う必要も無かつたのであ

らう。

先任通信隊将校が、しきりに気の毒がっていた。

このような事で、実際の扶桑丸に乗船した兵員の指揮は、必然的に、私が行はなければ

ならぬことになった。

船団は、アパリ港に近づいて行くことで、しきりに進路を変更し、ジグザグ行動をとっ

てゆく。

全船団に、眼に見えぬ、緊張の線が張られて居て、指導船の指揮信号と共に、一斉に船

の方向を変化せしめる。

煙突からは、潜水艦に遠くから見えぬように、煙を出さないように、罐炊きの人々が努

力しているが、何分三十四隻の、大船団となっている。

後方の船は、遥かになって、姿が見えぬ程である。

陸上で、四百米、五百米というと、人の姿は、米粒程に見えて、遠いと感じるが、海上

では空気、が澄んでいるので、正に指呼の間である。

前後に四百米−五百米の間隔で進むということになれば、一つの列が十二隻であるとい

うことで、暴終の船は、五千米−六千米の距離となる。

この周辺に、掃海艇、駆潜艇、駆逐艦がその外側を游行している。

恐らく、水中探知機でも、電波探知機でも、この船団は、当然発見され、行動を監視さ

れていることであらう。

一等航海士が、しきりに首をひねっていた。

何、がどうしたのかと聞くと、

「あー、杉山大尉さん

どうもおかしいのです。

もう、一つや二つの潜水艦情報なり、何か入って来ねばならぬのに、何一つ入って来な

いのです。

マニラの方からも入って来ぬのですよ。

もう、すっかり、米潜水艦の待機、攻撃圏に入っている筈なのですがねー、

船団誘導艦の方にも、何も入って来ないというのですよ。

嵐の前の静けさというのでせうか?

一つ、二つ情報や、潜水艦が居たといわれる方が、有難いのですがねー、

何もないということになると、かえって、不気味な、不安な、気持ちになるものですよ。」

と、笑っていた。

まぁ、いづれにしろ、何の情報もない事は米潜水艦が居ないか、全く活動をしていない

事であらうから、今の瞬間は、無事なのを、有りがたいと思はねばなるまい。

米潜水艦の攻撃があれば、恐らく逃げれることは、十中八九、出来ないであらうから、そ

のときは、如何なる事態が発生するか判らぬので、笑っては居れぬ事になる。

今日、一日の平穏を感謝しなければなるまい。

といって、お互いに笑ひ合った。

パリタン海峡に入って、大空には、薄雲が出て来た。

そのため、海面は、更に青黒い色になっている。

二十八日の夜は、無事すぎた。

 

二十九日になって、太陽が、地平線を昇ると、ほっとした。

バタン諸島が、二十八日に僅かに水平線に見えていたのに、今日は何も見えない。

確か呂宋島の山々が、もう見えて来なければならぬ筈であるという思いがつのる。

昨日一日、一等航海士と、米潜水艦の攻撃網に入ったことで、少し緊張しすぎていたの

かも知れない。

まあ、昼間は、無事であらうと、船室で充分な、休養をとる事にした。

船団は、パリタン海峡を通ってバタン諸島のカラヤン島の西の海域を過ぎて行く。

呂宋島のアパリ港に入るのであれば、針路を、カラヤン島を過ぎてドルプリ島の南から

東に向はねばならぬであるが、ジグザグの行動をとってはいるが、針路を南々西にとっ

ていることで、矢張り、マニラ湾え向うことになつているのであらう。

「杉山さん、愈々正念場に入りますよ」といって、微笑していた。

天候は、藩曇りの状況で、あまり良くない。

波は、あまリ大きくないが、南支那海の影響か、少しづつうねりが大きくなった気がす

る。

七月二十九日の太陽が、薄曇りの空を真赤に染めて、西の水平線に没てして行った。

さあ、愈々、夜が来たと思った。

夕食を終り、船橋に上って見ると、船長以下が、タ食後の紅茶とビスケツトを、楽しん

でいたので、私も加はった。

船長が、ボソリと、

「杉山大尉さん、

あと、三日で、マニラですよ。」

といって、微笑した。

ゴマ塩の髪が、笑うと、いかつい、古武士的な船長の顔をかえって、ニコヤカな感じを与える。

一等航海士が、

「あと、三日、

この三日が、大変ですね。」

と、いうと、七十才を越えた機関長が、にっこりして、黙って合点をした。

非常に温厚な人である。

大阪商船では、既に船長も、機関長も、重役の地位にあるのに、国家の非常時に老後を

楽しんで居られないということで、自ら、この船の乗組みを志願したということであらう。

私の年齢は、二十四歳である。

船長や機関長から見れば、孫のような将校であった事であらう。

私は、只、

「大変、御苦労をかけます。」

と、のみ申して、頭を下げた。

私は、この老船長と機関長に対して、心から敬服した。

軍人だけが死ぬのでないし、軍人だけが、国家を守っているのでないという実感を、こ

の二人から受けた。

一等航海士は、もう年齢が四十歳を過ぎていると思はれ、本来ならば、当然、一つの船

の船長が勤まる筈であるが、この老船長と機関長の許で、心から喜んで、キビ、キビとし

た態度で働いているのにも、感心した。

私は、例え如何なることが起っても、この船に乗り、これらの船長以下の船員と知己

になった事を、一生忘れぬであらろと思った。

お茶を終って、私が船室に入って暫く横になったと思ったら、突然、潜水艦警報が、リ、

リ、リ、リ、リーと、室中に鴎り響いた。

愈々来たなと、思い、急いで軍装を整えて、船橋に上ったら、一等航海士が、

「杉山大尉、愈々ですよっ」

と、一言いった。

船橋の上の囲いのところにあがって、各部隊の対潜警戒待機状況の報告を受けるために

待機した。

予想よリ早く、各部隊が、夫々の対潜警戒待機位置と、対潜水艦監視哨の配置が、完了

した。

当番の私の伝令兵も、二人到着し、待機する事になったので、これからの兵達も、待機

させ、第一小隊から、夫々の待機状況を視察して巡ることにした。

第一小隊は、小林昌利少尉以下、最上甲板の遊歩廊に、整列して待機していたので、そ

の状況を視て、休憩させ、上甲板上の船橋の下の区域に待機している第二小隊を視察して、

甲板上に腰を下させて、休憩させ、そこから、右側の船橋の下の入口から、第三小隊の

居住区の廊下に待機し整列している状況を視察したら、岩橋少尉と、西山中尉、松橋主計

少尉は、客室の中に横になって寝ていたので、私は叱った。

「今度の対潜警戒態勢は、演習とは異なる。第三少隊の人員は、直ちに、廊下から、階段

まで上って、船橋の下の階段の出口まで行って、階段に腰を下して、待機させろ。

将校は、そのようなずるけた姿勢で、指揮が出来るか?

兵員の安全を考えて、何時でも状況に応ぜられるようにしろ。

今の待機姿勢は、恐らく今晩が、最後のものになるであろうから、その覚悟で、今夜は

頑張れ。」

と、激励して、階段を上り、一等船室の娯楽室の看護婦部隊の方を巡った。

看護婦部隊は、婦長以下、立派に服装を整えて、休憩していたので、婦長に

「今日は、愈々来るかも知れない。

米潜水艦の攻撃網の中に入っているので、何時非常事態に入るか予想はつかめぬが、今

夜が山であろう。

頑張って下さい。

私は、船橋の上で、全船の指揮をしていますから、万一のときは、私の号令に注意して

下さい。」

と、云って、船橋の方に上って行った。

船橋では、船長以下、扶桑丸の全員が、船橋に集まり、船長の指揮で、船の操作に当た

っていた。

輸送指揮官である通信隊長は、船橋の中心の廊下のところで、軍装を整えて、椅子に腰

かけていたので、各部隊の対潜警戒待機状況を報告した。

酒を飲んで酔っていたのであらう、鼻の頭が、一きわ赤くなっていた。

一等航海士と、輸送船監督官に、対潜警戒待機姿勢の準備が完了していることを告げて、

船橋の上で、指揮すべく、そこに居ることを知らせ、船橋の上に昇った。

きて、船橋の上の屋根の囲ってあるところに昇って立って見ると、米形の月が中空にか

かり、薄曇が月の光に透かされて、にぶい光を放ちながら西え西えと飛んでゆくのが判る。

海面は、真暗な中に波頭が、そして、船団の舳先の白波から船尾の航跡え、夜光虫の光

るのが、青白色ににぶい光を放っているのが見える。

各船は、全速力で、米軍の潜水艦の攻撃網から逃れるために、努力しているのであらう、

夫々の煙突からものすごい火焔が夜空に火の粉を飛ばし、黒煙を噴きあげていた。

その煙は、遥か後方の闇の中までつづいているのが月の薄光りで見える。

先導船から、方向変換の信号が出たのか、扶桑丸は、一斉包頭を行って、暗闇の海に方

向変換をしてゆく。

大きな船体がゆらいで、鉄板のキシメクのが聞える。

下から船長の潮風に通る、シワガレ声の舵取りえの指示の指令と、これに応える声が、

船橋の上まで響いて来る。

各船、真赤の焔と火の粉を噴いて、走っているのが見える。

先導船が、ゆっくり孤を画くように、新方向の先頭の方向に向ってゆく船体を船尾が、

かすかに見えた。

私が船橋に立ってから、どれくらい経過ったであらうか?

十二時は、何時の間にかすぎて、中天にあった月は、次第に西の海に近づいてゆくのが

薄光の中に見えた。

雲は、上空の早い風に、すざましい速度で、半円の月の表面をすぎさってゆくので、海

面は、相当大きな波とうねりがあるようである。

その中を、夜光虫の光の尾を引いて、各船は必死になって逃げているようだ。

何時、何処から米潜水艦の攻撃が始まるか判らぬ、無言、無声の壮絶な船団の行動であ

った。

警備の掃海艇や、駆潜艇、駆逐艦が、確か,に、船団の外の周囲を走っている筈であるが、

船団の中に入った扶桑丸からは見えなかった。

我々は、扶桑丸の上に只乗っているだけであったが、船団の、そして、海の男の必死の

かけ引きの実態は知るよしもなかったが、下の船橋から聞えて来る船長の号令、操舵手の

応える声は、一段とすごみを増し、各船の煙突から中空に噴きあげる火の粉を見ていると、

米潜水艦の姿は判らぬが、必死の努力が行はれている事が判る。

シャチの群に追はれる鯨の大群というものは、このようなものであらうか?

船橋の上には、空の雲の走り様からと、船の全速カをあげての状況から、相当の風が吹

いている筈であったが、私には、そのようなものが吹いているという意識は何処にもなか

った。

船団は、真暗の夜の薄明りの中で、漆黒の海面に、夜光虫の光のシブキをあげて、只ひ

たすらに、走りに走った。

 

一時、二時、三時を過ぎ、月は愈々海面に近づいてゆき、愈々、最後、大きな月の形

になって、赤く薄暗く、真っ黒な海の水平線に刻々と没して行った。

ああ、もう四時になり、そして五時になれば、いづれ、夜明けである。

もう一息だなあーという感慨があって、愈々月が、水平線に沈んで行くと共に、今まで

僅かにあっだ、月の光が、急に、船団の上から、無くなリ、かすかに光のあった海面が、

真っ黒な幕の中に落ち込んで行ったように感じた。

その時、突然、船団の後方の方から、真っ黒な海面の上を、青白い孤を画く光の輸が、

走り去ってゆくと同時に、その光の輸が扶桑丸の船体をさっと通るとき、ドスンと、

船体にカスカな音がした。

四時僅かすぎである。

扶桑丸やその他の船の煙突からあがる火焔の照り映えと、火の粉が、一段とすざましく噴

きあげ始めた。

米潜水艦の攻撃が始まったのであらう。

扶桑丸の船体が無気味な音、キシミを立て始め、限界以上の速度を出そうとしての努カ

をしているのであらう。

扶桑丸の真黒な船体の浮ぶ真暗闇の海面に、背後から幾重にも、幾重にも、夜光虫の光

の輸が走り姶め、これは、米潜水艦の魚雷発射の衝撃音波が、海面の夜光虫の光を誘発し

て、走るのである。

そして、他の方からくる、別の輪は、この船団のどの船かに命中して爆発したことによ

る衝撃であらう。

どの船が、どうなっているのか?

扶桑丸船上で知ることは出来なかつたが?

どの船か、魚雷が命中して、火炎を起こしたのであらうか、真暗な夜にすざましい真赤

な焔のかたまりがあがり始めた。

扶桑丸の煙突の焔は、先刻の二倍にもなり、噴き出す黒煙に、火炎を起した船の焔が映

えて、暗い夜空に、赤黒い龍がのたうちまわるような気がした。

掃海艇、駆潜艇、駆逐艦等が、米潜水艦の居るらしい地域に、爆雷投下を始めたのであ

らうか?

夜光虫の光の輪は、幾重にも幾重にもなって、海面を走ってゆく。

扶桑丸は、相当の距離、逃げたであらう。

私は月の無い中で、時計を見たとき、突然左後方で、

「雷跡っ!」

と、いう声と、船長の

「とり舵っ、一杯っ!」

と、いう声が、同時に起った。

私は、時計を見た眼を、扶桑丸の左舷に走らせたとき、約百米くらいのところから、二

本の雷跡が、青白い光を、真黒な海面に放ちつつ、扶桑丸に近づいて来る。

扶桑丸は、勢一杯、左え変針しようと傾いているとき、この二本の雷跡の一本が、船尾

をかすめて、何処かにゆき、その内の一本が扶桑丸の左舷の真ん中に命中した。

丁度、ドラム罐を、鉄棒の光ったもので、突きさすような音が、にぶく起って、この魚

雷が爆発したのであらう。

扶桑丸全船体が、海面に飛びあがるような震動と、何もかも毀れてしまうような、大き

な破壊音が起こつた。

私は瞬間、何が起ったのか判らない。

気がついて見たら、船橋の上のかこいの手すりに、両手でしっかり握っていて、両足を

開いて、倒れないように踏張っていたが、その両足が、とめようもなく、膝のところで、

震えていた。

何秒、何分だったか、全く記憶が無い。

やがて、その震えはとまったが、どうしたのか、両手がてすりから離れぬ。

自分でおかしくなったが、両手は、しっかりと、手すりを掴んで離れぬ。

親指から意識して、動かして見ると、やっと、一本、一本が動いて、手すりから離れた。

4)

そして、私の周囲を見廻すと、私の近くにいた、当番の伝令も、誰も居なくなっていた。

やっと気がついて、

「伝令いっ!」

と、叫ぶと、階段の下で、

「はーい、ここに居ります。」

と、声がした。

やっと、大きな声で、

「第一小隊、異常は無いかっ!」と、問うと、小林少尉の声が

「第一小隊、異常なし、

ここに、待機しています。」と、いう。

船橋からの下を見て、

「第二小隊、異常ないかっ!」

と、問うと、

「第二小隊、異常なし。」

と、声がした。

「第三小隊はっ!」

と、聞くと、

「第三小隊、通路の出口に居ります。」

と、岩橋少尉の声がした。

「第三小隊は、上甲板に出ろっ!」

と、命令すると、

「第三小隊、上甲板に出ます!」

と、声がした。

その時に扶桑丸は、右に、十五度傾いていた。

魚雷が命中すると、その爆発で、命中した方向の反対測に、先づ傾いて、そして、それ

が、船の復元カで、命中した方に傾きなおして、次第に浸水して、沈んでゆくというのが

普通であると聞いていたので、私ば、もう一度、左側に復元して来ると思っていたので

あるが、扶桑丸は右側に傾いたまま、仲々、復元しないで、右えの傾きが、次第に激化し

てゆくような気がする。

変だなと思っているところ、一等航海士が、階段をひょこひょこと上って来たので、私は、

「とう、とう、やれましたねっ。」

と、言葉をかけると、

「やあ!

運のつきでしたねっ!」

と、いう。

「何か、私に用ですかっ」

と、聞くと、

「いや、もう、これで扶桑丸は終わりです。やられたところの緯度経度をはかるために

ここに来たのです、」

と、いって、船橋の上の羅針盤の蓋をあけて、しきりに、方向を標定していた。

六分儀がついているらしかった。

そこえ、中村勘左エ門軍医が手に救命胴衣だけを持って、船橋の上にあがって来たの

で、私は、持っている煙草を、申村軍医と、一等航海士にすすめ、マッチで、三人の煙草

に火をつけた。

私は一息煙草を吸って、一等航海士に、「扶桑丸は、何処をやられたのですか?」

と、聞くと、

「いや、丁度、石炭庫のところでしてね。それも、使って空になったところですので、左

舷を突きぬけて、右舷で爆発しましたので、右舷に大穴があきましたよ。」

「扶桑丸は、どうなのです。」

と、いうと、

「もう、駄目です、

退船させる準備をして下さい。

私は船長以下を連れて、救命艇で退船しますから。

これで」

と、いって、船橋に帰った。

彼が船橋に帰りついたと思はれる頃、輸送指揮官の遁信隊長の、シャガレ声で、

「全員、退船、」

と、いう声がしたので、私は、大きな声で、

「全員、退船」

と、号令をかけた。

扶桑丸の各部分から

「全員、退船」

と、伝達する声がしたので、私は改めて、更に、声をあげて、

「飛行第三十一戦隊いっ!

全員、退船!全員、靴を脱げっ!」

と、命令した。私も、長靴を脱いだ。

左舷から小林少尉の声で、

「隊長っ!お先きにゆきます。

第一小隊、退船んっ!」

と、いう声が、闇の中に消えて行った。

そのときは、既に船体は、二十五度を越えて、傾いていたように思う。

中村軍医の姿が、何時の間にか、見えなくなった。

突然、上甲板上の通信隊の貨車が、つなぎとめてあった、ロープが切れたのか、上甲板

上を、横転して、ころがり落ち始めた。

右の方の海面には、通信隊の兵士達が、上甲板の舷側まで、浸して来た海面上を、夜光

虫の光を撤き散らしながら、海面を泳いでいるところに、トラツクが転がって来て、二、

三名の兵が悲鳴を上げた。

真暗の海面の上を、無数の兵士が必死に泳いでいるのであらうが、船が沈んでいるのか、

仲々、船から離れない。

私は、船橋の上の手摺に必死にしがみついて、その兵士達に、

「船が沈んだら、渦が起きて、巻き込まれるぞっ!

出来るだけ、一生懸命泳いで、船から離れろっ!」

と、声をかけると、兵士達から、

「よいさっ!よいさっ!」

の、かけ声があがった。

もう、殆どというより、全員、船から離れたようである。

船橋も、約三十五度近く傾き、その端を、海水で浸し始め、如何に手摺につかまっても

立って居られなくなった。

私は、思い切って、両手を、手摺から離すと、船橋の天井の板の上を、尻ですべって、

海水に入ってしまった。

さあ!船から少しでも離れなければならぬと思って、軍刀を背中にかけ、必死に泳ぐ

が、仲々、船から離れることは出来ない。

扶桑丸は、大体三十五度くらい傾いたまま、そのまま、沈没して行ったらしい。

私は、泳いでいたことまでは、意識があったのであるが、突然視界が消えて、暗黒の中

に巻き込まれた。

私の体に、○嚢の紐に、水筒の紐に、何人もの手が、つかまって来たような気がする。

無数の手が、私の周囲に差し伸べて来たような気がするが、私に記憶は無い。

体中が無数の手で掴まれたような気がして、上を見たら、無数の足がうごめいて、夜光

虫の光が、その足の動きで見える。

白い足の裏が、しきりに動いているように見えた、

その足の裏のうごめきが、突然、遥かなものであったのに、突然、急に、見る見る、私

の眼の前に近ずいて来た。

と、見る間に、私の体が急に、海面に飛びあがり、膝の下まで、海水の中から飛び出し

た。

私は、船の沈む渦に引き込まれて、海中にひきずり込まれていたのであった。

救命胴衣をつけていたので、浮カで、急に海面に浮上したのであったが、その勢いで、

海面上に飛びあがったのであった。

足の裏が見えていたのは、筏にすがっている兵士達の足であったのである。

幸い、海水は呑んでいなかったようであったが、海面に浮んだとき、波がかぶったの

か?

その塩幸さにむせた。

さて、海の潮にむせびながら、三十一戦隊の兵士達はと、見廻すが、全く知らぬ兵士達

である。

私は、三十一戦隊の整備隊の指揮をしなければならぬと、真暗な海面を必死に泳いだが、

三十一戦隊の兵士達に一人も会はなかつた。

約三十分くらい泳ぎまわったであらうか?暗黒の海面は、無限に続いているので、

これでは体力を消耗するし、私も泳ぎ疲れてしまった。

軍装は、着銃と、軍刀のみで、水筒も○嚢も引きちぎれて、紐も無くなっていた。

軍刀は、麻紐であったので、海水に浸って、強さを増し、しっかりと、私の背にあった。

近くに、僅か三名の兵士がすがりついている筏があったので、それに泳ぎつき、腰にあ

った、麻紐の端を、筏の周囲にあるロープにむすびつけて、波のゆらめくままに委せて、

体を休める事にした。

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送