幻の戦斗機隊 (幻の戦闘機隊)

 

特記

 この幻の戦斗機隊は、飛行第三十一戦隊の整備隊の活動記録メモを、三百頁の米国簿記

ノートに、現地で、整備日誌としていたものの内容から、またそれに伴う記憶を記述したものである。

比島戦における日本軍の実際の記録は、殆どない状況であって、防衛庁戦史室で編纂された、

比島捷号陸軍航空作戦は、この整備日誌を参考に採用しているが、第四航空軍、飛行第二

師団の命令等は、大本営その他の記録から、また多くの人々の言から作成されたと思はれ

る点が多くある。

 これに対して、命令・情況は、全て現地の第一線において、自ら記録したものを、根拠と

していることで、それらの記録は、実証出来るものであることを、ここに明記して置く。

 表題・各章・各項は、これら戦記は、作戦名や、時日の経過によって、記述するのを例

とするが、敢えて、最も印象的な状況をもって、記述したが、内容そのものは、時日・作

戦の経過を忠実に、第一線部隊の事実について記述したものである。

                 元飛行第三十一戦隊整備隊隊長

                 元比島・隼戦斗機隊整備隊隊長

                                      元陸軍少佐  杉山龍丸

 

目次

(左記の目次が記載されています。)

 

まえがき

幻の戦斗機隊

  (飛行第三十一戦隊比島航空作戦)

元飛行第三十一戦隊整備隊々長

元比島第四航空軍飛行第二師団

            隼集成戦斗機隊整備隊々長 元陸軍少佐 杉山龍丸(陸士53)

(まえがき)

 この記録は、飛行第三十一戦隊(陸軍一式戦斗機(隼))の整備日記と記憶を基礎とし

て述べられたものである。

 幻の戦斗機隊という名称は、次の事実によって、つけられた。

 昭和十九年十二月、飛行第三十一戦隊の主力のいる比群島中部のネグロス島、ファブリ

カ基地は、呂宋島の南のミンドロ島に、米軍が上陸して、呂宋島の第四航空軍主力との間

を遮断され、レイテ島の主戦場ぱ総崩壊となり、更に、昭和二十年一月、呂宋島リンガェ

ン湾に上陸されて、完全な孤立状態になっていた。二月に入ると、飛行第二師団の傘下に

あった、殆どの戦斗機隊は、全滅するか、または、ミンダナオ島西部からボルネオ島え撤

退していたので、飛行第三十一戦隊は、整備隊員をバゴロド基地群の各飛行場に派遣して、

残存の隼戦斗機をファブリカ基地に運ぴ、破損機は、発動機、機首、胴体、尾部等に分

けて、トラツクに積んで、組み立て、幽霊飛行機をつくって、米軍のタクロバン基地群え

の攻撃を続行していた。

 リンガエンに、上陸した米軍は、呂宋島の東と西に、強力な機動部隊を回游させて、台

湾からの補給船や、航空補充を断絶せしめて、バギオ地区えの日本軍の陣地攻撃えの

態勢を進め、レイテ島の日本軍は、カンキボツト山に包囲されて孤立し、タクロバン基地は、

米空軍の大きな補給基地化していた。

 米軍は、セレベス島の東のモロタィ・ハルマヘラ島の長距離B24航空隊のネグロス島、

第二飛行師団の各基地に対する30機〜50機の大編隊によるジュタン爆撃で、殆どの飛行

場が廃壌と化し、弾痕だらけになって、航空機の離着陸が出来ない状況になっていたので、

日本航空兵カは、全滅したと考えていたのではないかと思う。

 フアプリカ基地も、このB24の大編隊の攻撃を受けて、飛行場のみならず、兵員の宿舎

や、修理工場も粉砕されてしまっていた。

しかし、飛行第三十一戦隊は、蒐集して来た一式隼戦闘機を飛行場から1km〜2km

のジャングルや、椰子林の中に匿し、修理し、滑走路は夜間、ラワン材の工場にあった、ブ

ルトーザー機や、牽引車を改造して一飛行場の弾痕をそのまま残して、戦斗機の離陸出来る

細い滑走路だけを整備して、早朝に、飛行機の匿し場所から、隼戦斗機を人カで押し出し、

払曉両翼にタ弾を積んで、タクロバン基地群を攻撃した。

米軍は、日本の航空軍は全滅したものと安心して、飛行場にビツチリ飛行機を露出させ

て、並べていたので、このタ弾攻撃は、大変効果があって、これらの米軍の飛行機が一度

に炎上した。

この状況で、タクバロン基地の米軍司令部は、比島に在る、全米軍に対して、

「本朝、タクバロン基地に、幻の日本軍戦斗機が来襲し、大損害を受けた。

この幻の日本軍戦斗機は、多分、台湾より長途攻撃したものと思はれる。

 何か、日本軍戦斗機は、このような長距離を飛んで攻撃できるような装置をつけてい

るらしいから、厳重に警戒を必要とする。」

といった、警報を出した。

 私達は、払暁攻撃して帰って来た飛行機は着陸すると、直ちに、飛行場からジャングル

内の修理場所に蔭匿して、滑走踏は、土を盛って弾痕があるようにしていたので、八時頃

米軍の哨戒機や偵察機が来ても、判らぬようにして、攻撃を続行した。

 終戦後のことである。

 飛行第三十一戦隊の飛行隊は、戦隊長西進少佐は自衛隊に参加し、整備隊長である私は

昭和三十六年からインドに行って、殆ど日本に居なかった。整備隊の人員は、復員後、

夫々の地方に分散して、北海遺から九州まで生きるのに忙しく、他の部隊のものが、夫々

の部隊の集りを行っているのに、昭和五十五年まで、同部隊の人員の集会が出来ていなか

った。

 昭和五十三年頃であったと思うが、比島作戦で、比島群島のミンダナオ島のデルモンテ

基地に派遣していた少年航空兵の整備隊隊員に会つたとき、

 「整備隊長、我々少年航空兵の同期生会や、その他の会合で、飛行第三十一戦隊は、比

島で、最も活躍した筈であるのに、終戦後、どうしたのか、何等の会合も、部隊の集合も

ないので、皆が、幻の戦斗機隊と云っています。隊長!

飛行第三十一戦隊は、どんな風に、比島で戦斗をしたのですか?

我々は、デルモンテで、米軍の攻撃で逃げ廻っていだだけで、戦隊の戦斗状況を何んにも知

らないのです。

どんな、戦斗をしたか、発表してくださいよ!」ということであった。

 幻の戦斗機隊という言葉は、私に別の感慨を与へるものがあった。

 死力を尽し、幾多特攻隊を出しての比島航空戦は、筆舌に尽し難いものがある。

 そして、敗戦ということは、全てを夢の如く無にした感じがする。

 私の心に、幻の戦斗機隊でも、良いでは無いか?という気があった。

 特に飛行第三十一戦隊から出した、レイテ湾の米機動部隊の小佐井中尉、山下軍曹のカ

ン作戦特別攻撃の出撃、そして、リンガェン湾に散華した、精華隊の人々の事は、還邦後

世に残さねばならぬと思いつつも、万感胸に迫って、涙がしたたり落ち、書くことが出来

なかつたが、飛行第三十一戦隊の戦史を記述する年になったので、敢えて述べる事になり、

この幻の戦斗隊の名を頂くことにした次第である。

(1982年6月20日)

 

第一章 幻の戦斗機隊の誕生

一、            機種改変の準備

  昭和十八の九月、飛行第三十一戦隊は、東満州の敦化基地より、西満州の白城子基地え

移駐し、襲撃機隊より、戦斗機隊え、機種が変ると共に、部隊全部の組織が改編されるこ

とになった。

 飛行第三十一戦隊は、九七式軽爆撃隊として、北満の嫩江基地で誕生し、中支・南支・

ノモンハンの作戦に参加した部隊であったが、昭和十六年ベトナム・カンボジヤ・タイ・ビ

ルマえの作戦に参加して、昭和十七年襲撃機隊となった部隊である。

 私は、この九七式軽爆機隊の第一中隊の整備隊長として、少尉の時から、この部隊と共

に、生死の際を歩いて来た。昭和十八年の四月、立川陸軍航空技術学校の乙種学生(大学

卒業程度)を卒業して、元のこの部隊に復帰し、飛行第三十一戦隊の戦隊本部の兵器将校

として、勤務していた。白城子は、旧満州国の西の地域、内蒙古の砂漢地域の東北地域と、

総大興安嶺山脈の南西に流れる台地が接し、満州の大平原の西側のところに在った。

 この白城子の西側には、蒙古の砂漠台地が延々と連っているところである。

 僅かにポプラや揚柳の樹木が、並木やその他にあるだけで、大地も、西側の丘陵も、灰

黄色の砂漠状況のところであった。

 飛行第三十一戦隊の駐屯基地は、格納庫と兵員宿舎が、バラック状況で建ち並び、基地

の滑走路は、灰黄色の砂塵の中に、砂利をコンクリートで固めただけのものであった。

 この基地に着いて間もなく、戦隊は、九九式襲撃機より戦斗機隊に改変される事になり、

戦隊長は、加島少佐よリ西進少佐に変わり、部隊の幹部将校は、九七式戦斗機の操縦技

術修得のため、海倫の基地に出向して行った。昭和十八年十二月より飛行第三十一戦隊の

整備の主要人員は、私が長となって、三重県明野の陸軍戦斗機学校(通称・明野飛行学校

)に出向し、一式隼戦斗機の整備技術の修得をする事になった。

 一式隼戦斗機は、昭和十六年、私の飛行第三十一戦隊が、もう生産を止めた、九七式軽

爆機のオンポロ飛行機で、タイ国侵入から、ビルマ作戦に、砲兵のないイラワジ沿岸で、

苦戦していたとき、英国のモスキート、米国のトマホーク戦斗機と華々しい空中戦を演じ

て、○○を貰った加藤隼戦斗機の改造型であった。(これを一式戦斗機二型と称していた)

 私達が、明野飛行学校での一式戦斗機を整備したとき、この加藤隼戦斗機隊の映画撮影

に協力し、出撃してゆく編隊に対して帽子を振っていたのは、我々であった。

 しかし、明野飛行学校の飛行機整備能力は、私達が襲撃機で、満州の関東軍の整備競

技会で優勝したのから見ると、戦斗機の戦斗整備は、敵の攻撃に対して、一分一秒でも早

く出動させる訓練をしなければならぬのに対して、学校であるから、時間訓練や、敵弾敵

機の攻撃を受けることがないので、お役目的な雰囲気で、敵弾の中で厳しい整備をして来

た私達には、緊張度や、整備の厳正さに欠けるものがあった。この事で、私達は、明野飛

行学校の整備訓練は物足らぬし、整備の将校が、殆ど予備や軍属の人々であることで、研

究の積極性が足りなかった。

 特に、これは、日本の航空部隊全部に云えることであった、が、操縦士の訓練学校、戦斗

機の飛行訓練学校であるので、整備将校の発言や意見具申が殆どなく、全てのプログラム、

行事が、飛行訓練中心で、整備のものは殆どなかった。

この点、我々は、戦闘機整備の目的の研修であったが、体の良い使役に使われているよ

うなものであったので、技術的には見るぺきものがなかった。このことは、将来、戦斗機部

隊の大きな欠陥となるであろう事を予測出来たし、事実、その欠陥は、後日比島航空戦で、

明野飛行団の全滅の一大原因となった事を、私は目前に見た心地がした。

これらの事で、明野飛行学校での研修訓練は、私と、明野飛行学校の校長、青木武三将

軍と、正面衝突して、我々は予定を早めて、一月末、明野を引揚げて、白城子に帰ること

になった、

昭和十八年三月、飛行第三十一戦隊は、正式に、隼戦斗機隊に改変されて、戦隊の編成

が大きく変った。

戦隊は、飛行隊と整備隊とに分れ、戦隊本部が、これを統轄した。

従来は、戦隊本部、一中隊、二中隊、三中隊に分れ、整備隊は、夫々の中隊の中に含ま

れていた。

このことは、操縦士と、整備兵は、同じ中隊で、指揮権と上官と兵が一致した形であった

ものが、飛行体と整備隊に分離したことで、指揮権そのものが分離した形になった。

従来、整備将校には、全く指揮権が無かったことにおいて、整備隊として、指揮権が与

えられ、整備隊の指揮が出来ることになったことは、我々整備将校には、生きがいを与え

ることになった。

しかし、反面、整備隊長は、戦隊の全ての飛行機、器材、兵員、下仕官等の大部分の責

任をもち、指揮することになった。

しかも、その指揮権は、地上部隊の中隊長と同様であって、その規模は、連隊、大隊に

匹敵し、機器材は、優に一ケ師団分のものである。そして、戦隊の指揮は、戦隊長が持ち、

それは、飛行隊出身者である。

ここに戦隊の指揮は、飛行隊に在る事で、部隊の指揮そのものが、ややもすると、飛

行機そのものの、整備の運用に、知識、経験というより、統率能力の乏しいものが、指揮権を

持つことになる。

この統帥能カというものが、第一線部隊では極めて、重要となる。戦局の困難な場合、

これを克服するものは、部隊の精神的団結と努力によって行なれる。

飛行部隊、特に戦斗機隊においてば、敵の攻撃下において、敵弾の降り注ぐ危険の中で、

恐怖を克服して、飛行機を整備して、窒中勤務者、操縦士、飛行隊を活躍せしめるかが、

勝敗の鍵になる。

このギリギリのところでの、整備隊と飛行隊の意気の合うことは、日頃からの団結、信

頼が、決定する事になる。

それは、組織や、機構が決するのでなく、人間相互の人格のある人間としての触れ合い

から生まれるものである。

整備隊は、別個の指揮権と、機構、組織、機能を持つことになった。

飛行隊は、戦隊の大半の将校、幹部は、飛行隊であるので、最も地味な、機器材と、下士官

兵等の全ての責任から解放されて、空中戦斗のみに専念すれば良いことになった。

しかし、日本の飛行機は、まだ技術的に、製作、組立、付属品が、単なる点検のみで、

燃料、潤滑油、圧力油等を補給すれば飛べる状態でなく、時々刻々、機材の使用によって、

状況が変化するので、整備そのものは、空中における状況と、地上の整備が一体と

なって、始めて、整備の万全を期し、性能を発揮することが出来る状況であった。

この意味で、飛行隊、整備隊と分離はしたが、整備隊の各小隊と、飛行隊の各中隊の人

事は、従来の各中隊のものを当てて、意志の疎通、意気の合致をはかることにした。

ここに、飛行隊の部隊の原則とは、異なった運用をしなければならなかった。

この事は、飛行隊において、この部隊の構成の原則なものを楯として、整備や全体の

調和、意志の疎通を考えず、独断的な行動をとるものがあった事で、苦心をした。

 

二、機種改変

昭和十九年三月、愈々、飛行第三十一戦隊は、九九式襲撃機隊より、一式戦斗機隊に変

った。

西満州の白城子基地は、まだ雪に覆われていて、春には遠い感じがした。

しかし、蒙古から吹く風は、胡砂、黄砂を含んでいて、空が薄く黄色に見えた。

その中で、飛行隊は、次々に一式戦斗機を輸送して到着し、その度に、整備隊は活気づ

いた。

しかし、その舞台裏では、九九襲撃隊の器材、部品等を、航空廠え返還する事務が、行

なはれていた。機種改変という事業は、長年使い慣れた工具、器具を返却するだけでなく、

新しい工具器具を準備せねばならぬし、部隊に貯蓄してあった、予備部品等を古

い型式のものは、返却し、新しい機種のものえ変えるというより新しい機種のものを一

日も早く、充分な予備部品を準備しなければならぬ。航空部隊における作戦には、このよう

な一部品や器具、工具、機械等の間題は、全く考慮していない。そこに、日本陸軍の技術、

整備を間題に考えていない欠陥があった。

新しい機種になると、何処の部品が一番多く破損し、消耗するか、その耐久度はどんな

時間か?

それによって、どのくらいの部晶や消耗品を準備して置かねばならぬか?

これが、航空部隊の活動の運命を決するものであると申しても過言でないであろう。

私達は、明野飛行学校で一式戦の整備の技術研修をすると共に、これらのデータを集め、

如何にしてこれらのものを確保するかということに熱中した。

新しい機種になると、新しい技術、設計が入って来る。

また、新しい油、材料が使はれている。

その新しい技術、設計によって、如何なる工具器具が必要か、そして、その工具、器具

の使い方と、その工具器具の製作、耐久度、材料は何かも知っていなければならぬし、良

い工具、器具を出来るだけ、整備の兵に与えることが、整備能力を増加する。新しい油や

材料のものは、その性能は何か?耐久度はどのくらいあるか?その使用方法と、特に

その温度感作は、零下40℃〜40℃までの間、どんな性能上の変化があるかを知って、整

備隊の全員に教え込まねばならぬ。また、飛行機は、自分の基地を中心として作戦すると

は限らぬ。飛行隊と同行し整備するものに、夫々の機に、如何に、工具、器具、部品、

材料等を分散して、搭載して輸送し随行してゆくかの計画予定をつくって置かねばならな

ぬ。

飛行隊の方も、九九襲撃機の方から、一式戦斗機に変ると、操縦やその他の戦隊の編隊

編成行動、戦斗行動に、機の行動性や、攻撃の性格が変わり、特に戦斗行動に、空中戦斗と

いう要素が加わる。

 空中戦斗は、従来第一次大戦時代より、一機対一騎の戦国時代の一騎同志の粗打ちのよ

うな戦斗でなく、双方共、編隊と編隊の集団戦斗と変わっていたので、編隊長機と、それに

随行して、編隊長機の背後からの攻撃を守る編隊機との呼汲が合はねばならぬ。

 ここに、従来の軽爆撃機や、襲撃機とは全く変った編隊攻撃の姿があり、空中戦斗の編

隊行動の呼吸があった。

 飛行隊は、大空に捻りをあげて空中格斗の訓練に、整備隊は、地上から大空での編隊行

動に眼を凝らして見つめ、背後では、私達整備隊の幹部が、部隊の充実に血眼になってい

た。

 

三、飛行第三十一戦隊戦斗機隊の誕生

 四月になって、飛行第三十一戦隊は、主なる機数、器材工具の支給を受けて、大体の編

或が完了して、白城子基地から、北満州の嫩江基地に移転する事になった。

 嫩江基地は、飛行第三十戦隊が軽爆撃隊であったときの基地であり、私が少尉で、立川

航空技術学校を歩兵から僅か十ケ月教育を受けて整備技術、将校として赴任した、懐しい基

地であった。

 ここで、私は正式に、飛行第三十一戦隊の整備隊隊長として就任する事になった。

このとき、この就任したときの私の整備隊全員での訓示した話は、只、一語、

 「徹底してやれ」

と、いうことであった。

 その頃の飛行隊は、各部隊に標語が流行していた。

 闘東軍軍司令官が、一つの標語を着任したときに示すと、師団長が二つ、飛行団長が一

つ、戦隊長が四つか五つというように、難しい漢語の言葉を、各部隊に伝達すると、その

言葉を各部隊の兵員は、全部暗記しなければならなかった。

 私は、この悪い風習を打破したいと考えていたので、これらの言葉や、標語は、各部隊

長や、幹部の将校、上級下士官だけが知っていればよい。

 整備隊の兵士の人々は、軍人勅謡と、私の徹底的にやれという言葉だけを知っていれば

良いという訓示をしたのであった。

 飛行機は、多くの部品から出来ている。そして、一つ一つの部品は、色々の材料で出来

ている。

 鉄もあれば、アルミニュームのものもある。

 それは、単なる物質である。

 しかし、これらを製作した人々の心、が籠っている。

 また、夫々物質に違いないが、その物そのものの魂といったものが、そこにあると私は

考える。

 我々技術員が、これからの部品を組み立て、正確にその結合を行うことで、夫々の物の

魂に一つの線が出来て、そこに我々が徹底して磨き、手入れして、始動をするとき、その

魂と我々の魂が一致して、躍動することになる。

 その飛行機に、操縦者、飛行隊の人々の魂、心、が乗ることで、その飛行機は、全性能を

発揮することになると、私は教えたのであった。

 我々整備員は、それを行うのが任務であり、それに徹底することで、我々の責務を果す

ことになるのであって、それは、軍人に賜っだ勅謡や、色々の教訓がそこに生きて来

る。

 そのために傍目もふらず努力する事が、我々の仕事であり、軍隊での軍人としての勤め

であると私は教えたのであった。

 昭和十九年の四月の末に、関東軍司令部の兵器検査と、師団長の巡視が行はれた。それは、

近く南方戦線え派遣されることのためであり、又、襲撃機隊から、戦斗機隊に改変があ

った事で、その状況を調査するためであった。

 何分短期間のことであったので、どうなるのかと、私は大変心配したが、調査視察の前

段が兵舎内の状況が午前中に行はれ、将校集会所で、師団長と会食したとき、調査員の上

級将校から呼ばれて、私の整備隊員が、師団長の訓示内容やその他、全く教えてなくて、軍

人勅諭と、徹底してやれとのみであるということ言ったが、それは如何なる意味かと問は

れた。

 私は、その意味は、午後、戦隊の飛行機や整備の実技を見て呉れと応えた。

 午後、誘導路に並べられた隼一式戦斗機と関連器材、部品準備の検査と、飛行隊の実技

訓練が行はれたのを観察した関東軍の司令部の調査員も、師団司令部の関係者からは何

も云はれず、この調査視察の成果は、極めて良好であるとの講評があったので、私よりも

整備隊員全部下仕官、兵の全てが、私のところに来て、隊長、やりましたねという、お祝

いと、喜びの言葉を云って呉れた。

 これは、彼等の喜びであったし、私も嬉しかった。

 ここで、隼一式戦斗機隊、飛行第三十一戦隊が名実共に、誕生したのであった。

 

 日本の陸軍は、明治以来、多くの戦歴があつたが、しかしこれらの地上部隊に比較して、

航空隊の歴史は浅い。

 急速に膨張して充実しつつある部隊において、司令部関係には、航空部隊の実戦に乏しい

人が多かった。そして、膨張した軍は、一般の官療機構同様、現地の実戦経験より、事務

や、机上の作戦においての成績が重視され、形式的なものを重視する風潮が張り殆めてい

た。

 これを象徴したのが、標語の流行である。

 何か、気のきいたキャチフレーズを云えば、大向うからのお呼びがかかるといった、気

風が、強くなっていた。

 これは、軍の堕落である。

 東条首相の戦陣訓そのものを、私は、間題にしなかった。

 これが公布されたとき、私は、軍は終りだと思った。

 嫩江という基地は、北満州の大平原、六波状地域の中にある。

 哈爾濱(ハルピン)から北に三百K、一望の遮えぎるもののない大平原の中に、一本の鉄路が走り、

 その線路にまつわりつくように、松花江の支流嫩江が流れて、嫩江から西北の大興安嶺

の中に消えて行っている。

 この嫩江河の流れに突き出ている残丘の麓を巡って、鉄道は嫩江の駅につく。

初めて此処に着任したとき、大きな水塔と、ブラットホームのない駅舎に驚いたことを

記憶している。この駅舎の前から西に広い道路が延びて、約一K近くで、嫩江の中心道

路と交差して、真っ直ぐゆけば、嫩江河である。

嫩江神社は、この街の北の端にあって、白樺の丸木造りの神社であった。

嫩江の駅の前に三叉路があって、北に向うと、官舎街があり、それを通り抜けて、東に折れ

ると、広々とした、北満の大平原に出る。

その中を更に北に二K程を行って、右に曲がると、そこに、変電所がある。

この付近に、歩兵連隊の宿舎が建っていた。

その前を、更に東え東えゆくと、左側に航空廠の兵舎が見えてきて、その西に、一つか

たまりの、飛行戦隊の将校宿舎が建っていた。

航空廠から戦隊の基地の正面までは、優に一Kmはあったであろう。

大波状地の中に、格納庫が大きく見える、その外には、何んにもない広漠とした基地で

ある。誘導路は、八角形に配置されている格納庫の外側にあって、滑走路は、きらに、そ

の外側に延びていた。

このようなところに、飛行第三十一戦隊、隼戦斗機隊は、誕生したのであった。

 

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