杉山龍丸足跡

 

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緑の木々に囲まれて眠る、グリーンファーザーの

仏舎利塔

糸島半島、西浦、妙見岳

 

西の浦、妙見山

(クリックするとyahooの地図に飛びます)

向かって右側の山。左は蒙古山。

 

妙見山仏舎利塔のこと

桑原廉敬氏からお聞きした仏舎利塔の話がずっと気になっていました。

一民間人である龍丸さんが、当事、政治的には敵対関係にあった蒋介石率いる中華民国政府(台湾)とインド政府との橋渡しをし、そのお礼としての仏舎利が収められているというのです。

ICWAニュースや磯永吉追想録には記されているのですが、“蒋介石総統”、“ネール首相”、はては“お釈迦様”まで出てくるのですから、あまりにも歴史上の人物過ぎてピンとこないのも当然です。でも、文章と違って塔であれば実物が残っている可能性が高いです。その跡だけでも見ることが出来れば、蒋介石がインドに種籾を送ったという一見不思議な内容について納得することが出来るかもしれない・・、と思い始めていました。

 

仏舎利塔建立の経緯

昭和30年11月、義弟の取引先の台湾の商店からの連絡で、台湾農業会の農業工場と農機具工場の計画を作る目的で台湾を訪問した杉山龍丸さんは、収集した農業資料の分析結果を相談できる人物として、蓬莱米の父として知られる磯吉博士を紹介されます。

 

蓬莱米は日本の台湾統治時代に、日照時間の差から熱帯では早く芽が伸びすぎてしまい、実りを得ることのできなかった日本のお米(ジャポニカ米)を台湾の気候に合うように、磯博士が品種改良して作った品種です。蓬莱米は同じ品種のままで二期作が可能なため、多くの収穫をもたらし、米は台湾の重要な輸出品目となりました。現在も加工米の原料としてビーフンの原料などに用いられており、日本の食卓にものぼっています。

しかし、当時の台湾は、昭和24年に中国本土から来島した国民党の戒厳令下にあり、その経済的重要性から、蓬莱米の種籾は台湾から外に出すことを禁じられていました。

二人は初対面でしたが、磯博士が、児玉源太郎、後藤新平による台湾統治に杉山茂丸が関与していたことを知っていたことから、龍丸さんは短期間ではあるが熱帯農業について博士から直々に教えを受けることになります。

 

その最中、龍丸さんは不審人物としてスパイを取り締まる国民政府監察院に連行され、磯博士他関係者一同は“悪けりゃ銃殺、よくて国外追放”と、真っ青になりました。

しかし、一通りの取調べが終わった後、龍丸さんの名に興味を持った監察院長の于石任氏から院長室に呼び出され、「私が日本に留学して孫文先生の同盟会に入ったときに、孫文先生の友人で非常にお世話になった杉山茂丸という偉い人が居られた。あなたはその人と一字違いだけですが、何か関係があるのですか?」との問いを受けます。

龍丸さんは「杉山茂丸は私の祖父です。」と語り、孫文らと共に中国革命に尽力し、当事福岡に健在であった末長節(みさお)翁から、于石任先生、陳誠副総統、蒋介石総統への手紙を預かってきたことを告げ、于石任院長宛の手紙を手渡します。

「台湾に着いたら真っ先にこの手紙を持って私のところに来てくだされば、このような面倒なことにならず、お世話することができましたのに。」と笑う于院長から、「戦争によって引き裂かれた私達の友情を再び元の形に戻すことに協力してほしい。」と頼まれ、翌日、于石任院長主宰の宴に招かれ、陳誠副総統との面会の約束がなされました。

 

陳副総統との面会日の前夜、磯永吉博士が龍丸さんを訪れます。磯博士は国民政府の要請によって、戦後も台湾に農業指導者として留まられ、奥様は望郷の念を抱かれたまま台湾で亡くなられていました。磯博士から、「中国大陸から来た人達によって、日本統治時代のものをことごとく取り去り、破壊していく中で、生涯の仕事である熱帯農法の成果も失われようとしている。しかし、これらは世界も認めた成果であり、国民政府や、将来のアジア、世界のために役立つものであるから、是非、副総統に善処してくれるように頼んで欲しい。」との懇願を受けます。

磯博士に深い敬意を抱いていた龍丸さんは、陳副総統との会談の際にその話を伝え、深くうなずいた陳副総裁から「善処する。」との答えをもらって帰り、磯博士に伝えることが出来ました。

 

その後、インドのガンジー翁の弟子たちの訪問を受けた龍丸さんは、ガンジーの第一弟子の長男モハン・パリック君を連れて、帰国され横浜に住んでおられた磯博士を訪ねます。また、博士がFAO(国際食糧農業)協会から出された英文の大著“Rice and Crops in its Rotation in Subtropical Zones”を入手して、稲作技術のバイブルとしてインドに持ち帰らせます。インドに渡り、直接現地で灌漑や農業指導を始めてみると、インドでの稲の栽培普及を考えると、どうしても蓬莱米の種籾が欲しいと考えるようになりました。しかし、インド側、国府側との交渉が共にうまく行かない中、大飢饉がインドを襲い、龍丸さんは多くの人達が亡くなるのを目にしました。

 

自らの無力さと向かい合うことになったその調査の翌年の昭和42年、孫文生誕百年祭で、蒋介石総統から国賓として台湾に招かれた龍丸さんは、蒋介石総統に会った後、意を決して、あらゆる機会を通じてインドの窮状を訴えます。

「蓬莱米の種を国民党のみの独占とするならば、先輩志士たちが乏しい費用をすべて孫文先生に託し、アジア独立の為に行った運動の目的そのものが失われることになる。」と国民党の指導者たちに説いて回ります。

その結果、国賓として招かれながら、その後6年間台湾への渡航を禁止されたものの、蒋介石総統の贈り物として、約20トンの蓬莱米の種子がFAOを通じて、インドに送られることとなりました。

 

翌年、インド各地を訪問した際には、インド各地の農業センターで蓬莱米の試作が始まっていました。しかし、インドでは蓬莱米について疑問を持つ声があり、龍丸さんが直接指導を行っていたパンジャブ州のガンジーアシュラムの理事長、スシル・クマール氏すら蓬莱米の試作を聞きいれようとしません。「もし君が蓬莱米を植えないのであれば、義兄弟の約束も取り消す。」と喧嘩別れをして帰ってきました。

その翌年、恐る恐る、そのガンジーアシュラムを尋ねてみると、スシル・クマール氏が転がるように飛び出してきて、龍丸さんに抱きつき、本年、忠告に従って蓬莱米を植えたところ、大豊作だと言います。農園に出てみると、見渡す限りの農園が、いや地平線まで蓬莱米の黄金の波にうずめられていました。龍丸さんは大地にひざまずいて、感謝の念をささげ、帰国後、その成果を病床の磯博士に報告し、互いに手を取り合って泣きました。

 

それから三年間で蓬莱米はインド全土に普及しました。その業績に対し、インド政府は龍丸さんに仏舎利(お釈迦様の骨のこと。通常、米粒大)を送る事で、感謝の念を伝えました。

貴重な仏舎利をもらったもののどうするべきか、困っていた龍丸さんでしたが、友人の桑原廉敬氏を訪れた際に、偶然、桑原氏宅に居た福岡の県会議員である柴田氏から、その仏舎利を収めた塔(仏舎利塔、ストゥーパ)を福岡に立てることを薦められます。

その結果、糸島半島の西の浦、妙見山の頂上に仏舎利塔を建て、そこにインド政府からもらった仏舎利を収めることとなりました。仏舎利塔の落成式には関係者と共に、まだ子供だった満丸さん(龍丸さんのご長男)も正装して参加したことを覚えているそうです。

 

その後、資金の枯渇による国際文化福祉協会の活動の停滞、龍丸さんの闘病と死によって、仏舎利塔の存在は忘れ去られて行き、仏舎利塔につながる小道も木々の中に埋もれて行ったのです。

 

<調査行−1回目>

仏舎利塔は妙見山に有り

とのこと

満丸さんにお伺いしたところ、糸島半島の西浦地区、確か山の頂上にあったとの事。地図で見てみると、妙見山、蒙古山と記されていますが、地図だとそこに通じる道が描かれてません。つまり、何処にあるかもわからない訳です。

「いつの日にか・・!」と思っていた所、長期休暇を取って、福岡県立図書館にある杉山文庫の調査を行う5日間の中で、図書館が休みの日があります。午後からは、石滝先生にお話を伺うことになっておりますので、この日の午前中だけが調査のチャンスです。「行くしかない。」と、この時に第1回目調査行を決意しました。

 

実行に移したのは2005年3月21日。そう、福岡県西方沖地震の翌日です。しかも、目指す西浦は震源地であった玄海島とは目と鼻の先。玄海島以外では最も被害の大きかった場所です。当方らも、前日から福岡入りしており、実際に地震も体験しているのですが、たまたま被害の少ない場所にいたこともあり、それほどの地震とも思っていなかったのが、今にして思えばよくなかったです。何より、時間が無いので周りが見えていなかったですね。(まぁ、いつものことですが)

 

福岡から都市高速を使って1時間ちょっと。何とか糸島半島の西浦にたどり着きました。車はとりあえず、昭和バスの“西の浦”の駐車場に停めます。

周りの家々は全てブルーシートで覆われており、復旧作業の真っ最中です。軽トラの荷台に人が乗ってますが、パトカーも見て見ぬふりです。

近くのお店の人や公民館の人を無理やり捕まえて、“仏舎利塔”のことを聞いて回ります。

「あぁ、確か昔、そんなのがあったねぇ。」

「仏舎利塔?あぁ、あった、あった。何処だったか・・。」

どうやら、この辺にあるのは確かなようです。

 

復旧作業で走り回っている50代くらいの人に聞いてみると、

「仏舎利塔なら妙見山の頂上だよ。でも、何年も人が入っていないから道はもう無いんじゃないか。」とのこと。なぜか、口調がちょっと怒ってます。今にして思えば、大地震の翌日、復旧に忙しい時に“仏舎利塔”を探しに来た、観光客に捕まれば、そらームッとします。そらー、怒りますよね。反省。

 

つー訳で、仏舎利塔が妙見山の頂上にある事はわかりました。でも、どの山が妙見山かわかりません。山には名前が書いてませんから。時間が無いのは承知の上で、山の方まで歩いて見ます。山に近づくにつれ(=震源地にも近づく)、被害が大きくなってるのが判ります。土倉が崩れ、窓ガラスが飛び出し、まともな屋根はありません。もうすぐ、道はなくなりそうです。

幸い、ビニールハウスの中に農家の方がおられたので、聞いて見ると、

「妙見山はこの正面の山だよ。仏舎利塔?あぁ、この道を真っ直ぐ、真っ直ぐに行くとあるよ。」とのこと。

 

時間が無いのは承知の上で、登山道を登って行きます。正直、町向きのちゃらちゃらした服装なので、ハイキングに毛の生えた程度の登山道でもなかなか厳しいです。同行のOさんは女性なので更に厳しそうです。

 

竹やぶを抜け、湧水でビショビショになった登山道をくぐり、何とか展望台にたどり着きましたが、ここから妙見山に至る登山道が見つかりません。左手側に、登山道を示す赤いテープがあるとの事で、登ってみます。うーん、こりゃぁ、無理っぽい。あきらめきれないので、Oさんをその場に残して、一気に山頂を目指します。気分は、チョモランマの時の加藤保男です。(意味不明)

しかし、頂上で待っていたのは「蒙古山」と書かれたプレート。そりゃそーだよな。方向からして、こっちは蒙古山だよな・・・、と思うもののガッカリです。

 

結局、あえなく敗退。装備も時間も足りない状態で、基本的に無理がありました。

 

「今回の反省点」

大地震の直後に震源地直近に乗り込まない

意味不明の質問をして復旧作業の邪魔をしない

山に行くときは同行者に事前にその旨を伝えておく

街行きの格好の女性を山道に連れて行かない

しかも、途中で置き去りにしない

それなりの靴と手袋(軍手)は必須だ

 

とはいえ、“仏舎利塔は蒙古山には無い”事もわかったわけです。次に目指すは妙見山の頂上のみ。

 

次回、リベンジ編。不死鳥は炎を浴びて蘇る!(意味不明)

 

<調査行−2回目>

仏舎利塔は緑に包まれて佇む

のこと

2005年5月4日、妙見山再アタックの日です。前日は杉山満丸さん宅に泊めていただいて、お貸しいただく資料の調査を行い、朝食後、駅まで送っていただきました。

「午後どうされます?」の問いに「妙見山の仏舎利塔に再挑戦します。」と答えます。その為に、30℃を越すとわかっているのに、長袖シャツ。靴は出張なのにトレッキングシューズと、準備万端、やる気満々です。これが仕事にも・・(以下、略)

 

11時頃に博多駅着。荷物をロッカーに預け、バスターミナルに向かいます。昭和バスの西の浦行きは3階です。バスがどうやって3階まで来るのかは謎のままです。階段で無い事は確かです(笑)。片道810円ですが、バスターミナルの窓口だと往復1200円のチケットが有り、激お得です。バスの中では最初に靴紐を結び直します。いつもは使わない一番上の穴まで紐をかけて、がっしりホールドします。

 

んで、バスに揺られること1時間半。思ったより時間かかりましたが、終点の西の浦に到着です。バス停の向かいに前回仏舎利塔の場所を聞いた雑貨屋さんがあるので、ここでタオルと軍手を買います。合わせて368円。あと、外の自販機でペットボトル入りのスポーツドリンクを買います。こんな時はお茶だと駄目なのは、富士山を夜に間違えて“砂走り側”から登ってしまった時に経験済みです。(←間違えるな)

軍手、タオル、トレッキングシューズ

 

妙見山の登り口までは、旧知ですのでスタスタ行きます。思ったより、建物の復旧は進んでませんでした。土蔵は外観が鋼板で覆われてて、もう土蔵とは呼べませんね。

ブルーシートの屋根

旧土蔵

 

登り口近くにある、小道らしきところは、しらみつぶしに登ってみますが、全て行き止まりです。さすが、この先行き止まりと書いてくれているだけの事はあります。蜂が飛びまわっているので、軍手装着、頭にタオルを巻き、腕まくりしていたシャツは長袖仕様にします。

とぼとぼと草の覆われた小道を降りてくると、茶色く真ん丸い動物が飛び出して、走り去って行きます。私の記憶ではあの大きさと形に相当する動物は「狸」か「アライグマ」か「レッサーパンダ」しかいませんので、たぶん「狸」でしょう。相方がいれば「狸出たよ、狸!」と盛り上がるところですが、この時点で既に行き止まり3箇所目。相方は男女を問わず既に怒っている可能盛が大ですので、一人で良かった気もします。

 

さすが草木萌える5月。3月に来たときより、植物の生育状態が凄まじく、ちょっとイヤになります。登るなら3月の方が良さそうです。なので、登山道も木や草で覆われて、大変わかりにくいです。竹やぶの中に分かれ道があるのですが、生い茂った木々で完全に隠されてて頂上へのルートを一瞬見失います。まるでRPGゲームの仕掛けのようです。RPGゲームやったこと無いですけど。

行き止まりと書いた看板

狸とはここで遭遇

竹やぶの小道

登山道はこの先を右折です

 

おっと、山頂から家族連れが降りてきます。お父さん、お母さん、小学校4年生くらいの男の子です。半そで短パンと普通のハイキングスタイルです。子供が楽しんでいるかどうかは別にして、「俺、ちょっとやりすぎか?」とか思います。特に軍手。よかった、鉈とか持ってこなくて。つーか、それ持ってたら飛行機乗れないし。一応、一般の人もやってくるようで安心です。普通の人は展望台までかなぁ、という気もしますが。

 

そろそろ展望台か・・と思ってたら、右側の木に頂上へのルートを示す、赤いテープが巻いてあります。この斜面を登るのは難儀ですが、ちょいと登ってみると、ずーっと先にテープを巻いた木があります。周りを見渡すと、元々、目印だった木が倒れてしまって、ルートが判り難くなっていたようです。つまり、展望台直前(10mくらい前)で、右側の斜面を登るようにしないといけないわけですね。

分岐箇所

左側が登山道、赤テープの場所から

右の斜面を登って行きます

展望台にある看板

ここまできたら行き過ぎです

約10mバックしましょう

 

頂上へのルートが判ったので、一気に登ります。さすがに余り人が来た跡が無いので、ここからは両手で木々を掴みながら登ります。軍手が大活躍、役に立ってよかったです。たまに倒木が道を遮ったり、緑にまぎれて目印の赤テープを見失ったりしますが、上へ上へと登ります。頂上に広い空間があり、そこに建築物としての仏舎利塔が建っている様に思ってましたが、頂上にそんなスペースはなさそうです。

あ、なんか白っぽいのが見えてきました。そろそろ頂上です。

倒木

ガッツで乗り越えます

もうすぐ頂上

緑の隙間から何か白いのが見えます

 

あった、ありました。仏舎利塔です。思ってたよりずいぶん小さく、モニュメント的ではありますが、何処から見ても仏舎利塔です。めちゃめちゃ緑に包まれてます。そばには妙見山山頂の札もありますね。一応、ここまで登ってこられる方もおられるようです。

仏舎利塔

登山口側から

仏舎利塔

正面側から

 

裏に回ってみると石積みの一部がずれて、白壁部分が剥離してます。台座も崩れかけている為、よく見るとちょっと傾いてます。

 地震のせいかと思いましたが、ずれた石の隙間に挟まっている破片や埃から見て、もっと前からのようです。とはいえ、龍丸さんが亡くなられたのは20年近く前ですから、そこまで前ではなさそうです。一応、手で押してずれを直そうと試みますが、崩れそうでちょっと怖いですね。気持ちマシになったくらいでしょうか。

仏舎利塔

裏側から。ちょっと崩れてます。

先端部

木の枝が押して、傾いちゃってます

石積みのずれ

少しだけ直す前です

台座部

裏側はかなり崩れてます

 

最後に正面に立って、手を合わせ、お祈りしてきました。

世界中から戦争や飢えが無くなりますように」 と。

設立の経緯や設立者の遺志を思うと、

ここは本気でそんなお祈りをしても良い場所と思います。

 

感想

何十年も木々に埋もれていたことを思うと、現存してくれていただけで感激しました。

今となっては、中々に貴重な史跡と思います。近隣の方々のちょっとしたハイキングに、また近郊の学校の生徒さん達の課外学習などに訪れてみるのは如何でしょうか?

仏舎利塔には何も書いていませんので、今度行く機会があれば、建立の経緯を書いたボードを置いてこようかなと思ったりしてます。

 

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