あとがき                         <幻の戦斗「機隊>

昭和十九年八月比島の防衛作戦に参加して、昭和二十年三月三十日まで、約

七ケ月余の、悪戦苦斗した、比島の日本軍、最後の戦斗機隊であり、米軍からも、

幻の戦斗機といわれた、飛行第三十一戦斗行の記録について、私が整備係隊長

として、勤務したときから、隼集成整備隊長のときまでの私の整備日録に基づいて、

述べた。

これには、防衛庁戦史研究室編集の比島捷号航空作戦、及び捷号比島作戦と

いう、日本陸軍航空地上部隊の記録とし、また、米国のジョン、トランド氏の著作し

た、大日本帝国の興亡等を参考とした。

この著述に当っては、私の体験し、記録したもの、私の眼に映ったものを中心

に記述したので、飛行第三十一戦隊の人々、その他において、多くの意見がある

ことであらうと思う。

特に、昭和二十年三月三十日、ネグロス島シライ町の飛行第二師団司令部の

命令で、脱出して、ボルネオに行ったことは、命令とは云え、絶対絶命的なものと

云っても、結果的には、脱出した事である事実は、如何なる方法をしても否定出来

ないことである。

このことは、第二師団司令部通信隊々長であった、上里大尉とも、現地で、拳銃

を交換して、別れるときに話した事である。

残置隊として残るものから見れば、如何なる理由があるとも、この誤解批難は受

けねばならぬ事であらう。

何故かなれば、多くの司令部、部隊長、軍司令官、師団長等等、上級将校程、指

揮を受けてよいような、逃亡、脱出の状況があり、帝国陸軍の将校として、統帥者

として、誇りも何もない、無責任な作戦、行動があまりにも多かったからである。

私自身、如何に責められとも、既に、大本営、陸軍省の命令で、日本の立川整備

師団に、転勤命令が出ていた。

私自身も、転勤先きこそ知らなかったが、後任の北村大尉が八月に着任していた

ので、如何に遅くとも、九月には、私は転勤しなければならなかったのである。

私は敢えて残り、第十三飛行団長江山六夫中佐、飛行第三十一戦隊長西進少

佐の要望に、自ら進んで、戦った。

この事は、兵士達も、整備隊員の誰一人知らなかったのである。

戦後飛行第三十一戦隊が、一度も戦隊の会合を開かないで、他の部隊では、多

くの会合が持たれたことで、少年飛行兵出身や、その他において、飛行第三十一戦

隊の所在が明らかでないし、また戦隊の会合も何もない事で、彼等では、幻の戦斗

戦隊と、悪口を云はれていたという。

将校で生き残ったのは、戦隊長である西進少佐と、整備隊長の私、北村大尉、軍

医の中村勘左エ門少佐、瀧井少尉くらいで残留隊の久保木少尉以下であらう。

戦隊副官の小出中尉は、私と共に脱出したのであるけれど、残念ながら、広島の

陸軍病院で、戦病死したということである。

戦後、私は、私の整備日誌の末尾に書き留めた、戦隊の人々の御遺族を訪ねて、

東京以西の地域は歩いた。

これらの遺族にあるのは、戦前名誉の戦死ということで、何等かの満足されるもの

があったかも知れぬが、また政府も援護の措置をとった事で、肉身の親兄弟を失った

ことについての、現実には悲しみや、厳しい現実が生活を他にあっても耐えられたが、

戦後は、敗戦という悲しみの上に、不名誉な、戦記までにはないにしても、社会の批

判を浴びていたことにおいて、私のように生き残ったものに対する激しい怒りが爆発し

ていた。

私自身、私の家族、その他において、必ずしも、温たかったとは思えない、厳しい、

無知の批判、処遇もあった。

この様な状況で、厚生省援護局において、また、遺族その他の慰霊、葬儀等々、

多くの苦難の状況があり、戦場で痛みつけた神経と、負傷の体では、多くの耐えら

れぬ状況があった。

飛行第三十一戦隊、特に、特攻隊の記録は、何としても、書き残して置かねばな

らぬと思って、既に十数度、この三十八年間に、筆を執ったが、書いている内に、原

稿用紙の上に涙が落ちて、書けなくなってしまう。

しかし、偕行会の機関紙に、特攻隊の記録を蒐めていた事で、勇を興して、これ

だけは、発表して置かねばならぬと、一生懸命、涙に耐えて書いたことから、ようやく、

この飛行第三十一戦隊の記録、幻の戦斗機隊というものが、書き得たことになった。

比島のレイテ作戦というものは、日本軍が明治以来創設されて、日清、日露戦争

という戦いはあったが、近代戦という形での決戦を行ったことにおいて、日米の近代

戦というものについての準備、作戦、いや、戦争そのものえの考え方や、実行力、ひ

るがえって、国力、産業力といったものえのもの、また、世界政策といったものえの

構想力といったものに格段の差がついていた事において、敗れるべくして、敗れたと

いえるであらう。

そのような状況とは云え、貧しい、少ない兵器、性能と数量の差、等々、圧倒的な

較差の中で、最も犠牲になったのは、第一線の兵士達であったが、或る意味で、最

も、勇敢に戦った人達であり、それは、世界戦史に、特筆すべきことであったであらう。

飛行第三十一戦隊は、幻の戦斗機隊と、米軍側からも云はれ、日本側からも云は

れたことにおいて、比島作戦における、特別の部隊、日本の航空隊において、特別

の戦い方をしたと、私自身考える。

このことにおいて、この幻の戦斗機隊というものは、一つの不滅の記録として止め

たいという気があった。

それは、私個人としての気持からのものでなかった。

特に、飛行第三十一戦隊は、昭和十九年九月十二日十三日の米58機動部隊との

交戦において、日本陸軍の航空部隊として、特別攻撃隊を編成し、特攻企図を行い、

不幸か幸いか、飛行第二師団司令部の命令で阻止されて、山佐井中尉、山下軍曹

の二人のみであったが、この志を継いだ、特別操縦将校の飛行隊員が、殆ど全員、

マバラカット基地残置隊として、リンガエン湾に上陸する米軍に特攻として、突入して

行ったことは、特筆すべきことであり、その心情、本来の志は、永久に残さるべきもの

であると考えて、私は努力した。

敗戦という事実において、ネグロス島のシライ山中に篭った、飛行第三十一戦隊

の残置残留の隊員の動向について、私は、最後の最後まで気にしていたが、終戦

後、千葉県稲?の厚生省援護局において、復員の事務をとっていたとき、全員、立

派な態度で、消息を持ち帰り、状況を報告して来た事において、敗戦、地上戦斗と

いう悪条件の中で、日本陸軍というより、日本人として、最後まで、立派に、処して

来て居られることを知り、私自身、無上の喜びであった。

特に、私がネグロス島、シライの飛行第二師団司令部において、鈴木参謀が、一

身の生命にかけて、飛行第三十一戦隊のものは引き受けるということで、止むなく

脱出せざるを得なかったのであるが、このことは、隊員には全く知らせていなかった。

しかし、戦後、残留した、幹部の下士官の人員から、鈴木参謀が、最後の最後ま

で、飛行第三十一戦隊、第十三飛行団の人々の世話をされていたという事を聞き、

私は、何よりも嬉しかった。

この事で、鈴木参謀に、お礼を云ったところ、第十三飛行団、飛行第三十一戦隊

の人々は、この地上戦においても、また米軍の捕虜になっても、立派だったという一

言の言葉は、比島戦の惨烈さを知っている私には、天にも昇る心地がして、思はず

涙になってしまった。

比島戦の問題に関しては、私の脳裏の中に、飛行第三十一戦隊以外、関連した

事や、その他の事で、到来して来たもの、遭遇して来た、幾多の秘話、逸話といった

もの、残酷な、苛烈、厳しい状況があった。

それらを書くと、優に二千枚以上のものになってしまうであらう。

この意味で極力、飛行第三十一戦隊に関係のある事のみにしぼって、記述した。

飛行第三十一戦隊の関係することでも、幾多、記述したい状況があったし、特記

すべきこともあった。

米側は、圧倒的物量の外に、巧妙な、宣伝戦を展開して、日本軍の志気を失は

しめるような工作もあった。

しかし、飛行第三十一戦隊のものは微塵も揺らがない態度で、幾多の困難を乗

り越えて戦った。 今にして、私自身が考えると、再びこのような部隊が生まれるで

あらうか?

今後このような部隊、飛行戦隊というものが、生れ、聞くことがあるであらうか?

或は永久に不可能、出来ない事であるような気がする。

その意味で、私は、米軍が幻の戦斗機隊と云った事、戦後、各部隊から幻の戦

隊といわれたことと、共に、私は幻の戦斗機隊としての記録をつくったつもりである。

私は、今、六十三歳、まだ体力、生命はあるが、ネグロス島より脱出後、ボルネ

オ島タワオにおいて、P38ロッキ−ド機の銃撃を受け、右胸部に機関砲貫通傷を負

ったことでの神経痛と、砂漠を緑化するため、200 ℃に近い、砂漠を歩いたため、

挫骨、下肢の神経痛を併発する身になっているが、更に、砂漠を緑にするために

努力することになりつつある。

私としては、この飛行第三十一戦隊、幻の戦斗機隊の記録を残すことが出来た

ことで、何等、思い残すことは無いと思っている。

飛行第三十一戦隊において、残置された隊員その他が、私のみか、戦隊長、そ

の他のものにあやまれという要求があったが、私は、彼等に、あやまる意志は、全く

無いことを、明言した。

私は、彼等と斗うことにおいて、全身、全霊をもって尽くして来たことにおいて、

私の最善を尽くして来た。

若冠、二十四才の隊長であった事において、未熟や、不充分な点が多々あった

と思うが、比島の作戦の実態を知るものにおいて、個人の力においては、限界があ

ったし、戦争そのもの、作戦そのものにおいて、本質的に考えねばならぬ事があった

ことで、個人的にあやまるとか、云々する問題でないと考えるし、私自身、最善を尽

して、生死その他は考えていなかったものとして、あやまることは、無いと考えている。

今も、私は、私の人生の瞬間々々に最善を尽して、過去を振りかえって、云々する

事は、全く無い。

多くの飛行第三十一戦隊の戦死者の一人一人、そして、現在も生きている一人

一人の隊員に対して、私は、常に特別の感懐を抱いて生きているけれども、何時、

何処で、どうなるのか?私自身も全く判らない状況で生きて、最善えの努力をつづ

けている。

この事において、生き残った隊員の人々が、我等如何に戦ったにか記録を残して

欲しいとの要望に応えて、私の記録にある全体を知らせるために、努力した。

戦死者に、深い深い冥福を祈って、私の生命の終るまで、生きつづけるであらう。

 彼等の魂、心を抱いて、何処かで果てるまで!!

この記録を読まれた人々において、或は、私が、この記述の中に、日本の敗戦は、

既に予期していた如く述べ、また、日本軍の大本営、各軍司令部、その他の司令部

の作戦指導やその他、特に、戦争そのものについて、批判や、誤りと断定しているこ

とに、疑問を持たれるであらう。

私は、陸軍士官学校に在学中も、また、飛行第三十一戦隊に勤務中において、私

の生まれた、杉山家について、祖父杉山茂丸や、父夢野久作のことは、少しも口外し

たことが無く、一陸軍航空技術将校として勤務した。

そのような、末端の一将校であるものが、日本政府、大本営、軍司令部を批判す

る素養と、資格があるかどうかを、疑問に思はれるであらう。

日本政府に関しては、近衛公麿、広田弘毅、その他の中枢の人々は、祖父杉山

茂丸に師事した人々であり、天皇、皇后の御成婚にも関係し、陸軍については、児

玉源太郎大将、山県有朋以来、陸軍の元帥、大将等の人々は、皆、杉山家と関係

があった人々であった。 

この様な事において、杉山家は、第二次大戦に、日本が、自ら突入すべき運命の

原因、朝鮮の植民地化、満州の占領、中国の抗日戦となって行った、歴史の本質を

知り、それらの事実を知っているものとして、陸軍士官学校時代から、三国同盟に反

対し、第二次大戦の太平洋戦争は、速やかに停戦講和すべき運動に努力して、力

及ばず、軍命によって、比島戦に参加せざるを得ぬ運命になった者であった事にお

いて、私の此の記録の中に記した事は、私の眞実のものを述べたことであることを、

承知して頂きたい。

この様な、日本の歴史の持つ運命的なもの、眞実なものは、今日も尚、極秘という

か、国家機密に属するものとして、まだ明かにされていない。

私の生涯は、残りの生涯において、この問題を明かにし、解決することが、一つの

大きな、私に与えられた、運命であるかも知れないと考えることが多々ある。

それは、また、別のものとして、記述しなければならぬであらうと、考えている。

比島戦における、第四航空軍の第二飛行師団の傘下にあった、飛行第十三飛行

団の飛行第三十一戦隊の記録においては、自ら限界、紙数、戦斗そのものの実相を、

記録として残す目的においては、最善を尽くしたものであることにおいて、御承知を

願いたいのである。

 

 1983年7月17日擱筆

 

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